准后道興と大石信濃守館

東国の山伏と修験寺院


『日高の鎌倉街道史話』 
横田八郎著 昭和62年
 


 
 
 
 
埼玉県日高市高萩地区には日本史研究に衝撃を与える遺跡がゴロゴロと無造作に転がっているから、驚きの連続である。
長年、日高市の文化財保存活動に尽力された横田八郎氏の編纂による「日高の鎌倉街道史話」24頁(S62年発行)の記述を再顕彰し考察を開始しました。結果、驚くべき真実が浮かび上がってきた。これも横田八郎氏の功績でしょう。感謝する次第である。
 
(一) 駒形山堂記(1)
(1) の日高市不動尊(仮称)の顔の記録
以下、駒形山堂記(一)(『日高の鎌倉街道史話』24頁)より引用。
江都の西、高麗郡高萩村駒形山は優婆塞(うばそく)修験の道場なり、山堂あり不動明王の像をおく、
伝えて曰く、役小角、一たび此地を過ぎ、其地霊を知る。
因みて法験を以て祈って真形を見る。
其貌(かお)を模刻し、萩草を用いて一宇を結んて之をおく、
而(しこう)して四百有余年を歴して退転に因(ちな)みて山僧高岳、高弁両師之を中興し、弥勒寺又は高萩院萩原堂と号す。其肇(はじめ)より今に到る千有余年、幸に之(これ)をあおぎみれば、即ち幽厳然真に在るが如き
・活眠(かつがん):両眼を見開き
・隆鼻(び):鼻は高く
・火口(かこう):力を入れて開いた口、歯ぐきが赤く火山の火口のごとく
・銃牙(がんが):左右の歯は鋭く飛び出している
火えん烈々、剣光爛々、怖るべく畏(かしこ)むべし、
嘗て天平勝宝中、釈良弁、小角刻む所の像を以て之を崇め、帖中の秘となす。
別に自ら一謳を刻んで之を帖前に置く、亦厳然真(げんぜんしん)に在るか如し。又堂の南三百歩を行けば、竹樹うつそう中に神宮あり
 
(2)国立博物館不動明王像(下図):日高市不動尊の記述似の像
「高萩不動尊」が役小角および天平勝宝年間となれば、「弘法大師空海説」はあやしくなってくる。日本最古級の不動明王かどうかの問題だが、実物の存在の有無に関係なく、この記述は、実物を見ないでは書けない内容である。第一級の価値ある記述である考えられる。
 

(3) 弘法大師以降の不動明王像:日高市不動尊の記述と異なる像
弘法大師以降の真言密教系の不動明王の像容;(国立博物館提供写真)
弘法大師以降の真言密教系の不動明王の像容は、背の低い、ちょっと太めの童子型の造形が多く、怒りの表情をしている。
・目は天地眼(てんちげん):右目を天に向けて左目を地に向けている。
・口は牙上下出:右の牙を上に出して左の牙を下に出している。


(4) さいたま文庫・37 「高麗聖天院」(*)(高麗山聖天院パンフレット)
 



・日高市聖天院の不動明王坐像の顔の特徴(高麗山聖天院パンフレット、11頁)

高麗山聖天院パンフレット
上の写真は高麗山聖天院の不動明王
弘法大師以降の真言密教系の不動明王で比較的新しいものである。
・目は天地眼(てんちげん):右目は天に、左目は地に向く。
・口は牙上下出:右の牙を上に出して左の牙を下に出している。 

 ①     貞和(北朝暦)年間(1345~1350)、南北朝時代:中興第一世秀海上人による中興開山、真言宗。北朝暦であるから足利尊氏による寄進である。南朝方の痕跡が微塵もないということが重要である。
 ② 天正11年(1584):第二十五世圓眞上人、不動明王に改められたとの記述。天正11年は小田原北条氏の治世である。銘札には天正8年(1580)4月に法眼大蔵長盛が造立と明記。聖天院の不動明王像は小田原北条氏の寄進によるものであることがわかる。 
(*)高麗山聖天院勝楽寺世代(書き)の矛盾?
『高麗山聖天院勝楽寺世代(書き)』は何か怪しいと直感したが、やはり印象操作の域をでないシロモノでした。要するに、後世、特に明治以降のビジネスツールに過ぎなかった。歴史の真実は、南北朝時代の足利尊氏による中興開山と戦国時代末の小田原北条氏の寄進により隆盛の歴史が明かになったのである。
①中興開山:貞和年間(1345年~1350年)
 この時代は北朝の足利将軍の実行支配の時代、後醍醐天皇は亡くなっている。一方、尊氏の方は必要に迫られ天龍寺など寺社仏閣の寄進と支配に心血を注いでいる時期である。位相は一致。
②本尊不動明王寄進:天正八年(1580年)
小田原北条氏による善政の時代で市と共に寺社仏閣への多額の寄進が際立つ時代である。小田原北条氏の寄進による寺社仏閣が多く残っている関東平野、武蔵国、特に日高市。
徳川幕府は、小田原北条氏の善政は煙たかったでしょう。因みに、台の岡上家は三代め辺りで弾圧された。
②     明治からの受難の歴史:
足利尊氏の足跡はことごとく封印された。こうした意図的な歴史改竄の上に無理やり高麗氏なんちゃらカンチャラ、おチャラケ史が登場したわけです。



