夏目漱石『素人と玄人』全文
自分はこの平凡な題目の下に一種の芸術観乃至文芸観を述べたい。自分が何故こんな陳腐な言葉を選んだかというに、普通の人の使っている素人と玄人という言葉には大分の誤解が含まれている、従ってそれを芸術上に用いる時に、一種滑稽な響きを与える例が多いからである。
普通世間ではその道に堪能でないものを捉えて、あれは素人だと軽蔑する。それからその道に熟達したものを指して、あれは玄人だと尊敬する。そう言われるものも単にこの二つの言葉だけで自分の芸術上の位置が極まるかの如くに考えているらしい。例えば絵画を何年か稽古したものは、世間から見れば玄人に違いないので、この方面において普通のものよりも多く口を聞く権利があるように振舞って憚らないし、また絵筆を持った事もない所謂素人は、そういう人の前へ出ると鼠が猫の前へ出たように大人しく控えている。これは世間がいい加減に決めた素人と玄人という言葉に賊せられて自分達の立場をよく分析してみない結果だろうと思う。
自分は文芸上の作品について素人離れのしたそうして玄人染みないものが一番良いという事をよく人に言った。今も時々同じ言葉を繰り返している。しかし、素人と玄人という意味をもっと理智的に解釈するようになったのは、近頃諸所の展覧会で観た絵画(ことに日本画)が強い原因になっている。自分の考えは最初日本画の御手際に感心し、中頃その御手際の意義を疑い、しまいにその御手際を軽蔑し始めたときに漸く起こったのである。だから、変化しつつ継続した一種の感情の骨格のようなものである。その骨格は無論自分の作ったものではない。自然の感じの裏面を最初から組み立てていたのである。自分は自分の感じを剥いでその内部にある骨組みを発見したに過ぎない。
自分がこの骨組みを点検している時に、思いがけない二人の芸術家が自分を訪ねた。その二人とも一般からは芸術家とは呼ばれずに、同じ意味ではあるが一種良くない連想を持った芸人として取り扱われている男達であった。彼等は自分の専門とは極めて縁の近そうで、そうしてほとんど交渉のない方面に働いている人々であった。一言でいうと、彼等は舞台の人即ち俳優なのである。自分は世俗の習慣に従って、ここに彼等を菊五郎、吉右衛門と呼び捨てにする自由を持ちたいと思う。
菊五郎に会ったのは去年の十一月末であった。その時は紹介者として長谷川時雨女史も見えた。用談は新しく狂言座という団体を作って芸術上の研究をするから賛成者になってくれという依頼であった。芝居に不案内な自分にとって、これほど案外は用件はなかった。しかし自分は今いう通り素人と玄人という問題を考えている際であったので、つい菊五郎に向って、私は芝居にかけては全くの野蛮人だが、野蛮人の立場からなら或いは批評が出来るかもしれないと言った。すると菊五郎はぜひそれが聞きたいと答えた。自分はまた、野蛮人の批評は土台から野蛮的なのだから、懇意にならない以上はやりにくいと言った。すると時雨女史が懇意になってやってもらいたいと言い出した。劇評家などになる考の毛頭ない自分は少し言い過ぎたのである。しかし自分から野蛮人の批評を求めようとする彼等にも野蛮の二字は恐らく徹底的に理解されなかったろうと思う。
狂言座という団体は日本人の作った新しい社会劇でもやる有志者の集まりだろうと早合点した自分は、菊五郎に素人になれるかと聞いた。今の世は素人が書をかき、画を描く時代だと言った。素人が小説を作る時代だと言った。何故かと言えば芸がこれらをやるのではない、人間がやるのだからと言った。しかし、自分の言ったことは或いは菊五郎に通じなかったかもしれない。
