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日高市中世資料編



日高市中世資料編(前) 

「観応の擾乱」関連編年史料抜粋

勝軍地蔵厨子 日高市新堀の霊巖寺
背後に榛名山神社の開運お札が見える
勝軍地蔵厨子 日高市新堀の霊巖寺
勝軍地蔵は足利尊氏の守り本尊である。霊巖寺は日高市新堀、この場所は観応の擾乱の最終決戦場で、足利尊氏が南朝に勝利した歴史上の場所。この勝利の直後、尊氏は入間御所で東の政府をつくり、関東と東国の安定化政策を執り行った。足利尊氏にとっては、日高市新堀の霊巖寺は政権奪取を記念すべき場所、お隣の毛呂の苦林と共に顕彰すべきものだった。


正和元年(壬子 一三一二、三月二十日改元) 八月十八日、平忠綱(高麗忠綱)は、高麗郡大町の村三分の一・多西郡徳恒郷三分二・その他船木田庄木伐沢・鎌倉甘縄などの忠綱領を嫡子孫若に譲り渡す。幕府執権北条照時がこれに署名した。

61 高麗忠網譲状


〔昭和四十四年『第二回西武古書大即売展目録』、彦根城博物館保管彦根藩井伊家史料「高幡高震文書」〕
『日野市史資料集」所収

(裏書)(状)
「任比状可令領掌之□、依仰下知如件、
正和元年十二月廿八日相模守*在判」(*北条照時)

ゆつりわたす所領事、
ちゃくしまこわか(嫡子孫若)ゝ所に
一、武蔵国こまのくんふんおはまちの村三分いち、
一、同国たさいのこはりとくつねの郷忠綱か知行分三分二并ニふなきたの庄内きゝりさハのむら、 但、ふなきたの庄のきゝりさハにおきてハ、はゝいちこのうちしるへし、山ハ八幡の御前のゆさハをさかいとしてのほりに、ゆきハかしらを大つかみちのうゑのとゝをさかうて、みなみハゆきさかいをのはりにいけかやまさかいへ、にしハひらやまきかいを山のねをくたりに、動堂のまへゝおのみちさかいを八幡の御前をさかう、
一、かまくらあまなハのほくとたうのまへの屋地さんふん二、右、御けちをあいそえてゑいたいゆつりわたすところ也、したいてつきのせうもんハ、忠綱しさいを申所に忠助ふんしちのよし申あいた、ふせんのたんしやうのちうの奉行として案文をめし侯て、ふんしちしやうを申へきよし、そせうをいたすうへハ申給へきなり、又そりやうともさかいをたつへしといえとも、いたハりのあいた、まつふんけんをかきおく也、はゝのはからひにてさかいをたつへし、
一、やこうの又二郎よりくにのゆいりやう等のゆつりしやう 、まこわかにゆつる也、つのきゆうふの大輔殿のてにて、おっそを申うへハ、あいついて申給へ、給たらん時ハ、まこわかはからいとして、田七分かいちをさきいたして、はんふんをハまこいぬに、のこり五ふん三をまこわうに、又のこり三分二をまつやさこせんに、さんふんかいちをまついぬこせんに、わたすへし、いつれもゑいたいなり、のこるところハ、 一ゑんにまこわか知行すへし、二やまなの又二郎をハ、ち一大せんのしんにかへして
一、返事をとりたるなり、仍譲状如件、
正和元年八月十八日平息綱(花押)
写真5 高鷲息綱譲状写(彦根城博物館高幡高麗文書)

〔解説〕冒頭の裏書は、彦根城博物館保管彦根薄井伊家史料「高幡高麗文書」によって補う。なお、この裏書の一部の文字は、『目録』写真の表から確認できる。また「高幡高麗文書」では、末尾の花押は「在御判」とある(『日野市史史料集』高幡不動胎内文書編)。
この譲状は平忠綱が孫若に与えたもので、忠綱の子忠助への手継証文が紛失されたので訴訟の結果、孫への相続が認められたものである。忠綱の所領をみると、まず武蔵国高麗郡の中の大町の村(現川越市笠幡の大町)が挙げられている。次に忠綱の在所とみられる高幡のある多西郡(多摩郡西部)得恒郷・船木田庄に所領がある。このことから平忠綱は、高幡のあたりに在地しているが、本貫の地は高麗郡にある高麗氏の出身であろう。それを更に裏付けるものに、貞治四年(一三六五)の平重光打渡状(史料一四一)がある。これは忠綱譲状から五十三年後のものであるが、高幡郷を高麗三郎左衛門尉跡に打渡すため、三田蔵人大夫と平重光が彼地に行ってそれを施行したものである。つまり、高幡の地が高麗氏へ相伝されたとみられるのである。なお、この度、明らかにされた彦根城博物館保管彦根藩井伊家史料の「高幡高麗文書」には、忠綱譲状のほか、正平七年(一三五二)高麗助綱軍忠状、康暦二年(一三八〇)高麗師員軍忠状、応永二十四年(一四一七)高麗範具申状など、一連の高麗氏文書があることなどから、高幡郷の平氏は平姓の高麗氏であるとの見方をとっている(『日野市史史料集』高幡不動胎内文書編)。
大町は現在笠幡の中の一小字になっているが、大町だけで鏡神社を土産神としている。この土産神は古くはもっと南(前大町)にあったが、明治初年現在地(前大町)に移った。この神社を中心に二百十日のお日待ち (九月一日)は大町の盛大な行事となっている(『埼玉の神社』)。大町は南小畔川と北小畔川の低地にあり大きく水田地帯が開けているところであることが地名の起りと考えていいだろう。大町の上流は台地が張り出し、そこが笠幡の新町(三島日光社)・山伝(御嶽社)・倉ケ谷戸 (箱根神社)・協栄(八坂神社)・本町(浅間社)・西部 (金比羅)・芳地戸(尾崎神社、同社円鏡に「高寛郡笠幡郷尾崎天文二十年」の銘がある)などの小字と(鎮守)がある。尾崎神社は笠幡地区の総鎮守といわれているが (『埼玉の神社』)、大町がその中に入っていたかどうか不明。位置的には、大町の水田地帯(南・北小畔川)を隔てた東に大町集落があり、大町集落は古代東山道の駅家跡(川越市的場・八幡前・若宮追跡)に隣接している。この関係で古くから開けた地域と考えることができる。一方、中世高麗氏が小畔川低地の水田地帯を高麗郷からしだいに東下して、ここが再開癸され明治前期までの高麗郡を形成したのであろう。高麗氏の発展を知る重要な史料である。

正和三年(甲寅 一三一四)八月八日 結縁者による逆修供養の板碑(市内最大)が、原宿四本木に建てられた。

62 正和三年甲寅銘の板碑

 
所在地 原宿47 四本木路傍
光明遍照 「右志者為父母師長七世四恩并現」
十方世界 「在道□□□以衆二十二人惣□□寸」
      第二
主尊・銘 弥陀1・正和三年甲寅八月八日時正
      敬白
念仏衆生 「本一金半尋可奇助力結縁者往生」
摂取不捨 「極楽乃至法界平等利益道修如件」
高さ 二六六センチ

写真6 正和三年銘の板碑 (原宿)
備考 市指定文化財。日高市最大の板碑。昭和五十六年教育委員会は管理上、旧位置から東南に二メートル移動した。その記録によると脚部は地 下約五〇センチあり、概ね円弧形に作られた。

63 正和四年(乙卯 一三一五)、正 和 (一三一二~一六)銘)の板碑三基


所在地  下大谷沢 松葉(大河原家)
主尊・銘 弥陀3・正和四乙卯六月十三日
(光明真言)
高さ 一尺二寸(清水嘉作氏調査)

所在地 台18 大沢(新井定重家)
主尊・銘 釈迦 1・正和□年十月□日
高さ 三九・五センチ

所在地 新堀38 新井法恩寺墓地
主尊・銘 弥陀3・正和〈欠〉
高さ 四八・七センチ

64 文保元年(丁巳 一三一七)銘の板碑


所在地  北平沢60 中居(西島雅行家)
主尊・銘 釈迦1・文保元年七月 日(欠)
高さ 三八センチ

六五 文保二年(戊午 一三二八)銘の板碑三基
所在地 原宿47 四本木路傍
光明遍照       
十方世界 
 「沙弥西阿」    
主尊・銘 弥陀1・ 文保二年戊午十一月廿五日
 「為逆修也」     
念仏衆生
摂取不捨
高さ 六四センチ

所在地 原宿49 向方 広長寺墓地
主尊・銘  釈迦1・ 文保二年 〈欠〉
高さ 二三センチ

所在地 北平沢60  中居西(島雅行家)
主尊・銘  釈迦1 文保二年七月冊日
高さ 五七・五センチ

六六 元応元年(己未 一三一九)銘の板碑二基
所在地 高麗本郷12  市原(高麗川沿い)墓地
主尊・銘 弥陀1・ 元応元年  
高さ 四六・五センチ

所在地 高萩100 谷津 谷雲寺
主尊・銘 弥陀3・ 元応元年六月廿三日
高さ 一一四・八センチ

元応二年(庚申 三三〇)中村光時後家尼光阿の亡息
中村家政の遺領秩父郡三山郷小鹿野の屋敷等を、音阿
の養子の丹治孫一丸に譲り渡す。
六七 尼音阿譲状〔中村文書〕埼玉県史資料編5所収
ゆつりわたす所りやう(領)の事、
やうし(養子)丹治孫一丸
  
一むさしのくにちゝふのこほり(秩父郡)三山のかうおかの(小鹿野)ゝわたのやしき一所、中村かもさへもん(掃部左衛門)入道成願跡也、
一はりまのくに三方西中野村内田七たん廿歩、さいけ一う并御そのをの田三段事、
右、件の所々田島在家等ハ、中村右馬允こけ光阿所りやうなり、音阿かしそく 中村十郎いゑまさ(家政)にゆつりたふところに、いゑまき、 音阿にさきたちてしきよ(死去)の間、音阿ニ永代をかきりてたふ間、ちきやう無相違之処ニ、中村新三郎宗広薬師丸あふりやう(押領)するによって訴申ニつゐて、ゑのしたの次郎ふきやう(奉行)として、正和五年六月廿七日御下知ニあつかりて、たうちきやう無相違所也、こゝに丹治孫一丸、音阿かやうし(養子)として心さしあさからす、ふひんにおもひ候あひた、正和五年六月廿七日御下知あひそゑて、養子丹治孫一丸ニ永代をかきりてゆつりあたふるところ也、他のさまたけなく、ちきやうせられ候へく侯、よって為後証譲状如件、(押紙)
中村八郎後家
元応二年 かのゑ/さる     尼音阿(花押)

〔解説〕中村光時は丹党中村氏、播磨国(兵庫県)三方西へ地頭として移った光時の後家尼光阿の所領を、音阿の養子丹一族の孫一丸に譲った文書である。この中村氏は新補地頭として西遷した武士の一人であるが、秩父は本貫の地であった。嘉暦四年(一三二九)丹治時基は、播磨国三方西荘(兵庫県波賀町付近)において、備前長船派の景光・景政を招いて作刀、広峯神社(姫路市)に奉納している。

六八 元亨二年 (壬戌一三二二) 銘の板碑
所在地 高萩96 釘貫 高萩院跡
(光明真言)  毎月一八日
主尊・銘 弥陀3・元亨二年壬戌八月時正
(光明真言)  結衆廿五人
高さ 九七センチ

六九 元亨三年 (癸亥 一三二三) 銘の板碑
所在地 下大谷沢116 (道南)墓地(大河原福太郎家)
主尊・銘 弥陀1・元亨三年八月 日
高さ 五六センチ

七〇 元亨四年 (甲子 一三二四) 銘の板碑
所在地 大谷沢111 下墓地
(光明真言)
主尊・銘 (欠)  元亨四年甲子卯月十日
(光明真言
高さ 七四センチ

七一 正中二年(乙丑 一三二五)二月銘の板碑
所在地 新堀39 吹上霊巌寺墓地
主尊・銘 弥陀1・正中二年乙丑二月 欠 
高さ 四二センチ(細い二重枠線あり)

所在地 北平沢59 中居 墓地
主尊・銘 〈欠く〉1・正中(摩滅)
高さ 三〇センチ

七二 嘉暦二年(丁卯 一三二七)銘の板碑三基
所在地 清流28 清水 墓地(和田伊平家)
花押
主尊・銘〈欠〉3・嘉暦二年丁卯十月廿二日 敬白
花押
高さ 五二センチ
備考 上の欠けた部分に観音、勢至睡子とおもわれる一部が残り、弥陀三尊板碑であろう。

所在地 楡木42 東野 東光寺
主尊・銘(欠)3・嘉暦二年 欠 
高さ 二八・四センチ

所在地 高萩
主尊・銘 弥陀三尊・嘉暦二年十二月廿四日
高さ 一尺六寸七分(清水嘉作氏調査)

七三 嘉暦三年(戊辰 一三二八)銘の板碑四基
所在地 中沢宿方 正法寺境内
主尊・銘 弥陀3・嘉暦三年三月  日
高さ 八八センチ

所在地 楡木41 貝戸(林広次家)
主尊・銘 弥陀1・嘉暦三年戊辰六月廿   (欠)
高さ 三二センチ
備考 この当時、主尊に円光だけは珍。荒川西方板碑の影響か。

所在地 楡木41 貝戸(林広次家)
主尊・銘 弥陀1・嘉暦三年戊辰七月廿五日
高さ 八九センチ(細い二重枠線あり)

所在 億木43 東谷墓地 (新井日出男家)
主尊銘 大日1(金剛界)・嘉暦三年五月一日
高さ 六四・五センチ

七四 嘉暦四年(己巳 一三二九)銘の板碑
所在地 梅原20 町並(森田豊家)
主尊銘 弥陀3・嘉暦「ニ+ニ」(四)己巳二月 日
高さ 六一センチ
備考 伝、高萩公民館北方出土。

元徳二年 (庚午 一三三〇)六月二十三日 幕府は小代伊行の活却した入西部小代郷国延名田畠を加治時直妻藤原氏に領掌させる
七五 関東下知状写〔報恩寺年譜二〕埼玉県史賛料編7所収
加治又次郎時直妻藤原氏申武蔵国人西郡小代郷国延名内田畑(名字坪付/載沽券)事、
右、小代馬次郎伊行正中二年三月十日田八段、嘉暦三年七月十七日田壱町壱段・穂町小・畠壱町、同十二月廿二日田壱町壱段・穂町壱所、同四年三月二日田弐段・沼壱所、以六通証文売与訖、可賜御下知之由依由、遣召符之処、如去年十二月十一日請文者、放券条無相違云云、且当村為私領之旨、前々事旧託(訖?)、 然則於彼田島等者、以藤原氏可令領掌、次公事間事、子細於雖(いえども)載証文、有無宜依先例者、依鎌倉殿仰(守邦親王)、下知如件、証文/有別
元徳二年六月廿三日   相模守平朝臣(赤橋守時)  在判

〔解説〕小代氏は児玉党の武士。児玉党は藤原氏の出とされるが、遠峯から有道氏を名乗る。次の弘行から入西氏(餐行)が出て、資行の子遠広が小代郷(現東松山市)に住んで小代氏を称した。国延名は名田であるが、所在については不明、加治時直についても世系不明だが、加治家李の子孫助時の流れか。
file:///C:/Users/Yito/Downloads/kenkyuhokoku_2〇4_〇7.pdf
なおこのアドレスに、江戸時代の沽券と坪高に関する論文が掲載。

七六 票元徳二年(庚午一三三〇)銘の板碑二基

所在地 楡木41 貝戸(林広次家)
主尊・銘 弥陀1・元徳二年  (欠
高さ 三三・五センチ
備考 主尊は弥陀正体で荘厳なし。スマートな書風、同手が近隣にもある。

所在地 北平沢60 中居(西島雅行家)
主尊・銘 弥陀1・元徳二年  (欠)
高さ 三七・六センチチ

元弘元年 (辛末 一三三一、北朝は元徳三年)八月二十
四日、後醍醐天皇は京都を出て笠置山に龍城する。この報告により幕府は、北条陸奥守貞直以下の将士に上洛を命じる。九月には楠木正戊が挙兵、十月十五日、幕府軍はこれを四方から攻める。これら幕府軍の中に加治氏・安保氏・河越氏などの名が見られる。
七七 宅光明寺残篇〔光明寺文書第一] 『買料編集所収』

  • 大将軍

陸奥守遠江国(大仏貞直)、 武蔵右馬助伊勢国
遠江守尾張国(名越宗教)、 武蔵左近大夫将監美濃国
駿河左近大夫将監讃岐国、 足利宮内大輔三河国
足利上総三郎、
長沼越前権守淡路国、 宇都宮三河権守伊与国
佐々木源太左衛門尉備前国(加地)、
小笠原五郎阿波国
越州御手信濃国、 小山大夫判官一族
小田尾張権守一族、 結城七郎(親光)左衛門尉一族
武臥瑚酵i雛帥、 小笠原信濃入道一族
伊東大和入道一族、 宇佐美摂津前司一族
薩摩常陸前司一族、 安保左衛門入道一族
渋谷遠江権守一族、  河越参河入道一族
三浦若狭判官 ………………高坂山羽権守…………………
▢(佐)々木隠岐前司、 同備中前司
千葉太郎
勢多橋警固
佐々木近江前司、 同佐渡大夫判官入道
同十五日
②楠木城
一手東、自宇治至干大和道
陸奥守、  河越参河入
小山判官、 佐々木近江入道
佐々木備中前司、 千葉太郎
武田三郎、  小笠原彦五郎(貞宗)
諏訪祝、 高坂出羽権守
嶋津上総入道、 長崎四郎左衛門尉
大和弥六左衛門尉 安保左衛門入道
加治左衛門入道、 吉野執行
一手北、自八幡至干佐々良路、…………………
武蔵右馬助、 駿河八郎
千葉介、 長沼駿河権守
小田人々、 佐々木源太左衛門尉
伊東大和入道、 宇佐美摂津前司
薩摩常陸前司、 □野二郎左衛門尉
湯浅人々 、 和泉国軍勢
一手西南自山崎至干天王寺大路
江馬越前入道、 遠江前司
武田伊豆守、 三浦若狭判官
渋谷遠江権守、 狩野彦七左衛門尉
狩野介入道、 信膿国軍勢
一手伊賀路
足利治部大夫(高氏)、結城七郎左衛門尉
加藤丹後入道、 加藤左衛門尉                     
……………………………………………………………………
勝間田彦大郎入道、美濃軍勢、尾張軍勢
同十五日、
佐藤宮内左衛門尉自関東帰参、
同十六日、
中村弥二郎自関東帰参、

〔解説〕「光明寺残篇」は、伊勢市光明寺(臨済宗東福寺派、聖武天皇の勅願により創建)中興開山月波恵観の父結城宗広自筆の軍中日記である。といわれる古文書集である。現在、『群書類従』、「光明寺文書」に収録されたもので見ることができるが、『群書解題』によると、原本は同一筆者によって記されたものと考えられない、作者は不明であるが、原本が南北朝当時のものであること間違いなく、その史料価値は他書を凌駕しているという。以下の解説も同書によるところが大きい。ここに取り上げた①の大将軍というのは、幕府軍の動員計画における武将名で、その下に書かれている軍勢を率いて出陣が計画されたのである。佐々木源太左衛門尉は加治が本姓で、備前国の軍勢を率いた守護であったとみられる。丹党出身の安保氏、平氏出身の河越氏が一族を率いて幕府軍に編成されたことがわかる。②楠木城の記事は、元弘元年八月二十四日、後醍醐天皇が六波羅の幕府軍を避けて笠置山へ遷幸してから、十月の幕府軍の赤坂城(楠正戊の城)攻めまでが書かれた日記の中で、十月十五日の城攻めを四手に分けて行った幕府軍の部将が書き上げられている。加治左衛門入道・安保左衛門入道・河越参河入道等が東、即ち宇治から大和に向かう道から攻めたのである。
二十一日赤坂城は陥落した。

七八 天元徳三年・元弘元年(辛未一三三一、八月九日南朝は改元して元弘元年)銘の板碑二基

所在地 楡木41 貝戸(林広次家)
主尊・銘 弥陀1・元徳三年八月▢▢ 
高さ 七八・五センチ

所在地 高萩100 谷津 谷雲寺
主尊・銘 釈迦1・元弘元年十一月▢日
高さ 五六センチ

七九 元徳四年(壬申 一三三二、この年四月改元して正慶元年となる。南朝は元弘二年)銘の板碑二基
所在地 高萩99 乙天神
主尊・銘 弥陀1・元徳四年壬申三月四日
高さ六九・三センチ

所在地 高萩 寺林
主尊・銘 弥陀1・ 正慶元年十月
(光明真言)
高さ一尺、上下を欠く (清水寡作氏調査)

元弘二年(壬中 一三三二、北朝は正慶元年)九月二十日、幕府は畿内西国に南朝軍が蜂起するとの報により、河越三河入道等の諸大名以下三〇万七千五〇〇余騎を上洛させる。
八〇 太平記〔巻第六関東大勢上洛事〕日本古典文学大系所収
去程二畿内西国ノ凶徒、日ヲ逐テ蜂起スル由、六彼羅ヨリ早馬ヲ立テ関東へ被注進。相模入道大ニ驚テ、サラバ討手ヲ指遣セトテ、相模守ノ一族、其外東八箇国ノ中ニ、可然大名共ヲ催シ立テ被差上、先一族ニハ、阿曽弾正少弼(中略)外様ノ人々ニハ、千葉大介(貞胤)・宇都宮三河守・小山判官・武田伊豆三郎・小笠原彦五郎・土岐伯者入道・筆名判官・三浦若狭五郎・千田太郎・城太宰大弐入道・佐々木隠岐前司・同備中守・結城七郎左衛門尉・小田常陸前司・長崎四郎左衛門尉・同九郎左衛門尉・長江弥六左衛門尉・長沼駿河守・渋谷遠江守・河越三河入道(円重・貞重)・工藤次郎左衛門高景・狩野七郎左衛門尉・伊東常陸前司・同大和入道・安藤藤内左衛門尉・宇佐美摂津前司・二階堂出羽入道・同下野判官・同常陸介・安保左衛門入道(道堪)・南部次郎・山城四郎左衛門尉・此等ヲ始トシテ、宗トノ大名百三十二人、都合其勢三十万七千五百余騎、九月廿日鎌倉ヲ立テ、十月八日先陣既ニ京都ニ着ケバ後陣ハ未ダ足柄・箱根ニ支へタリ。(中略) 去程ニ元弘三年正月晦日、諸国ノ軍勢八十万騎ヲ三手ニ分テ、吉野・赤坂・金剛山・三ツノ城へゾ被向ケル。(後略)

正慶二年(葵酉 一三三三、南朝は元弘三年)三月二十八日幕府は、曽我光頬の所領高麗郡東平沢、及び笠幡村内田地の安堵申請の訴えを請けて、高麗太郎次郎入道に下文などの備進を命じる。
八一 沙弥某奉書〔遠野南部文書〕東京大学史料編茶所妙写本所収
曽我左衛門太郎入道光称申、祖母尼蓮阿幷亡母尼慈照遺領、武蔵国高麗郡東平沢内、田畑屋敷、幷賀作汲(波?)多村内、田地等安堵事、申状具書如此、早備進彼御下文等、相伝之真偽、可支申之仁有無、以起請詞可被注申之状、依仰執権如件、
正慶二年三月廿八日
高麗太郎次郎入道殿     沙弥(花押)

〔解説〕曽我左衛門太郎入道光称は曽我光額のこと。尼蓮阿は高麗景実の娘土用弥御前のことで、石黒弥四郎頼綱の妻。尼慈照は土用弥御前の娘讃岐局のことで、曽我余一左衛門尉春光の妻(以上、系図参照)。賀作波多村は中世の笠幡村(現川越市笠幡)。高麗太郎次郎入道については、高麗景実の子左衝門太郎時寮の子か孫にあたる人物と思われるが、実名不詳。
宝治二年(二一四八)二月二八日付譲状は、高麗氏の庶子家高麗二郎左衛門尉景実が娘の土用弥御前に高麗郡東平沢の経塚屋敷及び田波目の田二段を譲与した譲状であった。これに「永代を限りて」とあり、この所領は石黒弥四郎頼綱の妻となった土用弥御前の女子讃岐局 (曽我余一左衛門尉妻)に伝領され、更にその子曽我左衛門太郎光頼(入道光称) へと相伝されたことがわかる。

写真7 沙弥某奉書(遠野南部文書)

元弘三年(葵酉 一三三三、北朝は正慶二年)五月九日、金子十郎左衛門尉僑弘・河越三河入道乗誓は、六波羅北方北条仲時他四三〇余名と共に、近江国馬場宿で合戦敗れて自害する。
八二 近江国番場宿蓮華寺過去帳〔『群書類従』第五百十四
敬白
陸波羅南北過去帳事
(前略) 
元弘三稔葵酉月七日、依京都合戦破、当君両院関東御下向之間、同九日、於近江国馬場宿米山麓一向堂前合戦、討死自害交名、荒々注文事、
(中略)
一向堂仏前自害
金子十郎左衛門尉儀弘、五十二才
川越参河入道乗誓、六十二才
同君党木戸三郎家保へ
(中略)
惣而於当寺討死、自害人数肆佰(400)三拾□人、雖然分明交名
不知輩者不住之云々、(以下略)

