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文学作品と説明的文章との違いを考える ――その3 表現技法の読み方

 文学作品と説明的文章のジャンルの違いは、表現技法においても大きな違いとして現れる。
 結論を先に述べる。文学作品では、表現技法が多様に用いられるし、またその効果を読み解くことが重要になる。それに対して、説明的文章では、表現技法が皆無とはいえないものの、ほとんど用いられることはない。したがって、表現技法の効果を読み解くことは必要ない。

 説明的文章の直喩

 直喩は文学作品でも、説明的文章でも用いられる。しかし、その用いられ方は全く異なっている。したがって、読み方も変わる。
 説明的文章における直喩から見ていこう。以下に、実際の教材の中で用いられている直喩を示す。 

 ふうせんのような かたちを した つぼみです。
 これは、なんの つぼみでしょう。
 これは、ききょうの つぼみです。  
     『つぼみ』(光村図書 小1)2024年度新教材

 この わた毛の 一つ一つは、ひろがると、ちょうど らっかさんのように なります。
      『たんぽぽのちえ』(光村図書 小2)

 ビーバーは、ゆびと ゆびの 間に じょうぶな 水かきが ある 後ろ足で、ぐいぐいと か  らだを おしすすめます。おは、オールのような 形を して いて、上手に かじを とります。 
      『ビーバーの大工事』(東京書籍 小2)

 カミツキガメも、そんな生き物の一つです。かいじゅうのようなすがたをしたカミツキガメ。
      『カミツキガメは悪者か』(東京書籍 小3)2024年度新教材

  冬の間に、たまごからさけの赤ちゃんが生まれます。大きさは三センチメートルぐらいです。その時は、おなかに、赤いぐみのみのような、えいようの入ったふくろがついています。
      『さけが大きくなるまで』(教育出版 小2)

  船が通る川は、今の道路や線路のような役わりをはたしてきたのです。
      『川をつなぐちえ』(教育出版 小3)

  直喩は、低学年の教材に多い。それも、形状の説明に用いられているものがほとんどである。高学年になるに従い説明的文章での直喩は用いられなくなるのである。
 これらの直喩は「風船」「落下傘」「オール」といった喩えているものの形状が理解できればよい(ただ、「落下傘」は今の子どもたちにはわかりにくくなっている)。もし子どもたちが分からないようであれば、「風船」「落下傘」「オール」などを写真で示すことで理解を促すことができる。説明的文章の直喩はわかりやすいのである。

文学作品の直喩

 それに対して、文学作品における直喩はそれほど単純ではない。どのように直喩が用いられているか、実際の例を見てみよう。

いたの間に、白い 糸の たばが、山のように つんで あったのです。 
     『たぬきの糸車』(光村 小1)

  にじ色の ゼリーのような くらげ。
 水中ブルドーザーみたいな いせえび。
     『スイミー』(光村 小2 東書小1 教出小1)

 まくら元で、くまみたいに体を丸めてうなっていたのは、じさまだった。 
     『モチモチの木』(光村・東書・教出 小3)
 

墓地には、ひがん花が、赤いきれのようにさき続いていました。
     『ごんぎつね』(光村・東書・教出 小4)

 運転席から取り出したのは、あの夏みかんです。まるで、あたたかい日の光をそのままそめ付けたような、見事な色でした。
     『白いぼうし』(光村・教出 小4)

 らんまんとさいたスモモの花が、その羽にふれて、雪のように清らかに、はらはらと散りました。
     『大造じいさんとがん』(光村・東書・教出 小5)

 息を吸ってもどると、同じ所に同じ青い目がある。ひとみは黒いしんじゅのようだった。
     『海の命』(光村・東書 小6)

  小学1年の教材から6年生まで、どの学年でも直喩が出てきているのが分かる。またその用いられ方を見ても、形状を説明するような単純なものは少ない。つまり、説明的文章のように、喩えているものを写真などで説明すれば理解できるというものではないのである。「あたたかい日の光をそのままそめ付けたような」などは、その代表的なものといえる。
 では、どのようにしたらよいのだろうか。文学作品の直喩は属性を読むのである。属性とは、「ある事物に備わる固有の性質」と辞書『明鏡』にはある。私は、もう少し拡大解釈して、そのものが持っているイメージも含めることが必要だと考える。

