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心情読み批判

 物語は、心情を読む・気持ちを考えると思っている人が多い。とんでもない間違いである。
 と、〈国語教育における「中心」という用語を考える5〉のところで述べた。本稿では、心情読みの何が問題かを述べる。
 大学で教えていた時も、物語では心情を読むと思っている学生が多かった。彼ら自身が受けてきた国語教育がそういうものであったということの証拠でもあろう。
 私は、心情を無視していいと言っているのではない。物語の読解において、心情を読むことが何よりも優先されるものではない、と言っているにすぎない。何を置いても、心情を読もうとすることが、物語・小説の読みを歪でゆがんだものにしている。引いては、物語を読む面白さを奪い、国語自体をつまらないものにしている。学年が上がるに連れて国語の人気がなくなっていく一因に、物語で心情を考える授業の横行があると思う。 

「一つの花」出征する父親の心情は、読めるか?

 「一つの花」(今西祐行)における、出征する父親の心情を読むといった授業がある。ある教科書の学習の手引きには以下のような課題がある。

 ▼ゆみ子たちと別れるとき、お父さんはゆみ子にどんなことを伝えようとしたのでしょうか。
・「ゆみ。さあ、一つだけあげよう。一つだけのお花、だいじにするんだよう……。」と言ったときの、お父さんの思いを考えましょう。

 この問いは、この教科書に限ったものではない。これまで多くの教室で問われてきたものでもある。妻や娘と別れ、戦争に行かなければならないお父さん。その上「あまりじょうぶでない」のだから、無事に帰って来られないかもしれない。そんなお父さんは、どんな思いでゆみ子に花を渡したのか。
 しかし、このようにお父さんの心情を考えていくことは、作品を読み深めることにはつながっていかない。なぜなら、お父さんの心情はどこにも述べられていないからである。描かれているのは、お父さんの行動と言葉だけである。「一つだけ」と泣き出したゆみ子に、お父さんは「わすれられたようにさいていたコスモスの花を見つけ」て渡す。そして、「何も言わずに、汽車に乗って行ってしま」うのである。
 したがって、お父さんの心情を考えることは、作品の表現を読むことには向かわず、一般的な家族との別れの状況で父親はどのような思いを持つかを推測することになる。 

・元気で明るい子どもに育ってほしい
・お父さんのことをいつまでも忘れないでほしい
・「たくさんちょうだい」と言える子になってほしい
・お母さんを大切にしてほしい ……

  これらの意見は、父親が置かれた状況から心情を推測しているにすぎない。作品の表現に基づいて出されたものではない。その意味では、自由勝手な読みでしかないから、その可否を明らかにも出来ない。そのような読みがどれだけ出されたとしても、作品を読み深めることはならない。したがって、深い学びにはつながらない。多くの子どもが発言し、活性化しているように(子どもたちが主体的であるかのように)見えたとしても、見せかけのものでしかない。
 「一つの花」で何を読むかは、既に公開した〈「一つの花」(今西祐行)の場面を考える〉〈「一つの花」(今西祐行)をどう授業するか〉などを見ていただきたい。 

ちいちゃんの心情は読める?

 「ちいちゃんのかげおくり」(あまんきみこ)は、光村図書3年の教材である。2024年度版の教科書には、以下のような学習課題が設定されている。

 ○第一場面から第4場面までで、「ちいちゃん」の気持ちは、どのようにかわっていったでしょうか。 

 上記の課題に取り組むために、以下のような助言をしている。

次のような、行動を表わす言葉や、場所の様子を表す言葉からも、登場人物の気持ちをそうぞうすることができます。
 ・「さけびました」(20ページ8行目)
 ・「こわれかかった暗いぼうくうごうの中で」(23ページ9行目)

  「さけびました」から、ちいちゃんの心情が読めるのだろうか。「さけびました」の前は次のように書かれている。

 けれど、たくさんの人に追いぬかれたり、ぶつかったり――、ちいちゃんは、お母さんとはぐれました。
「お母ちゃん、お母ちゃん。」
ちいちゃんはさけびました。

 空襲による火事の中を逃げている途中でお母さんとはぐれて、ちいちゃんは叫ぶのである。つまり「さけびました」から心情が読めるのではなく、母とはぐれた状況からちいちゃんの心情を「そうぞうする」ことになる。不安や心配といった心情は出てくるだろうが、その程度のものでしかない。
 「こわれかかった暗いぼうくうごうの中で」は、一人になったちいちゃんが、焼け落ちた家に戻り、夜を過ごす以下のところである。 

その夜、ちいちゃんは、ざつのうの中に入れてあるほしいいを、少し食べました。そして、こわれかかった暗いぼうくうごうの中で、ねむりました。

  ここでも「こわれかかった暗いぼうくうごうの中で」から、不安や怖さといった心情は子どもたちから出されると思うが、それがここで読みとるべきことだろうか。
 ちいちゃんは、この防空壕の中で幾日かを過ごし、やがて死んでしまう。なぜちいちゃんは、防空壕から動こうとしなかったのか。どうして死んでしまったのか。さらに遡れば、なぜおばさんについていかなかったのか(おばさんはなぜちいちゃんを一緒に連れて行かなかったのか)といったことを読むことの方が大事である。
 言葉を読むのであれば、「ざつのうの中に入れてあるほしいいを、少し食べました。」と「ざつのうの中のほしいいを、また少しかじりました。」の違いこそ読むべきである。その実践については、私(加藤)は以前に述べたことがある(*)。 