元弘三年(葵酉 一三三三) 五月十六日、新田義貞の軍勢は幕府軍と分倍河原で戦い、坂東八平氏・武蔵七党などの兵たちは三浦平六義勝の相模の軍勢と共に、幕府軍を攻撃して鎌倉へ追い込んだ。
八三 太平記〔巻第十三浦大多和合戦意見事〕埼玉県史資料編7所収
(前略)
明レバ五月十六日ノ寅刻ニ、三浦四万余騎ガ真前ニ進ソデ、分陪河原へ押寄ル、敵ノ陣近ク成マデ態卜旗ノ手ヲモ不下、時ノ声ヲモ不挙ケリ、是ハ敵ヲ出抜テ、手攻ノ勝負ヲ為決也、如案敵ハ前日数箇度ノ戦ニ人馬皆疲タリ、其上今敵可寄共不思懸ケレバ、馬ニ鞍ヲモ不置、物具ヲモ不取調、或ハ遊君ニ枕ヲ双テ帯紐ヲ解テ臥タル者モアリ、或ハ酒宴ニ酔ヲ被催テ、前後ヲ不知寝タル者モアリ、只一業所感ノ者共ガ招自滅不具、爰ニ寄手相近ヅクヲ見テ、河原面ニ陣ヲ取タル者、「只今面ヨリ旗ヲ巻テ、大勢ノ閑ニ馬ヲ打テ釆レバ、若敵ニテヤ有ラン、御安心候へ、」ト告クリケレバ、大将ヲ始テ、「サル事アリ、三浦大多和ガ相模国勢ヲ催テ、御方へ馳参ズルト間へシカバ、 一定参タリト覚ルゾ、懸ル目出度事コソナケレ、」トテ、驚者一人モナシ、只兎ニモ角ニモ、運命ノ尽ヌル程コソ浅猿ケレ、(中略)
去程ニ義貞、三浦ガ先懸ニ追スガフテ、十万余騎ヲ三手ニ分ケ、三方ヨリ推寄テ、同ク時ヲ作リケル、恵性 (北条奏家)時ノ声ニ驚テ、「馬ヨ物具ヨ」、ト周章騒処ヘ、義貞・義助ノ兵、縦横無尽ニ懸ケ立ル、三浦平六是ニ力ヲ得テ、江戸・豊嶋・葛西・河越、坂東ノ八平氏、武蔵ノ七党ヲ七手ニナシ、蜘手・輪達・十文字ニ、不余トゾ攻タリケル、四郎左近大夫入道(北条奏家)、大勢也トイへ共、三浦ガ一時ノ計ニ被破テ、落行勢ハ散々ニ、鎌倉ヲ指シテ引退ク、討ル、者ハ数ヲ不知、(後略)

八四 元弘三年 (癸酉 一三三三、北朝は正慶二年)銘板碑四基
所在地 東村山市諏訪町 徳蔵寺
飽間斎藤三郎藤原盛貞生年廿/六
(上欠)             勧進玖阿弥陀仏
於武州府中五月十五日令打死
主尊・銘 (光明真言) 元弘三年癸酉五月十五日敬白
同孫七家行廿三同死飽間孫三郎
執筆遍阿弥陀仏
定長丗五於相州村岡十八日討死
高さ 一〇一センチ

所在地  坂戸市森戸 大徳氏所蔵『坂戸市史』中世史料編Ⅱ所収
主尊・銘(上部欠) 元弘三年癸酉五月十八日
高さ 不明

所在地 入間市野田 円照寺
乾坤無卓孤筇地
只喜人空法亦空
主尊・銘 (大日3)元弘三年癸酉五月月廿二日道峯禅門
称重大元三尺釼
電光影裏析春風
高さ 一六七センチ

所在地 坂戸市仲町 永源寺『坂戸市史』中世史料編Ⅱ所収
(光明其言)
主尊・銘 元弘三年癸酉五月廿二日
(光明真言)
高さ 一二〇センチ

〔解説〕四基とも新田義貞挙兵から鎌倉幕府滅亡に至る二〇日間で、五月十五日の府中の戦い以後の戦いで戦死した者の供養として建てられたものである。太平記など戦記物語には記録のないところの戦いの部分を埋めている貴重な史料となっている。徳蔵寺の板碑には、「飽間斎藤三郎盛貞生年廿六、於武州府中五月十五日令打死、同孫七家行廿三同死」とあり、五月十五日の府中における合戦を伝えている。また、「飽間孫三郎定長廿五、於相州村岡、十八日討死」とあり、十八日には村岡で合戦があったことを証明している。この板碑はもと、久米村八国山将軍塚のあたりに立てられていたが、文化十年ころ徳蔵寺に移された。新田義貞が鎌倉勢と府中分倍河原の戦に敗れ、隣村久米川村に陣をひき、将軍塚に屯し、戦死した飽間斎藤氏のために、その地の時宗の僧をして石碑を建てたという(今立鉄雄『元弘の碑と徳蔵寺』)。
次に大徳氏蔵板碑について『坂戸市史』中世資料編Iは次のように書いている。「原所在地不明、五月十八日は鎌倉において大規模な市街戦が行われているさなかである。おそらくその戦いにおける戦死者の供養塔であろう。」
円照寺板碑は道峯禅門(加治二郎左衛門家貞)によって建てられた供養塔で、中国南宋の禅僧無学祖元(円覚寺開山)の詩文を偶としている禅宗風な板碑で、貴重な板碑といえる。この偏は「臨剣頒」といわれる撫学祖元の有名な詩文、祖元が堂内に聞入してきた元の兵に危く討たれるところ、この詩を述べた。元兵はその威容に打たれて立ち去った。「無常偶」や「光明真言」などによらず、「臨剣頒」をえらんだところに、北条氏と運命を共にした同族を供養する心情が表われている。
元弘三年(一三三三)五月二十二日は、鎌倉幕府が滅亡した日とされ、この日北条一門は御内人とともに葛西ケ谷の北条氏墓所のある東勝寺で自刃した。それ以前、新田義貞の軍勢は鎌倉幕府の北条軍と小手指原、久米河、分陪河原で戦っている。そして関戸の合戦で北条氏の滅亡は決定的となるが、入間川から小手指の合戦で幕府側の副大将として加治二郎左衛門入道の名がみられ、分倍の合戦で加治の名が『太平記』に見られる。これらのことから察せられるように、加治氏は北条氏の御内人となっていたようである。加治二郎左衛門入道は丹党系図上の家貞であろう(『新編埼玉県史』など)。加治氏の中でも多くの者が北条氏と運命を共にしたと考えられる。円照寺の板碑もこのときの加治一族の戦死者の供養塔とみられている。ただ加治左衛門人道道峯(家貞)を供養したのか、家貞が加治一族の戦死者を供養したのか。従来は家貞を供養するために建立したものといわれてきたが、板碑の形式などからみると、家貞が建立したもの、つまり、生き残っていた家貞が戦死した加治一族の供養のために建てたとする解釈が出されている。丹党高麗経家の分かれである加治氏の消息を知ることができるわけだが、この板碑から加治氏が北条氏の御内人としてその時代を生き抜いたけなげな姿と、一族の教養の高さをも感じとれる。
坂戸市永源寺の板碑については、『坂戸市史』中世資料編Ⅰは次のように書いている。「円照寺板碑と同じく幕府滅亡の月日を刻した板碑である。原所在地は不明であるが、浅羽氏の中には北条氏の御内人となったものがあり、おそらく幕府と運命を共にした者がいたのであろう。」

八五 高麗氏系図〔高麗神社蔵〕  資料価値無し
多門房行仙
弟三郎行持両人仕鎌倉、正慶二年五月廿二日於四郎行勝東勝寺向新田義貞勢、共討死

建武二年(乙亥 一三三五)七月二十三日これより先、鎌倉幕府執権北条高時の遺子相模次郎時行は鎌倉幕府再興を図り、信濃国に挙兵、武蔵国に進撃、この日武蔵国女影原(日高市)・小手指原(所沢市)・府中で足利軍と交戦した。足利軍は破れ、足利直義は幽閉中の護良親王を殺したのち、成良親王と共に鎌倉を逃れ、北条時行が鎌倉に入った。同年八月二日、足利尊氏は北条時行を討つため京都より関東に下向し、同月十八日これを破って鎌倉に入り、中先代の乱は終った。丹党の族・阿保氏は両派に分かれた
八六 ① 梅松論〔『新撰古典文庫』〕埼玉県史資料編7所収
(前略)
かくて建武元年も暮ければ、同二年、天下弥隠ならず、同七月のはじめ信濃国諏訪の上官の祝(はふり)安芸守時継の父参河入道照雲・滋野の一族等、高時の次男勝寿丸(北粂時行)を相模次郎と号しけるを大将として、国中(信漉)をなびかす由、守護小笠原信濃守貞宗 京都へ馳申間、御評定にいはく、凶徒木曽路をへて尾張黒田へ打出べきか、しからば早々に先御勢を尾張人(へ)指向らるべきと也、懸るところに凶徒はや、一国を相随へ鎌倉に責上間、渋川刑部(義孝)・岩松兵部(経家)、 武蔵女影原におひて終日合戦に及ぶといヘども、逆徒手しげくかゝりしかば、渋河刑部・岩松の兵部両人自害す、重て小山下野守秀朝発向せしむといヘども、戦難儀におよびしほどに同国の府中(多摩郡)にをひて、秀朝を始として一族家人数百人自害す、是によて七月廿二日下御所左馬頭殿、鎌倉を立て御向ありし、同日薬師堂谷(鎌倉)の御所におひて兵部卿親王(護良親王)を失ひ奉る、御痛しき申すも中々おろかなり、武蔵の井出(手)沢におひて戦暮しけるに御方の勢多く討れしほどに我に海道(多摩郡)を引退給ふ、
(中略)
さて、関東の合戦の事、先立より京都へ申されけるによて、将軍(足利尊氏)御奏聞ありけるは、関東におひて凶徒既合戦をいたし鎌倉に責入間、直義朝臣無勢にして、禦き戦べき智略なきによて海道に引退きし其聞えあるうへは、暇を給て合力を加べき旨、御申度々に及びといヘども勅許なき間、所詮、私にあらず、天下の御為のよしを申捨て、 (建武二年)八月二日京を御立出有、此比、公家を背奉る人々其数をしらず有しが、皆喜悦の眉を開て御供申けり、参河の矢作に御着有て京都・鎌倉の両大将御対面あり、則当所を立て関東に御下向ある処に、先代方の勢、遠江の橋本を要害に構て相支ふる間、先陣の軍士、阿保丹後守入海(光奏)を渡して合戦をいたし敵を追散して其身疵を蒙間、御感のあまりに其賞として家督安保左衛門人道道潭が跡を拝領せしむ、是を見る輩命をすてん事を忘れてぞ勇み戦ふ、當所の合戦を始として、同国さ(佐)夜の中山・駿河の高橋縄手・箱根山・相撲川・片瀬河 (みな相模)より鎌倉に至まで敵に足をためさせず七ケ度の戦に打勝て、八月十九日鎌倉へ責入給ふ時、諏方の祝父子、安保次郎左衛門人道々潭子自害す、相残輩、或は降参し、或は責おとさる。
(後略)
八六②  七巻冊子〔『改定史籍集覧』〕埼玉県史資料編7所収
(前略)
(忠)(上イ)
(建武二年)七月信濃国ヨリ凶徒蜂起、襲鎌倉ノヨシ風聞、世上物窓ナリ、北国ニモ凶徒蜂起ノヨシ云々、天下弥隠ナラス、信濃国ノ凶徒ハ、先亡相撲入道(北条高時)ノ二男亀寿丸(北条時行)ヲ大将ニ取立、諏訪ノ官祝部頼重・三浦介(時継)・葦名・清久等、大名多ククミシテ数万騎ニ及フト云々、同中旬、信州ノ凶徒、上野国ニ打入合戦、岩松左衛門尉、新田四郎等ノ官軍敗北、行方ヲシラスト云々、其後鎌倉ヨリ渋川刑部(義季)(大イ)少輔、小山秀朝等ノ兵数千人発向、久米河(多摩郡)・女影力原(高麗郡)ニテ合戦、官軍敗北シテ、小山・渋川ヲ初、 一族家人数百人自害スト云々、信濃国ノ凶徒イヨイヨ気ニノリテ、鎌倉ニ攻上ル間、直義以下馳向、防キ戦フト云トモ、無勢ノ間カナヒカタク、鎌倉ヲ出テ、成艮親王ヲ具シ奉リ、京都エ上ル、直義、武蔵国エ打出ル処ニ、猶凶徒攻カカルユへ、直義カ一族細川四郎頼貞入道返シ戦ヒ、家人百余人トモニ討死、此間ニ成良親王并直義、京都エ落上ルト云々、   
(後略)

八六③  太平記〔義輝本・巻二二〕国文学研究資料館所蔵
相模二郎謀反之事
相模二郎時行ニハ、諏方三河守・三浦介入道・同若狭五郎判官・那和左近大夫・清久山城守・芦名入道・塩谷民部大輔・工藤・長崎安保入道ヲ始トシテ、宗徒ノ者共五十余人与シテケレバ、伊豆・駿河・武蔵・相模・甲斐・信濃勢 兵馳加テ五万余騎トゾ聞エケルニ・相模二郎時行、其勢ヲ合テ 信濃国ヨリ起テ、鎌倉エソ攻入ケル、之ニ依り鎌倉左馬頭直義朝臣、驚キ騒イデ軈、渋川刑部大輔義季ヲ防グ大将ニ向セラルベシトゾ宣給ケル、義季ハ敵ノ勢ノ強大ニシテ、東国ノ兵共過半ハ内通ノ由ゾ聞給シカバ、馳向テ闘トモ利有ラジト思ハレケレバ、善悪ニ付テ爰ヲ最後卜思定テゾ立テラレケル、相随フ兵五百余騎、建武二年七月廿二日、武蔵国女景原ニ馳着テ、四隊ノ陣ヲゾ張給ケル、相模二郎時行雲霞ノ勢ヲタナビキテ、先陣己ニ流鏑ノ声ヲ発シ、火出ル程ゾ闘ケル、渋川刑部大輔義季ハ、トテモ腹切ソト思定ラレクル事ナレバ、自ラ敵ニ相当マデモナク、自害セソトシ給処ニ、河原国小三郎、誠ニ合戦キビシカリケリト見エテ、鎧エアタマノ矢折カケ、馳来テ、御方小勢ナルニ依テ、戦難議ナル由ヲ申ケレハ、義孝是ヲ聞給テ合戦ノ吉凶ハ入マジ、今度鎌倉ヲ出ヨリ、死ヲ一途ニ思定シカバ、今更驚べキニアラズ、ソヾロナル軍ニヨリ、力ヲ費ヤシ、匹夫ノ矢前ニ懸ランヨリ、自、死ヲ心安セント思也、汝ハ未ダ新参ノ者ニテ、見知物モアルマジ、急キ此陣ヲ遁出テ、鎌倉エ馳参り、合戦ノ体ヲモ、自害ノ様ヲモ、委細ニ左馬頭ニ申シ、其侭汝カ進退ヲ心ニ任スへシトゾ宣給ケル、河原国畏テ、御意トモ覚候ハヌ者哉、弓矢ノ道ニハ譜代・新参卜云事ハ侯ヌ者ヲ、サテハ能ク未練ノ物卜思召サレケルヤ、且ハ御心中恐恥入テ侯、トテモ御腹召サレ侯ハバ、冥途ノ先懸仕候ハント云モハテズ、馬ノ上ニテ腹カキ切テ諸軍ノ死ニゾ先立ケル、義季是ヲ見給テ感涙ヲナガシ、是ゾ侍ノ義ヲ守テ、節二死スト云手本ナルニ、ヨリテ、サラバトテ帷幕(いばく)之中ニ物ノ具ヌギステテ、心閑ニ腹カキ切テ、西枕:ゾ臥給ケル、是ヲ見テ御共申ケル侍ニハ石原ノ五郎左衛門尉惟義、同九郎頼輔・同七郎高貞・板倉ノ七郎左衛門泰宣・子息弥七・舎弟ノ七郎二郎・同又七・大寐平五入道・其子五郎・舎弟ノ七郎五郎・三宮ノ二郎・同四郎・森戸ノ二郎左衛門・同与一入道・子息ノ弥二郎・同孫五郎・湯上ノ彦七・同舎弟ノ彦八・小笠原常業ノ五郎・石原ノ六郎入道道覚・子息ノ四郎頼成・其ノ弟辰寿九・有馬ノ又四郎・岡部・河原国ノ小二郎・同四郎・墨田ノ五郎入道・子息ノ孫四郎・同兵衛二郎・中村ノ五郎四郎・同松王九・印東ノ五郎二郎・同小二郎・保田ノ又六・同小四郎・佐野ノ二郎・進士ノ左衛門三郎・同太郎二郎・大串ノ余二・同七郎・帯刀ノ三郎左衛門尉・菅屋左衛門四郎・田辺管太郎入道・石原ノ二郎入道西真・同左衛門太郎貞継・大窪六郎・子孫弥五郎・三官弥三郎・同平七・神戸彦四郎・印東伊勢房・大崎ノ四郎左衛門入道・其子ノ孫四郎・同兵衛五郎・牛窪ノ小五郎・薩摩四郎・三宮孫八入道、同八郎太郎、是等(これら)宗徒ノ侍トシテ、中間厩者ニテ己上百丗余人、主ノ死骸ヲ枕トシテ、同腹切テゾ失ニケル、
猿程ニ、女景原合戦ニ御方無勢ニテ、難議ナル由聞シカハ、鎌倉左馬頭、重ネテ小山ノ判官秀朝ヲ助ノ兵ニゾ指下サレケル、秀朝厳刑ヲ蒙テ、二千余騎ニテ馳下リ、武蔵国ノ国府ニ着テ相戦シカドモ、其モ軍利ヲ失テ、判官腹切シカバ、若党五百余人同枕ニ自害シテ、戸路径ニゾ横ハリケル、是ノミナラズ、新田四郎上野国蕪川?ニテ攴戦シモ、一戦ニ力ヲ失テ、兵悉ク討タレヌ、細川四郎入道モ病床に臥ナガラ 敵陣ニ馳向、其身ハ腹切ル、若党共ニ打死ス、サレバ所々ノ合戦ニ股肱ノ氏族、耳目ノ勇士数ヲ尽シテ腹切討レシカバ、鎌倉ノ左馬頭直義カクテハ叶マジトテ、将軍ノ官ヲ具足シ奉リ、細川ノ陸奥守顕氏ヲ御伴ニテ、七月廿三日暁天ニ鎌倉ヲゾ落給ケル、

〔解説〕女影原は、現在日高市大字女影として地名が残っている。鎌倉古道に接し、小畔川の低地、台地が広く展開しているところで、竹ノ内の地名もあり、鎌倉武士女影四郎の名字の地である。戦国期の六斎市として名の出る高萩(高萩宿)に接する。戦国期、女影郷の名があった。
(「中先代の乱」とは。建武二年(一三三五年)七月、最後の得宗で幕府滅亡時に自害した北条高時の遺児時行が蜂起して鎌倉を攻撃したのを中先代の乱という。)
女影原の合戦は諸書に見られるが、ここでは梅松論・七巻冊子、太平記から関係部分を引用した。女影合戦は、建武二年の中先代の乱の際、北条時行軍と足利直義軍が激闘し、直義軍が敗北した合戦である。時行軍は進撃、鎌倉を占領する(直義は鎌倉を離れるとき士牢に閉じ込めた護良親王を殺す)。しかし、尊氏が京都から鎌倉に向かい直義と合流し、八月十九日時行を放逐することで中先代の乱は終結する。
尊氏は鎌倉に入り、建武の新政権に対向し、幕府の開設に向けて進むことになる。建武新政の崩壊と足利政権の成立への具体的な動きがここに始まる。女影合戦はこうした流れの中で重要であったとみられ、多くの史書で扱われている。なお、太平記は数多く伝えられている中で、慶長八年の古活字本が一般に流布されている(本資料集でも断りのない限り同書を引用している)が、本書には女影原の合戦について脱漏しているため、古態本の「義輝本太平記」から引用した。女影原合戦の日が明記されており、武士名や合戦の模様が詳しい。
女影合戦で安保一族は、尊氏側と時行側に分かれて戦った。安保氏は丹党の出、基房を祖としている。高麗五郎経家とは同族であった(系図参照)。基房―恒房―実光、実光が安保郷(児玉郡神川村元阿保)に任し、安保氏を称し、惣領家は得宗被官(北条氏の家督得宗家の家臣)となった。安保左衛門人道道澤は幕府北条氏と運命を共にするが、丹後守光春は足利尊氏の御感を得て、通常の跡を安堵され、安保氏の家督を継承した。一方、北条時行側にあった道澤の子は自害して果てた。 
上野新田郡武蔵島の「宮下過去帳」(『狭山市史』中世資料編所収)には、「建武二年七月廿二日、於女影討死、岩松四郎経家・同禅師・同本空・長岡大蔵卿源織女影討死、」と女影合戦を伝えている。
なお、当時の女影氏については不明。

八七 建武二年(乙亥 一三三五)十月銘の板碑三基
所在地 高萩 別所
主尊・銘 弥陀1・建武二年十月 日
高さ二尺三寸(清水寡作氏調査)

所在地 女影90 宿東
主尊・銘 弥陀1・建武二年十月 日
高さ.九〇・五センチ

所在地 女影90 宿東
     光明遍照十方世界
主尊・銘 弥陀3・建武二年乙亥十月 日
念仏衆生摂取不捨
高さ 一〇六センチ

建武三年 (丙子 一三三六、南朝は二月二十九日改元して延元元年)御師法眼祐豪は、武蔵国丹治一族の那智山旦那職等を照円房に譲り渡す。
八八 旦那譲状〔米良文書〕埼玉県史資料編5所収
永譲渡処分事
照円房分
一寺 坊同敷地在所伏拝、
一檀那 奥川(州)常陸下野武蔵「丹治一族(追筆)」 相模 駿川(河)遠江 尾張 山城 美作 同江見一門等、 長門同冨田一門等、肥前 肥後 此外諸弟配分所漏諸檀那等、
右於彼所帯等者、祐豪重代相伝之私領也、而為兵部卿照円房嫡弟之間、永所譲渡実也、全不可有他人之妨、仇為後日証文譲状如件、
建武三年三月十日 法眼祐豪(花押)

〔解説〕武蔵国丹一族の旦那職は、宝治元年(一二四七)十一月十一日、法眼家慶から証道房に譲られたもの(史料二四)。また、永徳四年(一三八四) 二月七日には武蔵国丹治一族の旦那職が寛宝坊に譲与されている(史料一六九)。「祐豪重代相伝之私領也」とあるとおり相伝された。

建武四年(丁丑 一三三七)南朝は延元二年)十二月、
八九 ①鶴岡社務記録 坤〔『鶴岡叢書』〕
(十二月)廿三日 国司顕家卿打入鎌倉
廿四日合戦
廿五日杉本城落了
八九 ① 高麗氏系図〔高麗神社蔵〕 
高麗行高、新田義興に従軍、負傷
 多門房行高  行純長男 母井上次郎女
建武四年秋 奥州国司顕家卿 卒大軍攻鎌 倉行高時十九才 成宮御方 応新田義興招 馳参 終責落鎌倉 時被疵帰干家(以下略) 
高麗氏系図は偽書の可能性が高いので資料としては不適切なり。

〔解説〕建武の新政が失敗し、足利政権成立への動きは、中先代の乱・女影合戦を契機として具体的に始まったといえよう。この年建武二年の七月二十五日、北条時行は鎌倉を攻略するが、征東将軍の命をうけた足利尊氏は、八月十九日時行を破って鎌倉に入る。後醍醐天皇は上洛を促すが応ぜず、十一月二日には直義の名をもって新田義貞討伐の兵を集め、十二月十二日尊氏らは義貞の軍を箱根に破り、翌建武三年一月十一日尊氏は京都に入る。間もなく義貞軍に破れ西国へ、しかし再び盛りかえして楠正成・千種忠顕らを戦死させ、義貞を越前に追い、京都に入り、建武式目を定め、実質的に足利氏の室町幕府が開かれるのである(十一月七日)。翌建武四年元日より尊氏は義貞の金崎城を攻撃して三月に陥落させる。義顕戦死、義貞は敗走。こうした中で尊艮親王を奉じて陸奥国霊山に拠った北畠顕家は、霊山を発って西上、十二月二十三日鎌倉を陥れる。翌暦応元年、顕家は鎌倉を発ち西上するが、五月二十二日討死する。(下記削除)

九〇 建武四年(丁丑 一三三九、南朝は延元四年)銘の板碑
所在地 愉木4一 貝戸(林広次家)
主尊・銘 弥陀1・建武「ニ+ニ」(四)年丁丑十月十八日逆修
高さ 四三センチ

備考 「逆修」なので、建武四年の「四(ㇱ)」は「死年」を想起するので「ニ」をふたつ並べて刻んでいる。

暦応二年(己卯 一三三九、南朝は延元四年)十月十三日同十六日、多西郡高幡の山内経之は、常陸の陣中より留守宅の子息(又けさ)に書状を送り、食糧品や馬・馬具などを送り届けるよう指示した。
九一 山内経之書状二点〔高幡不動胎内文書〕r日野市史史料典j高幡不動胎内文沓三七・三八と註訳全文
(前紙欠)
二まいらせ侯、
一にこはのちや(茶2)にか(苦)く候ハさらんを、
てら(寺3)へ申て、入侯て給るへく侯、
一にはなか(中)にちや(茶)にてもかへ入候て給るへく候、
ほしかき、かちくり(4) すこし
給り候て侯し かへ入侯て、もち(持ち)侯へく侯、
恐々謹言、(暦応二年)十月十三日
(切封墨引)
〔注〕
(1)皮龍のような容器を二つ。
(2)古菓あるいは粉薬の茶か。
(3)高幡不動堂であろう。
(4)干柿・掩粟は戦場で常用された携行食晶。搗栗は搗と勝の音が通ずるところから、出陣する際などの祝儀の膳に供せられた。
◎留守宅の「又けさ」に宛てたものと思われ、陣中で用いる茶や干柿・線粟を、寺で分けてもらうか購入して、送り届けるように指示している。戦場において、このような携行食糧にも不自由していた実情をうかがうことができる。

(前紙欠)
…………………………………………
………人かす(数)に………………
…………く候、むま(馬)は……………………
…………事をかせ……………………    
ひやくしやうとものかたに、
いかやうにも候へ、おはせ侯て、
くらくそく(鞍具足1)かりて、のせて給るへく候、
くらくそくハ(2)しな(無)く候ハ、
かち(徒歩)にても、むま(馬)をはひかせて
下申へく侯、よろつなに事も
はゝこ(母御)に申あハせて、かい(甲斐)かいしく、
おさなき事ニても侯ハす侯へハ
はからひ(計)申させ候へく侯、
恐々謹言、十月十六 (暦応二年)(日脱?)
(切封墨引) やまかはより(4)
経之(山内)
〔注〕
(1)鞍とその附属品一式。
(2)強めの助詞。
(3)「又けさ」の母、すなわち経之の妻。
(4)茨城県結城市南部の上山川・下山川一帯の地。上山川は結城市の中心部から南へ約五キロの鬼怒川西岸にあり、ここに結城市庶流の有力国人山川(山河)氏の居館跡が現存する。居館跡は現在東持寺となっており、四周に土塁と堀が残存している。
◎ この書状に発信地が記されていることから、高師冬軍が山川の地に布陣したことが知られる。南朝方が下河辺荘内から撤退し、師冬軍は下総の北東部山川まで進出した。激戦のうちに経之は従者や乗馬・馬具に不足をきたしたため、百姓を説得して鞍具足を馬に載せて下せ、鞍具足がなければ、徒歩で馬だけを牽いて下せ、と「又けさ」に指示している。さらに母御と万事相談して、甲斐甲斐しく計らうようにと叱咤し励ましており、留守を託した元服前の子息を気遣う経之の心情がよくうかがわれる。

