吾が內なる朧豆腐

 豆腐の一種に朧豆腐と云ふのがある。在り來りのの四角の豆腐とは全󠄁く姿󠄁の異なつた不思議な豆腐であるが、實は未だに食󠄁べた事が無いのである。興味が無い譯では無い。寧󠄀ろあの誠󠄁に美味しさうな姿󠄁の豆腐を是非とも味はつてみたいと思つてゐるのだが、或る個人的󠄁理由に因て敢へて食󠄁べずにゐる。此處では其の理由に就て書いていかうと思ふが、其の樣な記事を讀まんと欲する奇特な方など、果たして此に世に居るのかも分からぬ。然しかういふ奇妙な駄文が電網の海󠄀を椰子の實が如く漂つて居るのも面白いだらうとふと思ひ立ち筆を取つた次󠄁第である。

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 私の近󠄁所󠄁には衰退󠄁の一途󠄁を辿る──聞く處に據れば往󠄁時は非常に榮えて居たが、哀しきかな、時代の趨勢に從ひて衰退󠄁して行つたものらしい──商󠄁店街がある。緩󠄁慢の衰退󠄁の中に於てなほ、大規模小賣店舗に負󠄂けじと頑張つて居る個人商󠄁店が今でも幾らか存在するが、私が未だ小學生で在つた頃、其の樣な商󠄁店は今よりもずつと多く生き殘つて居たのである。
 あれは小學三四年の頃であつたか、敎育の一環として地元の商󠄁店街でお仕事體驗をしようと云ふのが在つた。和菓子屋やら惣菜󠄁屋やら、樣々の商󠄁店の中から一番面白さうなものを選󠄁び(勿論人數次󠄁第では籤引となる)、其の店でお仕事體驗をするのである。
 ところで、些か話が逸󠄁れるが私は以前󠄁より豆腐屋と云ふものに心惹かれてゐた。私の祖󠄁父母の家は都󠄀會の喧騷からやゝ離れた處に在り、屢〻母親に連󠄀れられて遊󠄁びに行つて居たのだが、次󠄁第に陽が傾いて黃橙の光が邊りに滿つる頃、其處に不思議な音󠄁色の喇叭を吹き鳴らし乍ら流し賣りの豆腐屋がやつて來るのである。都󠄀會では見ることの出來ない「野生の」豆腐屋の姿󠄁は、丁度其の頃親族から聞いて興味を抱󠄁いて居た中國西域の彷徨へる湖󠄀の話に出て來る隊󠄁商󠄁の姿󠄁と重なり合ひ、幼き日のビー玉の樣な極めて美しきものとして私の腦內に燒付けられたのであつた。
 話を戾す。其の商󠄁店街の豆腐屋は流し賣りはして居なかつたが、先に述󠄁べた經緯も在つて已に私の頭は「豆腐屋」と云ふ言葉に取憑かれて居たので、親しい友人等が何を撰ばうが自分は豆腐屋を撰ばうと固く心に決めてゐた──   第一次の抽選󠄁が行はれ直󠄁ぐに結果が發表された。最も多くの人數を集めた惣菜󠄁屋の籤引にはらはらする友垣を他所󠄁に、私は鬪はずして早々に豆腐屋を勝󠄁取つたのであつた。