(二) 駒形山堂記横田八郎著  『日高の鎌倉街道史話』 (P24~P26)
【駒形山堂記』
江都の西、高麗郡高萩村駒形山は優婆塞(うばそく)修験の道場なり、山堂あり不動明王の像をおく、伝えて曰く、役小角、一たび此地を過ぎ、其地霊を知る。因みて法験を以て祈って真形を見る。其貌(かお)を模刻し、萩草を用いて一宇を結んて之をおく、而(しこう)して四百有余年を歴して退転に因(ちな)みて山僧高岳、高弁両師之を中興し、弥勒寺又は高萩院萩と号す。
其肇(はじめ)より今に到る千有余年、幸に之(これ)をあおぎみれば、
即ち幽厳然真に在るが如き
・活眠(かつがん):両眼を見開き
・隆鼻(び):鼻は高く
・火口(かこう):力を入れて開いた口、歯ぐきが赤く見えて火山の火口のごとく
・銃牙(がんが):左右の歯は鋭く飛び出している
火えん烈々、剣光爛々、怖るべく畏(かしこ)むべし、
嘗て天平勝宝中、釈良弁、小角刻む所の像を以て之を崇め、帖中の秘となす。別に自ら一謳を刻んで之を帖前に置く、亦厳然真(げんぜんしん)に在るか如し。又堂の南三百歩を行けば、竹樹うつそう中に神宮あり。
神祇社と称す。天神地祇と日本武尊を合祀す、伝えて曰く、古、尊東征してこの地を過ぎ、山に登って一祠を立て功を神祇に祈ると。物換り星移り、欽明の御世丙寅(ひのえとら)の歳に至り、郷民、尊を崇めて合祀す、然るに元弘年中に至り、源中将義貞兵を東方に挙げ、勝利を此神に祈り日ならずして強敵を亡ぼす、後又永享年中、源将軍義教、敵を討って勝を此神に祈り、亦日ならずし凱歌を奏す。当に斯れ間をあくる戦の餘り、郷党民屋、神廟仏奇尽く兵火の難にかかって、ひとり灰燼の害を免るるは、将軍勝を祈るの功に因るなり、ここに於てか、其の宝鑑を伝えてその祭典に供うると云う。且つ夫々本宮六社之を駒形山高萩いた権現と統称す、すべて山中経る処奇多し。
小角験を見(あらわ)せし跡なり、千手堂は行基霊を止し処なり、松々天婦の美あり、名流脱苦の恵あり、嶺秀で、水清く、草木暢茂(ちょうも)するを称して、逸してすむべく、龍わだかまって潜むべし、意(おも)うに衝人山を買い、隠士高臥(いんしこうふ)するは、豈独り艶嶺東山のみならんや。
明王閣に題す
明王皇閣翠微の中焙気雲に接して
半空に横たわる影流に溯ってこう没す
悌声飛姻71して鳳らんむらがる
松問遥かに捲く採級の握111上高くかかる
素月の弓暫らく誠心に住って寂渓に舛す
妥に脱両をうかぺて深宮に下る
右記文一篇井詩一律
    弐西隠客勝徹明子環謹述且題
 

 
 
(三)箱根山御領属高萩駒形之宮二所之檀那之事 『日高の鎌倉街道史話』 (P27)
右彼柏那等豊川阿閣梨可有引導候、請用物三分二者堂島造之時計、三分一者高萩駒形之宮之時計、又細々之所禱之事道先達土用極月祈禱等之事者、豊前阿閣梨に申定候専越候、此檀那者いつかたに候共行満坊はからいたるへ<候、仍譲渡状如件、
文安元年甲子十二月十三日
山本大坊 法印栄円 (花押)
この文書は、文安元年(1444)越生の山本坊栄円が高萩の駒形之宮二所の旦那引所蔵(祭祀職)を行満坊豊前阿闊梨に譲渡すると云う内容である。駒形之宮ニケ所とは、駒形山は優姿塞修験の道場なりとある如く、また、竹樹うつそう中に神宮あり、神祇社と称すると記にあるがあるいはそれをさすものか。
 