〔解説〕高幡不動は日野市高幡七三三番地高幡山明王院金剛寺境内の不動堂にある。この胎内文書は既に大正・昭和初年にその所在が確認されたが、調査されないままに六十余年を過ぎ、平成二年に日野市史編さん委員会により調査が始められ、平成五年「日野市史史料集高幡不動胎内文書編」として同委員会より刊行されたものである。この胎内文書は六九通七三点あるが、その裏面に印仏が押捺されたり、切断されたり、その上破損が激しいものであるから、その解読には絶大な労苦を経て行われた。こうして貴重な史料が明らかにされた。文書の内容は、この地の山内経之という武士が、南北朝初期に武蔵守護高師冬に率いられて、常陸にあった北畠親房の南朝軍を攻撃するため出陣中、戦場から故郷に送った書状が主要部分をなしていることがわかった。その内容は、当時の戦場の悲惨な様子や、留守宅(在地武士の生活)、およびそれに対する農民の態度などを窺い知ることができる。山内経之という武士について充分に明らかにされてはいないが、この時期、高麗氏を名乗る国人衆が高幡をはじめ各地に在地していて、南北朝争乱期に出陣したと思われる。

九二 暦応二年(己卯 一三三九、南朝延元四年)銘の板碑三基
所在地 女影 北口
主尊・銘弥陀1・暦応二年己卯
高さ 一尺五寸(上部を欠く)(清水嘉作氏調査)

所在地 女影8 宿西 薬師堂墓地
主尊・銘弥陀3・暦応二年己卯二月妙心逆修
高さ 六三・五センチ

所在地 清流29 上ノ原 (関口岩五郎家)
暦応二年己卯三月十九日
主導・銘 南無阿弥陀仏
慶心老子敬白
高さ 九一七ソチ

九三 暦応三年(庚辰 一三四〇、南朝延元五年この年四月二
十八日南朝改元して興国元年)銘の板碑二基
所在地 原宿47 四本木路傍
主導・銘(欠) 暦応三年庚辰三月十五日
高さ 三二・五センチ

所在地 高麗本郷一5 上ノ原 長寿寺墓地
主導・銘 弥陀1 ・暦応三年庚辰十月▢
高さ 三五・五センチチ

九四 暦応四年(辛巳 一三四二南朝は興国二年)銘の板碑三基
所在地 楡木4一 貝戸 (林広次家)
主尊・銘 弥陀1 ・暦応四年辛巳七月日廿六
高さ 七八センチ

所在地 猿田45 東田 西蔵寺墓地
主尊・銘 弥陀1・暦応四年辛巳四▢
高さ 三〇センチ

所在地 飯能市白子 長念寺
主尊・銘 弥陀3・暦応四年辛巳八月七日
高さ 三二センチ

九五 暦応五年(壬午一三四二、この年四月二十七日改元して康永元年となる。南朝は興国三年)銘の板碑、暦応銘の板碑康永元年銘の板碑
所在地 楡木4一 貝戸 (林広次家)
主尊・銘 (欠) 暦応五年壬午▢月廿八日
高さ 三〇・五センチ(二切)

所在地 楡木4一 見戸 (林広次家)
主尊・銘 弥陀1・康永元年壬午月日 敬也妙生/逆修
高さ 八七・三センチ(二切)

所在地 高麗本郷10 井戸入 安州寺墓地
主尊・銘 大日10月(金剛界) 康永元年九月十七日
高さ三六・二センチ

所在地 楡木4一 貝戸 (林広次家)
主尊・銘大日1(金剛界)・暦応▢▢
高さ二五センチ

康永元年 (壬午 一三四二、四月二十七日改元、南朝は興国元年)六月二十八日、平助綱(高麗氏)は大檀那として、多西郡徳常郷の不動堂(高幡不動)の修復を完了して、不動明王像火焔背に銘をした
九六 ① 不動明王像火焔背銘〔金剛寺所蔵〕
日野市史史料典し高幡不動胎内文杏編所収
(復)
武州多西郡徳常郷(得恒郷)内十院不動堂修復事 右此堂者建立不知何代檀那、又不知云何人、只星霜相継、貴賎崇敬也、然建武二年乙亥八月四日夜、大風俄起大木抜根抵、仍当寺忽顛倒、本尊諸尊皆以令破損、然問暦応二年己卯檀那平助綱地頭并大中臣氏女、各専合力励大功、仍重奉修造本堂一宇并二童子尊躰、是只非興隆仏法供願、為檀那安穏、四海泰平、六趣衆生平等利済也、仍所演旨趣如件、
康永元年六月廿八日修復功畢、
大檀那平助綱 大工橘広忠
別当権少僧都儀海 大中臣氏女 假治(鍛冶)橘行近
本尊修復小比丘朗意

九六 ② 不動明王像内納入墨書銘札〔金剛寺所蔵〕
日野市史史料典3高幡不動胎内文沓絹所収
武州多西郡徳常郷内十院不動堂修復? 右此堂者建立不知云何代檀那、又不知云誰人、只星霜相継貴賎崇敬也、然建武二年乙亥八月四日夜大風俄起大木抜根、偽当寺忽顛并倒本尊諸尊皆以令破損、然間暦応二年己卯檀那平助綱地頭大中臣氏女各専合?励大功、仍重奉修造本堂一宇幷本尊二童子尊躰、是只非興隆仏法供願、為檀那安穏四海泰平六趣衆生平等利済?也、仇所済旨趣如件? 、
(裏)
別当権少僧都儀海?
檀那平助綱 大工橘広忠?
大中臣氏女 慣治権守入道
本尊修理小比丘朗?意 茸?平教広等
○板の表裏に記されている。

〔解説〕火焔背銘(①)は四枚の板から成る火焔背に刻まれてある。これと同様の内容が不動明王像内の墨書銘札(②)にも書かれてあるが、墨書銘札は文字の判読が困難になった部分が多い。この不動堂は現在、高幡不動と称されて、日野市高幡七三三番地にある高幡山明王院金剛寺の不動堂である。中に像高九尺三寸余りの不動明王坐像(制作年代平安末期・南北朝期の二説がある)があり、左に斡掲羅童子(こんがらどうじ)、右に制唖迦童子(せいたかどうじ 平安末期作)が配されている。
この銘文にあるとおり、この堂建立の年代・檀那等不明であるが、建武二年(一三三五)八月四日の大風で倒れ、本尊も破損したので、暦応二年(一三三九)、檀那で当地の地頭である平助綱・大中臣民女が合力して、修造したというのである。この平助綱については、これ以前、正和元年(一三一二)八月十八日、平忠綱の譲状に「嫡子孫若」とある(史料六一)その人とみられる。つまり、平忠綱の所領が孫の平助綱に伝領された。高幡地方における平氏一族をここに見ることができるわけだが、この平氏が高麗氏であることは前述のとおりである(同資料解説)。なお、高幡村の隣村平村には、平資網の碑という「文永八年辛未申冬日」の板碑があり、平村の地名も平氏が所領したことによるのではないかといわれている(『風土記稿』多摩郡平村)ことなどから、高幡平氏の存在はかなり古くまでさかのぼる。それが高麗郡の高麗氏から出て、本姓平氏を称したとみることができるわけで、高麗氏のルーツと、その発展の具体的姿を考える上で極めて重要なことである。(根拠無しで削除)

康永二年(葵末 一三四三、南朝は興国四年)十一月三日、畠山駿河守重俊は赤沢村(高麗郡・現飯能市)妙見社を創建する
九七 新編武蔵風土記稿(高麗郡之二赤沢村)
妙見社 慶安二年 二石五斗の朱印を附せらる。社内に元禄中の棟札あり。その文に康永二葵末十一月三日、畠山駿河守重俊草創 (以下、元亀二年(一五七一)再興の記事あり 史料四一二解説参照)

九八 康永二年(癸未 一三四三、南朝は興国四年)銘の板碑四基
所在地 楡木の道端に旧在、現在は県立歴史資料館
狛四郎入道
主尊・銘 (欠)・▢永二年癸未正月 日
逆修
高さ 一尺五寸三分

所在地 楡木4一 貝戸 (林広次家)
四郎大郎大三郎
主尊・銘 弥陀1 ・康永二年癸未二月日
逆修
高さ 七五センチ

所在地 楡木4一 貝戸 (林広次家)
道善
主尊・銘 弥陀1 ・康永二年竿一月日
逆修
高さ 八七センチ

所在地 楡木42 東野 東光寺
主尊・銘 大日1(金剛界)・康永二年庚未十一月(欠
高さ 三三センチ

写真8 康永二年銘「狛四郎入道」板碑(県立歴史資料館)

九九 康永三年(甲申二二四四、南朝は興国五年)銘・康永年と思われる板碑
所在地 検木の道端に旧在、現在は県立歴史資料館
四郎入道
主尊・銘 (欠〉・甲 申十一月 日
逆修
高さ一尺三寸

所在地 楡木4一 貝戸(林広次家)
主尊・銘 大日1(金剛界)・康(欠)
高さ 二六センチ

写真9 康永三年銘「狛四郎入道」板碑(県立歴史資料館)

〔解説〕史料九八・九九の狛四郎入道による逆修板碑について、大徳子竜(現坂戸市森戸で、大徳氏は江戸時代より漢学塾経営)が昭和六年採録した記録によると、楡木(現日高市)より大徳氏宅に移管したという(『鶴ヶ島町史』原始・古代・中世編)。この狛四郎入道とは丹党高麗氏一族の高麗四郎入道希弘・左衛門尉季澄のことであろう(史料一四六)。年代は康永二年癸未であり、他の一基も板碑の形態などからみて同年代とみられ、甲申と読まれているから康永三年とみていいだろう。そうするとこのころの高麗氏の動向を伝える貴重な板碑といえる
暦応元年(一三三八)五月二十二日北畠顕家討死、同年間七月二日には新田義貞が討死した。つぎつぎに支柱を失った南朝側は、顕家の弟顕信を鎮守府将軍に任命して坂東諸国経営のため東国に下らせたが、船団が暴風雨に遭遇して北畠親房は常陸に到着した。親房は翌暦応二年、小田治久の小田城(現つくば市)で神皇正統記を書き、春日顕国の支援もあって南朝方の拠点を築く。しかし、この年、鎌倉からは高師冬が常陸に出陣(後醍醐天皇は没する)小田城を攻める。岡城は暦応四年開城、北畠親房は関城(茨城県関城町) へ、春日顕国は大宝城(同県下妻市)に移ると、そこが対決の場となった。康永二年(一三四三)十一月十一日両城が落城することによって、関東における南北朝の争乱は一段落を迎えることとなったが、この間、関東の在地武士たちは、常陸の南朝方や、足利、高などの北朝方の軍として動員された。別府氏、浅羽氏などは高師冬に従って出陣している。南朝側が退去(親房は吉野山へ)した後、高師冬が鎌倉に帰ったのは康永三年二月二十五日であった。
当時のこうした状勢の中で、従軍した武士たちは生死の間に置かれたわけである。彼らはそうした中で仏にすがり、生前供養をした。(以下は書き過ぎと判断)。それが忽々とした出陣の束の間にしかできなかったとしたら、有り合わせの石で加工もままならず、弥陀一尊と僅かに自分の名を記すに精一はいのことであったかも知れない。高麗四郎入道の名の書き方をみても、そんなありさまを想像できる板碑である。

貞和元年(乙酉 一三四五、康永四年十月改元して貞和元年、南朝は興国六年)十二月十三日銘の厨子が聖天社に奉請された。
一〇〇 厨子銘(高麓本郷聖天社厨子)
奉請宮口□□貞和元年乙酉十二月十三日

〔解説〕この史料は『風土記稿』による。現物は所在不明、聖天社と聖天院とは別、聖天社は高麗本郷日向組の鎮守、市原組の鎮守は蔵王社、駒高の鎮守は子ノ神社、高麗本郷の鎮守は九万八千社という (『風土記稿』)。

一〇一 貞和二年(丙戊一三四六 南朝は興国七年この年十二月八日改元して正平元年となる)とみられる板碑
所在地 北平沢5  根岸 福蔵院墓地
主尊・銘 (欠) 貞和二□□
高さ 四一センチ

一〇二 貞和四年(戊子 一三四八、南朝は正平三年)銘の板碑
所在地 高麗本郷一5 上ノ原 長寿寺墓地
主尊・銘 弥陀3・貞和四年戊子二月▢▢
高さ 四九・五センチ

所在地 女影 北口
主尊・銘弥陀1・貞和戊子四平月日
高さ 一尺二寸上下を欠く
(清水嘉作氏調査)

一〇三 貞和四年 (戊子 一三四八、南朝は正平三年)銘宝箇印塔
所在地 高麗本郷 日和田山 女坂
口□宝塔
銘 貞和第四戊子
十月上旬比丘□□立
総高 九五・一センチ
(備考)反花座・基礎・笠・笠の順に積まれ、基礎は上部二段、素面で一面に銘文を有する。検討を要す(『埼玉県史』)。
写真一〇 貞和四年銘宝匪印塔(日和田山女坂中腹)

貞和五年 (己丑 一三四九、南朝は正平四年)十月二十二日、足利義詮が関東より上洛する。その送りに河越・高坂氏らを始め東国の大名が大略上洛する。
一〇四 太平記〔巻二十七〕埼玉県史資料編7所収
左馬頭義詮上洛事
去程ニ三粂殿(足利直義)ハ、師直・師泰ガ憤猶深キニ依テ、天下ノ政務ノ事不及口入、大樹(足利尊氏)ハ元来政務ヲ謙譲シ給へバ、自関東左馬頭義詮(足利)ヲ急ギ上洛アラセテ、直義ニ不相替政道ヲ申付、師直諸事ヲ可申沙汰定リニケル、此左馬頭卜申スハ千寿王丸ト申テ久ク関東ニ居へ置レタリシガ、今ハ器ニアタルベシトテ、権柄ノ為ニ上洛アルトゾ間へシ、同十月四日左馬頭鎌倉ヲ立テ、同二十二日入洛シ給ケリ、上洛ノ体由々敷見物也トテ、 粟田口(山城)・四官(山城)河原辺マデ桟敷ヲ打テ車ヲ立、貴賎巷ヲゾ争ヒケル、師直以下ノ在京ノ大名、悉勢多(近江)マデ参向ス、東国ノ大名モ川越・鳥坂ヲ始トシテ大略送リニ上洛ス、馬具足奇麗也シカバ誠ニ耳目ヲ驚ス、其美ヲ盡シ善ヲ盡スモ理哉、将軍ノ長男ニテ直義ノ政務ニ替リ天下ノ権ヲ執ラン為ニ上洛アル事ナレバ、 一涯珍ラカ也、(後略)
    
一〇五 貞和五年(己丑 一三四九、南朝は正平四年)銘、貞和銘の板碑二基
所在地 女影 北口 (清水嘉作氏調査)
主尊・銘 貞和五年三月十日
高さ 一尺(上下欠く)

所在地 女影88 宿西 薬師堂墓地
主尊・銘 大日? 貞和(欠)
高さ 三七・二センチ

一〇六 観応元年(庚寅 一三五〇、貞和六年二月二十八日改元して観応元年、南朝は正平五年)銘の板碑五基
所在地 高萩97 中宿、光全寺墓
主尊・銘 弥陀3・観応元年庚刁四月廿 妙? 敬白?((欠)
高さ 五九センチ

所在地 高萩 寺林 (清水嘉作氏調査)
主尊・銘 弥陀3・観応元年庚庚刁八月日道仏道逆修
高さ 二尺三寸

所在地 南平沢66 塚場 (高麗川公民館)
主尊・銘 大日1(金剛界) ・観応元年十一月廿六日
高さ 四七・五センチ(北平沢中居付近出土)

所在地 清流29 上ノ原(関口岩五郎家)
主尊・銘 弥陀く・観応元年庚刁十一月日逆修敬白
高さ 八〇センチ

所在地 清流29 上ノ原(関口岩五郎家)
主尊・銘 弥陀3・観応元年庚刁十一月日逆修敬白
高さ 九八センチ

(注)上記二基は双碑、夫婦の逆修か。

一〇七 観応二年 (辛卯 一三五一、南朝は正平六年)銘の板碑五基
所在地 高萩92 別所 第四公会堂
主尊・銘 (欠) 観応二年三月十八日性善
高さ 三八・三センチ

所在地 高萩 (清水嘉作氏調査)
主尊・銘 弥陀1・観応二年三月日
高さ 二尺九寸六分 (三輪拝花瓶一対卒歿とある)

所在地 下大谷沢118 下田墓地
主尊・銘 大日1(金剛界)・観応二年四月八日
高さ 四五・一センチ

所在地 高萩 寺林(清水嘉作氏調査)
主尊・銘 弥陀3・観応二年四月二十八日妙心禅尼
高さ 二尺四寸二分  花瓶一対

所在地 飯能市 白子 長念寺
玄一尼
主尊・銘 1 ・観応二年辛卯四月廿九日
敬白
高さ 五四センチ

正平六年(辛卯 一三五一、北朝は観応二年)八月、高麗彦四郎経澄・同三郎左衛門尉助綱は鎌倉殿(足利義詮)の御教書をうけ、下野国宇都宮に出陣、武蔵国守護代薬師寺加賀入道と対面し、上杉民部大輔憲顕(直義派)を討つことを話し合い、以来尊氏の側で軍忠を尽くし、薬師寺加賀入道の証判を受く。
一〇八 高麗彦四郎経澄軍忠状〔町田文書〕
高麗彦四郎経澄軍忠事
一去年観応二 八月 下給鎌倉殿御教書
 馳越下野国字都宮、致忠節畢
一薬師寺加賀入道宇都宮下向之間 遂対面可令誅伐上
椙民部大輔之由 条々致談合畢
一同十二月十七日 於鬼窪揚御旗畢
一同十八日 自鬼窪打立 符中罷向之処 
同十九 於羽祢倉合戦時 難波田九郎三郎以下凶徒等打捕候畢
一同夜於阿須垣原取陣之処 御敵吉江新左衛門尉寄釆間
致散々合戦之処 薬師寺中務丞令見知畢
一同廿日 押寄符中 退散御敵等 焼払小沢城畢
一同廿九日 於足柄山追落御敵等畢(府)
一今年正月一日 馳参伊豆国符 至干鎌倉御共仕畢
右軍忠之次第如斯
正平七年正月日
承了(証判) (花押)(薬師寺加賀入道公義)

一〇九 高麗助綱軍忠状写〔彦根城博物館保管彦根藩井伊家史料「高幡高麗文書」〕『日野市史史料集』高幡不動胎内文書編所収
高麗三郎左衛門尉助綱抽軍忠条々次第事
▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢宇都宮▢▢▢▢   
同八月十一日□□□□長四郎兵衛足利義詮殿御教書幷三戸七郎(高師親)殿依賜内状、馳参十九日之処、相語一族他門可揚義兵之由仰之間、帰国仕候畢、
同(十二月)十七日、於鬼窪揚義兵訖、
十八日自鬼窪打立府中江罷向之処、
同十九日羽弥蔵合戦、那波多(難波田)九郎三郎令追罰畢、
同日於阿須書(垣)原合戦、抽軍忠訖、
同廿日、押寄府中追散御敵等、令放火幷小沢城訖、
廿九日、於相模国足柄山追落御敵訖、
今月一日、馳参伊豆府、至于(ここにいたり)鎌倉御共仕候了、
右、軍忠次第如斯、
正平七年正月 日
承候了(証判) (花押影)(薬師寺公義)
写真11 高麗助綱軍忠状写(彦根城博物館高幡高麗文書)

〔解説〕足利尊氏と直義の不和は、幕府開幕当初二頭政治で出発したことに大きな原因があった。両者は対南朝の軍事行動についても対立し、貞和五年(一三四九)閏六月、直義は尊氏に強請して尊氏派の高師直の執事を罷免するという強硬手段をとったことで、決定的な破局を迎えた。しかし、軍事的優位の師直は直義を政務から罷免させ、自らは執事に復職する。両者の争いは更に発展し、翌観応元年十月直義は、尊氏のいる京都を逃れて大和に走り、十二月には南朝と講和し、南朝軍を同盟軍とし争乱は全国的に発展する。これが観応の擾乱といわれる。翌観応二年二月の摂津打出浜の合戦で直義軍は尊氏軍を破り、同二十日両者の和睦が成立、師直・師泰は出家し、のち殺されて一応の結着をみた。そして、直義は尊氏の子義詮の政務を後見する形をとって幕政は再開するが、両派の一本化は成らず反目は再燃する。
観応二年八月一日、直義は尊氏に策謀あることを探知し、京を脱出、北陸の斯波・富樫氏などの力を頼って北陸へ下り、ここで東国・西国の力を結集して尊氏に当たることを謀るが、十一月十五日鎌倉に入る。鎌倉の基氏は、実父尊氏と義父直義との間にあって迷ったらしい。その行動には不明なことが多い。こうした中で八月、鎌倉殿(義詮)の御教書を受けて出陣した者が多かった。高麗経澄・同助綱も義詮の御教書を八月にうけて出陣し、ほぼ同一行動をとっている(助綱軍忠状には欠字が多いが、経澄軍忠状の内容と同様であろう)。
高麗経澄・助綱は宇都宮で武蔵守護代薬師寺加賀入道と面談する。ここで、直義側の上杉憲顕を撃つことについて談合を遂げるのである。そして十二月十七日鬼窪(鬼窪郷・現白岡町)で兵を挙げ、尊氏・義詮方に従軍する。
高麗経澄・同助綱は十二月十八日鬼窪を出発、十九日羽祢倉(羽根倉・浦和市と富士見市の間)合戦、阿須垣原(阿佐谷?)では吉江氏(直義側の武蔵守護代)の軍勢と合戦、二十日には府中に押寄せ、小沢城(現川崎市)を焼払い、二十九日には足柄山の敵を追い落し、そして観応三年・正平七年正月一日、伊豆国府(現三島市内)の尊氏陣に参陣、お供して鎌倉に入った。以上、観応二年八月以来、約半年間における経澄と助綱は軍忠の数々を自ら書き上げ、これを薬師寺加賀入道公義(武蔵守護代)に差出して証判を得たのである。
この軍忠状の証判は武蔵国守護代薬師寺公義である(海津一朗氏)。薬師寺公義は観応の擾乱以前から武蔵国守護代であったが、観応二年二月、高師直一族が誅伐されると、武蔵国守護職は師直から上杉憲顕に代わり、公義は直義方に隆伏したとの見方が成立する(園太暦)ことから、公義は(高麗氏も含め)鎌倉殿、即ちこの場合基氏の御教書をうけて宇都宮に下向し、ここでかつての部下であった武蔵国人たちと談合した結果、直義党の上杉憲顕を討つことに決したという解釈も成り立つ(高麗氏は十二月十七日鬼窪で旗上げすることになる)。しかし、助綱軍忠状によると、「ロロ殿御教書幷三戸七郎殿依賜内状」とあるように、三戸七郎の内状によって助綱は宇都宮へ出陣したわけである。この三戸七郎は「高階系図」によれは高氏の養子で、観応元年高師冬が基氏を離して鎌倉を落ちたとき、上杉憲顕方に討たれた師親かと思われる。その点若干の検討が必要だが、こうしてみると、鎌倉殿・三戸七郎・宇都宮氏綱・薬師寺公義の人脈が考えられ、基氏・直義・上杉憲顕の人脈とは別にできる。したがって鎌倉殿は義詮とすべきであろう。当時、義詮は上洛したのちも、「鎌倉殿」あるいは「鎌倉大納言」と呼ばれたことはよく知られているところでもある(湯山学「鎌倉殿御教書」の発給者についてー未刊)。
なお、観応二年段階で、政治的動乱期にあっても既に幕政は尊氏と義詮の両者によって進められていたということは両者の発給文書から判断される。特に観応元年五月七日段階で、足利義詮袖判下知状による裁許状が出されている(小安博「関東府小論」)ことなど、当時の支配権力を示唆していると考えられている。高麗彦四郎経澄は高麗郷に在地し、高麗三郎左衛門尉助綱は高幡郷に在地した同族の高麗氏である。

観応二年(辛卯一一一云一、北朝は観応二年)冬、高麗行高(多門房)は足利直義に招かれ、駿河国薩睡山に尊氏軍と戦うが、敗れて逃げ帰る。
一一〇  高鷲氏系図〔高麗神社蔵〕
多門房行高新讐男九謂最郎B+
(前略)観応二年冬、応高倉禅門直義公招率百八十余人馳参薩睡山御陣敗軍而逃帰(後略)
(高麗氏系図は偽書、針小棒大の記述であり不採用。高麗神社の系図にこの記述を殊更に載せている最大の理由は、明治維新後の神職・村社認可のためには反尊氏側で戦い敗走したという作文が必要だったためである。)
〔解説〕「高麗氏系図」に書かれてあるこの資料によると、高麗氏三二代高麗行高は足利直義の招きに広じて、 一八〇余人を引率して参陣したが、薩睡山(静岡県由比町)の合戦に敗れて帰ったという。薩睡山は海に面して険しい。あまり高くはないが、この山の峠越えをする交通路があり要衝の地となっている。尊氏は直義を討つため京都よく下り、観応二年十一月晦日ここに陣を張ったのである。直義は東国、北陸の軍勢を集めて鎌倉を出発、尊氏軍に宇都宮の軍勢が後詰めに来る前に打ち滅ぼそうと、 一隊を上州へ向け、一隊を薩睡山へと向けて進んだ。上州へ向いた軍は宇都宮氏の薬師寺加賀入道側に付いた高麗彦四郎経澄などと闘い、薩睡山へ向った軍に高麗行高が従軍したものと思われる。直義軍は尊氏軍に優る大軍であったが、上野・武蔵そして薩睡山でも大敗する。直義に従った高麗行高も破れて、故郷へ逃げ帰るのである。