 お仕事體驗當日である。退󠄁屈な一二限目の普通󠄁の授󠄁業より解放せられて、擔任の引率󠄁の下商󠄁店街に向ふ。商󠄁店街の入口に着くと其處で各〻の選󠄁んだ店に五人程の組で向ひ、そして愈〻お仕事體驗である。
 ・・・其の豆腐屋は商󠄁店街と住󠄁宅󠄀地󠄀の疆に在つた。ペンキの剝󠄀がれかけた三階建の小さな建物の一階を美容院と分け合ひ橫書の看板を控󠄀めに揭󠄀げて居る。店先には作りたての豆腐と油揚とが美しく列べられ店內の電燈の隱󠄀やかな黃金色──其はまさに油揚の色で在つた!──の光を背景にして妖しげに輝いて居たが、此の景色を見て運󠄁命󠄀の昂奮が身軀を靜󠄀かに驅󠄀けるのを感じたのであつた────
 店主󠄁は何處となく老人特有󠄁の威嚴を漂はせつゝ、其れで居て極めて柔和なお爺さんであつた。吾々が豆腐屋の前󠄁に着くなり店の內から出て來て優しげな笑顏󠄀で挨拶をして來たのをよく憶えてゐる。此方も些か緊張し乍ら
「今日は宜しくお願ひ致します」
と應へて、そして
「それでは早󠄀速󠄁中へお這入り下さい」
というお爺さんの聲に從ひ傍に何やら不思議な容器󠄁の置かれた細長い豆腐屋の入口を潛󠄂り拔󠄁けた──
 豆腐屋の內󠄀側󠄀から眺める外の景色は誠󠄁に奇󠄀妙󠄀であつた。背後より輝く油揚色の光に包󠄁まれ、逆󠄁になつた「おとうふ」の文字の暖󠄁簾󠄂とシヨーケースの狹󠄀間󠄀より、丁度眞󠄀晝󠄀時の刺す樣な日󠄀光が道󠄁路󠄀を燒き疎󠄀の人が行き交ふのが見える。時折恐󠄁くは常連󠄀と思はれる客が豆腐か油揚を買ひにやつて來るが、見慣れぬ餓鬼が顏を覗かせてゐるのを見て驚く樣は本當に可笑しかつた。私達󠄁は一通󠄁り豆腐や油揚の作り方について學習󠄁した後、豆腐屋のお爺さんが用意󠄁した商󠄁品をお客に渡すと云ふ仕事を順番でやることとなつたが、友垣が仕事をしてゐる間の休憩で、冷やかな水の底に沈み店先に列べられるのを待つて居る四角の豆腐だのを眺めてゐたときに、ふと圓形の容器󠄁に入れられた朧豆腐を見つけたのである──
 最初はかういふ豆腐もあるのだなあ、と思つただけで、さして氣にも留めなかつた。其の時私は豆腐屋の內にゐるだけで至福󠄁だつたのであり朧豆腐に心を摑まれる隙も無かつたのである。・・・さうかうしてゐる內に樂しきお仕事體驗は終󠄁はつて了ひ、終󠄁始󠄀柔やかのお爺さんに見送󠄁られて、學校に歸つたのであつた。
 
 數日の後、私は母󠄀と共󠄀に其の豆腐屋の前󠄁にゐた。普段は吾󠄀が家から些か離れて居るので此の商󠄁店街の方へは餘り來ることはないのだが、何かしらの用事の歸り道󠄁──已に陽も落ち其の最後の殘光が夜の繪󠄀具󠄁に上書きされ邊に灯の點り始める時間であつた──に私は何を買ふのかも決めぬまゝ母にせがみて豆腐屋へ寄つたのであつた。
 嗚呼、あの暖󠄁簾󠄂、あの光──しかもお爺さんは私のことを覺えて吳󠄀れて居た!私は嬉しくなつたが、何を買ふのか決めなくてはならない。そして私はシヨーケースの最下段に「ほんのり甘い」と云ふ文字の書かれた札とともに朧豆腐が列べられて居るのを發見したのであつた(先日のお仕事體驗では店の內側にゐた爲に竟に氣付くことが出來なかつた)。反󠄀透󠄁明󠄁の液󠄀體󠄀に浸󠄁かつて店の內より漏れる光と忍󠄁寄る暗闇の狹󠄀間󠄀にぼんやりと浮󠄁ぶ其の眞󠄀白󠄀き姿󠄁、そして「ほんのり甘い」の札を見󠄀て恐󠄁らく杏仁豆腐か何󠄀かを想起󠄁した私の心は此處にて遂󠄂に捕󠄀へられたのである──
 かうして私は其れを持ち乍ら母と歸宅したのであつた。

 ところで、私には惡い癖があつた・・・否、それは今でも幾分改善されたものゝ、今󠄀でも私󠄀の內󠄀に尙󠄀潛󠄂んでゐて時折無意󠄁識に顯󠄀れて來󠄀る。すなはち、何󠄀らかの食󠄁物であれ未使用の眞󠄀白󠄀き筆記帳であれ何か愛着を懷󠄀くに至󠄀つたものをなかなか滅󠄀ぼすことが出󠄀來󠄀ないのである。無理であることを知り乍ら其れらが其󠄀のまゝ在󠄀り續󠄀けることを欲󠄀し自󠄀らの手󠄀に依󠄀りて破󠄀壞󠄀するのを躊躇して了ふのである。さういふ譯で私は朧豆腐を母に買つて貰つたは良いものゝ、其れをなかなか喰らふことが出來なかつた──
 なかなか決心の付かぬまゝ數日が過󠄁ぎた。或󠄀日󠄀、學校より歸宅して冷藏庫を開けると朧豆腐が見󠄀當󠄀たらない。私󠄀は焦󠄀つた。直󠄁ぐに母󠄀に訊くと、ダメになると勿體無いから晝󠄀餉󠄀に喰つて了つたといふ。私は悲しんだ。愚かな愛着に依り母に喰はれてしまつたとは────  悲しみの餘りか不思議と豆腐屋へ行つてまた買ふ氣にもならなかつた。しかし、此時以來朧豆腐は大󠄀なる憬れとして私󠄀の心の內に棲まふ樣󠄀になつたのである。
 
