〈樺太地名研究7〉 カルパシモナイの研究


はじめに

 好仁村の十串-十和田間には幾つかの地名が見られるが、その中の刈葉という地名に関して、ある事実が明らかとなったのでここで報告することにする。

The University of Texas at Austin University of Texas Libraries所蔵の米軍製地図(https://maps.lib.utexas.edu/maps/ams/eastern_siberia/txu-oclc-6572926-nl54-6.jpg)より一部分を切り抜いた上で転載

前提知識

十串-十和田間の地名
 
十串       旧名トクスナイ
 北十串                   -
 利良志内                  -
 南刈葉                     -
 刈葉       旧名カルパシモナイ
 茂主       旧名ムヌシナイ
 十和田                     旧名アトワタンナイ

 上に示した地名の所在地には同名の川が流れている。すなわち、十串川、北十串沢、利良志内川、南刈葉川、刈葉川、茂主川、十和田川である。

本文

 先に示した刈葉という地名は旧名カルパシモナイが省略されて「刈葉」の部分に漢字が当てられた地名である。この地名は日本統治時代の刈葉を指す公称地名である。しかし、日露戦争直後に陸地測量部によって製作された仮製樺太南部五万分一地図では利良志内川に「カルバスモナイ」の名称が付されているのである。これは一体どういうことであろうか。陸地測量部が誤って利良志内川に「カルバスモナイ」の名称を付してしまったのであろうか。

 この謎を解くために江戸期の地図やДобротворскийのアイヌ語-露語辞典、日露戦争直後の地図等にあたってみたい。以下は各古地図に見える地名を日本統治時代の十串から十和田の順番でまとめてみたものである。

①:北延叙地図
②:樺太闔境之図
③:北蝦夷島地図
④:『АИНСКО-РУССКІЙ СЛОВАРЬ. М. М. Добротворскаго(ダブラトヴォールスキーのアイヌ語-露語辞典)』
⑤:樺太略図
⑥:樺太殖民地撰定報文

十串[註1]
 ②ルウクシナイ
 ③ルークシナ井
 ④Ру-кусэнай(ルクセナイ)
 ⑤トクスナイ川
 ⑥トクスナイ
北十串
 ②アツトリタナイ
 ③アツトリタナ井ボ
 ④Ахтури тонай(アフトゥリトナイ)
 ⑤アッツリタナイボ
利良志内
 ①②リヤウシナイ
 ③リヤウシナ井
 ④Карбасумонай(カルバスモナイ)
 ⑤カルパスモナイ
 ⑥カルパシモナイ
南刈葉
 ②カワルシソウマナイ?
 ④Тумунай(トゥムナイ)
 ⑤ウムナイ
 ⑥ウムナイ川
刈葉
 ②ヲン子ヌソヲイ
 ③ヲン子ヌシヨヲ井
 ④Оненусунай(オネヌスナイ)
 ⑤オネヌスナイ
茂主
 ②ムヌウサソエ
 ③モヌシヨヲ井
 ④Муну сунай(ムヌスナイ)
 ⑤ムヌスナイ川
 ⑥ムメスナイ川
十和田
 ①②アトヤタンナイ
 ③アトヤタンナ井
 ④Оду оттонай(オドゥオットナイ)
 ⑤アトワタンナイ川
 ⑥アトワタンナイ

 これを見ると肝心の刈葉はオンネヌスナイ/オンネヌシオイ[註2]と、利良志内がリヤウシナイないしはカルパシモナイと呼ばれていたらしいことが分かるのである。また、リヤウシナイとカルパシモナイが共に書き込まれている地図はなく、これもまたカルパシモナイ=リヤウシナイの別称説を補強するのである。ただ、樺太闔境之図ではリヤウシナイと(カルパシモナイと音韻的にやや類似する)カワルシソウマナイが共存して地図中に見える[註3]が、カルパシモナイ=カワルシソウマナイと早急に判断するのはいささか問題があろう。いずれにせよ日本統治時代の刈葉の本来の名はオンネヌスナイ/オンネヌシオイであって[註4]、本来のカルパシモナイは全く別の川を指していただろうことが分かるのである。

 ところで、先に示した『АИНСКО-РУССКІЙ СЛОВАРЬ. М. М. Добротворскаго(ダブラトヴォールスキーのアイヌ語-露語辞典)』には、同書に見える上記の地名とКусунай(クスナイ:クシュンナイ→日本時代の久春内)間の距離が示されている。以下にその距離をまとめてみる(単位は露里)。

Ру-кусэнай(ルクセナイ)  206½ в.
Ахтури тонай(アフトゥリトナイ) 204½ в.
Карбасумонай(カルバスモナイ)201½ в.
Тумунай(トゥムナイ) 199 в.
Оненусунай(オネヌスナイ)  197 в.
Муну сунай(ムヌスナイ) 194 в.
Оду оттонай(オドゥオットナイ) 191 1/4 в.