薩睡山の合戦については『大平記』に詳しい。次に抄掲しておく。

一一一 薩多山合戦事〔大平記巻第三十〕慶長八年古活字本(氏綱)
(前略) 宇都宮(氏綱)ハ、薬師寺次郎左衛門人道元可ガ勧依テ、兼テヨリ将軍(足利尊氏)ニ志ヲ存ケレバ……(略)……(薩睡山ノ後攻ヲセント企ケル……(略)……十二月十五日宇都宮ヲ立テ薩睡山へゾ急ケル。相伴フ勢ニハ氏家大宰小貮周綱……(略)……武蔵国住人猪俣兵庫入道・安保信濃守・岡部新左衛門入道・子息出羽守、都合其勢千五百騎。十六日午剋ニ、下野国天命宿ニ打出タリ。此日佐野・佐貫ノ一族等五百余騎ニテ馳加リケル間、兵皆勇進デ、……(略)……打連テ薩唾山へ懸ラソト評定シケル……(略)……同十九日ノ午剋ニ戸祢河ヲ打渡テ、那和庄(上野)ニ著ニケリ。此ニテ跡ニ立タル馬煙ヲ、馳著ク御方欺卜見レバサニアラデ、桃井播磨守(直常)・長尾左衛門一万余騎ニテ迹ニ著テ押寄タリ……(略)……飽マデ広キ平野ノ馬ノ足ニ懸ル草木ノ一本モナキ所ニテ敵御方一万二千余騎、東ニ開ケ西ニ靡ケテ追ツ返ツ半時計戦タルニ、長尾孫六ガ下立タル一揆ノ勢五百余人縦横ニ懸悩マサレテ、一人モ不残被打ケレバ桃井モ長尾左衛門モ叶ハジトヤ思ヒケン、十万ニ分レテ落行ケリ。……(略)……是ノミナラズ吉江中務ガ武蔵国ノ守護代ニテ勢ヲ集テ居タリケルモ、那和ノ合戦卜同日ニ、津山禅正左衛門幷野与ノ一党ニ被寄、忽ニ討レケレバ、今ハ武蔵・上野両国ノ間ニ敵ト云者一人モナク成テ、宇都宮ニ付勢三万余騎ニ成ニケリ。宇都宮巳ニ所々ノ合戦ニ打勝テ後攻ニ廻ル由、薩唾山ノ寄手ノ方へ聞へケレバ、諸軍勢皆一同ニ「アハレ後攻ノ近付ヌ前ニ薩唾山ヲ被責落候べシ」ト云ケレ共、傾リ運ニカ引レケン、石堂・上杉曽テ不許容ケレバ、余リニ身ヲ揉デ児玉党三千余騎、極メテ峻シキ桜野(駿河)ヨリ薩唾山へト寄タリケル。此坂ヲバ今河上総介(範氏)・南部一族・羽切遠江守・三百余騎ニテ堅メタリケルガ、坂中ニ一段高キ所ノ有ケルヲ切払テ、石弓ヲ多ク張タリケル間、一度ニバツト切テ落ス。大石共ニ、先陣ノ寄手数百人、楯ノ板ナガラ打撃ガレテ、矢庭ニ死スル者数ヲ不知。後陣ノ兵是ニ色メイテ、少シ引色ニ見へケル処へ、南部・羽切抜連テ懸リケル間、大頬禅正(行光?)・富田以下ヲ宗トシテ、児玉党十七人一所ニシテ被討ケリ、「此陣ノ合戦ハ加様也トモ、五十万騎ニ余リタル陣々ノ寄手共、同時ニ皆責上ラバ、薩睡山ヲバ一時ニ責落スベカリシヲ、何トナク共今ニ可落城ヲ、高名顔ニ合戦シテ討レクル ハカナサヨ」ト、面々ニ笑嘲
ケル心ノ程コソ浅猿ケレ、(後略)

正平七年(壬辰 一三五二、北朝は観応三年九月改元して文和元年)正月、高麗彦四郎経澄は足利尊氏側に属して伊豆国府に馳参、更に御供して鎌倉に参着、着到状に関東執事仁木頼章の証判をうける。
一一二 高麗経澄着到状〔町田文書〕
武 州
高麗彦四郎経澄
右、為後攻、今月一日馳参 伊豆国符(府)、 鎌倉御共仕、
至于今当参仕候了、偽者到如件
正平七年正月  日
  (花押)(仁木頼牽)

〔解説〕高麗彦四郎経笹は、前出文書(史料一〇八)の如く観応の騒乱には尊氏側について軍忠を尽くし、その軍忠状は武蔵守護代の証判を得たが、更に関東執事(のちの関東管領)仁木頼章(武蔵守護でもあった)によって、尊氏陣に参陣したことの証判を得たのがこの文書である。なお、この文書に、武 州とあるのは、この文書の補修の際、断ち載られて不明なので、「武州文書」所収文書によって補ったのである。
次の一一三の文書によると、高麗四郎左衛門尉季澄も尊氏から後攻めの戦功を賞されているので、経澄とほぼ同様の行動をしたのであろう。

正平七年(壬辰 一三五二、北朝は観応三年九月改元して文和元年となる)正月十七日、高麗四郎左衛門尉季澄は、足利尊氏から後攻めの戦功に対する感状を拝領する。
一一三 足利尊氏御感御教書〔町田文書〕
(花押)(足利尊氏)
為後責致忠節云々、尤以神妙也、弥可抽戦功之状如件、
正平七年正月十七日
高麗四郎左衛門尉殿睡

正平七年(壬辰 一三五二、北朝は観応三年九月改元して文和元年となる)閏二月十六日、高麗経澄は足利尊氏より、勅功の賞として高麗郡の内の地頭職を宛行われる。
一一四 足利尊氏袖判下文〔町田文書〕
  (花押)(足利尊氏)
下 高麗彦四郎経澄
可令早領地 武蔵国高麗郡内高麗三郎兵衛尉跡地頭職事
右 為勅功之賞所 宛行也者 守先例可致沙汰之状如件
正平七年閏二月十六日

〔解説〕南北朝期以降の守護領国制の下では、その支配下に組み込まれた現地の地主的領主に与えられた権益が地頭職といわれた。高麗三郎兵衛尉跡については詳細でないが、高麗郡内における彼の地頭職が、高麗彦四郎に擾乱後の勳功の賞として宛行われたのである。二月二十六日は足利直義死亡の日、三郎兵衛尉は直義方に付いて没収された闕所地*が、同族の彦四郎に宛行われたとみられる。
*闕所地とは、欠所地とも書く、所有者がいなくなった所領のこと。

正平七年(壬辰 一三五二、北朝は観応三年九月改元して文和元年)三月日、高麗経澄は多摩郡人見原・高麗郡高麗原合戦の軍忠を注進し、某の証判を受けた。
一一五 高麗経澄軍忠状〔町田文書〕
高麗彦四郎経澄申軍忠事
右 去潤二月正平七 十七日 将軍家御発向之間 自鎌倉令供奉訖
一同十九日 自谷口御陣 属于薬師寺加賀権守入道手
同廿日 於人見原 致散々合戦 通裏訖 此等次第 
鬼窪弾正左衛門尉渋江左衛門太郎 於同時合戦令見知者也
一同廿八日 於高麗原為執事御手(仁木頼章) 於東手崎 最初合戦致戦 若党原七郎手負被架右股之条 此等次第 岡部弾正左衛門尉鬼窪左近将監令見知供託 偽軍忠次第如件
正平七年三月日
承了(証判) (花押)(薬師寺加賀入道)

〔解説〕観応の擾乱は観応三年(一三五二)二月二十六日、直義が兄尊氏に殺されて終結した。しかし、この年閏二月十五日、南朝軍の新田義貞の子義興・義宗兄弟は宗良親王を奉じて上野で挙兵し、十八日鎌倉に入り、尊氏を逐った。こうして、いわゆる武蔵野合戦が起った。十九日、義興等は武蔵関戸(現多摩市)に陣し、尊氏は谷口(現東京都稲城市谷野口)に陣した。二十日、両軍は多摩郡人見原(現府中市人見)・金井原(現小金井市付近か)に戦ったが、新田軍は敗れて鎌倉に帰った。二十八日、新田義宗は宗良親王と共に武蔵国高麗原(日高市平沢のあたりか)・龍手指(小手指)・入間河原などで、尊氏側の仁木頼章軍と合戦し敗れた。こうして新田軍は鎌倉から退き、三月十三日には尊氏が鎌倉に入り関東は一応の静けさを取りもどした。この間において新田側にあった武士としては、児玉党(勝代・浅羽・四方田・庄・若児玉・中条)、丹党(中村・安保・加治豊後守・同丹内左衛門)・猪俣党(蓮沼・瓶尻)、野与党(桜井・大田)、私市党(私市)、西党(平山)、横山党(横山)、村山党(村山)など、武蔵七党の武士、及び熊谷氏らの西北武士が多く、旧直義方であった上杉憲顕・石塔義房・三浦高通らが尊氏に反して新田方に味方した、また、尊氏方に味方した武蔵武士としては、江戸・豊島・石浜・川越氏らであり、常総の武士としては、常陸大掾・佐竹・結城・小山・宇都宮氏などがいた。尊氏方に味方した一揆集団としては、平一揆・白旗一揆・花一揆・御所一揆・八文字一揆などがあった。高麗彦四郎経澄は尊氏側に味方して、執事仁木頼章の手に属し軍忠をつくした。なお、年号に正平(南朝年号)を用いているのは、正平六年十一月南北朝の和議が成立し、元号を正平に統一し観応を廃することになったためである。これは「正平一統」といわれた。しかし、翌正平七年閏二月二十日、南朝軍の京都占拠があり、当初の取り決めもここに決裂へ義詮は同月二十三日の日付から観応に復した。これに応じて各地でも元号が使い分けられた。この文書で正平を用いているのは、まだ元号が北朝元号に復したことを知らされてなかったためであろう。五月の文書(史料一一八)は観応に復している。
なお、南朝方の宗良親王が、小手指ケ原合戦で詠んだ次の和歌は有名になっている。
君がため世のため何かをしからん
すててかひある命なりせば(『新薬和歌集』)
また、高麗原について『風土記稿』では「……高麗原と云るは、今の新堀辺なり、南北十三四町東は的場村まで二里半許、渺々たる平原なりしと云う……」と記している。

一一六 観応三年(壬辰 一三五二、この年九月文和元年、南朝は正平七年) 三月日の板碑
所在地 高萩 寺林 (清水嘉作氏調査)
主尊・銘 弥陀1・観応三年三月日

観応三年(壬辰一三五二、この年九月二十七日改元文和元年、南朝は正平七年)高鷲氏三十二代多門房行高の弟左衛門介高広はこの年の三月、河村城で討死、三十一歳。高広弟兵庫介則長は同年間二月、武蔵野で戦い、鎌倉で死、二十八歳。
一一七 高麗氏系図〔高麗神社蔵〕
多門房行
(前略)
弟左衛門介高広同兄参宮御身方文和元年三月於河村城討死三十一弟兵庫介則長岡兄参宮御身方文和元年閏二月戦武蔵野有功攻入鎌倉時当流矢死二十八
〔解説〕高麗氏三二代多門房行高の弟兵庫介則長は観応三年間二月、南朝の征夷大将軍に任じられた宗良親王、新田義興、義宗の軍に応じて尊氏軍と戦いへ武蔵野合戦で功を挙げたが、鎌倉に攻め入るとき流失に当って死んだという。恐らく同月十八日のことであろう。その後三月には則長の兄左衛門介高広が河村城で討死した。これは鎌倉を取り戻そうとした尊氏軍との合戦ではなかったろうか。河村城(現神奈川県山北町)については、この年三月十五日当城で合戦があったことが三富元胤軍忠状(『神奈川県史』三)でわかる。なお、「高寛氏系図」によると、新田義興、義治が当城に逃げ込んだこともあった。(高麗氏系図は不適当にて削除)

観応三年(壬辰 一三五二、この年九月文和元年となる、南朝は正平七年)五月、八文字一棟の高麗四郎左衛門尉季澄は、去る閏二月十七日、武州を癸向し、金井原合戦・高麗原合戦に戦功をあげた着到状に足利尊氏の証判をうけた。
一一八 高麗季澄着到状〔町田文書〕
  (花押)(足利尊氏)
着到
八文字一揆高麗四郎左衛門尉季澄軍忠事、
右、去閏二月十七日、武州御癸之時令御共、
同廿日、金井原(多摩郡)御合戦之時、
薬師寺加賀権守入道令同道、至(致)散々大刀討了、
同廿八日、於高麗原抽戦功了、為備後証、着到如件、
観応三年五月 日

〔解説〕高麗四郎左衛門尉季笹は通称四郎と称したのであろう。その親は誰か特定できないが、年代的に推察すれば正慶二年(一三三三)三月二十八日東平沢などの所領について備進を命じられた高麗太郎次郎入道(史料八一)になろうか。平姓高麗一族の総領家とも推察できるからである。その子息に三郎兵衛尉・四郎左衛門尉・彦四郎・五郎左衛門尉を当ててみたらどうだろうか。いずれにせよこの時期、南北朝期には高麗氏がいくつかの庶子家を分出した姿としてみることができる。
八文字一揆とはこれら高麗一族を中心とした一揆集団であったと思われる。この着到状で四郎季浬は、観応三年閏二月十七日尊氏のもとに着到しているが、これは新田義興、義宗が上野に兵を挙げ武蔵に入った翌日である。恐らく尊氏から八文字一揆への軍勢催促が出されそれに応じたもので、この日尊氏は新田勢に押されて神奈川へ逃れ、十九日には谷ノロに陣し、そして二十日に金井原(現武蔵小金井)の合戦となり、尊氏軍は敗れ石浜にひき、勢いを盛り返した尊氏は府中に陣を張り、二十八日には小手指・高麗原・笛吹峠等に進軍して新田軍を破るのである。この間季澄は尊氏に軍忠をつくし、尊氏の証判をうけたのがこの着到状である。これと同じ行動が記載されているのが、高麗彦四郎経澄の軍忠状(史料二五)である。つまり、彦四郎と四郎左衛門尉は行動が同一である。共に八文字一揆として行動したのであろう。彦四郎軍忠状に名のある鬼窪・渋江氏(平氏・野与党)も同一揆のメンバーであったのかも知れない。こうした弱小土豪たちの一揆は在地支配に詳しい守護代クラスの国人が掌握した。この際武蔵守護代薬師寺公儀入道元可に結集した一揆であった。
なお、八文字一揆について、『新編埼玉県史』は、旗指物などに、八の字を書いたところからこの名を得たのであろう。高麗郡とその周辺の武士たちが結成した武士団、としている。高麗原についても確証に欠けるが、鎌倉街道に沿ったところで高麗川に近いあたりに想定できるであろう。

一一九 観応三年(壬辰 一三五二、この年九月二十七日改元して文和元年となる、南朝は正平七年)正平七年・正平銘の板碑
所在地 新堀39 吹上 霊巌寺墓地
主尊・銘 〈欠〉観応三年壬辰十月十六日 性円敬白
高さ 五〇センチ

所在地  高萩
主尊・銘1 弥陀1・正平七
高さ 一尺七寸上・下部を欠く (清水嘉作氏調査)

所在地 高萩 新宿
主尊・銘3 弥陀3・正平
高さ 一尺八寸下部を欠く (清水嘉作氏調査)

所在地 飯能市白子 長念寺
以色見我以音求我僧玄明
主尊・銘 (欠) 観応三年警月六日
是入行邪道不能見如来 敬白

観応三年(壬辰 一三五二、九月二十七日文和元年へ南朝は正平七年) この年春、高貰行高(高麗氏三十二代多門房行高)は新田義興に従軍し各地で合戦して敗れる。文和三年(一三五四)上州藤岡に隠れる。
一二〇 高麗氏系図〔高麗神社蔵〕 多門房行高
建武四年秋、奥州国司顕家郷 卒大軍攻鎌倉、行高時十九才成官御方 応新田義興招馳参 終責落鎌倉、時 (率)被庇帰干家、観応二年冬、応高倉禅門直義公招、卒百八十余人、馳参薩唾山御陳、 敗軍而逃帰、明文和元年春応新田義興招、所々合戦 同三年軍無利、義興・義治等逃河村城 時暫尋所縁隠上州藤岡(後略)
〔解説〕高麗氏の多門房行高については、建武四年に新田義興に従い、観応二年には足利直義に従い、そして文和元年には再び義興軍に従い再三の出陣であった。しかし、戦いは利なく 「尋所縁」上州藤岡に隠れることになった。これについて傍証とする史料に乏しいが、高麗氏と新田氏との関係の深いこと、上州高麗氏を考える上でも重要なことといえよう(群馬県には吉井町・甘楽町・富岡市・藤岡市に現在も高麗氏を名乗る者が多い) (高麗氏系図は参考にならず)

一二一 文和三年(甲午 一三五四、南朝は正平九年)十月十三日銘の板碑
所在地 北平沢60 中居(西島雅行家)
主尊・銘 弥陀1・文和三年甲午十月十三日
高さ 六四・五センチ

所在地 下鹿山 白幡(水村義夫家)
主尊・銘 大日1・文和三年十月   
高さ 二九・五センチ

一二二 文和四年(乙未一三五五、南朝は正平十年)銘の板碑二基
所在地 楡木41 貝戸(林広次家)
主尊・銘 大日?1・文和「ニ+ニ」(四)年三月四日
高さ 四二センチ

所在地 南平沢65 宮前 宮ヶ谷戸墓地
主尊・銘 弥陀1・文和「ニ+ニ」(四)年三円(土中
高さ 三九・二センチ

延文元年(丙申 一三五六、文和五年三月二十八日改元、南朝は正平十一年)十二月八日、熊野御師森次郎太郎則宗、武蔵国河越殿等の那智山旦那職を直銭一貫三百文にて光蔵坊に売り渡す
一二三 旦那売券〔潮崎稜威主文書〕埼玉県史資料編5所収
永ウリわタ(売渡)ス タソナ(且那)ノ事、

ムサシノ国 (武蔵国)力ワコエトノ(河越殿)
ツノタトノ (角田殿)
エト、ノ (江戸殿)
右、件タンナハ、竹内源慶ヨリ森ノ新三郎入道シンシャウ(真性?)ニユツリウルトコロナリ、シカルヲ大嶋ノモリノ二郎ニユツリわタス、シャ(ム)シヤウタカヒ(他界)ノノチ、依有要々、
一貫三百文ニ子息森ノ二郎大(太)郎ノリムネノハカライトシテ、
光蔵坊ニウリワタストコロ実也、不可有他妨、仍為後日之状如件、
延文元年十二月八日 森次郎大(太)郎則宗 (花押)

延文二年 (丁酉 一三五七、南朝は正平十二年) 高麗氏多門房行高、鎌倉側に降り、豪に帰る。死に臨んで遺言する。
二一四 高麗氏系図〔高麗神社蔵〕
多門房行高
(前略) 文和元年春 応新田義興招所に合戦 同三年軍無利 義興・義治尊逃河村城、時暫尋所縁 隠上州藤岡 延文二年乞降鎌倉 被御免許帰家 臨死遺言 我家者修験也 以後子孫代々錐有何事 必勿為武士之行 軍不致者也 堅戒卒
〔解説〕文和元年(一三五二)の春はまだ観応三年、この年九月に文和と改元。この年の閏二月、宗良親王を奉じた新田義興・義宗の招きに高麗行高が応じて出陣し尊氏の軍と戦ったことがわかる。しかし、文和三年戦利なく義興・義治は河村城へ逃げたという。詳細はわからないが、その後は縁ある者を尋ね上州藤岡に隠れていたが、延文二年二三五七)鎌倉方に降ったという(義興が矢ノロで自殺するのはその翌年である)。五年間にわたる合戦と逃亡の生活を新田氏と共にしたのである。しかもこの争乱には弟高広・則長も加って、二人の弟は討死した(史料二七参照)。行高は嘉慶二年(一三八八)七十歳で没するが、臨
終の際「我家は修験也…、いくさは致さざるものなり」、と堅く戒めるのである。

一二五 延文三年(戊戌 一三五八、南朝は正平十三年)銘板碑六基
所在地 新堀39 吹上 霊巌寺墓地
主尊・銘 (欠〉 延文三年二月廿六日逆修敬白
高さ 四六・七センチ

所在地 高萩91 甲別所墓地
主尊・銘 弥陀1・延文三年二月廿八日
高さ 五三・五センチ

所在地 鹿山68 四反田 掘南(市史編さん室)
主尊・銘 弥陀1・延文三年八月日
高さ 五七センチ (旧所在地不明)

所在地 横手2 入口 山上墓地 (石森トヨ家)
主尊・銘 (欠) 延文三年十月日
高さ 四五センチ

所在地 飯能市白子 長念寺(中村家墓地)
一切有為法 如夢幻泡影 玄法庵主
主尊銘 釈迦 延文第三戊戌 小春十七日
如露亦如電 応作如是観 逆修敬白
高さ 七七センチ

所在地 飯能市白子 長念寺(中村家墓地)
若以色見我
以音声求我 弧月玄心和尚
主尊・銘 釈迦3
是入行邪道 延文三戊戌十月日
不能見如来 預 修 敬 白
高さ 一四六センチ

延文四年(己亥一三五九、南朝は正平十四年) 二月七日、高麗彦四郎入道経澄、高麗五郎左衛門尉は、足利基氏より南方凶徒退治のための軍勢催足を受ける
一二六 ① 足利基氏軍勢催促状〔町田文書〕
南方凶徒退治事、将軍家所有御癸向也、早令参洛、
可致忠節之状如件、
延文四年二月七日  (花押)(足利基氏)
高麗彦四郎入道殿

  • 足利基氏軍勢催促状町田文書

南方凶徒退治事、将軍家所有御癸向也、早令参洛、
可致忠節之状如件、
延文四年二月七日  (花押)(足利基氏)
高麗五郎左衛門尉殿
[解説] 
延文三年四月三十日足利尊氏が死亡、義詮が将軍となるが、これを機にしてか南朝側は各地に蜂起する。十月十日新田義興は鎌倉府の畠山国清(関東管領・武蔵国守諺)によって矢ノロで滅ぼされるが(義興の怨霊が義詮の御所のあった入間川の在家三百余・仏閣数十を雷火で焼失したという)、南方各地の南朝軍については将軍義詮により征討軍が発せられた。これに合流すべく、鎌倉公方足利基氏により関東の武士にも動員がかけられてきたのである。この軍勢催促は高麗氏のほか、金子氏・別府氏・波多野氏などにも出されたことがわかっている。八文字一揆高麗四郎左衛門尉季澄(史料一一八)については詳細を得ないが、この際の一揆衆として把握されていたのであろう。
『太平記』には畠山国清(入道道管)が、関東の軍勢を率いて上洛したことが次のようにみえる。
延文四年十月八日、畠山入道々暫、武蔵ノ入間河ヲ立テ上洛スルニ、相順フ人々ニハ、先舎弟畠山尾張守(義深)・其弟式部大輔(義煕)、外様ニハ、武田刑部大輔(氏信)・舎弟信濃守(直信?)・逸見美濃入道・舎弟刑部少輔・同掃部助・武田左京亮・佐竹刑部大輔(師義)・河越弾正少弼(直重)・戸嶋因幡入道・土星修理亮・白塩入道・土屋備前入道・長井治部少輔入道(時治)・結城入道・難波掃部助・小田讃岐守(孝朝)・小山一族十三人・宇都宮芳賀兵衛入道禅可(高名)・子息伊賀守(高貞)・高根沢備中守・同一族十一人、是等ヲ宗徒ノ大名トシテ、坂東ノ八平氏・武蔵ノ七党・紀清両党、伊豆・駿河・三河・遠江ノ勢馳加テ、都合二十万七千余騎卜聞へシ……………

一二七 延文四年(己亥 一三五九、南朝は正平十四年)銘の板碑、同年とみられる板碑三基
所在地 横手8 滝泉寺墓地
主尊・銘 弥陀1 ・延文四年十月廿八日
高さ 三六センチ

所在地 下鹿山 白幡 (水村義夫家)
法仙?
主尊・銘 弥陀3 ・延文「ニ+ニ」(四)己亥十月十三   
逆修
高さ 四一センチ

所在地 横手8 滝泉寺墓地
主尊・銘 (欠) 延文「ニ+ニ」(四)□月廿日
高さ 四二センチ

延文五年(庚子二二六〇、南朝は正平十五年)四月三日、白旗一揆・平一揆等の軍勢は畠山義深を大将として、南方の四条隆俊の軍と戦う。
一二八 太平記〔巻第三十四〕埼玉県史資料編7所収
紀州龍門山軍ノ事
四条中納言隆俊ハ、紀伊国ノ勢三千余騎ヲ卒シテ、紀伊国最初峯ニ陣ヲ取テヲハスル由聞へケレバ、同四月三日、畠山入道々誓ガ舎弟尾張守義深ヲ大将ニテ、白旗一揆・平一揆・諏訪祝部・千葉ノ一族・杉原ガ一類、彼レ此レ都合三万余騎、最初ガ峯へ差向ラル。

〔解説〕四条中納言隆俊は南方軍(吉野)の総大将である。隆俊が最初ガ峯(和歌山県打出町)に陣を取っていた。延文五年四月三日、畠山国清の弟尾張守義深が大将となってこの陣に向った。その軍勢三万余騎、その中に白旗一揆・平一揆があって合戦が行われたのである(紀州合戦)。白旗一揆の名は『太平記』では貞和四年(一三四八)に既にでてくる一揆名である。これがのちに、上州・武州別に白旗一揆を名乗るようになる。白旗一揆はもともと上野・武蔵における児玉党などの中小武士団が中心となって、南北朝初期の観応の擾乱以前に結成されたもので、『源威集』によると、「白旗一揆ハ児玉・猪俣・村山ノ輩ヲ分進ル」とある.このことから白旗一揆は党という同族結合を母体として結成されたとみられる(久保田順一「南北朝・室町期の上野における在地領主の一揆について」).それがしだいに地縁的な結合体になるのである。

一二九 延文五年(庚子 一三六〇、南朝は正平十五年)銘の板碑三基
所在地 楡木42 東野 東光寺
主尊・銘 大日1(金剛界) ・延文五年十月日(細い二重枠線)
高さ 六二センチ

所在地 山根50 下大寺墓地(荻野菩一家)
主尊・銘 弥陀1・延文五年庚子十一月十一日心頼禅門
高さ 一〇二センチ

所在地 高萩
主尊・銘 弥陀1・延文五年
高さ 一尺二寸五分 (上下欠く 清水嘉作氏調査)