*加藤郁夫「表現の違いから『ちいちゃんの死』を読む」 『平和教育』第77号 2009年12月

  心情にばかり目を向けることは、気持ちの勝手な想像にはしり、かえって読まなくてはいけない箇所に着目できなくなる。 

心情読みは、なぜダメか

 改めて、心情読みがどうしてダメなのかを整理しておこう。
 一つは、ある状況での一般的な心情を推測しているだけだからである。家族との別れ、間違いをした後、物事が上手くいかない時、孤独な様……といった状況の中で、どのような思いを持つのかを考えるのである。それゆえ、別れは寂しくつらいもの、父親は子の成長を願うもの……といった決まり切った心情が、いくらか言葉を換えて出されるだけとなる。
 二つ目に、状況から心情を考えるがゆえに、作品の表現に着目することが弱くなる。いや作品の表現を問題にしないことの方が多い。したがって、言葉や表現を根拠に考えることから遠ざかってゆく。そうなればなるほど、言葉を教えることから遠ざかり、道徳になってゆく。
 三つ目に、表現に根拠をもたないがゆえに、好き勝手なことを言い合うだけの場となっていく。根拠を持たないのだから、その意見が良い悪いの判断もできない。下手をすれば、好き勝手なことでも出せる方が、積極的・意欲的であるという評価につながりかねない。「国語は答えのない教科」といわれる所以は、このようなところにもある。
 子どもが「国語が苦手な理由」として、ネットに以下のような説明があった。

 国語が苦手な理由① 文章を読んだ後、何を考えればいいのかがわからない長い文章を読んだ後に、「~をしたときの、〇〇(登場人物)の気持ちを考えましょう」というような活動が学校の授業ではされます。教科書にも書かれていて、先生にも問いかけられるので、「〇〇は悲しんでいます」「明るく元気な気持ちです」のように子どもたちは答えていきます。
一見すると、聞かれた質問に正しく答えているので、国語の学習が適切に行われているように思えますが、このような場合、多くの子どもたちは「結局なにを考えて、なにができるようになればいいのか」を理解せずに学習を終えているケースが多いです。
新しい学習指導要領でも重視されているように、「なにができるようになるのか」という「国語の資質や能力」を伸ばすためには、ただ自然に活動しているだけでは身に付きません。この場面でいう「登場人物の気持ちを考えましょう」という活動が、「なんのためにしているのか」が子どもたちのなかで明確にならないと、ただただ文章を読むだけになり、結果的に国語の力が付かないので子どもたちは国語に苦手意識を持ってしまいがちです。 

国語が苦手になる理由は?小中学生がつまずく原因とは?|中学受験教育ナビコ (kusuwara.com)

 「登場人物の気持ちを考えましょう」という心情を読む活動が、子どもたちの中で「なんのためにしているのか」明確にならないといけないと言うが、もともと明確になるものではない。なぜなら心情を読むこと(より正確には、読むのではなく推測しているに過ぎないのだが)を目的化しているからである。そして、子どもたちから出された「心情」をただ受け入れるだけで、たくさん読めましたねと評価して終わる。子どもたちからすれば、何がよかったのかもはっきりしなければ、何を学んでいるかもよく分からない授業となる。
 心情を考える読みの多くが、作品の言葉や表現の解析に向かわず、ある状況に置ける心情を推測するだけのものになっているのである。国語は、言葉を教える教科である。母語としての日本語の力を育て鍛えるところにこそ、国語科の最大の責任がある。そのためには、物語の中の言葉・表現にこだわって読むことがなされなくてはならない。
 大久保忠利氏が述べられた国語科の本質規定を改めて確認しておこう。
 
日本の子どもたちにとって、日本語の知識と能力こそ、その全面発達を支え・うながす基本的な要素をなすものである。国語科は、この知識・能力の高めに中心的に責任を負うべき教科である。

 最後に、宇佐美寛先生(「先生」とお呼びするのが、私にはしっくりくる)の書かれたものから引用させていただく。 

 「一つの花」に、次の文がある。「お父さんは、それを見て、にっこりわらうと、何も言わずに汽車に乗っていってしまいました。ゆみ子のにぎっている一つの花を見つめながら――。」
 教師は発問した。「お父さんは、この時何と言いたかったのだろう。」「もし、みんなが、このお父さんだったら、何と言っただろう。」
 この種の発問は、確実に学習者の意識を教材文から遊離させる。「にっこりわらうと、何も言わずに」と教材文に書いてあるではないか。
 子どもたちは、次々に答える。「二人とも元気でね。」「お父さんがいなくても、いい子になるんだよ。」「帰ってくるからね。」……
 このように答えるためには、教材文を丹念に正確に読むことは必要ではない。学習者の目と心は教科書を離れる。この話し合いのためには、教材文の大まかな印象さえあればいいのだから、教科書は不要になってしまう。
 あのプラットホームで「にっこり」わらい「何も言わ」ぬ父の思いを、このような粗雑な言葉で語るのは無残であり冒涜的である。正確に朗読すること、特に的確な表現読みをすることが出来ない子どもも多いところで、このような教科書不要のやりとりが行われているのである。

宇佐美寛『国語科授業批判』明治図書 1986年 p208~

  私がこの文章で述べようとしたことが、簡潔に述べられている。今から38年前の文章である。残念ながら、国語教育は未だに宇佐美先生の指摘を乗り越えることができていない。

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