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『遠まわりする雛』えるのセリフに関する一考察

『遠まわりする雛』の本当の謎とは?

アニメ『氷菓』の最終回である『遠まわりする雛』。その原作を改めて読むとミステリとしての「謎」は何なのかを考えさせられる。表面上の謎は"渡れるはずの橋を渡れないようにしたのは誰か?"だがやはり最大の謎はラストのえるのセリフだろう。

「寒くなってきたな」
しかし千反田は、少し驚いたように目を見開き、それから柔らかく微笑んで、ゆっくりとかぶりを振った。
「いいえ、もう春です」

角川文庫『遠まわりする雛』p.408

アニメ版では武本監督の"ボーイミーツガールもの"としての解釈に基づく演出から二人の恋愛への"薔薇色"の入口を予感させるセリフと捉えることが可能だろう。舞い散る桜吹雪、珊瑚色の夕暮れとも相まってその後の二人の明るい未来をも予感させる名シーンとなった。

アニメ『氷菓』22話より
画像は全て©米澤穂信・KADOKAWA/神山高校古典部OB会
アニメ『氷菓』22話より
アニメ『氷菓』22話より
アニメ『氷菓』22話より
アニメ『氷菓』22話より

だが原作においてはえるがその言葉を発した意図を容易には汲み取れず謎となっている。

まずえるのセリフに先立つ奉太郎の「寒くなってきたな」の意図を考えてみる。それは「経営的戦略眼…」つまりえるに対する自らの想いの告白を断念した故の言い換えの言葉である。更に容易には自分の想いを前には進めることはできないという予感の反映とも受け取れる。

それに対し「いいえ、もう春です」と奉太郎のセリフを否定し、なおかつ前向きとも思えるえるのこのセリフはアニメ版と同様に恋愛へのGoサインとみなせるのだろうか?

えるの"生活信条"

ここで少し寄り道してえるの信条について考えてみたい。アニメ版のえるしか知らないと少し意外に思われるかも知れないが、彼女は基本的に自分の意志に基づき自分の責任において行動することを信条としていると考えられる。その根拠を本編からいくつか挙げてみる。

『大罪を犯す』の終盤においてえるは尾道に対して怒ってしまったことを悔いる発言をしている。怒ったのは相手に非があるのではなく自分に非があると思いたかったのではないかと奉太郎は考えた。(奉太郎はその考えをすぐに"傲慢"だと自戒したが)

そして『クドリャフカの順番』では入須が自らのアドバイスに従ったラジオ出演に対して「お前が自助しようとする人間だと知っている」と前置きした上で(入須のこの言葉もえるの信条に対する傍証と言える)「期待を操ろうとすると甘えているように聞こえる」と苦言を呈する。その言葉にえるは素直に首肯する。

わたしは自分が皆さんに寄りかかりすぎているのではないかというのが、とても気になっていたのです。(中略)そう、折木さん風に言うなら、わたしの生活信条に大きく反しています。

角川文庫『クドリャフカの順番』p.352

更に『手作りチョコレート事件』において摩耶花のチョコレートが盗まれたことに対して強い自責の念を覚え行き過ぎた行動を取ろうとする。それを留めようとする奉太郎に対して「わたしが、わたしを許せないんです。」と強い憤りを見せる。

なお余談だがえるが奉太郎に頼りきりに見えるのはえるの適性が推理に向いておらず頼らざるを得ないという事情もある。前掲の『クドリャフカ』からの引用の中略部分に

わたしがわからずにいることを折木さんがわかってしまうために、わたしはわたしにできることを充分にしなかったのではないかという不安が拭えないことは、よくありました。

角川文庫『クドリャフカの順番』p.352

とあり彼女にとっては不本意な状況であることを垣間見せる。

えるの信条はどこから?

ではこの信条はどこから来たのか。
もちろん住んでいる集落の"それなりに主導的な立場の千反田の娘"としての責任感はあるだろう。だがその源は彼女が思い出せなかった伯父関谷純の教えだったのではないか。

「(中略)そしたら伯父はわたしに、そうです、強くなれと言ったんです。
 もしわたしが弱かったら、悲鳴も上げられなくなる日がくるって。そうなったらわたしは生きたまま……」
その目が、俺に向けられた。
「折木さん、思い出しました。わたしは、生きたまま死ぬのが怖くて泣いたんです。(後略)」

角川文庫『氷菓』pp.205-206

『氷菓』はえるが伯父のこの言葉を思い出すまでの物語だった。だが意識上では忘れていても無意識下では彼女に刻み込まれており"強く"なるために自分の行動は自分の意志に基づいて自分の責任で行うという信条を身に着けたのではないだろうか。
この彼女の信条に基づき『遠まわりする雛』の後半のセリフを考えてみる。

えるの"告白"の意味は?

えるは生き雛祭りで起こったトラブルをあっさり解決したことに触れながらもそれを「大きなことだとも思わない」と言い切る。郷土に対するある種の諦念を滲ませながらも千反田家の一員としてどのように郷土に貢献できるかを第一に進路を考えている。

「見てください、折木さん。ここがわたしの場所です。どうです、水と土しかありません。人々もだんだん老い疲れてきています。山々は整然と植林されていますが、商品価値としてはどうでしょう?わたしはここを最高に美しいとは思いません。可能性に満ちているとも思っていません。でも…」
腕を下ろし、ついでに目も伏せて、千反田は呟いた。
「折木さんに、紹介したかったんです」

角川文庫『遠まわりする雛』pp.406-407

この"告白"はこれまで誰にもしたことはなかっただろう。恐らく親にさえ。その胸に秘めた思いを敢えて奉太郎に告げたのはえるにとって彼が"特別"だからなのは確かだろう。だが彼女にとってより重要なのはこの思いを口にしたということ自体なのではないか。えるの生活信条に照らしてみると自分のこれまでとこれからの行動を自らの意志に基づき自分の責任において行うという一種の"決意表明"だったのではないか。誰に強制された訳でもなく自分の意志で郷土に貢献したい、という自覚が彼女に前向きな言葉を語らせたのではないか。

そう考えると奉太郎の「寒くなってきたな」に対する「いいえ、もう春です」は一種のディスコミュニケーションであるとも捉えられる。
読者にとってどこか噛み合わない、すっきりと解釈できないと感じるやり取りもお互いの立ち位置や前提が異なっていることの反映と言えるのかもしれない。

だが男女にとってのディスコミュニケーションは時に関係を進展させる上でプラスに働くこともある。その後の二人は更に関係を深めていく。
そして『いまさら翼といわれても』でえるはこの決意を無にされるような残酷な言葉を突きつけられる。果たしてえるは今後この決意を完遂するのだろうか?それとも…

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