一三〇 延文六年 (辛丑 一三六一、この年三月二十九日改元して康安元年となる。南朝は正平十六年)銘の板碑
所在地 下鹿山 丸山墓地(細川五夫家)
主尊・銘 弥陀1・延文六年辛丑正月十   妙▢禅 尼
高さ 六九・五センチ

康安元年(辛丑一三六二延文六年三月二十九日改元、南朝正平十六年) 七月七日、鶴岡八幡宮の供僧公恵は宮の副御殿司職(祭事の際殿内のことを司る一人)に補せられ、井円と共に装束料所として女影郷が給された。
一三一 鶴岡御殿司職一方〔鶴岡八幡宮寺諸職次第〕
鶴岡紫斡第四輯所収
公 恵(着松坊)中納言大僧都
康安元七月七日依孔子、御殿司装束料所、幷円法印輿
相共於公方致訴詔(訟?)云々、女景郷可賜由落居云々、

〔解説〕鶴岡八幡宮御殿司職が一方である時の支障を考慮して二人に定めた。おのずから正副の別があり、副の御殿司職の歴代の記録がこの「御殿司職一万」系図である。公恵が鬮(くじ)によって御殿司職が当たり、その装束料所について井円法師と訴訟があり、女影郷が給されることで落着をみたという。しかしその詳細についてはよくわからない。 
なお、この史料は『鶴岡葉書』所収のものだが、『続群書類従本』所載の同史料に比べて、錯簡・脱落・誤植等が糺されているとみられている。

一三二 康安二年(壬寅 一三六二、この年九月二十三日改元して貞治元年となる。南朝は正平十七年)銘の板碑三基
所在地 南平沢65 宮前 宮ヶ谷戸墓地
主尊銘・大日1(金剛界) ・康安二年四月十明円禅尼
高さ 四七・五センチ

所在地 大谷沢112 下原墓地 (大河原宏家)
主尊・銘 大日1(金剛界) ・康安二年 (欠)
高さ 二九センチ

「康安二壬寅年(一三六二)八月時正、道法逆修」銘記の板碑が、新堀の建光寺にあったと伝えられている (『風土記稿』)。現物は所在不明。
一三三 貞治二年(癸卯一三六三へ南朝は正平十<年)銘の板碑
所在地 下鹿山丸山墓地 (細川五夫家)
主尊・銘 南無妙法蓮花経 貞治二年一月二十二日 日円
高さ 五二・三センチ

貞治二年(葵卯 一三六三、南朝は正平十八年)四月二十五日、足利基氏は高麗経澄をして高麗郡内知行分の年貢帖絹代を完済させる
二三四 鎌倉府政所執事奉書〔町田文書〕
武蔵国高麗郡内知行分年貢帖絹代事 先度被仰下之処 
于今無音 何様事候哉 所詮 云年々未進 云去年分 致究済可被遂結解 若猶遅怠者 任被定置之法 可被入請使之状依仰執達如件
貞治二年四月廿五日  沙弥(花神)
高麗彦四郎入道殿

〔解説〕高麗郡が北方・南方に二分され、北方郡の地頭職が高麗彦四郎に与えられていたことが一連の文書でわかる。その知行分の年貢と公事役として納入すべき帖絹(紙・絹織物)に代えるべき銭(公事銭) の催促をしている文書である。高麗郡の北方とは恐らく旧高麗郷 ほぼ現在の日高市を中心とした地域で、南方は旧上総郷 ほぼ現在の飯能市を中心とした地域であったとみられる。高麗北方郡が鎌倉府の御領所で、鎌倉府から必要な紙・絹の類を公事役として負担させられたわけである。高麗郡の生産物であったのであろう。ただ、ここではそれを銭で納めさせている。これが年々滞納されているので、よく調べて決済すべきこと、納入を怠れば法により処罰するとしている。沙弥は鎌倉公方足利基氏の執事・関東管領の上杉民部大輔憲顕であろう。このように鎌倉公方の奉書をもって、年貢・諸役について完納させることを命じているが、滞りがちであったとみられる。

貞治二年(癸卯三二ハ三、南朝は正平十八年)六月二十五日足利基氏は高鷲郡北方地頭をして、笠幡の年貢帖絹代を武蔵国長井庄定使森三郎に給し、年々の未進及び当年の残余を直納させる。
一三五 鎌倉府政所執事奉書〔町田文書〕
武蔵国高麗郡笠縁(幡?)年貢帖絹代事、為森三郎長井庄定使給物、且所切下也、任切符之旨、不日可沙汰渡給人、於年々未進及当年切残分者、令直納之、可被遂結解之状、依仰執達如件、
貞治二年六月廿五日        沙 弥(花押)
北方地頭殿

〔解説〕これも前の文書と同様、鎌倉府上杉憲顕から、高麗北方郡地頭高麗彦四郎に宛てた年貢・公事銭の納入を催促したものである。ここでは笠縁(笠幡)と限定しているから、他の村では納入済となったのだろうか。笠幡の分は長井庄定使(じょうし・荘官の一)の給物として当てている(未納となっても鎌倉府の欠損とはならない)。但し残余については鎌倉に納めよ、としている。この催促状の翌年、貞治三年にも次の文書(史料二二八)のとおり九月に同様の催促をしている。なかなか結解(けちげ)を遂げるに至らなかったことがわかる。長井荘は大里郡妻沼町長井とその周辺地域の荘園で、平安末は斎藤別当実盛が荘官であった。その後変遷して南北朝期には鎌倉府領になったと思われる。長井荘の定使森三郎は鎌倉府と長井荘の荘官の間に存在した者であろう。

貞治二年(癸卯 一三八三 南朝は正平十八年)八月二十五旦倣半、足利基氏は明日の岩殿山合戦をひかえた苦林の陣中においても、日ごろたしなむ笛を吹いて、心静かに決意を固めtかつ、天候を祈った。
一三六 源威集『新撰日本古典文庫3』所収
基氏朝臣、貞治二癸卯八月廿五日夜雨、御陣武州若林ノ野宿ニテ、明日厳殿山合戦成シ夜半計、御唐檀ヨリ御笛取出シ、御具足堅メナガラ左右ノ御寵手ノ指掛ヲヲロシ、鎖ノ指懸ヲ解セ給、御寵手ヲ臂ノ方へ押コカシ、音ヲハ不立御息ノ下ニテ、早キ楽ヲ半時計遊セシヲ承テ、乍恐何楽ニテ候由言上シタリシカバ、初ソ聞覧、 荒序也、手砕テ忘安キ楽成間、百日不闘是ニ稽古毎日所作也、明日合戦手ヲ、ロサバ、存命不定也、不可有後日ニ、且ハ笛ノ餘波(ナゴ)リ、且ハ為晴天両ノ祈祷成トテ、押沈メ御座シ事ノ体、御笛ノ稽古ハ去事ナレトモ、不思儀ニソ見奉リシ、思へハ永保ノ昔、義家・義光戦場ニ御笛ヲ携(タツサへ)賜テ、彼若冠ニ大事ヲ授給ケルハ、御当家ノ庭訓成ケリト、昔今ヲ感奉シカ、夜明シカハ、武州厳殿山ノ御合戦ニテ、敵ヲ多ク討取、関東静謐有りシ也、

〔解説〕足利基氏は、京都の楽家・笙の名家である豊原竜秋から笙を学んでいた。かつて入間河在陣のとき、竜秋次男成秋を陣中に呼び寄せたし、のち、竜秋の嫡子信秋を鎌倉に招き秘曲の相伝をうけた。そのときは、鎧・征矢・馬などのほか、所領二か所を信秋に与えた(その一か所が高麗郡広瀬郷内であった)。こういう基氏であったからこのたびの陣中にも笛を持参していたものと思われる。明日の合戦は鎌倉府の支配力を占う重要な戦いと心得ていた。その決戦を前にした基氏の心境を窺うことのできる出来事であった。源威集は嘉慶元年(一三八七)足利尊氏の臣下の者が足利氏繁栄のさまを記述したものといわれている。

貞治二年(癸卯 一三六三南朝は正平十<年)十一月、
畑野六郎左衛門入道常全は、一族一揆輩を催して鎌倉公方足利基氏の上州発向に従い、岩殿山合戦に疵を負う等、戦功を挙げたことを注進、矢野政親が証判した。
一三七 畑野六郎左衛門入道常全軍忠状〔畑野静司氏所蔵〕埼玉県史資料編5所収
畑 野六郎左衛門入道常全申忠節事、
去三月五日、鎌倉令当参之処、同八    御教書、相催一族一揆輩、可馳参    之間、則以飛脚、甲州之一族等相触畢、御所(足利基氏)上州御発向之間令供奉、同卅日石殿山属当御手候之処、最初御敵 散 合戦之間、常全馳向 、御敵数輩    畢 、 高股被庇畢、然則直御見之 上 賜 證 判、為備向後亀鏡、恐 言上の如件、 
貞治二年十一月
承了(証判) (花押)(矢野政親)

〔解説〕鎌倉府の足利基氏は、延文三年(一三五八)尊氏の死のあと、将軍義詮を助けて延文四年には南朝軍を鎮め、康安元年(一三六一)には、伊豆国に城郭を構えて基氏に背いた畠山国清を討伐した(これを支えた軍事力は平一揆、白旗一揆等の国人一揆であった)。貞治二年(一三六三)基氏は、直義党の重鎮であった上杉憲顕を取り立て、関東執事、また越後守護としたことが原因となり、宇都宮氏綱、芳賀兵衛入道禅司(高名)が妨害に出たため、基氏は鎌倉を発し、八月二十六日、比企郡岩殿山で芳賀勢を撃破、下野に入る。しかし、ここで宇都宮氏等も許した。以来、関東は静かな数年を迎えることとなる。
この宇都宮攻めのとき、畑野六郎左衛門常全は、基氏の御教書をうけ、甲州の一族に飛脚をもって相触れ、 一族の一揆をもって基氏に供奉し、岩殿山合戦では多数の敵と相討ち戦傷をうけるほどの奮戦をした。この働きに対し矢野政親の証判をうけたのである。

貞治三年 (甲辰 一三六四、南朝は正平十九年)九月十八日、鎌倉公方足利基氏、高麗郡笠縁・北方郡分帖絹代を長井庄定使森三郎に給付し、その直納を高鷲彦四郎入道経澄に命じる。
二三八 鎌倉府政所執事奉書〔町田文書〕
武蔵国高麗郡笠縁・北方郡分帖絹代事、為長井庄定便森三郎給物、所切下也、任切符之旨、不日可致沙汰、於所残者可被直納之状、
依仰執達如件、
貞治三年九月十八日   沙弥(花押)
高麗彦四郎入道殿
〔解説〕
高麗郡の北方郡分笠幡の帖絹代が未納なので長井荘定便給として、また残余は直納することを命じた催促である。前々からの年貢帖絹代未納が解決されないことがわかる(史料一三四・一三五)。

貞治三年 (甲辰三二ハ四、南朝は正平十九年)八月八日
勝音寺伝来の大般若経六百巻は、下野国上佐野庄の比
丘昌旭により、この日書き終えた。
一三九 大般若経巻第六百奥書〔旦向市粟坪勝音寺〕
(奥題)
大般若彼岸蜜多経巻第六百
千時貞治三年八月八日、下野国上佐野症(荘)之住人、此経一巻百礼、観音憾法l坐、横厳Eq一返、金剛経一巻、般若心経七巻読諭、文殊真言百反、虚空蔵冗百反、千手呪百反、地蔵m凡百反、不動光百反、毘沙門光百反、愛染党首反、此諸真言満供養書、比丘昌旭(花押) 生年二十七歳、年二年半ニ書写了、大檀那浄心禅尼一人
南無薬師如来

〔解説〕たて二四・六センチ、一行一七字詰、折本。この写経は浄心尼が大旦那となり、比丘昌旭が書いた。巻第一には「康安二年(一三六二)四月九日之立筆、一巻百礼、楞厳咒一反、観音懴法一座供養之大般若経也、大旦那浄心尼、書比丘昌旭(花押)」の奥書があるから、二年四か月で仕上げたことになる。これは大変な努力であった筈である。写経発願の趣意については、巻百九に「………以願此経之功徳、無量粟散国、衆生同生類成仏得道之為也」とある。一巻ごとに一〇〇礼し、観音懴法を修し、金剛経・般若心経を読誦し、多くの真言を誦して書きあげた。この写経がどのような経緯で勝音寺に所蔵されたのか、比丘昌旭・大旦那浄心禅尼などについても明らかでない。勝音寺は粟原山勝音寺臨済宗建長寺末、仏印大光禅師久庵僧可大和尚(建長寺七三世応永二四年没)開山、開基は開山の父親上杉兵庫頭憲将(上杉憲顕の子)。
 
写真一2 大般若経第一奥書(勝音寺)

一四〇 貞治三年(甲辰 一三六四、南朝は正平十九年)銘の板碑二基
所在地 粟坪25 土井尻墓 (中丸艶子家)
主尊・銘大日1 (金剛界)・貞治三年八月廿二日
高さ 五五・三センチ

所在地 飯能市白子 長念寺 (中村家墓地)
一見率塔婆 奉三宝弟子道円
主尊・銘釈迦1・ 永離三悪道 建立塔婆一基為
何況          善因者也
必定戊菩提 貞治甲辰十一月廿六日誌
高さ 八三センチ

貞治四年(乙巳 一三六五、南朝正平二〇年)四月二五日、多摩郡高幡郷平重光の下地を高麗三郎左衛門尉跡に打ち渡す。
一四一 平重光打渡状〔尊経閣古文書纂綱年四〕埼玉県史資料鰐5所収
被仰下僕武蔵国高幡郷事、任今月十九日御施行之旨、三田蔵人大夫相共荏彼所、沙汰付下地於高麗三郎左衛門尉跡供訖、仍渡状如件、
貞治四年四月廿五日 平重光 (花押)

〔解説〕高幡郷を高麗三郎左衛門尉助綱の後継者に渡すことを平重光・三田蔵人大夫の二人が現地へ行って伝えたのである。これは今月十九日の施行状(関東管領からの伝達文)の旨に任せて行った打渡状である。平重光は鎌倉府の奉行の者か、武蔵守護代クラスの者であろうが、三田蔵人は三田谷(青梅を中心とした地域)に根拠地を持った国人クラスの在地土豪であるから、平重光も高幡郷を中心とした地域にある在地土豪であるのかも知れない。高麗三郎左衛門尉助綱は、正和元年(一三一二)平忠綱譲状において所領を譲り受けた孫若のことで、高幡の平姓高麗氏であり、高麗郡の支族とみられている(『日野市史史料集』)。平重光との関係については明らかでないが同族であるのかも知れない。

一四二 貞治四年 (乙巳 一三六四、南朝は正平二十年)銘・貞治年間とみられる板碑三基
所在地 高萩100 谷津 谷雲寺
主尊・銘 (欠) 貞治「ニ+ニ」(四)乙巳年七月五日
高さ 五三センチ

所在地 大谷沢111 下墓地
主尊・銘 弥陀1・貞治「ニ+ニ」(四)年九月廿日
高さ 六八・五センチ

所在地 横手8 滝泉寺墓地
主尊・銘 弥陀1 ・貞治
高さ 四九・五センチ

一四三 貞治五年 (丙午 一三六六、南朝は正平二十一年)銘の宝薩印塔埼玉県史資料編9所収
所在地 川越市笠幡 延命寺
銘 大興開山元二辺公和尚
貞治五年丙午月十日
高さ 二〇センチ(基礎のみ)

〔解説〕笠幡の地頭は高麗彦四郎であった。貞治二年、同三年の鎌倉府政所執事奉書(町田文書)には、北方地頭・高麗彦四郎入道宛に、笠幡の年貢上納のことがある。延命寺(天台宗・川越中院末)については『風土記稿』に「開山元二 貞治五年九月十日寂す」、また「この寺往古は禅宗なりしが、慈眼天海(天台宗)と宗論のことありて改宗せしといい伝う」とある。なお、観応・応永・延文などの板碑もあり、高麗氏(高麗彦四郎)との関係で見る必要もあるのではなかろうか。

応安元年 (戊申 三一六八、貞治七年二月十八日改元、南朝は正平二十三年)二月八日、平一揆河越館に拠り鎌倉府足利氏満(金王丸)に叛くが、六月十七日上杉憲顕・朝戻らにより河越城は攻略され、 一揆が平定された。平一揆と通じた新田勢なども九月には平定された。
一四四 ① 鎌倉九代後記〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料編8所収
応安元年二月八日、武州河越ノ館ニ平一揆楯寵ル、氏満「于時十歳」・金王」発向、同閏六月十七日合戦、悉退治、
同八月十六日、野州宇都宮ノ城ヲ攻ム、九月廿日降参、
同年(応安元年)平一揆ニ与スル輩罪科ノ事、去観応年中駿州(駿河)薩睡山戦功ノ恩賞トシテ賜ル新地収公セラレ本領安堵ス、又観応ニ恩賞ノ地ナキ族ハ、本領三分一収公セラル


  • 花営三代記〔内閣文庫蔵〕埼玉娘史資料繍7所収

廿八日(六月)夜、関東事、去十一日、於武州、
平一揆打負合戦 引寵川越館之由、使者来云々、

一四五 市河頼房・同弥六人道代難波基房軍忠状
〔市河文書〕埼玉県史資料編5所収
「市河甲斐守」(端衷寄)
市河甲斐守頼房・同弥六人道代難波四郎左衛門尉基房軍忠事、
右、平一揆幷宇都宮以下凶徒蜂起之間、
為退治御発向之処属御手馳参、
六月十七日武州河越合戦之間、致散々太刀打、
至于符中致宿直畢、就中宇都宮御癸向之間、
八月十九日横田要害(多摩郡)、 廿九日勢木城合戦抽忠功、
九月六日宇都宮城攻之時、於屛際致忠節之上、顔房被射左肩・右股畢、然早任忠功下賜御判、為備亀鑑、言上如件、
応安元年九月 日
承了(証判)、 (花押)(上杉朝房)

〔解説〕平一投は河越・高坂・江戸等秩父平氏(系図参照)を中核とした武士の集団である。『源威集』によると「平一揆ニハ高坂・江戸・古屋・土肥・土屋」とある。これは平氏を本姓とする氏であるが、この当時一揆は血縁集団というよりは、地縁的な集団として活動するようになっていた。白旗一揆についても同様で、かつての児玉・猪股・村山の各党の人々によるところの上野・武蔵の地縁的集団である。この平一揆も平氏を本姓とする者だけでなく、河越を軸とした西武蔵一帯にわたる国人・土豪層によって結成された一揆集団とみられている。この平一揆は応安元年の二月になって、にわかに鎌倉府に対し反逆し、二月八日に河越城に籠る。原因は明らかでないが、平一揆の有力メンバーの高坂氏の所領問題ではなかろうか(『東松山市史』)。三月になると、平一揆が叛乱を起こすとの報が上京中の上杉憲顕に届く。憲顕は三月二十八日京都を出発して関東に戻り、足利氏満を擁して河越氏討伐に向かう。六月十七日(『鎌倉九代後記』など、閏六月とするが、市河文書で見るとおり六月十七日)河越館における合戦があり平一揆は敗戦、河.越・高坂氏は衰亡する。
平一揆と通じていた新田義宗・義治、下野の宇都宮一揆が不穏な動きをみせたが、これも九月六日には平定された。一揆の乱は鎌倉府草創期において、基氏没後の間隙を突いた形で癸生した国人一揆であったが、この乱の結果、これら有力な在地勢力(秩父平氏など)が姿を消し鎌倉公方は基氏から氏満へと移り、鎌倉府の支配は新たな段階に入った。
なお、『鎌倉九代後記』には、平一揆に与する者の罪科として「薩唾山戦功の恩賞地の没収」、恩賞地のない者は「本領地の三分の一を収公」とある。

応安元年 (戊申 一三六八、貞治七年二月十八日改元、南朝正平二十三年)五月二十l日、河越直重は高鷲季澄に、武蔵赤塚郷内石成村(板橋区成増町)半分を宛行った
一四六 河越直重宛行状〔町田文書〕
  (花押)(河越直重)
可令早高麗四郎左衛門入道希弘領知武蔵国赤塚郷内石成村半分事
右以人 任先例可令領掌之状如件
応安元年五月廿一日

〔解説〕この文書は発給者の名がないが、袖判の花押は河越直重のものである(武井尚「平一揆の文書について」埼玉地方史研究癸表会レジュメ1990年)赤塚郷(現板橋区赤塚のあたり)内石成村とは、現在板橋区成増・赤塚五丁目のあたり。ここの清涼寺は石成山を山号としている.高麗四郎左衛門入道希弘は四郎左衛門尉季澄のこと(正平七年、尊氏の感状がある。史料一一三)入道して希弘と号したことがわかる。
応安元年には三月に河越氏を中心としてこのあたりの国人土豪たちが一揆して鎌倉府に反抗した(平一揆)。これは六月に鎌倉公方足利氏満によって討伐されたが、その最中にこの宛行状は河越氏から発給されたものである。このことから判断すると、高麗希弘も一揆に加わり、その功績によって河越直重から赤塚郷内右成村を宛行われたものであろう。板橋区『図説板橋区史』によると、赤塚郷は、元弘三年(一三三三)には足利直義の所領であった。その後、直義の正室渋川頼子に譲られたが、正平七年直義が殺されると、赤塚郷も没収され、義詮の室渋川幸子が領することになった。ここで応安元年の平一揆があり、河越直重によって赤塚郷も押収されて高麗希弘に宛行われたとみられる。
赤塚郷はその後、永徳三年(一三八三)渋川幸子によって鹿王院へ寄進された。つまり高麗希弘が領したのはこのとき以前までということになる。但し、平一揆は制圧されるとその一揆に加わった者はほとんど所領を没収されたとみられているので、このとき以前にどんな処分があり、石成村の高麗希弘領がいつ没収されたのかなど詳細についてはわからない。

一四七 応安元年(戊申 一三六八、貞治七年二月十八日改元、南朝は正平二十三年)銘の板碑二基
所在地 久保16 亀竹 勝蔵寺墓地
主尊・銘 (欠) 応安元年十一月十日
高さ 三三センチ

所在地 鹿山73 内野墓地
主尊・銘 (欠)応安元年十二月五日阿 (欠
高さ 三六・九センチ

応安二年(己酉 一三六九、南朝は正平二十四年)正月、鶴岡八幡宮の供僧井円は、同社の御殿司職(祭事の際殿内のことを司る)に補せられ、装束料として女影郷を賜ったが、康暦元年(一三七九)この職を辞した。
一四八 八幡宮御殿司職次第『鶴岡叢書』第四輯所収
井 円(碩学坊) 民部卿法印
為装束(しゃうぞく)料武州女景郷申賜之、応安ニー正ー服辞之、

〔解説〕鶴岡八幡宮御殿司職の役を記した補任記録に記されたくじ記録である。御影堂の前でくじをひいて御殿司職を決めた。井円はそれに当たったので、その職の装束料として女影郷が給された。しかし、康暦元年(一三七九)にこれを辞したというのは、恐らく公恵との関係がうまくいかなかったためではなかろうか(史料一三一)。

一四九 応安二年(己酉 一三六九、南朝は正平二十四年)銘の板
所在地 南平沢65 宮前 宮ヶ谷戸墓地
主尊・銘 弥陀1・応安二年正月十六日道心禅尼
高さ 四九センチ

一五〇 応安三年(庚戊 一三七〇、南朝は正平二十五年この年七月改元し建徳元年となる)銘の板碑二基
所在地 下大谷沢119 西ノ久保墓地
光明遍照十方世界
主尊・銘 弥陀1 ・応安三年五月四日明一  
念仏衆生摂取不捨
高さ 八八センチ

所在地 清流28 清水墓地(和田伊平家)
主尊・銘 弥陀1・応安三年八月十七日成生明一
高さ 四四センチ

応安四年(辛亥 一三七一)南朝は建徳二年)閏三月九日熊野御師権少僧都善増は、武蔵国河越・江戸・角田氏等の那智山旦那職を盛甚律師、河瀬定幸に譲る
一五一 旦那譲状〔潮崎稜威主文書〕埼玉県史資料編5所収
譲与処分「但於宿坊者、盛甚可為計老也、(花押)(善増)
合武蔵国河越・江戸・角田等事、
右、相副相伝支証、于盛甚律師・河頬左衛門太郎定幸所譲渡実正也、然而彼檀那参詣之時者、相共致其沙汰、以残所可訪善増之後生者也、仍為後日亀鏡之状如件、
応安四年間三月九日  権少僧都善増(花押)

河越・江戸・角田(すみだ)氏は秩父平氏の出身(系図参照)

一五二 応安四年(辛亥 一三七一、南朝は建徳二年)銘の板碑
所在地 楡木42 東野 東光寺
主尊・銘 大日1(金剛界)・応安「ニ+ニ」(四)年十一月十二日 幸善
高さ 五四センチ

一五三 応安五年(王子 一三七二、南朝は建徳三年この年四月改元して文中元年となる)銘の板碑
所在地 粟坪26 発霧墓地
主尊・銘 弥陀1・応安五年八月日
高さ 五九センチ

一五四 応安六年(癸丑 一三七二「南朝は文中二年)銘の板碑三基
所在地 下大谷沢116 南(道南)墓地(大河原福太郎家)
主尊・銘 弥陀1・応安六年十一月九日
高さ 四六・二センチ

所在地 猿田45 東田 西蔵寺墓地
主尊・銘 弥陀1・応安六年十二月十二日
高さ 四四センチ

所在地 女影八88 宿西 薬師堂墓地
主尊・銘 大日1(金剛界)・応安六年十二月▢▢▢▢
高さ 三六・七センチ

一五五 応安七年(甲寅 一三七四、南朝は文中三年)銘の板碑
所在地 鹿山73 内野墓地

主尊・銘 弥陀3・応安七年甲刁西阿禅門逆修?
高さ 三五・五センチ

一五六 応安八年(乙卯 一三七五、この年二月改元永和元年となる。南朝は文中四年、この年五月改元天授元年となる)銘の板碑三基
所在地 高萩103 北不動 (比留間守福家)
諸法寂滅相
主尊・銘 釈迦1 ・応安八年乙卯五月廿七日浄宗大師
不可以言宣
高さ 一〇一・三センチ

