無題

頭の中で、人を押し倒し、両手で持てるくらいの大きさの石でその人の頭をつぶす。私は怒っている。順番に、いろんな人の頭をつぶしていく。怒っているのは、怖いからで、その脅威を取り除くために、順番に石で殴っていく。どうして怖いのかなんて知らない。認知のゆがみか。そんなもの知らない。頭の中で宇佐美が肯定してくれる。幸せな空想の中で生きていきたい。もう現実を生き延びる理由なんて、ピロウズのライブをあと一回見たいから、くらいしかない。あとは親を悲しませたくはないが、だが。荒吐でピロウズを見られたら、その次の日の夜明けとともに死のう。今までもこれを見たら、聴いたら、死のうと思ったことは何回もあった。子供の時によく見ていた配信者の結婚式、SAI、去年の12月のピロウズのライブ……。楽しい出来事が終わったら、その楽しい気持ちのまま死にたかったのだ。配信者の結婚式の日は、式の配信が終わってから大学院のトイレで首を吊ろうとしたけど、できなくて、泣いたまま帰宅した。泣き顔が誰かに見えないように、街灯を避けて歩いた。SAIの時も、ACIDMANのライブを初めて見て、キラキラして、お客さんも演奏者も、幸せそうで、これが幸福か、幸福を具現化したらこんな空間になるのか、と思った。星と花火をもらえて嬉しかったけど、札幌に帰ったら死のうと思った。「これを機にまた頑張ろう」なんてくそみたいなことは1ミリも思っていなかった。だけど、そのあとなぜか死に向かう衝動性がしばらくおさまっていた。悲しくて、死を望む気持ちはずっとあったけど、それでもなぜか首をベルトにかけることがなくなった。あの幸せな空間が何度も思い出されて、それを曲でも絵でもなんでもいいから、書いて、自分の手で複製したかった。できなかったけど。社会人になってしばらくしたら、また死に向かう衝動性が出てきた。もうどうせこの先生き延びてやりたいことなど一つもないのだから、生き延びる理由なんてないと思った。その気持ちは今でも消えていない。ドアノブや洗濯物干しにベルトをかけて、首をひっかける。高いところにかけなくても、座った体勢で首をひっかけて体を重力にまかせて倒していけば、首を吊ることはできる。ライブなんて行けないと思った。すべての人の期待に応えて、それを超えない限り、ライブに行く権利などないと思っていた。だからピロウズのツアーのチケットもとらなかった。だけど、仕事で、私だけ出張の調査業務にいかないことになって、カレンダー通りに祝日が休みになった。それもまた私の孤独感を大きくしたけれど、仕事だから仕方ないというか、本音ではそんな社会人らしいことは考えていなかったけど、とにかくわざわざ文句を言うつもりもなかった。その祝日はピロウズが岡山でライブをする日だった。前日、なんとなくチケットをとった。当日も行く気は起きなかったけど、チケットが手元にあるから、なんとなく行かなければいけない気がして、気乗りしないまま行った。ライブハウスについて、慣れないライブハウスと、ダサい服をきた年寄りの他のお客たちが心底うざかった。札幌に戻りたいと思った。全員しねとも思った。そんな気持ちのままライブを見た。ライブのことはあんまり覚えていない。ぼーっと聴いていた気がする。あまり手もあげなかったような。セットリストを見返すと、好きな曲がいくつもあったから、心地はよかったんだと思う。その日の自分のツイッターには「ピロウズ行ってよかった」「忙しくてライブなんて行かなくていいかと思っていたけど、まじで行ってよかった」「これからもずっとライブしてくれ」みたいなことが呟かれていたから、きっと楽しかったんだろう。
ここまで書いて、疲れた。誰に見せるわけでもないのに、なぜこんなことを書いているのだろう。書かないと生きていけないのだ。もう誰にも認めてもらえなくていい、いやそれは、さすがに孤独が過ぎるかもしれない。とにかく、周りの評価など気にせず、自分が好きで心地いいと感じることを丁寧に時間をかけてやりたかった。音楽でも、絵でも、映画でも。好きに、安心して作りたかった。でも別にそれも、わざわざ生き延びてまでやりたいことではない。
気が変わった。別に何の意味もないし、恥ずかしいだけだけど、なんとなくnoteに公開しようかな。文章も見直してないし、思いつくまま書いたから、馬鹿だと思われるかもしれない。別にそれでもいいか。人より頭がいいとされても生きやすくなるわけじゃない。人より劣っていて、人ができることをできなくて、認めてもらえないことは不幸につながるとは思うけど、人よりできて人より評価されることがそのまま幸せにつながるわけでもないことを、今はもうわかっている。わかっているというか、そう思っている。