吉右衛門の来たのはそれから三週間程経った十二月下旬の事である。この時は小宮君が同伴であった。自分と小宮君とは遠慮のない間柄だから。初対面の吉右衛門を前に置いても、思うような話が出来た。自分は日本の歌舞伎芝居というものを容赦なく攻撃した。それに深い興味を持っている小宮君の弁護のうちには、自分と全然立場を異にしている根拠から来るものが多かった。自分は笑った。そういう点になると、この道に親しみの深い彼よりも、門外漢の自分の評価のほうがかえって確かであると主張した。小宮君は納得しなかった。自分は幕府を倒した薩長の田舎侍が、どの位旗本よりも野蛮であったか考えてみろと言った。そんな弁護をする人はあたかも上野に立て籠もって官軍に抵抗した彰義隊のようなものだと言った。ローマを滅ぼしたものは要するに野蛮人じゃないかとも言った。
吉右衛門の来訪は菊五郎のように自分の署名調印を貰う目的でも何でもなかった。しかし、彼は新しい脚本を要求しているらしかった。自分の書いたものをやってみたいというような事も口へ出していった。尤もこれは余程前から小宮君が自分に対する要求の一つであった。脚本を書く興味の深く乗らない自分は、その内書けたら書こうとばかり答えて今日に及んだのである。二人の俳優が自分のうちへ来たのは素人と玄人の講釈を聞く為でもなんでもなかったのである。けれども自分は自分と彼等との立場の比較やら、自分の芸術に対する考えやらが頭の中にあったので、つい当面の用談に関連して、素人と玄人の問題を彼等に向けたのである。しかも解りにくい断片的な形式を通して向けたのである。自分は自分の思想の影が明らかに彼らの脳裏に映らなかった事を知っている。現に菊五郎の来た時傍に居合わせた画を専門にする自分の友達は、彼の帰った後で、あなたの言った事はよく通じなかったらしいですねと自分に告げた。しかし自分を理解してくれるこの画家に感謝しただけで、自分の心は満足し得なかった。有望な二人の青年俳優に対する責任としてのみでなく、自分の頭に対する責任として、この問題をもっと明瞭にもっと組織的に表現しなければ済まないような気がどこかにあった。そうして自分は今その機会を捉えたのである。
素人と玄人の優劣は、この二つの言葉を普通の応用区域即ち芸術界から解放して、漫然と人間の上に加えてみると存外はっきりするものである。世間ではある女を評してあれは玄人だといったり、あれは素人だと言ったりしている。この裏に含まれている褒貶の意義は品評者の随意としても、この二つの言葉によって代表される事実はほとんど争う余地のない程明白である。
玄人は第一人付きが良い。愛想がある。気が利いている。交際上手で、相手をそらさない。数え立てればまだいくらでもあるだろう。しかしいくらあってもその特色はついに人間の外部に色彩を添える装飾物についてのみ言えることだけである。いくら調べていくら研究しても、その特色が人格の領分に切り込むことはほとんどないのである。まして精神の核に触れるなどという深さは、夢にも予期する事が出来ないのである。
玄人は次に着物の着こなし方が上手い。それから化粧方がすこぶる上手である。頭のものでも履物でも自然と粋に出来ている。これらも彼等の特色として著しく他の注目を惹く点に違いない。けれどもそれは前に述べた特色よりもなお人間の上側に付着するものである。様子の良い人だとか悪い女だとかいう言葉は、その様子が精神その物の表現と見放す事の出来ない場合でも、とにかく生きた人間の一部分を代表するものとして。一般的にも哲学的にも、認められて差支えないと思うが、着物や白粉や櫛や下駄に至ると、どうしたって取ってくっ付けたものである。もとより精神や肉体に関係がないと断言するのは悪いかもしれない。しかし両者に縁のない遠い所から来て、仮に身体に付着しているのだから、いかに自分の一部分であるかの如く装っているにしても、いつ切り離されるか解らないという意味から見て、自分とは甚だしく懸け隔ったものである。いくら朴の木炭で磨いても、鶯の糞で洗っても、頬骨の高いのや額の出たのは決して改良出来ないのが良い証拠である。
してみると俗にいう玄人の特色というものは、人間の本体や実質とは関係の少ないうわつらだけを得意に徘徊しているように思われる。この事実をもう少し念を入れて眺めていると、一見人を引き付ける魅力を持った玄人というものが、存外つまらなく見えてくる。彼等の特色は彼等に固有のものではない、誰でも真似の出来る共有的なものだという気になる。