所在地 南平沢65 宮前 宮ヶ谷戸墓地
毎日農朝入諸定
入諸地獄令離苦
主尊・銘 弥陀3 ・永和元乙卯七月十二日右為聖清禅尼立
無仏世界度衆生
今世後世能引導
(弥陀の脇侍は観音と地蔵(?)となっている稀少な例)
高さ 一一二センチ

所在地 下大谷沢119 西ノ久保墓地
主導・銘  弥陀1・応安八年七月廿二日
高さ 五六・八センチ

一五七 応安年間(一三六八~七五)の板碑二基
所在地 楡木42 東野 東光寺
(光明真言)
主尊・銘 弥陀1 ・応安(欠) □円敬白
(光明真言)
五七・五 センチ

所在地 女影八七 若宮 若宮墓地
主尊・銘 大日1(金剛界) ・応安(欠)
高さ 二五センチ

一五八 永和三年(丁巳 一三七七、南朝は天授三年)銘の板碑二基
所在地 高麗本郷14 鹿台墓地
(光明真言)
主尊・銘 (欠) 永和年丁巳二月時正 妙全逆修
(光明真言)
高さ 六四センチ

所在地 横手7 峯墓地 (山口憲寿家)
主尊・銘 弥陀3・永和三年六月▢▢▢
高さ 五一・六センチ

永和三年 (丁巳 一三七七、南朝は天授三年)七月六日・浅羽太郎右衛門入道洪伝は、高麗兵庫入道の子周洪の田を買い、これを報恩寺に寄付した。
一三九 越生報恩寺年譜〔法恩寺蔵〕埼玉県史資料鰐7所収
同(永和)三年丁巳、浅羽太郎右衛門入道洪伝、買得高麗兵庫入道之息周洪之田、寄附焉、証文別有、七月六日 洪伝判一天

〔解説〕高麗兵庫入道については、丹党加治氏の一族に兵庫助規季があり、この人物が高麗氏関係族の中で兵庫助を名乗っている(丹党系図)ので、その関係者であろうかと推察できる。加治氏も高麗氏も丹党の同族であり、ともに高麗郡の中心的存在であったことから、両者の往来は多かったのであろう。浅羽太郎右衛門入道洪伝は児玉党人西氏で、浅羽郷(現坂戸市の上・下浅羽・周辺)の在地領主であろう。

康暦元年 (己未 一三七九、永和五年三月二十二日改元、南朝天授五年)二月十六日金子豪重、入西郡金子郷内屋敷を孫いぬそうに譲り渡す。
一六〇 金子家重譲状写〔萩藩閥閲録八十一〕埼玉県史資料編5所収
ゆつりわたす、むさしのくに にへとしのこおり(郡)かねこのかう(金子ゴ郷)のうちやしきの事、いぬそうまこ(孫)たるによて也、いらいをかきて(限りて)、ゆつりあたうるところしち也、しんしきかいハ(四至境は)、ひんかしのさわのなかれ(流)、ひんかしのさか(坂)のミなミのくねくねお、なかミちのかさかけ(笠懸)のあつちのうしろのなミきをすくに(直ぐに)、やまなかのくねきのかふ(株)ゑすくにとおして、うちこしのきわた(澤田)のミなミのほりほりお、にし(西)ハかきり、さわのとおりを、やまきハのほそミち(細道)おゆてうさかいのミね(峯)ミねお、うちこしゑすくにとおして、きた(北)ハかきる、しやうちう(正中)二年のいるまかわ(入間川)のなかれ(流)おちきゃう(知行)すへし、しひつ(自筆)おもつてゑいたい(永代)おかきて、ゆつり(譲)わたすところしち(實)也、
たゝし、そうき(宗基)かゆつり(譲)おそ(背)むかん物ハ、そうき(宗基)かあとお一ふん(分)もちきやう(知行)すへからす、もしふしきなる事候ハハ、もとのことく、いぬそうかはゝ(母)ちきゃう(知行)すへし、よつて(仍)のちのためにゆつり(譲)状くたんくのことし(如件) 
ゑいわ(永和)五年二月十六日 宗基判(金子家重)

〔解説〕金子家重は金子系図(山口県立文書館「萩津譜録」―系図参照)によると金子十郎家忠の八代目、右衛門督・宗基、母は上杉重藤女・応永十年(一四〇三)六月十七日没.武蔵七党の一、村山党の出身、入間郡金子が本貫の地。金子郷の屋敷を孫いぬそうに譲り渡した。同系図によると、家重の孫は充広。充広は家重の父の没年・年齢などから考えて家重が四十歳ころの孫、出生を喜んで譲渡したものだろうか。それから二四年経って家重は没し、孫充広は譲渡を受けて六〇年後に没している。

康暦二年(庚申 一三八〇、南朝は天授六年)十月高麗兵衛三郎師員は、鎌倉公方足利氏満の小山義政退治に従い、六月十八日武蔵府中に馳参以来の軍忠次第を提出、下野守護代木戸法李の証判を得た
一六一 高麗師員軍忠状写〔彦根城博物館保管彦根藩井伊家史料「高幡高麗文書」〕「日野市史史料集」所収
着到高麗兵衛三郎師員軍忠次第事
右、小山下野守義政為御対治御進発之間、属当御手 去六月十八日馳参武州国府以来、於村岡・足利・天明・岩船其外在々所々御陣、致宿所警固、 同八月九日小山祇薗城北口被召御陣之時、御敵出張之間、抽忠節追入城内畢、
一、同八月十二日・十六日両日、御敵出張之間、終日致忠節、追入城内畢、
一、同八月廿三日、宇津官・那須押寄兵(天?)王口合戦之問、致模相追入城内畢、
一、此外毎日於矢軍者、致随分忠節之条、為大将御前之間、不及証人無其隠者也、然早賜御証判、為備御証、恐々言上如件、
康暦二年十月 日
「承了(証判)(花押影)(木戸法季)」

写真13 高麗師昌軍忠状写(彦根城博物館高幡高麗文書)

〔解説〕康暦二年五月、下野守護小山義政は、宇都官の豪族宇都宮基綱(氏網子)と争いを起こし(地下人の境争いが原因という)、宇都宮氏を討ち取ってしまった(小山義政の乱)。鎌倉公方足利氏満はこの私闘に激怒する一方、下野に豪族的勢力を拡大していた小山氏退治の絶好の口実をつかんだ。六月一日氏満は、関八州の武士に御教書をもって義政退治を命じた。高麗師員・別府尾張太郎幸直もこれをうけて出陣した。高麗師員は六月十八日府中に馳参、武州村岡から下野天明に進んだ。その進軍と戦功についてこの軍忠状に詳しく書き上げている。小山義政は九月十九日降参して、この小山氏討伐は一応終了したところで、高麗師員軍忠状は書かれている(その他、波多野・庭野・大嫁・個田各氏の軍忠状も遺されている)。
 しかし、その翌年康暦三年(二月永徳元年)義政は再び叛き、上杉朝宗・木戸法挙の軍に降伏し、永徳二年義政は三度叛いて挙兵、この年四月十三日遂に自匁して果てるが、こうした執拗な豪族の反抗を鎌倉府が制圧するために、康暦三年正月、将軍足利義満に対し、小山対治のために白幡一揆の下賜を願っている(『空華日用工共時集』)、当時白幡一揆は、幕府・将軍の影響力が強く、鎌倉府からの指示命令だけでは行動を起こさなかったのかも知れない。また、こうして合戦に臨んでも鎌倉府の指揮系統に従わない行動に出ることも多かったようだ。高麗氏・別府氏もこの当時、武州白旗一投の構成メンバーであったとみられるが、観応の擾乱期における白旗一揆とは質的にも変化したことが伺える。
高麗兵衛三郎師員については、当時の高幡高麗氏の中心人物であったろう。史料では三郎左衛門尉助綱の次に見える。助綱と父子関係とみていいだろう。

一六二 康暦二年(庚申三一八〇、南朝は天授六年)銘の板碑二基
所在地 上鹿山74 屋敷ノ内 西光寺墓地
主尊・銘 弥陀1・康暦二年七月十三日 善阿
高さ 四五・八センチ

所在地 粟坪25 土井尻墓地(中丸艶子家)
主尊・銘 弥陀1・康暦二年六月廿四日
高さ 三六センチ

一六三 康暦三年・永徳元年(辛酉一三八一、この年二月二
十四日改元して永徳元年。南朝は天授六年二月十日改元して
弘和元年)銘の板碑三基
所在地 楡木42 東野 東光寺
主尊・銘 弥陀1・康暦三 〈欠〉  
高さ 三八センチ

所在地 楡木41 (林広次家)
主導・銘 弥陀1・永徳元年七月十二  
高さ 三三センチ

所在地 楡木41 (林広次家)
主尊・銘 弥陀1・永徳元年八月一口口口
高さ 五三センチ

永徳元年(辛酉 一三八一、南朝は弘和元年)八月六日、女影郷を装束料として給されていた鶴岡八幡宮御殿司職一方の頼全はこの日死去した。
一六四 鶴岡八幡宮御殿司職一方〔『鶴岡叢書』第四輯〕
頼 全(寂静坊) 大弐法印
為装束料武州女景郷一万腸之、随分興隆軟、元(永)徳元八六逝去

〔解説〕鶴岡八幡宮御殿司職一方の公恵のあとをこの頼全がその職にあったのだろう。頼全没後の女影郷については不明だが、女影郷は康安元年(一三六一)~永徳元年(一三八一)この間、鶴岡八幡宮御殿司職装束料に充てられていたことがわかる。
file:///C:/Users/Yito/Downloads/shigaku_45_nakajima.pdf
中嶋 和志[PDF]鶴岡八幡宮における供僧の成立と役割

永徳二年(壬戊一三八二)四月、武州中一按の金子家柘は、小山義政退治のための軍忠を注進、木戸法季が証判した。
一六五 金子家祐軍忠状〔金子文書〕埼玉県史資料編5所収
着到武州中一揆
金子越中又六家祐申軍忠事
右、去月廿二日夜、(郭)(下野)小山下野守義政結没落祇薗城、糟尾山構城榔楯寵云々、而同廿  依仰、為御退治大将御発向之間、家祐為一跡家督、一族相共令供奉、抽戦忠畢、而御退治以後至 干小山(下野)御陣、御帰参之期、致宿直警固之上者、給御証判、為備後証 仍着到如件
永徳二年四月 日
承了(証判)、 (花押)(木戸法季)

永徳三年(癸亥一三八三、南朝は弘和三年)十一月銘の円堂寺大般若経第四二二の行間に、喜捨者として高麗大炊助頼秋の名がある
一六六 永徳三年大般若経第四二二刊記(鎌倉市円覚寺)埼玉県史資料編9所収
高麗大炊助頼秋(行間音捨者)
(奥題)大般若波羅密多経巻第四百一十三 化縁比丘智感
永徳三癸?亥十一月日
(後輩)文安五(一四四八)稔戊辰秋之孟(七月) 堂司正瑞謹誌之

〔解説〕円覚寺蔵のこの大般若経は、勧進を沙門智感が中心となって刊行した版本の大般若経で智感版大般若経といわれる。その行間に多くの人名の記入が見られる。高麗大炊助の名は巻第四一三の行間に見られる。智感の勧進に応じて費用を寄進した喜捨者として記されたとみられている。これらによってこの大般若経の出資者は鎌倉御所の氏満・氏兼、関東管領上杉氏のほか、斯波・畠山・今川・吉良・平野・高麗氏など関東の人々であった。版を彫ったのも鎌倉のあたりの人であろう (貫達人「円覚寺蔵大般若経刊記等に就て」金沢文庫研究七五)。高麗大炊助頼秋の世系についても、また智感との関係についても明らかでない。

写真⒕ 永徳三年大般若経第四一三刊記(鎌倉市円覚寺埼玉県史編纂室提供)

一六七 永徳三年 (癸亥一三八三、南朝は弘和三年)銘の宝箇印塔二基

所在地 飯能市白子 長念寺
銘 永徳三癸亥年(七月?) 三日
総高 七五・〇センチ
備考 二個積まれた基礎のくち下段に銘がある。上段の基礎は摩滅がひどく、銘の確認は不可能。

所在地 横手(大川戸洋家)
銘 永徳三年十月十日 道善逆修
総高  七一・二センチ
備考 反花座・基礎・笠・相輪の順に積まれているが、相輪は大部分欠損。基礎は上部二段、二区に区画されており、銘は一面のみ。

写真一5 永徳三年銘宝箇印塔(大川戸禅家)

一六八 永徳三年(癸亥碑二基二二八三、南朝は弘和三年)銘の板碑二基
所在地 粟坪24 栗原 前墓地
主導・銘 〈欠〉 永徳三年三月  日 明善逆修
高さ 四七・五センチ

所在地 大谷沢一一〇 西原 西浦墓地
主尊・銘 弥陀1・永徳三年十二月▢▢▢▢ 
高さ 五五センチ
年四月二十八日改元して元中元年)二月七日、御師道賢は武蔵国丹治氏一族等の那智山旦那職を寛宝坊に譲与する。
一六九 旦那等譲状〔米艮文庫〕埼玉県史資料編5所収
譲状惣丸帳
寛宝坊分
一寺坊、同敷地、資財、雑具等、又寺敷地一所下院浄日坊跡、
一井関林山、同田畠等、
一駿河国北安東庄内蔡(葵?)名領家年貢米二石五斗、色代銭八百文、同庄内松久名小袖銭壱貫文、同得用名年貢米廿八石七斗五升六合、同田所名年貢米七石五斗五升、自鵜殿輔法橋政存譲得分、
一下人 末代法師、和泉女ニいとまとらする也、
北案東庄内得用名領家年貢米/富成名年貢十一石六斗、色代銭五貰文、
             
一槽那
鎌倉熊野堂別当経有僧正門弟引檀那等、同鎌倉若王子
別当慶智法印跡門弟引檀那、二階堂信乃一門、
一槽那 奥州(一二迫一族幷金ワカウ之一族、多田満中御一家、
延頼一家、井安頼一家)
出羽 上野 下野 下総 相模熊谷一族、
武蔵丹治氏一族一円、 伊豆 駿河 遠江 駿河国高橋一家
…………………… (紙継目・裏花押)………………………… 
三河(大草一族、同杉山一門、野依一門)、 尾張、美濃、
近江、大和、伊賀(北畠一族一円)、伊勢(丹生山四村一円、伊勢之国司御一族、不一人漏)、丹後 丹波(ハワカへ之一族)、摂津(久?我大納言一円)、 美作江見一族、
長門(富田一族西東一円)、肥後 肥前 豊前 日向 出雲 伊与 幡摩 紀伊 越中 佐渡計良、同中川一族、伯著、此外、諸弟配分所漏諸旦那等一円、
一大方殿分
坂本大坊地之南小地、同坊、資財、雑具等、
檀那 越後 越前 加賀
一姫女分坂本大坊敷地、同坊、資財、雑具等、
下人泰地女并犬女
檀那 河内 大隅 讃岐
…………………… (紙継目・裏花押)…………………………一証一証宝房分、寺敷地一所、六角豊北、仙良房跡也、駿河国北安東庄内富成名年貢米十一石六斗、色代銭五貫(接)文、小芝安(按)察法橋祐論自譲得分也、檀那大和小官少輔阿闍梨、
一応供坊分 豊後浄順大夫僧都より譲得分(坂之郷旦那)、
一城喜坊分 下人四郎母子共、存生時より譲之、
一長儀坊分 幡摩(播磨)国津万里西林寺先達引旦那等、
一照連坊分 石見国小石見護摩堂僧宗俊門弟、
一聖浄坊分 二階堂隠岐一門等、
右、件檀那・田畠等、自先師執行法眼祐豪手、任建武参年譲状、譲渡所之所帯也、全不可有他妨候、偽為後日亀鏡状如斯、
…………………… (紙継目・裏花押)………………………… 
永徳「ニ+ニ」(四)年二月七日    執行法印通覧(花押)

〔解説〕この譲状で、丹治一族一門の那智山旦那職が道賢から寛宝坊に譲られたことがわかるが、この文書が示しているように、旦那職は他の財産とともに、財産の一つとして譲渡売買の対象とされたのである。なお、この文書は執行法印道賢が寛宝坊をはじめ、弟子たちに分け与えたものであるが、それは先師たる祐豪より建武三年(二二三六)に譲り受けたもの(史料八八)だとしている。

一七〇 永徳四年 (甲子 一三八四、この年二月二十七日改元して至徳元年となる。南朝は弘和三年四月二十八日改元して元中元年となる)銘の板碑
所在地 南平沢65 宮ヶ谷戸墓地
光明遍照十方世界
主尊・銘 弥陀1・永徳四年八月廿六日 願清
念仏衆生摂取不捨
高さ 五五・五セソチ

至徳二年(乙丑一三八五、南朝は元中二年)十一月銘の鎌倉円覚寺大般若経第四〇八の行間に、高麗伊豆正丸の名が記されている。
一七一 至徳二年大般若経巻第四〇八刊記〔鎌倉市円覚寺〕埼玉県史資料編9所収

高麗伊豆正丸(行間喜捨者)     /化縁比丘智感
(奥題)大般若波羅蜜多経巻第四百八 /至徳二乙丑十一月日
(後輩)文安五稔戊辰(七月)秋之孟 堂司正瑞謹誌蔦

写真⒗ 至徳二年大般若経第四〇八刊記(鎌倉市円覚寺埼玉県史編纂室提供)

〔解説〕鎌倉円覚寺智感版大般若経(史料一六六参照)の巻第四〇八の行間に高麗伊豆正丸の名が記されているのである。この大般若経を書き上げるに当たりへ智感の要語に応じて喜捨した者とみられる。高麗伊豆正丸について世系等不明であるが、高麗郡を二分して流れる高麗川の水源が伊豆岳、正丸峠にあることから伊豆正丸の名を称したことを推察できる。(?)
高麗郡の高麗氏一族であることにまちがいないだろう。そうすると、前出(史料一六六)の高麗大炊助も、後出(史料一七二)もその一族であろうか。なお、高腰神社には建暦元年(一二一一)から建保五年(一二一七)にかけて、高麗氏顕学房慶弁によって書写された大般若経がある(史料十一、十三)。武士たちの信仰心、本地垂逆説的考え方が強く、現世利益を追求した背景がうかがえる。

至徳三年(丙寅三一八六、南朝は元中三年)四月銘のヽ円覚寺大般若経巻第四一〇刊記に、高麗亀松丸の名がある
高麗亀松丸(行間喜捨者)       化縁比丘智感
(奥題)大般若波羅密多経巻第四百一十 至徳三丙刁四月日

写真⒘ 至徳三年大般若経第四IO刊記(鎌倉市円覚寺埼玉県史編纂室提供)

一七二 至徳三年(丙寅三一八六、南朝は元中三年)銘の板碑五基
所在地 下大谷沢113 二反田墓地
主尊・銘弥陀1 ・至徳三年二月四日▢▢
高さ 五五・八センチ

所在地 南平沢65 宮前 宮ヶ谷戸墓地
主尊・銘 弥陀1 ・至徳三年四月八日 法一
高さ 二九・五センチ

所在地 下大谷沢119 西ノ久保墓地
光明遍照
十方世界 教法
主尊・銘 弥陀1・至徳三年丙刁十一月十九日
念仏衆生 禅門
摂取不捨
高さ 九三センチ

所在地 粟坪21 前畑 竜泉寺墓地
主尊・銘弥陀1・至徳三年丙刁十l月十九日妙心禅尼
一6一
至徳三年(丙寅一386)
高さ  六七・五センチ

所在地 新堀40 楡木 建光寺墓地
主尊・銘 弥陀1 ・至徳三年 二月廿日妙善
高さ 六二センチ

一七五 至徳三年 (丙寅 一三八六、南朝は元中三年)銘の宝篋印塔四基 埼玉県史賢料編9所収

  • 所在地 飯能市白子 長念寺

銘  道賢
至徳三年丙寅八月二十四日
総高 七四・五センチ
備考 基礎は二段積まれて、下段の基礎にこの銘がある。上段の基礎には一七五⑤ の銘(至徳四年八月七日)がある。長念寺に現在このように基礎が二段積まれた宝篋印塔が九基ある(写真18)。


  • 所在地 飯能市白子 長念寺

清夢一公禅師
至徳三年丙寅 八月二十四日
総高 七五センチ
備考 上段の基礎には一七六の銘(至徳年銘)がある。

③ 所在地 飯能市白子 長念寺
性善
至徳三年丙寅八月二十四日
総高 七二・〇センチ
備考 下段の基礎には銘がない。


  •  所在地 飯能市白子 長念寺

道願
至徳三年丙寅八月二十四日
総高 六八センチ
備考 上段の基礎に、一七五②の銘(至徳四年二月廿八日)がある。

一七五 至徳四年 (丁卯 一三八七、南朝は元中四年)銘宝薗印塔五基 埼玉県史資料編9所収

  • 所在地 飯能市白子 長念寺

銘   ▢▢▢▢▢▢
至徳「ニ+ニ」(四)年二月廿八日
総高 七六センチ
備考 下段の基礎に、一七五の銘(至徳四年二月廿九日)がある。


  • 所在地 飯能市白子 長念寺

玄椿
至徳「ニ+ニ」(四)年二月廿八日
総高 六八センチ
備考 下段の基礎には一七四の銘(至徳三年八月二十四日)がある。


  • 所在地 飯能市白子 長念寺

霊用尼
至徳「ニ+ニ」(四)丁卯二月廿九日
総高 七六センチ
備考 上段の基礎に一七五① の銘(至徳四年二月廿八日)がある。


  • 所在地 飯能市白子 長念寺

道円
至徳四年二月▢▢▢
総高 六九センチ
備考 下段の基礎にも銘文があるが、磨滅して判読不能


  • 所在地 飯能市白子 長念寺

銘  ▢▢▢▢
至徳「ニ+ニ」(四)年八月七日
総高 七四・五センチ
備考 下段の基礎に一七四② の銘(至徳三年八月二十四日)がある。

一七六 至徳 (一三八四~一三八七)銘宝簡印塔一基
所在地 飯能市白子 長念寺
宗久禅□
至徳▢▢▢▢二月廿九日
総高 七五センチ
備考 上段の基礎に一七四②の銘(至徳三年八月二十四日)がある。

嘉慶二年 (戊辰 一三八八、南朝は元中五年)五月十八日、高麗清義は武州北白旗一揆に属して、鎌倉府に反抗する常陸国の小田孝朝退治に参陣し、この日男体城攻めの先懸を為し、一の城戸で散々の太刀打ちをして戦功を挙げた。
一七七 鎌倉大草子〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料編8所収
(前略)
嘉慶元年(至徳四年)丁卯五月十三日、 古河住人(下総国葛飾郡)野田右馬助 囚人一人搦進す、此男白状申けるは、小田讃岐入道父子(恵尊・孝朝)、小山若犬丸同意にて、野心ありて、若犬丸穏置のよし申、(恕カ)此小田入道西尊(恵尊?)ハ、先年小山退治の先手に参、忠功の人なり、何のうらみありて敵と同意有やらむとうたがひながら、六月十三日、小田が子二人被召預、七月十九日、上杉神助(朝宗)大将にて常陸の小田城を攻らる、小田幷子息二人幷家老信田の某等、小田を落て男体山(常陸)に楯籠る、此城高山にて、力攻に落ちしかたし、十一月廿四日より相戦といえども、勝負もなし、鎌倉殿(足利氏満)より海老名備中守(満季)為御便、御免許可被成間、可有出城由、被仰遣ける間、明る康応元年五月廿二日、小田幷子息孫四郎被召出ける、摘子太郎(小田治朝)を那須越後(前)守に預けらる、同十七日、暁天に又攻寄、小田家来百余人打負、切腹、城中より火を懸、焼払て没落す、
(後略)

一七八 高麗清義軍忠状〔町田文書〕
着到武州北白旗一揆
高麗掃部助清義申軍忠事
右、為小田讃岐入道(孝朝)子息以下輩御退治、大将御発向之間、去年至徳四 七月廿七日馳参常州布川御陣、八月十日小田(常陸)御陣、同十七日志筑御陣、同十九日山崎御陣、同廿日岩間御陣、同廿八日朝日山御陣、爰嘉慶二 五月十二日男躰城切岸御陣取之時 致忠節訖、同十八日城攻之時 令先懸、於一城戸散々致太刀打、抽戦功畢、凡於在々所々、御陣致宿直警固、至手当城没落之期 令長攻、抽軍忠之上者、賜御証判、為備向後亀鏡 着到如件
嘉慶二年六月 日
承侯了(証判) (花押)(上杉朝宗)

〔解説〕平一揆は応安元年(一三六八)正月に起き、六月十七日の河越合戦で平定され、続いてこれに一味した宇都宮氏・新田義貞の遺子義宗・義治等が討たれて以来、東国は鎌倉府・関東管領の下に敵対する者がなかったが、康暦二年(一三八〇)下野守護小山義政が同国の宇都宮基綱を討ち取るという事件が癸生したため、鎌倉公方足利氏満は小山氏退治を関東八か国に命じ自らも出陣して小山氏の乱は起きた。鎌倉府は小山氏討伐にあたり、白旗一揆に動員を要請、永徳元年(一三八一)二月には武州北白旗一揆が従い、各地で奮戦した。この年 小山氏は鎌倉軍に攻められて降伏した。翌永徳二年(一三八二)小山義政は子若犬丸と共に再び反抗し、これも一か月後に平定され小山氏の乱は一応収められた。しかし、至徳三午(一三八六)五月、奥州方面に隠れていた若犬丸が突如として小山の祇園城に入り、兵を挙げた。そこで足利氏満は同年七月鎌倉を発ってこれを討伐した。若犬丸は逃走したが、翌嘉慶元年(一三八七)、常陸国の豪族小田氏が若犬丸をかくまっていたことがわかったため、鎌倉府は上杉朝宗をして小田孝朝を討たせた。このとき、武州北白旗一揆に属した高麗掃部助義清が参陣し戦功を立てたのである。
嘉慶元年(一三八七)七月二十七日、常陸布川(茨城県下館市布川)の陣に馳せ参じ、八月十日には小田(同つくは市小田)陣において、同十七日は志筑(同千代田村)陣において、同十九日は山崎(同八郷町)陣において、同二十日には岩間(同岩間町)陣において、同二十八日には朝日山(同岩間町館岸、山には朝日山安国寺がある)において、そして翌嘉慶二年五月十八日には男躰城(同岩間町・八郷町)においてこれを攻め、先懸して一の城戸では散々の太刀打ちをして戦功は抽でたというのである。
小田氏は治久・讃岐守孝朝・太郎治朝と続く小田城主、高麗掃部助清義は、年代的にみても高麗季澄(四郎左衛門尉・入道希弘)の子と思われる。この文書は武州北白旗一揆の高麗氏が小田氏征伐に参陣した軍忠状に対し、大将の上杉朝宗(関東管領・武蔵守護職)が証判を与えたものである。一揆については、南北朝期関東では武蔵の平一揆、白旗一揆、上野の藤家一揆などが有名であった。武蔵の平一揆は南武蔵の平氏(河越・高坂・江戸・豊島など)を中心に構成され、白旗一揆は北武蔵及び上野の源氏・別符氏・久下氏・高麗氏などを中心に構成され、藤家一揆は東上野の秀郷流藤原氏(大胡・桐生・赤堀など)を中心に構成されたとみられ、同一地域内の同族的武士集団であった。それは諸氏の惣領制の解体がもたらしたものである。こうした同族的一揆は室町前期ごろから内乱の過程で、庶子家の独立と共にしだいに同族的集団の色彩を弱め、しだいに地域的集団へと変化して、上州白旗一揆・武州白旗一揆などと称し、更に武州北一揆・武州南一揆のように、また、上州一揆・武州一揆のように完全に地域名だけの一揆集団が成立する。その構成員は、自己の領主制を主張する、国人といわれた在地武士であった。これら一揆を被官化し組織化できるのは在地支配に詳しい目代=守護代で守護(上杉氏など)はそれに支えられていた。一揆衆は、領主としての自立性が弱いから一揆を形成したので、求心的に守護代・守護に身を寄せたのである。従って一揆衆は天下の形勢に敏感で、その去就は浮動的であった。