 
(四)高萩院の歴史
 
1.棟札:長寛2年(1164)の棟札『日高の鎌倉街道史話』(P28~P30)
皇統七十八世二條院御宇長寛二甲申(1164)年卜本堂棟札等ニ記有之
 
(1)長寛二年(1164)の主な出来事
・8月:崇徳法皇没(46)
9月:清盛以下平氏一門、法華経を書写し、厳島神社に奉納(平家納経)
12月:平清盛、御白河上皇の命により蓮華王院を造営し、その功により、子重盛、正三位に叙される。
 
(2)蓮華王院(三十三間堂)HPより引用
『久寿2年(1155)、第77代天皇として即位した後白河天皇は、わずか3年で二条天皇に位を譲って以後、上皇として「院政」をおこないました。
三十三間堂は、その御所に長寛2年(1164)造営されましたが、80年後に焼失し、まもなく後嵯峨上皇によって再建されました。
その後も手厚く護持され、室町期・足利第六代将軍義教により本格的な修復がおこなわれました。彼は仏門に入って、比叡山・天台座主を勤め、京洛の禅寺に修理の寄付勧進を命じて、屋根瓦の葺き替えをはじめ、中尊・千体仏など内外両面の整備をおこないました。』
 
 
2.高萩院の記録
(1)新編武蔵野風土記稿 「高萩院」の項
駒形山彌勒寺萩之坊と号す。本山派修験、聖護院の末寺なり、本尊不動神變菩薩(行基)の作、木の立像長七寸(21cm)、法流開祖大僧正行尊なり、寺記に曰、當山者、宗祖神變菩薩修行の足跡にて、本尊不動明王は神變菩薩の作りし長七寸のぞうなりと、又言い伝えでは、
人皇(神武天皇以後の天皇のこと)74代鳥羽院御宇、永久年中(1113~1118)、
前(さきの)大僧正行尊(1055~1135)が諸国遊歴の時、こゝに高安と云うものあり、
行尊に従い法を学び名を行安と改む。行安又法を高岳に授く。
 
人皇78世二条院御宇、長寛年中(1163~1165)、高岳一宇を建立して、
駒形山弥勒寺高萩院と號し、祖師の遺跡を新たにせりと、因って高岳僧都を開山と稱す。
 
又、法流元祖者、大僧正行尊導師なり、行尊は京都聖護院宮第二祖にて、諸国名山霊地修行し給いしとなり、行尊師は諫義(諫言)大夫源基平(1026~1064)の子にて、仏法を信じ、發心(はっしん)出家して頭陀(ずだ)を好みたまいしこと読書に顯然(けんぜん)たりしなり。
 
 
(2)『日高の鎌倉街道史話』(P28~P30) 
① 由緒
  武州高麗郡高萩郷駒形山者傳云
往古高祖役小角諸国霊山修行ノ砌(みぎり)此地ノ霊十八ヲ知召錫ヲ留メテ 以法験不動明王ノ真形ヲ祈現シ 其貌ヲ模刻シ 結一宇安置シ玉ヒ 
其後歴四百有余年退轉ス 此地者高祖修行ノ霊地ナル故 行尊當山ヲ修行玉シ 爰(ここ)ニ高安卜云者有リ 常ニ佛乖ヲ信仰シ 行尊順国ヲ幸トメ 帰依随身シ 法学名ヲ改テ行安卜号ス
當山ヨリ二町程南 行安山ト云有 當寺中興開山高岳 行安ニ随身シテ法ヲ学ヒ新ニ結一宇号弥勒寺干時
 