必要なのは練習と御陵なのは練習とおさらいだけで、そのほかほとんど何にも要らないという事が解る。要するに玄人の誇りは単に技巧の二字に帰着してしまう。そうしてそんな技巧は大概の人が根気よく丁稚奉公さえすれば造作なく達せられるものであるという心持になる。上部だけの改良で事が済むのだから、精神的の教養よりも遥かに容易である、容易であるから誰にでも達せられると言うのである。自分はここに挙げて評価した玄人の特色を、絵画の玄人にも、俳優の玄人にも、乃至は文芸の玄人(もし文芸に玄人があるのだとすれば)にも、応用したい。そうして彼等に向かって、単に玄人であるという事は、あまり威張れたものではないという気の毒な事実を告げたい。素人でも尊敬すべきだという心理をうけがわせたい。腕は芸術の凡てではない。むしろ芸術界に低級な位置を占めるのが腕であると教えたい。否、多くの場合に玄人はこの腕のおかげで、芸術を破壊する、堕落させる、向上の邪魔をされている。と主張したい。玄人はこれらの特色さえ発揮すればそれで十分だと思うなら、人間は権謀術数さえ練習すればそれでたくさんだと考えると同じである。誰が権謀術数だけで人間になれると思うか。人間は権謀術数よりもう少し高いものである。良寛上人は嫌いなもののうちに、詩人の詩と書家の書を平生から数えていた。詩人の詩。書家の書といえば、本職という意味から見て、これ程立派なものはないはずである。それを嫌う上人の見地は、玄人の臭いを憎む純粋でナイーヴな素人の品格から出ている。心の純なるところ、気の精なるあたり、そこに擦れ枯らしにならない素人の尊さが潜んでいる。腹の空しいくせに腕で掻き回してる悪辣がない。器用のようでその実は大人らしい稚気に満ちた嫌味がない。だから素人は拙を隠す技巧を有しないだけでも玄人よりましだと言わなければならない。自己には真面目に表現の要求があるという事が、芸術の本体を構成する第一の資格である。既にこの資格を頭の裏に認めながら、なおかつ玄人の特色を好むのは、君子の品性を与えられている癖に、手練手管の修行をしなければ一人前でないと悲観するようなものである。
自分は俗間で婦人だけについて用いる玄人という言葉から出立した。その言葉を解剖してみると、少しも内容を改めないで、そのまま芸術上の専門家におうようが出来たのである。そうしてその結論は芸術界の所謂玄人に対して気の毒なものになってしまったのである。彼等をして自分の説を成程とうけがわしめるにはこれで十分だと自分は考えている。
しかし念の為だから、しばらく今までの局面を一掃して、さらに新しい所から玄人と素人を比較してみようと思う。あるものを観察する場合に、まず第一にわが目に入るのはその輪郭である。次にはその局部である。次には局部のまた局部である。観察や研究の時間が長ければ長いほど、段々細かい所が眼に入ってくる、ますます小さい点に気が付いて来る。これは凡ての物に対する我々の態度であって、ほとんど例外を許さない程応用の広い自然の順序と見ても差し支えない。だから芸術の研究もまたこの階段を追って進んで行くに違いない。所謂玄人というものはこの道を素人より先へ通り越したものである。そうしてそこに彼等の自負が潜んでいるらしい。彼らの素人に対する軽蔑の念もまたそこから湧いて出るらしい。けれどもそれは彼らが彼らの経路を誤解して評価づけた結果に過ぎないと、自分は断言して憚らない。彼らの経路は単に大から小へ移りつつ進んだのである。浅い所から深い所に達しつつあるのでもなけらば、上部から内部に(立体的に)突き進んで行きつつあるのでもない。大通りを見尽くしたから裏通りを見る、裏通りを歩き終わったから、横丁や路地を一つ一つ覗いているという順序なら、たとい泥板の上を一軒一軒数えて回っても、研究の性質に変化の来る筈がない。それを高い平面から低い平面に移されたように思うのは、所謂玄人のイリュージョンで、平凡な玄人は皆このイリュージョンに酔わされているのである。単にこれだけなら彼らの芸術に及ぼす害悪はさほど大したものではないかもしれない。けれども彼等はこのあまいイリュージョンに欺かれて、大事なものはどこかへ振り落として気が付かずにいるのである。