一七九 嘉慶二年(戊辰 一三八八、南朝は元中五年)銘の宝篋印塔
所在地 横手 滝泉寺
銘 右意趣者一結諸衆同
心合力逆修作善是滅罪
嘉慶二年戊辰四月廿五日
諸衆
敬白
総高 一一一・七センチ
備考 相輪上部と塔身がわずかに欠損しているが、ほぼ完形。上部二段、二区に区画。四面にわたって銘文があるが、二面、三面は磨滅して判読不能。

一八〇 嘉慶二年(戊辰一三八八、南朝は元中五年)銘の板碑
所在地 梅原19 前山 満蔵寺墓地
法智
主尊・銘 (欠) 嘉慶二年戊辰九月二十八日
高さ 四六・五センチ

康応元年(己巳一三八九、嘉慶三年二月九日改元して康応元年。南朝は元中六年)六月三日沙弥宏繁は高麗郡内知行分等を孫の豊楠丸に譲り与える。
一八一 浅羽宏繁譲状写〔報恩寺年譜〕埼玉県史資料編7所収
譲与 孫子豊楠丸
武蔵国吾那入西郡越生郷内知行分、高麗郡内知行分、春原庄広瀬郷田畠在家、太田庄内新恩地等事云々
康永元年六月三日沙弥宏繁在判

〔解説〕浅羽豊楠丸は浅羽氏、沙弥宏繁は越生氏の一族であろう(『坂戸市史』)。ともに入西氏の出。太田庄については、鎌倉時代は八粂院領で南・北埼玉郡にまたがる大荘園であった。旧太田村(行田市小針・下須戸・若小玉など)の地名が残っている。春原荘は現在の狭山市上・下広瀬のあたりに比定される。荘内に広瀬郷がある。承元二年(二一〇八)三月十三日、鎌倉幕府は越生有弘の譲状に任せて春原荘広瀬郷地頭職を有高に安堵している。以後越生氏に代々継承された。応永十九年(一四二一)七月五日の上杉氏憲施行状写によれは、豊筑後守信秋が広瀬郷内の所領を蓮花定院(鎌倉)に寄進している。長享三年(一四八九)四月二十五日及び永正二年(一五〇五)二月十五日の渋垂小四郎本知行目録写などによれは、渋垂小四郎の所領の一つに「武州高麗郡広瀬郷内大谷沢村(現日高市)」があげられている。高麗郡内知行分については不明。

一八二 嘉慶三年 (己巳 一三八九、この年二月九日
改元して康応元年となる。南朝は元中六年)銘の板碑三基
所在地 女影8 宿西 薬師堂墓地
主尊・銘 弥陀1・嘉慶三年己巳十月十五日道一禅門
高さ 六八・三センチ

所在地 横手9 坂下墓地 (関口隆雄家)
主尊・銘 弥陀1 康応元年▢▢十月道一▢▢
高さ 四七・二センチ

所在地 北平沢58 中居 墓地
主尊・銘 弥陀1・康応元年▢▢▢▢
高さ 三一センチ

一八三 康応二年 (庚午一三九〇、三月二十六日改元明徳元年となる。南朝は元中七年)銘・康応銘の板碑二基
所在地 楡木41 貝戸 (林広次家)
主尊・銘 弥陀1・康応二年六月廿五日
高さ 四九センチ

所在地 鹿山72 東道添墓地
主尊・銘 弥陀1・康応▢▢▢
高さ 三一センチ

明徳元年(庚午 一三九〇、康応二年三月二十六日改元、南朝は元中七年)十二月二十七日、熊野御師河面妙款は武蔵国河越・江戸・角田の那智山旦那職を代銭一貫五百文にて池頭殿に永代売り渡す。
一八四 旦那売券〔潮崎稜威主文書〕埼玉県史賢料編5所収
永売渡檀那事、
合武蔵国河越・江戸・角田事、
右、檀那者、弁僧都善増の手より妙欽か譲得分を、用(要)あるによって、代一貫五百文ニ地頭殿ニ永代売渡申処実正也、於妙欽か子孫いらん(違乱)妨あらん輩者、可為不孝仁侯、仇為後日亀鏡、売けん(券)の状如件、
明徳元年かのへむま十二月廿七日
妙金(花押)
嫡子桜井定光(花押)

〔解説〕河越・江戸・角田各氏の那智山旦那職が、権小僧都善増から盛甚律師・河頰定幸に譲り渡されたのは応安四年二三七一)であった(潮崎稜威主文書)。それがここで、 一貫五〇〇文で地頭殿に永代売り渡されることになったのである。売り主の妙金とは河頰定幸のことであろう。応安元年(一三六八)の平一揆後三〇余年後のことであるが、河越氏は武蔵国で命脈を保っていたことを知ることができる。河越氏については、藤沢市遊行寺の時衆往古過去帳に「応安三年二月七日幸阿弥陀仏河越武庫」と記された人物がある(『埼玉県史』)。これは恐らく河越兵庫助なる者が河越氏ゆかりの時宗寺院に帰依しながら永らえた姿としてみることができよう。

明徳二年(辛未三一九一、南朝は元中八年)十月五日、
熊野御師長盛、武蔵国丹治一族の旦那職について卿阿
闇梨と相論するが、この日解決し、旦那職を卿阿闇梨
御房に渡す。
一八五 旦那避状〔米良文書〕埼玉県史資料編5所収
武蔵国檀那、卿阿闇梨御房と相論之事、先立出之候身所特の丹之継(系)図之名字の下ニ不可入候由、檀那鐘を打申候者、無子細可去渡中之侯、此外相互ニ旦那参詣之時、願文の一通をも不可出之候、
仍為後日之状如件、
明徳二年十月五日 良盛(花押)

一八六 明徳二年 (辛未 一三九一、南朝は元中八年)銘・明徳銘の板碑五基
所在地 高萩102 西不動墓地
(光明真言)
主尊・銘 弥陀1明徳二年辛未四月十四日妙安禅尼
(光明真言)
高さ  一〇〇センチ

所在地 南平沢64 宮ヶ谷戸 馬坂墓地 (小久保武三家)
(光明真言)
主尊・銘 弥陀1・明徳二年辛未七月廿九道有禅門
(光明真言)
高さ  七六センチ

所在地 鹿山69 熊野 光音寺墓地
主尊・銘 弥陀1・明徳▢▢▢▢▢
高さ  三七センチ

所在地 高萩
主尊・銘 弥陀1・明徳二年辛未二月八日(大徳トアリ上・下欠ク)
高さ 一尺四寸一分(清水嘉作氏調査)

所在地 女影
主尊・銘 弥陀1・明徳二年十二月五日(法一トアリ上・下欠ク)
高さ 二尺一寸六分 (清水嘉作氏調査)

明徳四年 (癸酉 一三九三)四月銘の鰐口が、高麗郡佐西郷熊野堂に律師良勝により施入された。
一八七 鰐口銘〔川島町下八ッ林 善福寺蔵〕
(表)
明徳四年癸酉四月日 大工河内権佐国光
武州高麗郡佐西郷熊野堂律師良勝
(裏)
応永七庚辰五月六日 本同氏女
奉掛薬師如来鰐口一面

〔解説〕この鰐口は明徳四年良勝により熊野堂に奉納されたが、のち応永七年(一四〇〇)五月六日、良勝の娘が薬師堂に奉掛したものと思われる。比企郡川島町大字下八ッ林の威徳寺薬師堂にこの鰐口が掛けられていたが、現在は下八ッ林善福寺に保存されている。薬師堂に奉掛された事情について記録はないが、薬師堂の本尊薬師如来は鎌倉時代の木彫仏であり、いまも近隣に知られた薬師堂であることから推察すると、良勝亡きのち、その娘が信仰していた薬師堂に奉掛したものであろう。
佐西郷は狭山市笹井付近にあった中世の郷名。笹井には観音堂があって本山派修験の年行事職をつとめていた。

明徳年間(一三九〇―九三)のものと推定される木部政頬の寺領安堵状が報恩寺に出された。
一八八 木部政頼寺領安堵状(折紙)〔法恩寺文書〕
追而本意迄 不可有相違候、
吾野知行分内報恩寺領之事、如前々安堵之事承候、
尤令得其意候、恐々敬白、
十二月十三日 木部政頼(花押)
法恩寺

〔解説〕この文書は法恩寺の所蔵文書として、「武州文書」にも収録されており、『法恩寺年譜二』にも収録されている。ここでは『越生の歴史』(古代・中世史料(平戊三年発行)所収のものからとった。年欠の文書だが、『法恩寺年譜』では「明徳元年庚午三年壬申 此間当郡之守 有木部政頼者 寄進知行之云」と前書きしてあるから、 一応 明徳年間(一三九〇―九三)のものとして応永元年(一三九四)の前に置いた。木部政頼が吾野(高麗郡、現飯能市)に知行地を持って、それから報恩寺領分を寄進していたとうけとれる。しかし、木部政頼という人物について定かでない。関東の木部氏としては、緑野郡木部(高崎市)を本拠とした新田氏一族の木部氏がおり、ここの心洞寺建立をしたという木部城主木部範虎(一五八一没)がいる(心洞寺文書).また、榛名神社別当寺榛名寺の俗別当職の木部弾正左衛門人道道金(榛名神社文書)もいるので、これら木部氏と同族であろうが、その木部氏の所領が吾野にあったことについては全く不明である。「吾野知行分」は吾那知行分のことであろう。吾那は応永年間へ吾那氏外、越生一族の所領が多く、報恩寺に対する寄進も多かった(『報恩寺年譜』)。この中に木部氏の所領があるのはどういういきさつなのか。「法恩寺年譜二」にはこの文書を紹介したあと、政顕の妻について、「彼政頼之妻投身於榛名之池忽於大蛇而作池之主 因慈東関不時大風 丁氷雹沙磔降 向空唱木部之領 則暴風歘止也 是彼妻之怨念所為故云云」という物語りを載せている。このことはつまり、雹害除けの伝説の根拠をこの文書に求めているとみられ、榛名信仰とのかかわりの深さを思わせる。こうしてみると、日高市新堀の霊岸寺地蔵堂には、「榛名満行」の画いた地蔵菩薩があって宝とされ、榛名愛宕稲荷が合社されている。また、平沢の天神社には満行画菅原道真像が祀ってあるなど、このあたりがかつての榛名信仰とのかかわりが深かったことを立証している。こうした農民信仰の高まりの中で、法恩寺がその中心的存在となることは自然なことであったろう。この文書をこうした観点でみれば興味が深い。
ここで新堀の霊巌寺について触れておく。当寺は箕輪山満行院霊巌寺といい、「当山縁起」によると「昔棒名山満行宮遊化の砌この地に来り給い……浄処として一体の地蔵尊を画かれ一宇の堂を草営せらる」とある。榛名山満行宮とは、榛名山神代の別名(神仏混淆の際、榛名山満行宮大権現と称した)である(「榛名神社社記」)から、霊巌寺が榛名信仰の広まりの結果、 ここに建てられたことがわかる。しかも、満行宮遊化の砌浄処として一体の地蔵尊を画かれたとあるとおり、中世以降地蔵信仰の高まりの中で、榛名神社の本地仏に地蔵尊が当てられた以降のことであることもわかる(満行上人といわれることがあるが、恐らく、奈良・平安期の遊行僧満願の名に似せて、 一人の遊行僧ができたものであろう)。こうした榛名信仰の広がりは関東各地にあったと思われるが、殊に山麓地帯に多くみられる雹害の地域(それは養蚕との関係で重視されてくる)において顕著であったように思われる。古い縁起を持つ寺が、庶民・農民の榛名信仰の高まりの中で、満行宮や地蔵尊を安置するようになった。その一つが霊巌寺であるといえるのではないか(霊巌寺の地蔵尊が田植えの手伝いに出たという伝説があるが、これも農民の信仰の高まりの結果である)。

一八九 応永元年 (甲戌 一三九四、明徳四年七月五日改元)銘の宝箇印塔
所在地 高麗本郷 長寿寺
銘 応永元年甲戌十月一日
敬里
銀公和尚
総高 六七・九センチ
写真20 応永元年銘宝置印塔(長寿寺)

一九〇 応永二年 (乙亥 一三九五)銘の板碑二基
所在地 駒寺野新田82 清蓮寺墓地
主尊・銘 弥陀1・応永二年十一月廿八日
高さ 七一・五センチ

所在地 楡木42 東野 東光寺
主尊・銘 弥陀1・応永二年 (欠)
高さ 三七・五センチ

応永三年 (丙子 一三九六)八月一日 宝蔵寺の開基加治豊後新左街門尉貞継、この日没すると伝えられる。
一九一 新編武蔵風土記稿高麗郡中居村
宝蔵寺 青雲山と号す、曹洞宗、郡中飯能村能仁寺末、開山とする所は、能仁寺四世格外玄逸、慶長九年三月廿八日化す、是より前のことは伝へず、開基は加治豊後新左衛門尉丹氏朝臣貞継、応永三年八月朔日卒す、法名は山翁仁公庵主、寺後の山腹に加治氏の庵跡あり、一区の平地十五六歩、その西北東に曲りて深さ五六尺の堀切あり、又庵地の後山に五輪の石塔あり、加治新左衛門の墓なりと云。(後略)

一九二 応永三年 (丙子 一三九六)銘の板碑
所在地 高萩93 別所墓地
主尊・銘 弥陀1・応永三年四月九□ (欠)
高さ 四四センチ

一九三 応永四年 (丁丑 一三九七)銘の板碑二基
所在地 南平沢6 塚場(高麗川公民館)
主尊・銘 釈迦1・応永「ニ+ニ」(四)丁丑八月十三日欠 禅尼
高さ 四六センチ

所在地 大谷沢111 下墓地
主尊・銘 釈迦1・応永四年八月十八日
高さ 四八・五センチ

応永四年 (丁丑 一三九七)五月三日鎌倉公方足利氏清は、吾那光泰の申請により、入西郡越生郷是永名内・同郷水口田内・同郷谷賀侯村内・同郡浅羽郷内・高麗郡吾那村内の田畠在家等の安堵を幕府管領斯波義将に吹挙する。
一九四 足利氏満挙状写〔報恩寺年譜〕埼玉県史資料桐7所収
吾那式部丞光春申、武蔵国人西郡(入間郡)越生郷是名永内在家弐宇・同郷水口田内窪田弐段・同郷谷賀侯村内田島在家弐宇・同郡浅羽郷内金田在家一宇田島・高麗郡吾那村内在家弐宇安堵事、任譲状之旨、相伝当知行無相違候、可有申沙汰候哉、恐惶謹言、
同(応永四年)五月三日 氏満(足利)判 在別
右衛門督入道殿(道将、斯波義将)巌

〔解説〕
吾那保は古代入間郡内にあった保(古代郷里制の末端組織、平安時代以降、国衙領の地域的行政単位とされ、多くの場合、郷司など在地有力者が中心になって開墾した土地)とされ、『大日本地名辞書』では現飯能市の旧吾野村・旧東吾野村から現越生町にかけての地域と推定している。吾那領・上下吾那・吾那保などの地名は鎌倉期の文書(『法恩寺年譜』)に既に見られ越生氏とのかかわりであったが、ここで吾那光春の名が初見される。永正三年(一五〇六)八月日、「公家礼碁集註」を足利学校に寄進した「武州児玉党吾那式部少輔」(『武蔵資料銘記集』)の名が見られるから、吾那氏は児玉党の出で、越生氏とは同族であったと考えられる。
吾那光春は越生郷の是永名(旧越生町のあたり) ・高麗郡吾那村(現飯能市吾野のあたり)などのうちの田島・在家(二戸の農民の住宅・耕地)を安堵してもらうため鎌倉府に申請したので、それが幕府へ推挙されたわけである。

一九五 応永五年 (戊寅 一三九八)銘の板碑
所在地 上鹿山74 屋敷ノ内 西光寺墓地
応永五年八月五日
主尊・銘 弥陀3・(花瓶)
逆修 幸円禅尼
高さ 四〇・三センチ

一九六 応永七年 (庚辰 一四〇〇)銘の板碑
所在地 原宿48 向方 (大沢和男家)
主尊・銘 弥陀1・応永七年八月 日法一禅尼
高さ 五七・五センチ

一九七 応永八年 (辛巳 一四〇一)銘の板碑二基
所在地 高萩
主尊・銘 弥陀1・応永八年五月廿七日
長さ一尺二寸(清水嘉作氏調査)

所在地 新堀37 寺山聖天院
逆修
現世安隠為浄周禅尼
主尊・銘 弥陀3・応永八年辛巳十一月日
後生善処乃至法界平
等利益
高さ 七五センチ

一九八 応永十年(癸未一四〇三)銘の板碑
所在地 高萩100 谷津 谷雲寺
主尊・銘 弥陀?1・応永十年八月 日逆修法経
高さ 四九・五センチ

一九九 応永十一年(甲申 一四〇四)銘の板碑
所在地 女影84 北竹ノ内 清泉寺跡墓地
主尊・銘 弥陀1・応永十一年二月廿八日□□禅尼
高さ 五八センチ

二〇〇 応永十二年(乙酉 一四〇五)銘の板碑三基
所在地 鹿山72 東道添墓地
主尊・銘 弥陀1・応永十二年六月〈欠〉□□ 禅□
高さ 四九センチ

所在地 新堀37 寺山聖天院
主尊・銘 弥陀3・応永十二年十二月八日妙義禅尼
高さ 四二・五センチ

所在地 鹿山72 東道添墓地
主尊・銘 弥陀1・応永十二年(欠)
高さ 三一センチ

応永十五年 (戊子 一四〇八)十二月十二日、これより前、高麗泰澄(平姓)は、子亀一に高鷲郡内の所領を譲るための申状を某氏に出し、この日某氏の承判をうけた。
二〇一 高麗泰澄申状〔田文書〕
武州高麗郡□分内知 行分事 
黍澄不断病者 ▢ ▢任亡父道果譲状 子息亀一譲与仕侯
仍為給御証判言上候 以此旨可 有御披露供 恐憧謹言
十二月十二日 平奏澄
(裏書)
譲与事 承候 何□可存其旨 候恐々謹言
応永十五年十二月□日 (花押?)
高麗筑前□□ 

〔解説〕高麗泰津が所持していた高麗郡内の知行地を子の亀一に譲るために書いた言上の書、上申文書といわれる。個人が上位の者に差出し承認を願うものである。この文書は破損が激しく、泰澄が誰に差し出し枕のか不明だが、裏書きで証判した者が、高麗筑前宛に返しているから、泰澄は高麗筑前泰澄と称したのであろう。また、泰澄は平姓を名乗り、亡父道果の譲状に任せ、子息亀一に譲与しているから、この高麗氏は次のような系譜であり、その譲与の対象地は平姓高麗氏相伝の地であったと思われる。
平姓高麗
道果―泰澄― 亀一
筑前

二〇二 応永十五年 (戊子 一四〇八)銘の板碑
所在地 高萩99 乙天神(高萩公民館)
法性
主尊・銘釈迦1・応永十五年戊子八月廿六日(欠)
禅尼
高さ 四〇・五センチ

二〇三 応永十六年 (己丑 一四〇九)とみられる板碑
所在地 高萩103 北不動(比留間守福家)
主尊・銘 弥陀1・応李六□ 月九日 妙心禅尼
高さ 五九・七センチ

応永十九年(壬辰 一四一二)七月五日、関東管領上杉氏憲は、鎌倉公方足利持氏の意をうけ、武蔵守護代埴谷備前入道をして、高麗郡広瀬郷内豊筑後守信秋寄進の地を蓮花定院代官に打ち渡させた。
二〇四 上杉氏憲施行状写〔鶴岡等覚相承両院蔵文書〕埼玉県史資料編5所収、
武蔵国高麗郡広瀬郷内豊筑後守信秋寄進地事、
早任御教書之旨、 可打渡下地於蓮花定院代官之状、
依仰執達如件、
応永十九年七月五日 沙弥在判(禅秀、上杉氏磁)
埴谷備前入道殿

〔解説〕
広瀬郷は現入間市上広瀬・下広瀬のあたりだが、現日高市大谷沢が含まれたこともあった。広瀬郷は春原荘にあったが、春原荘の成立年代や成立事情については不明。承元二年(一二〇八)三月十三日、広瀬郷地頭職は越生有弘の譲状に任せて越生有高に安堵されて(関東下知状写『報恩寺年譜』二)以後、越生氏に代々継承され、康応元年(一三八九)六月三日には浅羽宏繁により同郷の田畠在家などが孫の豊楠丸に譲り与えられた。この広瀬郷については、それ以前既に、雅楽頭であった笙の豊原竜秋の子信秋の所領があった(史料一三六解説)から、浅羽氏の広瀬郷における所領は一部分であったろう。豊原信秋(豊筑後守信秋)は広瀬郷の所領を鎌倉の蓮華定院に寄進したのである。蓮華定院は鶴岡八幡宮の御影堂であった(明治維新後は鎌倉市手広の青蓮寺に移された)。差出人の沙弥とは武蔵守護上杉氏憲入道禅秀、応永十八年二月、山内憲定のあと関東管領となった。埴谷備前入道は同守護代。鎌倉公方の意をうけて守護が守護代をして施行させたのである。

二〇五 応永十九年 (壬辰 一四二一)銘の板碑
所在地 南平沢65 宮前 宮ヶ谷戸墓地
主尊・銘 弥陀1・応永十九年六月廿六日妙覚禅門
高さ 五九・七センチ

応永二十年(癸巳 一四三一)五月十日、鎌倉公方足利持氏は、武州南一揆に対し、大矢蔵之輔の鎌倉府に出仕すべき旨の実否について糾明を命じた。
二〇六 足利持氏御判御教書写〔三島明神社文書〕埼玉県史賢料網5所収
甲州之武士大矢蔵之輔事 同国小官之内住居仕由、
当家出勤可仕旨中之状、有其間者也早速糾其実否可申達也
応永廿年五月十日 (花押影)(足利持氏
武州南一揆中

〔解説武州南一揆は、主として多摩郡内の国人土豪層をもって構成された一揆集団で、鎌倉公方足利持氏の軍事力の中核的存在であった。甲州小官之内に在住の大矢蔵之輔の登用に当ってこの一揆集団に調査を命じたのである。

応永二十年(葵巳 一四一三)六月一日、平沢郷(現日高市)金剛寺の檀那禅音・道用は、報恩寺栄曇の懇望により、金剛寺の什物大般若経・大乗経を報恩寺に寄付した。栄曇の差出した香料はその三分の二を阿弥陀堂の修理費として報恩寺に寄進し、三分の一は地蔵堂の修理費として妙宣寺に遣わした。
二〇七 道用・禅音寄附状写〔報恩寺年譜〕埼玉県史資料編7所収
大般若経幷大乗経事、奉寄附報恩寺侯 雖然修理銭三分二為阿弥陀堂修造寄進申候、三分一為地蔵堂修理可有妙宣寺御遁侯、殊大般若事、其方御心指而自金剛寺(高麗郡)下、直被越侯間、
専可為当寺修理料候、仍為後証寄附之状如件、
応永廿牛糞巳六月一日  藤原授・衣名 禅音判
報恩寺栄雲僧都 沙弥道用判