②世代書き
開山 高岳 寿水元壬寅年(1182)正月廿八日人滅 (後白河上皇)
二世 高絣 貞永元壬辰年(1232)正月十五日人滅 (後白河・後鳥羽上皇)
三世 高原 文永三丙寅年(1266)十月七日歸寂 (後嵯峨上皇)
四世 高尊 嘉元二甲辰年(1304)四月五日示寂 (亀山上皇)
五世 高和 延元元庚辰年(1336)三月六日示寂 (延元は南朝年号?)(北朝は建武3年)
六世 高寛 貞治四乙己年(1365)七月十九日寂 (北朝年号)
七世 高盛 應氷十八辛卯年(1411)七月廿日寂 (足利義持将軍)
八世 良泉 文安三丙寅年(1446)五月六日寂 (足利義持・義重・義教)
九世 良以 長禄元丁丑年(1457)八月廿九日寂  (足利義勝・義成・義政)
十世 高長 文明十七乙已年(1485)八月廿九日寂 (足利義尚・応仁の乱・享徳の乱)
十一世 良輝 永正七庚已年(1510)年正月十八日寂 (足利義高)
十二世 良顕 弘治二丙辰年(1556)四月二日寂 (足利義輝・義昭)
十三世 良嘉 天正五丁丑年(1577)十一月十六日寂(足利義昭・)
十四世 良慶 元和四戊午年(1618)十一月一日寂 (後陽成天皇)⇒(徳川家康・秀忠)
奥川ヲ徳川卜改姓シケル人太鼓打方ヲ止ニ行
十五世 良源 慶安二已丑年(1649)六月廿日寂  (家光)
 
‥‥‥‥‥新田の系図を徳川文庫から‥‥‥‥
十六世 良海 宝永五戊子年(1708)六月十五日寂 (綱吉)
十七世 良榮 宝暦二壬甲年(1752)二月十五日寂 (家重)
十八世 良快 明和四丁亥年(1767)正月十六日寂 (家治)
十九世 良寛 隠居在世
廿世 教寛 當在
右當寺 由来幷世代記録改 相違無御座候以上
天明七丁未年(1787)三月  (家治・家斉)天明3年浅間山噴火、
 駒形山 高萩院
 
 
 
(三) 高萩院文書
 

 
准后道興
 
一 『廻国雑記』: 道興、武藏国を行く
 
 
 
 

 
 
二 大石信濃守と観応の擾乱(南一揆との関係)
 
永山諏訪神社(東京都多摩市諏訪1丁目)。
永山諏訪神社は、室町時代に武蔵国守護代で由井城主の大石信濃守顕重(おおいし しなののかみ あきしげ)が諏訪大社(長野県諏訪市・茅野市・下諏訪町)を勧請し、大風除けの守護神として崇敬されたと伝わります。
 
永山駅周辺は由井領(国衆大石氏の領国)に含まれ、戦国時代の1559(永禄2)年11月には、北条氏照(北条氏康三男)が養子縁組の形で大石氏の家督を譲られ、氏照の奉行人として付けられた家老の狩野泰光(かのうやすみつ)らが由井領の支配を行いました。その後、大石氏の被官は北条氏照の軍団に編入され、1590(天正18)年7月24日の八王子城合戦で北条氏と運命を共にしています。
 
