〈樺太地名研究9〉 Добротворскийの『アイヌ語-露語辞典』付録に見えるニヴフ集落一覧(翻訳)

 Добротворскийの『アイヌ語-露語辞典』付録に見えるニヴフ集落の項を以下に翻訳してまとめておく。適宜註(地名比定含む)も入れた。なお、原文において、ニヴフはГилякъの語で表されているので、そのままギリャークと訳した。

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サハリーン西海岸のギリャーク村--北から南へ--(Гленъによる)

Койбыгръ-во(コイブィㇰ゙ㇽ-ヴォ)又はКойбугдъ-во[原註1][註1](コイブㇰ゙ㇳ゙-ヴォ) ユルタ[註2]の数:1軒(Крузенштернによると以前は30軒)

Нгöдъ(ンゴァㇳ゙),Нгыдъ(ングィㇳ゙)又はНгыръ(ングィㇽ)[註3]ユルタの数:穴小屋3軒

Матнаръ(マㇳナㇽ)[註4]穴小屋1軒

Туми(トゥミ)[註5]穴小屋1軒

Пилъ-во(ピㇽ-ヴォ)[註6](Пилальчъは「大きい」の意)穴小屋1軒

Тыкъ(トィㇰ)[註7](別の村の夏小屋)穴小屋1軒

Муизьвъ(ムイジゥ゙)[註8]穴小屋2軒

Помытъ(ポムィㇳ)又はПомыръ(ポムィㇽ)[註9]満洲人によって建てられた大ユルタ3軒

Нгылъ-во(ングィㇽ-ヴォ)[註10]満洲人によって建てられた大ユルタ1軒

Вискъ-во(ヴィㇲㇰ-ヴォ)[註11]満洲人によって建てられた大ユルタ5軒

Тамла-воНгалъ-во)(タㇺラ-ヴォ(ンガㇽ-ヴォ))[註12](Тамланьчъは「多数の」の意)満洲人によって建てられた大ユルタ9軒

Матн-тигдъ-воПетнбубукъ)(マㇳン-チㇰ゙ㇳ゙-ヴォ(ぺㇳンブブㇰ))[註13]満洲人によって建てられた大ユルタ2軒

Тöлтигръ-воТöлнтигдъ-воМунзъ)(テォㇽチㇰ゙ㇽ-ヴォ(テォㇽンチㇰ゙ㇳ゙-ヴォ;ムンㇲ゙))[註14]満洲人によって建てられた大ユルタ2軒

Ньянь-воУйнстыхъ, Ундгатъ, Химь-во, Олегъ-во, Югутіевъ)(ニヤニ-ヴォ(ウインㇲトィㇷ, ウンㇳ゙ガㇳ, ヒミ-ヴォ, オレㇰ゙-ヴォ, ユグチエゥ゙))[註15]満洲人によって建てられた大ユルタ3軒

Мангалъ-воЛангри)(マンガㇽ-ヴォ(ランㇰ゙リ))[註16]満洲人によって建てられた大ユルタ1軒

Іорди-тигръ-во(イオㇽヂ-チㇰ゙ㇽ-ヴォ)[註17]満洲人によって建てられた大ユルタ2軒(「乾燥した」の反対、「湿った」の意[註18])

Танвантъ-тигръ-во(タンヴァンㇳ-チㇰ゙ㇽ-ヴォ)又はТалвантъ-тигдъ-воЛукъ-во)(タㇽヴァンㇳ-チㇰ゙ㇳ゙-ヴォ(ルㇰ-ヴォ))[註19]穴小屋1軒

Чангни(チャンㇰ゙ニ)[註20](発音は様々)穴小屋1軒

Рырки(ルィㇽキ)[註21]穴小屋1軒

Джинги(ㇳ゙ジンギ), Чинги(チンギ), Іигдамъ(イーㇰ゙ダㇺ), Іиграмъ(イーㇰ゙ラㇺ)[註22]穴小屋1軒

Локси(ロㇰスィ), Ннокси(ンノㇰスィ)[註23]穴小屋1軒

Нгыйдъ(ングィㇳ゙), Ныйдъ(ヌィㇳ゙).[註24]穴小屋2軒

Уасъ(ウアㇲ), Васъ(ヴァㇲ)又はУахесъ(ウアヘㇲ), ВахесъВосмеріевъ)(ヴァへㇲ(ヴォㇲメリエゥ゙))[註25]穴小屋1軒

Погоби(ポゴビ)[註26]満洲人によって建てられた大ユルタ2軒

Тыкъ(トィㇰ)[註27]半地下の穴小屋2~3軒

Віяхту(ヴィヤㇷトゥ)[註28]半地下の穴小屋2軒

Хой(ホイ)[註29]半地下の穴小屋2軒

Танги(タンギ)[註30]半地下の穴小屋3軒

Мыгнай(ムィㇰ゙ナイ)[註31]半地下の穴小屋1軒

Ніярми(ニヤルミ)[註32](夏のユルタ2軒。2人以外のその所有者はХойで暮らしていたが、全員天然痘にて死亡した。)