観察が輪郭に始まってようやく局部に移っていくという意味を別の言葉で現すと、観察が輪郭を離れてしまうという事に帰着する。離れるのは忘れる方面へ一歩近寄るのと同然である。しかの其の局部にそそぐ熱心が強ければ強い程輪郭の観念は頭を去るわけである。だから玄人は局部に明るいくせに大体を眼中に置かない変人に化けて来る。そうして彼らの得意にやってのける改良とか工夫とかいうものは悉く部分的である。そうしてその部分的の改良なり工夫なりが少しも全体に響いていない場合が多い。大きな眼で見ると何の為にあんなところに苦心して喜んでいるのか気の知れない小刀細工をするのである。素人は馬鹿馬鹿しいと思っても、先が玄人だと遠慮して何も言わない。すると、玄人はますます増長してただ細かく細かくと切り込んでいく。それで、自分は立派に進歩したものと考えるらしい。高い立場から見下すとこれは進歩でなくって、堕落である。根本義を棚へ上げて置いて、末節ばかりあくせくする自分の態度に気がついたら玄人自身もしか認めなければなるまい。
素人はもとより部分的の研究なり観察に欠けている。その代わり大きな輪郭に対しての第一印象は、この輪郭のなかで金魚のようにあぶあぶ浮いている玄人よりは鮮やかに把捉出来る。玄人のように細かい鋭さは得られないかもしれないが、ある芸術全体を一目に握る力において、糜爛した玄人の瞳よりも確かに溌溂としている。富士山の全体は富士を離れたときにのみはっきりと眺められるのである。
ある芸術の門を潜る刹那に、この危険はすでにその芸術家の頭に落ちかかっている。虚心に門を潜ってさえそうである。与えられた輪郭を是認して、これは破れないものだと観念した以上、彼の仕事の自由は到底毫釐の間をうろついているに過ぎない。だから在来の型や法則を土台にして成立している保守的な芸術になると、個人の自由はほとんど殺されている。そういう芸術になると、当初から輪郭は神聖にして犯すべからずという約束のもとに成立するのだから、その中に活動する芸術家は、たとい輪郭を忘れないでも、忘れたと同じ結果に陥って、ただ五十歩百歩の間で己の自由を見せようと苦心するだけである。素人の眼は、この方面においても、一目の下に芸術の全景を受け入れるという意味から見て、玄人に勝っている。
こうなると俗にいう玄人と素人の位置が自然顛倒しなければならない。素人が偉くって玄人がつまらない。ちょっと聞くと不可解なパラドックスではあるが、そういう見地から一般の歴史を眺めてみると、これはむしろ当然のようでもある。昔から大きな芸術家は守成者であるよりも多く創業者である。創業者である以上、その人は玄人でなくって素人でなければならない。人の立てた門を潜るのでなくって、自分が新しく門を立てる以上、純然たる素人でなければならないのである。
自分はまだ言うべきことがたくさん残っているように思うけれども、急いでこの稿を書き上げなければならない事情があるので、これ程にしてひとまず筆をおくことにする。ここにいる玄人とは無論ただの玄人を指すので、素人というのは芸術的傾向を帯びた普通の人間を言うのである。偉い玄人になれば局部に明らかなと同時に輪郭も頭に入れているはずであるし、つまらない素人になれば局部も輪郭も滅茶滅茶で解らないのだから、そんな人々は自分の論ずる限りではないのである。それから俗にいう通人というのは玄人の馬鹿なのよりもずっと馬鹿なのだから、これも評論の限りでないことを断って置きたい。
底本
『夏目漱石全集』(筑摩全集類聚), 筑摩書房, 1971.4-1973.3
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