 數󠄀年󠄀後󠄀、私󠄀は中學生になつてゐた。母にお使ひを頼まれたか何かであの豆腐屋へ行つたのであるが(驛前󠄁のスーパーで買へば良い話なのではあるが、私自身の意󠄁志󠄀でわざわざ遠󠄁廻󠄀りをしてあの豆腐屋へ行つた樣に記憶してゐる)、衰󠄀退󠄁が商󠄁店街を蝕む中であの懷󠄀かしき光󠄀を點󠄀してゐた。お爺さんも相變らず元氣さうであつた。そして朧豆腐も列べられて居た! しかし、私は朧豆腐は買はなかつた。何故ならば先に述󠄁べた通󠄁り已に朧豆腐は私の心の奧の方に棲んで居たからである。心に棲まふものをどうしてむざむざ殺󠄀すことが出來よう。例へば心に祕󠄀めてゐた大󠄀きな野󠄀望󠄂が、其れが成󠄁就󠄀した途󠄁端󠄀に全󠄁くちつぽけなものに成󠄁り下がつて了ふと云ふことが多々ある樣に、朧豆腐を買つて喰ふことによつて恐󠄁らく吾が內なる朧豆腐は死んで了ふのである────今にして思へば中學生乍ら誠󠄁に賢󠄀き撰擇󠄀であつた。

 私が高校の二年の時であつたか、ふとあの豆腐屋へ行つてみると薄󠄁汚󠄀れた鎧󠄀戶󠄀が降ろされ、一部の文字の禿げた豆腐屋の看板が寂しげに揭󠄀げられて居た。あの美しき思󠄀ひ出󠄀の豆腐屋は知らぬ間に閉󠄀店󠄀して了つてゐたのである。私は悲しみに暮れる他なかつた。が、同時に些か安堵した。朧豆腐との出逢ひの場󠄀所󠄁は此れに依つて寧󠄀ろ永遠󠄁のものとなり、豆腐屋もまた私の心の內に存在する樣に成󠄁つたからである。
 私は私自身の妙な癖に依つて偶然にも至高の存在と成󠄁るに至つた朧豆腐が墮落するのを恐󠄁れてゐる。同じ樣なことを繰返󠄂すが、蓋し大なる憬れは其れが到達󠄁不󠄀可󠄀能󠄀なる處に在るからこそ大なる憬れなのであり、若しもその憬れに實際に触れて了つたのなら、其れは・・・否、恐󠄁らくは憬れに直󠄁接󠄀触れた者󠄁自身も途󠄁端󠄀に美しさを失ひ何か當り前󠄁の存在に成󠄁つて了ふか、此れは憬れに限つた話であらうが場合によつては吐き氣を催す程󠄁に醜󠄀惡󠄀で目も當てられぬ存在に成󠄁り下がつて了ふ樣にも思はれる。だからこそ墜󠄁落󠄀したイーカロスは美しく、敗北を知り乍らなほ信念──信念とは大なる憬れに他ならない──の爲に鬪ひ竟に死せる者󠄁と彼と共に亡びた信念は、勝󠄁者󠄁と勝󠄁者󠄁の其れよりも遙に美しいのである。世界の樣々の宗敎には特󠄀定󠄀の食物に就て此れを食󠄁すことを禁ずるものが多いが、(勿󠄀論󠄀其󠄀れが不󠄀淨󠄀であるから、と云󠄀ふ理󠄀由󠄀に基󠄀くものも可成多󠄀いだらうが)此れらの內の幾らかは大なる憬れを護󠄀る爲󠄀に嚴󠄀格󠄀なる戒󠄀律󠄀を設󠄀けたのではなからうか。若し大なる憬れを大なる憬れとして扱󠄁ふのならば人間と大なる憬れとの間に不󠄀可󠄀侵󠄁の疆界を設け、大なる憬れを無窮なる時空の彼方へ遠󠄁ざけるのが最も效󠄀果󠄀的󠄀であらうから──── 些か話が逸󠄀れて了つたが、とまれ、私は今後朧豆腐を實際に喰ふことはないだらうし其の積りも無い。內なる朧豆腐は吾が生の終󠄁焉に至󠄀る迄、些か濁つた思󠄀ひ出󠄀の海󠄀の奧底で浮󠄁んだり沈󠄀んだりしつゝ吾󠄀が心に棲まひ續けるに違󠄂ひない──
 
 畢り
 
 


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