Аркай-во(アㇽカイ-ヴォ)[註33]半地下の穴小屋2~3軒

Дуй-воАднги)(ドゥイ-ヴォ(アㇳ゙ンギ))[註34]半地下の穴小屋2軒


[原註1]「во」は村を意味するが、у(ウ)とв(ゥ゙)の中間の音で発音され、場合によってはо(オ)の如く発音される。д(ㇳ゙)とр(ㇽ)はしばしば混同され、たとえば北風を表す言葉は「Ади-ла(アディ-ラ)」とも「ари-ла(アリ-ラ)」とも言う。多くの場所で以前は人口が密集していた痕跡を見出すことが出来る。島の北部に定住したギリャーク族によれば、天然痘による荒廃によって過去10年間でサハリーンの人口は大きく減少したという。「Пилъ-во(ピㇽ-ヴォ)」を参照。

[註1]樺太嶋全図において、樺太島最北端のКуэгда湾付近に「コイブイグルオ」が見える。或はКуэгдаもこの地名が由来であろう。
[註2]家屋、小屋のこと。
[註3]『窮北日誌』中の鵞小門(ガオト)、「樺太闔境之図」中のガヲト、現Нывровоであろう。
[註4]『窮北日誌』中の松毛鵞小門(マチケガオト)、「樺太闔境之図」中のマチケカヲト、現Мончигар湖付近であろうか。
[註5]『窮北日誌』中の戸女(トメ)、「樺太闔境之図」中のトメ、現Тумь川河口部。
[註6]『窮北日誌』中の弁侶隖(べロオ)、「樺太闔境之図」中のヘロウ、現Пильво川河口部。樺太西海岸北緯50度線北傍のПильво(ホロコタン)と語源が同じである。
[註7]『窮北日誌』中の戸塚(トツカ)、「樺太闔境之図」中のトツカ、現Туки川河口部か。北樺太西海岸のТыкと語源は同じだろう。
[註8]『窮北日誌』中の結眉(ムシビ)、「樺太闔境之図」中のムシビ、現Музьма。
[註9]『窮北日誌』中の品馬戸(ホンメト)、「樺太闔境之図」中のホンメト、現在のНекрасовкаと海峡を挟んでその対岸に位置するПомыт。またПомытъПомыръは原註1と同じ音韻変化である。
[註10]『窮北日誌』中の餓履隖(ガルオ)、「樺太闔境之図」中のカルオー、現Входной岬付近。
[註11]『窮北日誌』中の牛香(ウシカ)、「樺太闔境之図」中のウシカ、現Виськво(Виски)。
[註12]『窮北日誌』中の田村隖(タムラオ)、「樺太闔境之図」中のタムラオー、現Григорьевка南傍付近。
[註13]詳細不明。Васькова川河口付近か。
[註14]『窮北日誌』中の蒸備(ムシビ)、「樺太闔境之図」中のムシヒ、現Музьма。
[註15]『窮北日誌』中の餓仁隖(ガニオ)、「樺太闔境之図」中のカニオー、現Луполово。ガニオはナニヲー(間宮林蔵記録)に同じと思われる。
[註16]『窮北日誌』中の乱枯隖(ラガレオ)、「樺太闔境之図」中のラカレオー、現Лангры。
[註17]『窮北日誌』中の寄血霧(ヨリチキリ)、「樺太闔境之図」中のヨリチキリ、現Светлый川河口付近。
[註18]これは、次項のТанвантъ-тигръ-воと対称地名の関係にあることを示したものか。
[註19]現Гроте岬付近のЛюкво。
[註20]『窮北日誌』中の茶蚊貝(チャカガイ)、「樺太闔境之図」中のチヤカヽイ、現Чингай / Чихной。
[註21]現Пырки付近か。
[註22]『窮北日誌』中の横田布(ヨコダブ)、「樺太闔境之図」中のヨコタフ、現Ихдам岬付近のТеньги。
[註23]『窮北日誌』中の六子勢(ロクコゼ)、「樺太闔境之図」中のロツコセ、現Нокси岬付近。
[註24]『窮北日誌』中の五江戸(ゴエト)、「樺太闔境之図」中のゴエト、現Ныйде岬付近。
[註25]『窮北日誌』中の輪藉岬(ワカシ)、「樺太闔境之図」中のワカシサキ、現Вагис岬付近。
[註26]『窮北日誌』中の鉾部(ホコベイ)、「樺太闔境之図」中のホコベー、現Погиби。
[註27]『窮北日誌』中の戸塚(トツカ)/後戸(ノテト)、「樺太闔境之図」中のノテト、現Тык。なお、ノテトはアイヌ語(not-etu:岬)。
[註28]『窮北日誌』中の有奴郎(ウヤツロ)、「北蝦夷地図」中のウヤクトー、現Виахту。
[註29]『窮北日誌』中の褒江(ホエ)、「樺太闔境之図」中のホエー、現Хоэ。
[註30]『窮北日誌』中の多華(タゲ)、「樺太闔境之図」中のウタンカイ、現Танги。
[註31]『窮北日誌』中の藻子間(モコナイ)、「樺太闔境之図」中のマクンケイ(北蝦夷山川地理取調図:マクンケナイ)、現Мангидай。
[註32]『窮北日誌』中の煮瓶(ニヤカメ)、「樺太闔境之図」中のニクマイ、現Ноями。
[註33]『窮北日誌』中の荒子井(アラコイ)、「樺太闔境之図」中のアラコエ、現Арково。
[註34]『窮北日誌』中の落石(オッチシ) /杼曳(ドエ)、「樺太闔境之図」中のヲツチシ、現Александровск-Сахалинский。