 これが分かるのならば、「クシュンナイからより遠い方の地名Xとクシュンナイ間の距離-クシュンナイからより近い方の地名Yとクシュンナイ間の距離」の式を使ってXY間の距離を求めることが出来る。

Ру-кусэнай(ルクセナイ)  
 2露里=約2.13km
Ахтури тонай(アフトゥリトナイ) 
 3露里=約3.2km
Карбасумонай(カルバスモナイ)
 2.5露里=約2.67km
Тумунай(トゥムナイ) 
 2露里=約2.13km
Оненусунай(オネヌスナイ) 
 3露里=約3.2km
Муну сунай(ムヌスナイ) 
 2.75露里=約2.9km
Оду оттонай(オドゥオットナイ) 

次に日本時代の各地名間の距離を以下に示す。

十串
 2.1km  
北十串
 2.9km
利良志内
 2.3km
南刈葉
 2.1km
刈葉
 3km
茂主
 3.4km
十和田

 これと先程の『АИНСКО-РУССКІЙ СЛОВАРЬ. М. М. Добротворскаго(ダブラトヴォールスキーのアイヌ語-露語辞典)』を基に計算した地名間の距離を照合すると場所によって300m〜500m程度の誤差はあるが概ね合致することが分かる。

結論
 
以上のことをまとめると、日本時代の刈葉は実はカルパシモナイではなく、オンネヌスナイ/オンネヌシオイであったのであり、カルパシモナイは恐らくリヤウシナイ(=日本時代の利良志内)の別名であろうと思われる。もっとも、前述の通り樺太闔境之図のカワルシソウマナイがカルパシモナイと同一である場合には南刈葉川がカルパシモナイということになろうが、いずれにせよ日本時代の刈葉川はカルパシモナイではないことが明らかとなった。
 日露戦争後直後の地図では日本時代の利良志内にカルパシモナイの名が付された地図も見られるので、オンネヌスナイ/オンネヌシオイに刈葉の名が誤って付けられたのは明治45年の地名改正時であろうと思われるが、この原因についてはこの記事では明らかに出来なかったので今後の研究課題としたい。

註1    江戸期〜帝政ロシア支配期の古地図等では悉くルークシナイないしはそれに準ずるかたちで表記されているが、日露戦争後に製作された地図ではほとんどがトクスナイ/トクシナイとなっており、公称地名もそれを基にしたものとなっている。
註2   樺太富内村の主負(ヌシオイ)という地名との類似性に注目せよ。
註3   リヤウシナイ-ヲン子ヌソヲイ間に見えるので南刈葉を指しているのだろう。
註4   オンネヌスナイ/オンネヌシオイはその北に位置するムヌシナイ/モヌシオイと対地名になっていることに注目されたい(onne:老いた/大きな、mo:子供の/小さな)。つまりアイヌは日本統治時代の刈葉川と茂主川をセットとみなし、刈葉川を主、茂主川を従としていたことが分かる。
 

参考文献・地図等

・Добротворский, Михаил Михайлович『АИНСКО-РУССКІЙ СЛОВАРЬ. М. М. Добротворскаго』,1875

・樺太庁第二部拓殖課『樺太殖民地撰定報文』,1910

・北延叙地図(https://www3.library.pref.hokkaido.jp/digitallibrary/da/detail?libno=11&data_id=040-1654-1 )

・樺太闔境之図https://www3.library.pref.hokkaido.jp/digitallibrary/da/detail?libno=11&data_id=040-1633-1  )

・北蝦夷島地図
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/category/categoryArchives/0400000000/0403000000/00  )

・樺太略図https://www3.library.pref.hokkaido.jp/digitallibrary/da/detail?libno=11&data_id=040-2294-1 )

・陸地測量部「仮製樺太南部五万分一 アトワタンナイ」


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