 『海の命』の「黒いしんじゅ」を例に考えてみよう。この場合の黒はひとみの色であるから、「しんじゅ」について考える。
 「しんじゅ」の属性を考えてみよう。 

美しい・光っている・かがやいている・魅力的・ひきつけられる・高価なもの・価値のあるもの・貴重なもの

  もちろん、挙げたすべてが意味を持ってくるわけではない。この場合であれば、瀬の主(クエ)の目であるから、「高価なもの・価値のあるもの・貴重なもの」といった読みは除外される。「美しい・光っている・かがやいている・魅力的・ひきつけられる」といった「しんじゅ」のもつ属性から、その目が美しいものであり、光りかがやいており、魅力的で、ひきつけられるものとして描かれていることが読めてくる。
 このように読んでくると、太一は瀬の主に会った時点で、瀬の主に惹かれるもの・引きつけられるものを感じていたことがわかる。この後に太一は瀬の主を殺すことに葛藤するのだが、この時点でその萌芽が読みとれるのである。
 直喩は文学作品だけでなく、説明的文章でも用いられているのだが、隠喩が用いられるのは文学作品だけである。直喩と隠喩の違いや隠喩の読み方などは、稿を改めて述べることにする。 

擬人法の読み方の違い

 擬人法も直喩と同様、文学作品にも説明的文章にも登場する。低学年の説明的文章では、擬人法がしばしば用いられる。『たんぽぽのちえ』(光村 小学2年)で見てみよう。
 題名自体が、擬人法である。たんぽぽを人間のようにみたてるから「ちえ」という言葉が出てくるのである。また随所に以下のような表現がある。 

そうして、たんぽぽの 花の じくは、ぐったりと じめんに たおれて しまいます。 

花と じくを しずかに 休ませて、たねに、たくさんの えいようを おくって いるのです。こうして、たんぽぽは、たねを どんどん 太らせるのです。

 たんぽぽは、この わた毛に ついて いる たねを、ふわふわと とばすのです。

 この ころに なると、それまで たおれて いた 花の じくが、また おき上がります。そうして、せのびを するように、ぐんぐん のびて いきます

 それは、せいを 高く するほうが、わた毛に 風が よく あたって、たねを とおくまで とばす ことが できるからです。

  ただし、これらの擬人法の表現効果を読み深めることに、ほとんど意味はない。「ここで擬人法が用いられている効果は何だろう?」などと問う意味はないのである。小学2年の教材であるから擬人法という言葉を無理やりに教える必要もない。子どもたちがたんぽぽに親しみを感じるように擬人法を用いているのである。
 同じ光村の『海のかくれんぼ』(小学1年)も同様である。ここでも題名に擬人法が用いられている。また「(もくずしょいは)かいそうなどを からだに つけて、かいそうに へんしんするのです。」といった表現もある。
 説明的文章の擬人法は、低学年の子どもたちが教材の内容に親しみをもち、なおかつ理解しやすいように用いられている。したがって、そこで擬人法に気づかせることはあってもよいが、その効果を考えることには意味がない。
 一方、文学作品における擬人法は違っている。小学3年の『モチモチの木』を例に考えてみよう。五歳の豆太が病気のじいさまのために夜中に一人で医者を呼びに走る場面に次のようなところがある。

 とうげの下りの坂道は、一面の真っ白い霜で、雪みたいだった。霜が足にかみついた。足からは血が出た。豆太は、なきなき走った。いたくて、寒くて、こわかったからなぁ。

  「霜が足にかみついた」が擬人法である。もちろん『モチモチの木』の授業でこの箇所に絶対ふれなくてはならないわけではない。しかし、少なくとも教師はこの擬人法の効果をしっかりと読み取っておかなくてはならない。
 「霜が足にかみついた」というのは、道に霜が降りていて、豆太が裸足の足で、霜を踏んだ時の様子を描いている。そこから以下のようなことが読み取れる。

  ①霜が足にささる
  ②霜が足にささった、その冷たさと痛さを感じる
  ③実際には霜が豆太を攻撃してかみついてくるのではないのだが、豆太
   にはそう感じられた
  ④夜に一人で外にいるだけでも怖いのに、霜までが豆太におそいかかっ
   てくるように感じられる
  ⑤それだけ、より一層怖さも増し、心細さや不安な気持ちも大きくなる
  ⑥足にかみつかれ、痛くて、走りにくくなる → それでも豆太は走る
  ⑦豆太には「霜が足にかみついた」ように感じられた
     → 語り手は豆太に寄り添って語っている
      (読者も豆太の気持ちにより寄り添って読んでいく)

 擬人法は、人間ではないものをさも人間であるかのように表現する技法である。この場合であれば、霜が意識的に豆太にかみつくわけではない。霜が降りて白くなった道を豆太が裸足で走っていく。その時に、霜もしくは霜柱が豆太の足に刺さり、そこから血が出るのである。豆太(そして語り手)にはそれが、霜が豆太を攻撃してくるように感じられる。ただでさえ、夜の暗さが豆太には怖い。おまけに自分一人である。その怖さや心細さだけでも、豆太には十分すぎる。それに加えて、霜までが豆太を攻撃してくるのである。ここでの擬人法は、そのような豆太の不安や心細さをも表現している。
 擬人法においても、文学作品と説明的文章の読み方は異なるのである。


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