サハリーン東海岸の村--北から南へ--

Хаикесъ(ハイケㇲ)[註35]ユルタ1軒

Нгöдъ(ンゴェㇳ゙)[註36]ユルタ1軒

Урдктъ(ウㇽㇳ゙ㇰㇳ)[註37]ユルタ1軒

Кеäкръ-во(ケアェㇰㇽ-ヴォ)[註38]ユルタ3軒

Харкръ-во(ハㇽㇰㇽ-ヴォ), Харкадъ-во(ハㇽカㇳ゙-ヴォ)[註39]ユルタの数不明

Чай-во(チャイ-ヴォ)[註40]ユルタ10軒

Ладъ-во(ラㇳ゙-ヴォ)[註41]ユルタ3軒

Тырмыцъ(トィㇽムィツ)[註42]ユルタの数不明

Тукръ-ный(トゥㇰㇽ-ヌィ)[註43](Тыми川河口)ユルタ7軒

Такръ-ный(タㇰㇽ-ヌィ)[註44](Тыми川河口)ユルタ9軒

Міякъ-во(ミヤㇰ-ヴォ)[註45]ユルタの数不明

Нгабилъ(ンガビㇽ)[註46]ユルタ3軒

Лу-во(ル-ヴォ)[註47](大きなギリャーク村)ユルタの数不明

Пилнги(ピㇽンギ)[註48]ユルタの数不明

Напи(ナピ)[註49]ユルタの数不明

Чамг-во(チャㇺㇰ゙-ヴォ)[註50]ユルタの数不明


[註35]現Хангуза湾付近か。
[註36]現Кету湾付近か。
[註37]『窮北日誌』中の音沓戸(オトグツト)、「樺太闔境之図」中のヲートグツト、現Уркт湾付近。
[註38]不明。
[註39]不明。『窮北日誌』中の春国(ハルコニ)と関係しているかも知れない。
[註40]『窮北日誌』中の茶江(チャエ)、「樺太闔境之図」中のチャエ、現Чайво。
[註41]『窮北日誌』中の羅苫隖(ラトオ)、「樺太闔境之図」中のラトヲー、現Лярво島付近か。
[註42]『窮北日誌』中の徳女津(トクメツ)、「樺太闔境之図」中のトクメツ、現Тыгмыч。
[註43]『窮北日誌』中の縫江(ヌエ)、「樺太闔境之図」中のヌエ、現Ныйво付近。
[註44]『窮北日誌』中の縫江(ヌエ)、「樺太闔境之図」中のヌエ、現Ныйво付近。
[註45]『窮北日誌』中の女侶区隖(メロクオ)、『大日本地名辞書』中の弥勒翁(ミロクオ)、「樺太闔境之図」中のメロクヲー、現Мильквоか。
[註46]現Старый Набиль。
[註47]『窮北日誌』中の盧碁隖(ロゴオ)、『大日本地名辞書』中の呂郷、「樺太闔境之図」中のロゴー、現Луньский湾付近か。
[註48]現Пильнги川河口か。
[註49]現Нампи川河口か。
[註50]現Чанры川河口か。『窮北日誌』の丁母木(チヤモキ)は別物か。


Плый川とТыми川流域

 Плый川流域

Сиска(シㇲカ)[註51](Ольчи[註52]の領域)(Тарайка[註53]の夏のユルタ)

Хуй-э(フイ-エ)[註54]Ольчиのユルタ2軒

Муйка(ムイカ)[註55]Ольчиのユルタ1軒

 Тыми川流域

Тыми(トィミ)(сел? Бр.).[註56]

Чіякъ-во(チヤㇰ-ヴォ)[註57]

Тафисъ-во(タフィㇲ-ヴォ)[註58]

Иткимъ(イㇳキㇺ)[註59]

・河口にあるНіи(ニー)[註60]

[註51]日本時代の敷香。現Поронайск。
[註52]ここではウィルタのこと。
[註53]タライカアイヌのことか。
[註54]日本時代の保恵。現Буюклы。
[註55]日本時代の武意加。現Рыбоводное。ウィルタ語ではmuigə。
[註56]現Тымовскоеか。なお、(сел? Бр.).の意味は不明だが、селはсело(村)の略か。
[註57]不明。
[註58]不明。
[註59]不明。
[註60]Ный(縫江)に同じか。

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