永山諏訪神社は、江戸時代には連光村の真言宗豊山派寺院の医王山 薬王寺(東京都多摩市諏訪3丁目、現在は廃寺)が別当寺として祭祀を司りました。

大石信濃守:
「高月城」山岳信仰と高月城
 
享徳3年(1454)、鎌倉の公方であった足利成氏(しげうじ)は、関東管領(本来は公方の補佐役)の上杉憲忠を鎌倉の成氏屋敷に呼び出され、殺害されてしまった。これによって足利氏と上杉氏との対立抗争は本格的に発展した(享徳の乱)。幕府(京)は、今川範忠を成氏討伐に派遣。もともと京の幕府と鎌倉府は対立関係にあって上杉氏を後押ししていた。成氏は鎌倉御所から江ノ島に移り、さらに、下総(茨城県)の古河に拠点を移した。このため、成氏のことを古河公方とも呼ぶ。上杉方は五十子(いか大岳山こ埼玉県)に陣を構え、利根川を挟んで公方と上杉氏はにらみ合いの形となった。この対立によって上杉配下にあった武蔵地方では盛んに城郭構築が行われた。北武蔵の名城と言われるような城もその多くは、この時期と重なるようである。
「大石系図」には、長禄2年(1458)3月1811、高月に移り居住したとある。どこからか移ってきたのかは記されていない。大石顕重(あきしげ)が高月城を築いたとされる長禄2年の頃は、両上杉氏が勢力争いを演じている時期だった。扇谷上杉氏の重臣だった太田道灌は、勢いを増して川越城(埼玉叫)を強化していた。山内上杉氏もこれに連動するかのように、配下の大石氏に対しても高月城の構築を命じたものと思われる。
高月の地が選ばれた理由は、鎌食道の渡河地点にあったことが上げられる。秋川を渡河すると、二宮から青梅に至り、さらに、秋父方皆野から上州(群馬県)に細く脇往還道が存在していた。上州の白井城(北群馬郡)は山内上杉氏の本拠地であり、そこは越後方面と武蔵方面をつなぐ要衝でもあった。鎌倉道は高月城と白井城とを結ぶ役日を果たしていた。
高月城にはもともと御岳神社があり、滝山城を築くときに移したという伝承がある。『風土記』
の記述なので何ともいえないが、大石氏が山岳信仰と深く関わっていたことは確かである。
同じ大石氏の城であった埼玉県志木の引又城は十玉坊があり、また浄福寺城には千手観音が祀られている。さらに、大石氏は修験の名家とも婚因関係を結んでいたし、定久(道俊か)の法名は英
厳道俊で、金峰山永林寺本願となっている。金峰山は吉野金峰山のことであり、御岳蔵王権現信
仰はここからきていた。
その大石氏と山岳信仰の深い関係を継承したのが氏照ということになる。氏照がやってくる以
前から、大石領は山岳信仰関係一色だった。地域に古くから定着していた信仰を氏照が継承して
いくのは在地支配において当然のことだった。
文明18年(1486)、山岳信仰の総本山、京都護院門跡道興准后は、修験に関わる盟地や館を訪ね廻っていた。このとき、大石信濃守の屋敷を訪ねたというのである。『風上記』などの地誌類は、その屋敷が高月城だったと言い伝えてきた。しかし、これには諸説があって断言できないが、高月城も山岳信仰と深く関わっていたことは確かである。
高月城は秋川に対して、舌状のごとく張り出していて、秋川の流れを大きく変えている。ちょうどその場が広い湖のような景観になる。ここを「秋之洲」と呼んでいるのも頷ける。そして、湖状態の天空に眺糾するのが大岳山である。大岳山は御岳山の奥の院とも言われ、やはり、山岳信仰の聖山だった。高月城以前にはこの地に修験坊があったという言い伝えがあるが、景観を考慮すれば山岳信仰の聖山を遥拝する地として、それも自然な事だったと思われる。
 
「高月城下集落」
鎌倉道(脇往還道)は城下中里の中央を通って秋川に向かう。「里」はもともと多くの人たちが寄り集まっている集落を意味する。渡河地点の中里集落が城下集落である根小屋に相当する。家臣たちの中には屋敷地を与えられ、常駐していた者もいただろう。『土地法典』を参考にすると、中里集落にはブロック状地割りが多く、道筋も地元の歴史研究家沢井栄氏が指摘されたように、カネ折れ(直角になった道)がいくつか認められ(広報「加住」19号)、城と同様に防衛機能を備えた空間だったようだ。ここは滝山城の内宿に相当し、城と一体化した家臣居住区である。
一方、土地法典を見る限りでは、高月城下には短冊型地割りらしきものは認められない。この
ことから、外宿としての商業的な町場を求めるとすれば、鎌倉道と南北につながっていた秋川対
岸の二宮の地ではなかろうか。二宮は、二宮明神の門前として古くから発展していた町場だった。現在、鎌倉道は、円通寺の前で大きく方向を変え、やがて中里の中央を通って渡河地点へと向かう。中里の中央に正八幡宮(八幡神社)があり、高月村の村社となっている。地誌類は、この宮にかつては大きな槻の木があり、そこから高い槻、高槻(たかつき)になったとしている。しかし、円通寺の造営のときに槻は伐採して本堂、庫裡(くり)の川材にしたという。八幡宮の社内には板碑があり、板碑の上部には弥陀の梵字、その下に貞和5年(l349)と刻まれ、弥陀八幡を祀り本地として碑石を造立したと伝えている。円通寺は観音院とも称することから、山岳信仰と深い関わりがある寺院であったことがわかる。寺には人石氏奉納の木面三つがあったそうだ。また、境内の墳墓にも古碑があって元弘2年(1332)の銘が記されていたという。
高月城はこれだけでは終わらない。殿沢(大火殿沢)を越えた南方の蜂も無視できないのである。というのは、殿沢には明らかに人工の土塁が残っていて、南方の峰に行く虎口(出人り口)を形成していた。つまり、南方の峰も城郭の一部だったのである。視在そこの一部は工場の敷地になっているが、高槻城を見下ろす高台になっている。高月城でもっとも安全な場所が南側の蜂だった。領主はこうした安全性の闘い空間は避難場所として聞放していただろう。峰は平坦になっていて土塁とか堀といったものは何もないが、高月城の裏側という安令性に恵まれている。現在、殿沢は残土堆積地と化し、当時の景観は全く失われている。かつては殿沢からも水が流れ、その一部は溝になっていた。高月城も避難場所や水源の確保といった公的な空間が、私的空問の中に併存していた。

 
 
 
 
 
行尊、大僧正
 
 
 

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