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川越の蔵づくり商家は何故残ったか、川越一番街訪問記

こんにちは。つくののQちゃんです。神奈川県横浜市の某商店街でレンタルスペースとマルシェをやっています。

先日、横浜の商工会議所のプログラムで川越へ。川越商工会の人からお話を聞きました。今日はその記録です。

若い観光客が多い

平日でしたが若い人を中心に人が歩いていました。コロナで一時期は死んだ街のようになっていたが、都心から近く半日観光ができるため客足は早めに戻ってきた、とおっしゃってました。




若い女性達は浴衣姿の子も多く、レンタル着物屋で着付してもらうようですね。石川県の金沢市に行った時も同様でした。和装して古い街並みを歩いて写真を撮るというのが彼らのニーズなのですね。

なお、川越の蔵づくりの街並みは県道に沿って位置しており、結構、車の交通量があります。狭い歩道を歩くしかないのはやや残念です。

さつまいもに鰻屋

飲食店やスイーツの店には、さつまいもをあしらったものが多く、さつまいもチップスやラテ、芋そうめんなど。昔はさつまいもの産地だったそうです。

あとは鰻屋も多い。

蔵づくりの通り、一番街には古くからの地元の店に加えて、観光地らしいお店が混ざっています。聞けばチェーンストアは入れないようにしているが、家賃が高いため入れる店は限られているそう。結果として鎌倉などの観光地と店が被ってしまうことも多いと言うことです。

神社は賑やかでありたい、という氷川神社へ。

お次は川越氷川神社へ行きます。

ここも、結構、人が集まっていました。

宮司さんの話をお聞きしましたが、静かな場所ではなく人が集まって色々な出会いが生まれる賑やかな場所でありたい、とのこと。

言葉通り、用意してある各種おみくじが若者にウケている模様です。

蔵づくり商家は何故残ったか

川越に蔵づくり商家が集まったのは明治時代のこと。大火に見舞われて消失した街を、街の商人達が伝統的な蔵づくりの商家に建て替えたそうです。

川越は江戸時代から商業の町として栄えておりそれができるだけの富を持った商人がいたそう。蔵づくりの家に混じってレトロな洋風建物が存在するのも財力を感じます。

蔵づくりの街並みが保存される機運が高まったのは1970年代から。駅に中心が移り、駅から2キロ離れた一番街が廃れてきた頃だそうです。

外部の専門家が川越の街並みを保存する提言を出しましたが、地元住民の意見はさまざま。

むしろ瓦をトタンで隠していた時期もあるそうで、蔵づくりはダサいというイメージもありましたし、明治に作った建築の価値に半信半疑だったそうです。

しかし、その後、徐々に蔵づくりの街並みに関心が高まるようになり、電柱の地中化などが進みました。周辺にマンションができる計画が持ち上がったことをきっかけに、1999年に国の伝統的建造物群保存地区に指定されました。各種規制がかかる文化財への指定は嫌がった方も多く、時間をかけての地区指定となりました。

電柱の地中化というのは歩いてみると、すごい大きいですね。めっちゃスッキリしますし、写真映えが違います。

今も、月一回は景観やサインに関する審査会が開かれていて、雰囲気を維持するために努力されています。

そんな訳で、街並みとしては、蔵づくり商家で街並みを統一した明治時代の地元商人と、それを保存すべく動いた昭和の住民と外部応援団が大事な役割を果たし、それが結果として観光地としての大成功につながりました。

天邪鬼を魅了するものは?

川越は都心からも近く、最近では横浜から乗り換えなしで行けるようになりました。

そのため観光客が集まる街になっています。

しかし、私のように混雑嫌いの天邪鬼としては、蔵づくりの「the観光地」となってはかえって足が向かないのであります。何かそれ以外の面白いトリガーを探しているところです。

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