〔解説〕『法恩寺年譜』二によると、文治二年(一一八六)越生氏の一族、倉田孫四郎基行という者が倉田(越生町大字新宿字倉田、越生神社周辺の台地か)に隠棲していたとき、平生、後世の利を念じ、恒常口に念仏を唱え、夫妻ともおこたるところがなかった。ある時天竺の僧という者が、大般若経六百と五部大乗経を持って来た。基行夫妻はこの僧を大切に迎えた。僧はこのあたりの霊地靉靆寺山に登り草堂を建立した。ここで夫妻は仏道に入り、瑞光坊と妙泉尼となったという。ここに法恩寺の縁起がある。更に妙泉尼は自分の家を寺とし、妙泉寺と名づけ地蔵菩薩をもって本尊としたともある。以上が法恩寺住栄曇が懇望した大般若経・大乗経、及び妙泉寺阿弥陀堂の縁起・由来に関する記事の概略であるが、この大般若経・大乗経が、いつのことか平沢村金剛寺の什物となっていたというのである。同年譜応永二十年の項では次のように述べている。
昔日 焚僧所荷負来之大般若経全六百巻 五部大乗経全部一篋 代換年移無何時展転而 作同州高麗郡平沢村金剛寺之什物也尚矣 曇公(栄雲)伝聞此事 奮励深恨為他宝 遂詣干金剛寺 懇請此経再三懇懃也 彼寺住僧感上人の来請 乃以大般若・五部大乗経而令寄進干報恩寺 且為後世之証添数封之書 又以雲公所投之香金 充二堂修理
法恩寺が応永五年(一三九八)栄曇によって中興開山されたことは『法恩寺年譜』にもみられるとおりである。雲秀は中興第二世である。同年譜によると栄雲から雲秀の没するまでの六三年間は、報恩寺の近郷・近在の者からの寄付が多かった。金剛寺檀那の禅音はこのころの人である。藤原授衣名禅音とあるから藤原氏である。毛呂左近将監妻(嘉吉二年―一四四二に田を寄進している)ともある。これは禅智の誤りらしいが、同じ藤原氏で毛呂氏の一族であろう。禅音は平沢村金剛寺の檀那の家に嫁したものと思われる。金剛寺は現存しないが、『風土記稿』では臨済宗、粟坪村勝音寺門徒となっており、既に昔の面影を失っていた。ただし地蔵堂は現存して昔を僅かに偲べる。開山が寛永年間に寂しているから江戸初期の中興で、それ以前は密教系の寺院であったろう。禅音は、金剛寺を支えたのは勿論のこと、法恩寺に対しても多くの寄付をしている。応永二十年の寄付(本文書)のはか、永享元年(一四二九)、同八年には「粟坪田一段」、嘉吉二年(一四四二)には「上野村辻堂南之田」(ともに越生郷のうち)を寄進し、享徳四年(一四五五)には「吾那村高麗端在家一宇・田畠・山林を法恩寺阿弥陀に寄進している(史料二五五)など、実に四十三年以上にわたり、金剛寺や法恩寺の檀那として貢献したことがわかる。寺の檀那として名を出している女性であるから、恐らく若くして夫を失い、家を支えて来た女性であったろう。当時の庶民社会・生活の一断面を提供した貴重な史料である。

応永二十年(癸巳 一四一三)六月十日、鎌倉公方足利持氏は甲州凶徒等退治のため、武州一揆中に参陣を命じる。
二〇八 足利持氏御教書案写〔三島神社文書〕埼玉県史資料編5所収
甲州凶徒井地下▢ ▢ ▢武▢ ▢ ▢備中次郎▢ ▢ 平?
山三河入道馳向之由、注進之上着、不日令進癸、
合力□平山、可致忠節之状如件、
応永廿年六 月十日 □□□(花押影)(足利持氏カ)
武州南一揆中

〔解説〕甲州凶徒とは甲州武田勢力のことであろう。この反鎌倉府的行動に対し公方持氏が討伐の軍勢を催促したものである。鎌倉公方足利持氏は、反対する旧勢力などの討伐には、 一揆集団の戦力に頼るところが大きく、特に武州南一揆は、持氏軍勢の中核ともいうべきものであった。南一揆は奥多摩に根拠を持つ国人衆団で、平山氏などはその有力な一員であった。

二〇九 応永二十年 (癸巳 一四一三)銘の板碑
所在地 楡木42 東野 東光寺
主尊・銘 弥陀1・応永廿年八月廿一日
高さ 三九センチ

応永二十二年 (乙未 一四一五)四月二十五日、鎌倉公方足利持氏は、常陸の越幡六郎の所領を没収したので、関東管領上杉氏憲はこれを不満とし、持氏の気色を蒙る。
二一〇 鎌倉大草紙〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料編8所収
応永二十二年四月廿五日 鎌倉政所にて御評定のとき 犬懸(上杉氏憲)の家人常陸国住人越幡六郎某 科ありて所帯を没収せらるゝ   禅秀(上杉氏憲)さしたる罪科にあらす不便のよし扶持せらるゝ問 以の外に御気色を蒙りける

〔解説〕越幡六郎について詳細は不明だが、常陸国小田氏の一族に小幡氏がおり、その一族かと思われる。いずれにしても犬懸氏憲の家人であったので、これが氏憲のその後の行動の契機となった。禅秀の乱の原因に挙げられているのである。

二一一 応永二十二年 (乙未 一四一五)銘板碑
所在地 中沢
主尊・銘 弥陀3・応永廿二年十一月日
妙意逆修
高さ 一尺三寸七分
(清水嘉作氏調査)

応永二十三年(丙申 一四一六)八月、前の鎌倉府管領上杉禅秀(氏憲)は、足利満隆・持仲等と共謀、鎌倉府の公方足利持氏に背き、新御堂殿(満隆)の御内書・禅秀の副状を廻状として、近国の国人衆にめぐらし多くの同心を得た。丹党の族もこれに同意した。
二一二 鎌倉大草紙〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料編8所収
秋のはしめより禅秀病気のよし披露して引寵謀反を起す、犬懸の郎郎等国々より兵具を俵に入、兵糧のやうにみせて、人馬に負せて上りあつまりけれハ、人更に志る事なし、新御堂殿(足利満隆)の御内書に禅秀副状にて廻文を遣はし、京都よりの仰にて持氏公幷憲基 (上杉)を可被追罰由、頼ミ被仰けれバ、御話中人々にハ、千葉介兼胤・岩松治郎大輔満純入道天用、両人ハ禅秀の聟なれハ不及申、渋河左馬助・舞木太郎(持広)、 小玉党にハ大類・倉賀野、丹党の者ども、其外荏原・蓮沼・別府・玉野井・瀬山・甕尻(かめぬま)、甲州に武田安芸入道(明俺)、 信満ハ禅秀の舅なれハ最前に来る、小笠原の一族、伊豆に狩野介一類、相州にハ曽我・中村・土肥・土屋、常陸にハ名越一党・佐竹上総介(山人興義)・小田太郎治朝(持永?)・府中大掾(満幹)・行方・小栗、下野に那須越後入道(明海)資之・宇都宮左衛門佐、陸奥にハ篠河殿(足利満直)へ頼申間、葦名盛久・白川結城(満朝)・石川(河)・南部・葛西・海東四郡の者ともみな同心す、鎌倉在国衆に、水戸内匠助伯父甥・二階堂・佐々木一頬を初として百余人同心す、

応永二十三年(丙申 一四一六)十二月二十一日、禅秀方の足利持仲・上杉伊予守憲方は小机(現横浜市)辺に出陣、持氏方は江戸・豊島・二階堂・南一揆などが一味して入間川に陣をとる。
二二二 鎌倉大草紙〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料編8所収
(前略) 去程に新御堂殿(足利満隆)幷持中(仲?)(足利)、 鎌倉に御座まし、関東の公方と仰かれ給ふ、然とも近国猶持氏(足利)の味方にて、召に応ぜず、さらバ討手をつかはすべしとて、持仲を大将軍として、中務大輔憲顕)(上杉)・某弟伊与守憲方(上杉)武州へ発向す、憲顕ハいたはる事ありて留り、与州を大将軍として、十二月廿一日小机(橘樹郡)辺迄出張す、持氏御方にハ、江戸・豊島・二階堂下総守幷南一揆幷宍戸備前守兵幷入間河(入間郡)に馳集り陣を取、(後略)

〔解説〕鎌倉公方足利持氏に背いた上杉禅秀は、十二月二日ついに持氏追討に蜂起、持氏の御所を急襲した。持氏は山内上杉憲基の屋敷へ入り、ここで憲基の兵七〇〇余騎が守る。この軍勢は山内家執事長尾満景・武蔵守護代大石源左衛門・その他武蔵の国人安保豊後守・加治氏等七〇〇余騎であった。三日は悪日だというので合戦なし、四日より町中で陣取りが行われ合戦があった。六日には一〇万にも及ぶ禅秀方は持氏方を圧倒、持氏は憲基と共に鎌倉を脱出した。持氏を追放した満隆・持仲等は鎌倉に入り、満隆は公方と称したが、近国にはやはり鎌倉公方持氏に味方するものが多く、満隆の召集には応じないものがいたため、これらを追討するため、持仲を大.将とし、禅秀の子憲顕・憲方が武州へ出陣した。これに対して持氏方は江戸氏・豊島氏・二階堂氏・宍戸氏・武州南一揆など武蔵の兵が入間河に集結して陣をとった。この行動を知った持仲・憲方は入間河に向かったが、その途中、世谷原(横浜市瀬谷区)で双方が遭遇し合戦となり、憲方・持仲等は敗れ、十二月二十五日鎌倉に逃げ帰った。
武州南一揆とは多摩川流域の中小国人領主の地縁的連合で、平山三河守・立河駿河入道・宅部下総入道などがその構成員に考えられる。二階堂下総守は鎌倉府政所執事に二階堂氏盛がいるのでその一族か。宍戸備前守は常陸国宍戸(茨城県友部町)を本拠とした国人である。

二一四 応永二十三年(丙申一四一六)銘の板碑
所在地 楡木42 東野 東光寺
主尊・銘 弥陀1・応永廿三年十一月  禅(欠
高さ 三四・五センチ

応永二十四年(丁酉 一四一七)正月一日、足利持氏方の武州南一揆・江戸・豊島の兵は、上杉禅秀・足利満隆の軍勢と戦い世谷原で敗れる。一方、武州北白旗一揆の別府尾張入道の軍は持氏救援のため、高坂を経て、正月六日に入間川に出陣した。
二一五 鎌倉大草紙〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料編8所収
(前略) 明れば応永廿四年正月一日鎌倉より満隆御所幷禅秀、武州世谷原に陣を取、南一揆幷江戸・豊嶋と合戦しけるが、江戸・豊嶋打負て引退きけり(後略)

二一六 別符尾張入道代内村勝久着到状〔別符文書〕埼玉県史資料編5所収
着到 武州北白旗一揆
別符尾張入道代内村四郎左衛門尉勝久申、
右、去二日馳参庁鼻和(幡羅郡)御陣、同四日村岡(大里郡)御陣、同五日高坂(比企郡)御陣、同六日入間河(入間郡)御陣、同八日久米河(多摩郡)御陣、同九日関戸(多摩郡)御陣、同十日飯田(相模)御陣、同十一日鎌倉江令供奉、就中至于上方還御之期、於在々所々陣致宿直警固上者、下絵御証判、為備向後亀鏡、粗言上如件、
応永廿四年正月日
承候了(証判)、 (花押)(上杉憲基)」

〔解説〕 応永二十四年正月一日、禅秀方は世谷原に再び出兵、南一揆・江戸・豊島と合戦しそれを敗退させる。しかし、一方、幕府は禅秀一類追討の御教書を出し、これが十二月二十五日関東の諸士に廻状として送られると、禅秀方の武士には寝返りする者が次々と出て、禅秀方は急激に形勢不利となる。武州北白旗一揆の別符尾張入道代内村勝久着到状も、この御教書をうけて正月六日、持氏方の入間河御陣に馳参したことを言上している。こうして、禅秀方は最後の決戦をすることもなく、正月十日には、満隆・持仲・禅秀等が自害し、この乱は終結した。

二一七  応永二十四年 (丁酉 一四一七)銘の板碑
所在地 粟坪24 粟原前墓地
主尊・銘 弥陀1・(花瓶) 玄 心禅門 応永廿「ニ+ニ」(四)年十二月廿日
高さ 五一・五センチ

応永二十四年(丁酉 一四一七)十二月二十六日、鎌倉
公方足利持氏は、禅秀並びにその与党の討伐にあたり、忠節をつくした賞として武州南一摸中に対し、政所方公事を五年間免除した。 二一八 足利持氏御判御教書写〔三島明神社文書〕埼玉県史資料編5所収
政所方公事等除日・炭油供事、就今度忠節、
自今年五ヶ年所免除也、可存知其旨之状如件、
応永廿四年十二月廿六日 (花押影)(足利持氏)
南一揆中

〔解説〕禅秀の乱で、禅秀に与したのは児玉党・丹党であったが、南一揆・江戸氏・豊島氏は足利持氏に同心した(鎌倉大日記など)。応永二十四年一月十日禅秀の自殺でこの乱は収拾したが、その後も禅秀与党の反抗はあった。鎌倉公方足利持氏はこれらの討伐に当たり功番のあった南一揆に対し、この年より五年間の政所方公事等を免除したのである。公事とは年貢と違い、夫役・雑公事があった。夫役は人夫役のことであり、雑公事とは産物や加工品の負担であった。

応永二十四年(丁酉一四一七)十二月日、南白旗一按の高麗雅楽助範員は、多西郡内の活却地(売却地)を、勲功の賞として徳政をもって取り戻してくれるよう請求し裁許された。
二一九 高鷲範昌申状菓〔彦根城博物館保管彦根藩井伊家史料〕「高幡高麗文書」『日野市史史料集』所収
目安 南白旗一揆
高麗雅楽助範員申
右、武蔵国多西郡内活脚地之事 御感状幷備右、御下文?、任御法、以彼所々券、今度忠節、恩賞下給御判、弥為致忠忠懃 恐々言上如件、
応永廿四年十二月 日

右、武州多西郡内活却地等事、任一揆調色、可預御裁許(徳政)旨也、然者下賜還補御判、弥為弓箭勇、恐々言上如件、

写真2一 高麗範員申状案(彦根城博物館高幡高麗文書)

〔解説〕高麗範員は、南白旗一揆として禅秀の乱で功労多く、鎌倉公方足利持氏の感状を賜った。この忠節をもって、高麗範員が以前売却した多西郡内の土地を取り戻したいと、目安(訴状)を鎌倉府政所に提出した。これに対し裁許があった。つまり、鎌倉公方持氏は姑却地(売却地)の徳政を裁許したのである。南一揆は持氏の有力な戦力で、前史料のように政所公事の免除も与えられた。徳政の裁許も恩賞の一つの与え方であった。高麗範員について詳細を得ないが、高麗三郎兵衛師員(史料一六I)から三七年後であり、名前からも父子の関係とみられる。南白旗一揆(武州南白旗一揆)の構成員となっていた。

応永二十五年(戊戊 一四一八)四月二十日、鎌倉公方足利持氏は、武州南一揆中に馳参を命じ、上杉特定の手に属して忠節を尽くすよう求め、同月二十八日tl一十九日にも催促した。
二二〇 

  •   足利持氏軍勢催促状写〔三島明神社文書〕埼玉県史資料編5所収

為新田幷岩松余頼対治、 差遣治部(一色)少輔特定也、
不日馳参、属彼手可致忠節之状?之如件、
応永廿五年四月廿日 (花押影)(足利持氏)
武州南一揆中


  •  足利持氏軍勢催促状写〔三島明神社文書〕

埼玉県史資料網5所収
新田井岩松余頬可出張由、所有其聞也、令出▢▢▢者、
不日馳向於討進者、可有抽賞之状如件
応永廿五年四月廿八日 (花押影) (足利持氏)
武州南一揆中


  • 足利持氏軍勢催促状写〔三島明神社文書〕埼玉県史資料編5所収

(四月廿日の文書と同文ゆえ略す)
応永廿五年四月廿九日  (花押)(足利持氏)
武州南一揆中

〔解説〕上杉禅秀の与党として鎌倉公方足利持氏に敵対する新田・岩松一類対治のための軍勢催促状である.岩松氏は新田氏一族、建武新政期には有力な足利党で終始した。しかし、満純の時、満純の母が上杉禅秀の女であったことから禅秀に味方し、その先鋒として鎌倉で足利持氏を敗走させている。その後上野に帰り、新田氏を称して持氏党と戦う。応永二十四年正月十日,禅秀の敗死後はその一味を集め、岩松に挙兵、武蔵の恩田美作守・同肥前守及び上杉憲国らも加わった。しかし、同年五月二十九日入間川で敗れ、閏五月十三日鎌倉竜ノロで斬られた。この三通の軍勢催促状は、禅秀並びに岩松満純死後のものであるが、その余類のものがあり、不穏な状勢が続いたことがわかる(次号文書も同類).しかも四月二十日、同二十八日、同二十九日と続いて南一揆中宛に発せられている。急を要する状勢の発生、南一揆の持氏に対しての反応などが考えられるであろう。なお、ここで武州南一揆とは、前の史料二一九高麗範員申状案における南白旗一揆と同じと考えてよい(佐脇栄智「武蔵国太田渋子郷雑考」『日本歴史五〇五』)。したがって高幡高麗氏も武州南白幡の構成員であった。

応永二十五年(戊戊 一四一<)九月十日、鎌倉公方足利持氏は、上杉氏憲与党の恩田美作守・同肥前守等退治のため、武州南一揆中に参陣を命じる。
二二一 足利持氏軍勢催促状写〔三島明神社文書〕埼玉県史資料編5所収
恩田美作守・同肥前守等事、隠謀露顕之問追放之処、相語悪与等、出張彼在所之由、所有其聞也、早々被同心忠節、不日馳向、可加対治之状如件、
応永廿五年九月十日 (花押影)(足利持氏)
武州南一揆中
○応永二十六年八月十七日ノホボ同文ノ写アルモ略ス。

二二二 応永二十六年 (己亥 一四一九)銘の板碑二基
所在地 女影88 宿西 薬師堂墓地
主尊・銘 弥陀1・応永廿六年五月廿一日 善光禅門
高さ 四八センチ

所在地 北平沢52 山口墓地
(光明真言)
主尊・銘 (欠)応永廿六年七 逆修妙阿禅尼
(光明真言)
高さ 五九センチ

応永二十六年(己亥一四一九)八月十五日、鎌倉公方足利持氏は、没落の風聞のあった上杉意国・同氏憲与党の恩田美作守・同肥前守の再起に備えて、武州南一揆の守護代への同心を命じる。
二二三 足利持氏軍勢催促状写〔三島明神社文書〕埼玉県史資料編5所収
恩田美作守・同肥前守事、兵庫助憲国(上杉)幷禅秀(上杉氏憲)同意之段露顕之間、欲致糾明之処、没落之由所令注進也、令現形者、令同心守護代、可抽戦功之状如件、
応永廿六年八月十五日 (花押影)足利持氏)
南一携中

応永三十年(葵卯一四二三)三月十二日、鎌倉公方足利持氏(?)は、武州南一揆中に国内の警固を命じる。
二二四 足利持氏(?)御判御教書写〔三島明神社文書〕埼玉頻史資料編5所収
▢▢▢不日令▢▢▢ 致国警固之状如件、
応永卅年三月十二日 花押影?(足利持氏?)
武州南一揆中

〔解説〕鎌倉公方足利持氏が、武州南一揆をして、国内の反鎌倉府勢力に対する警戒と国内の守護とを命じたもので、ここでも足利持氏が、武州南一揆に対して信頼を寄せていたことを理解できる。前年の応永二十九年、常陸平氏の一族小乗満重は足利持氏に叛し、八月持氏は上杉重方をしてこれを討たせている。そして、この年の八月二日、武州白旗一揆・吉見範直・安保宗繁らが持氏に従って小栗城を政略した。小山氏・小栗氏と打続く豪族の叛乱に鎌倉府の警戒心は高く、それを助け、鎌倉体制を支えてきたのが武蔵・上野の国人衆の一揆で、特に持氏のときの武州南一揆は、持氏戦力の中心的存在であったことが窺える。

二二五 応永三十年 (癸卯 一四二三)銘の板碑
所在地 楡木42 東野 東光寺
主尊・銘 弥陀1・応永丗年三月
高さ 二三センチ

応永三十年(癸卯 一四二三)八月、武蔵国白旗一揆の別符幸忠は、常陸の小栗満重退治のため、去る五月二十八日埼玉郡太田荘に出陣、六月二十五日・八月二日の両合戦の軍忠などを注進し、上杉定頼の証判をうけた。
二二六 別符幸忠軍忠状〔別符文書〕埼玉県史資料編5所収
着到 武蔵国白旗一揆
別符尾張太郎幸忠申軍忠事、
右、為小栗常陸孫次郎満重御退治、去五月廿八日太田庄(埼玉郡)罷着、大将結城(下総)仁御在陣之間、六月八日彼御陣江馳参、同十七日伊佐(常陸)御陣、同廿四日近陣、当日於陣取終日箭軍、翌日廿五日致合戦、東戸張二重焼破、自身被疵肩右同親頼家人数輩被疵、其以後日々矢軍無退転、八月二日合戦仁最前自重東戸張責人、散々致太刀打分捕仕、敵城於焼落、同道家人等被庇之条、大将所有御検知也、仍至于御敵悉没落之期、致日夜宿直警固、異于他抽戦功上者、下賜御証判、為備向後之亀鏡、恐々言上如件、
応永卅年八月 日
承候託(証判)、(花押)(上杉定検))

〔解説〕別符氏は横山党東別府(現深谷市)の出身、別符幸忠は武州北白旗一揆として持氏に従った(史料二一六参照)。小栗満重は常陸小栗城(茨城県真壁郡協和町小栗山)にいた。小栗氏は、常陸平氏の一揆で、伊勢神宮領小栗御厨の寄進者ともいわれ、ここに館を設け代々御厨の下司を世襲していた。建武年間は足利方の拠点となって南朝方と攻防戦もあった。しかし、応永二十九年小栗満重は鎌倉公方足利持氏に叛き、翌応永三十年持氏に攻められて城を失った。別符氏はこの小栗城攻めで持氏軍に属し、自らも疵を負う太刀打ちをして戦功を立てたのである。     
小栗氏はその後嘉吉元年(一四四一)の結城合戦で小栗助重が鎌倉公方に属して功があり、城を一旦回復したが、康正元年(一四五五)足利成氏に敗れて再び城を失った。城はその後宇都宮氏に、天文二十一年(一五五二)結城氏に、永禄三年(一五六〇)宇都宮氏へと変転した。

応永三十年(癸卯 一四二三)十月十日、幕府管領畠山満家は、鎌倉公方足利持氏討伐のため、信濃守護小笠原政康をして武州・上州一按と合力させる。
二二七 畠山満家書状(小切紙)〔小笠原文書〕埼玉県史資料網5所収
(異筆)
「義教将軍御奉書政康江」
(封紙ウハ書)
「小笠原石馬助(政康)殿 道端(畠山満家)」
自武州・上州一揆中以使節言上候之様者、被越臼井(上野)到下候老、上野一揆中号為防信州之勢、相催国中馳加当国勢、可致一味忠節之由申候、武州一揆中同前申候、仍被成御書侯、両国談合之様、為御心得委細可申之由侯也、
恐々謹言、
十月十日 道端(畠山満家)(花押)
小笠原右馬助(政康)殿
○コノ年、幕府、鎌倉公方足利持氏討伐ヲ諸士ニ命ズ。
本文書、年缺ナレド、恐ラクコノ年ノモノナラン。(県史)

応永三十一年(甲辰 一四二四)正月二十四日、篠川御所足利満直は鎌倉公方足利持氏討伐のため関東に進発、武蔵及び上野の白旗一揆中は、これに応ずる請文を幕府に提出する。
二二八 天満済准后日記〔続群書頬従〕埼玉県史資料編8所収
廿四日、晴、……(中略)……佐々河(篠川)殿関東へ進発事、先御領掌候也、則公方様へ御内書御請可被申入処、一陣於も被召、其後日陣中請文ハ可被進上候、乍居御請中条、為其恐故也、此旨且為得御意申入也云々、次武蔵・上野白旗一揆者、大略可馳参由捧請文了、或ハ以告文等申請文一揆中在之、為御一見進之由、大夫方へ申遺趣也、(後略)

〔解説〕満済一三七八―一四三五)は権大納言今小路師冬の子、足利義満の猶子となり三宝院貿俊の室で得度、応永二年醍醐寺座主、三十五年准后の宣下をうけた僧侶である。「黒衣の宰相」といわれるように幕府の機密に参画するようになり、その日記の内容は放密にわたり詳細・正確なことが特色である。ここでは他の戦記物にみられない白旗一揆の記事があるので掲載した。佐々河(福島県、安積郡篠川)御所といわれた足利満直(三代鎌倉公方満兼弟)は、稲村御所の足利満貞を補佐して鎌倉府の奥州支配の役割りを果たしていた。
http://zyousai.sakura.ne.jp/mysite1/kooriyama/sasagawa.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%A0%E5%B7%9D%E5%9F%8E
満貞は禅秀の乱ではその与党となったが、禅秀の乱後の鎌倉公方の持氏が、幕府の扶持衆であった常陸の山人与義や小栗満重らをも攻め、幕府に討伐をうけるようになると、反持氏側に結集する。幕府は満直から関東の情報を集め、篠川の手に属して忠節を尽くすことを奥州・関東の武士に呼びかけることになるのである。
既に前文書でもわかるように、白旗一揆が、武蔵と上野に分かれ再編されていた。武蔵・上野毎に、更に武蔵北白旗一揆・南白旗一揆と地縁的な一揆集団になったのである。これら一揆がここでは鎌倉公方足利持氏から離れ、幕府についた。一揆集団は状勢に機敏に対応したのである。

二二九 応永三十一年 (甲辰 一四二四)銘の板碑二基
所在地 楡木43 東谷墓地
主尊・銘 弥陀1・応永三十一 六月二十二日 妙心・禅尼
高さ 五五・五センチ

所在地 高萩
主尊・銘 弥陀1・応永一年十月廿二日 逆 修・助□正禅尼
応永三十二年(乙巳一425)
高さ 一尺五寸八分(下部欠) (清水嘉作氏調査)

応永三十二年(乙巳一四二五)二月、柏原鍛冶の増田正金、この月没する。
二三〇 新編武蔵風土記稿 高麗郡之五 柏原村
旧家者庄兵衛増田を氏とす、先祖増田正金また大水貴先と号して鍛冶業とす、応永州二年二月歿す、鍛する所の鎗一本その家に伝ふ、身の長さ一尺三寸、中心銘に柏原住人大水と鐫す、それよりして箕裘を継もの四世、今その名を失ヘリ、

二三一 応永三十二年 (乙巳 一四一云)銘の板碑三基
所在地 南平沢66 塚場(高麗川公民館)
主尊・銘 弥陀1・妙道禅門 応永丗二年□□□ 〈欠〉
十月□□□
高さ 三三センチ

所在地 新堀39 吹上 霊巌寺墓地
主尊・銘 〈欠〉応永州二年乙巳十二月月廿二日 浄泉・上座
高さ 三七センチ

所在地 中沢105 関場 墓地
主尊 ・銘 弥陀1・応永丗二年□月十日 善秀・禅尼
高さ 三〇センチ

二三二 応永三十三年 (丙午 一四二六)銘の板碑
所在地 楡木42 東野 東光寺
(光明真言)
主尊・銘 弥陀3・応永丗三年丙午六月□ 欠〉□□・禅門
(光明真言)
高さ 三七センチ

(参照) 光明真言(マントラ)とは
『唵 阿謨伽 尾盧左曩 摩訶母捺攞
(おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら)
麼抳 鉢納麼 入縛攞 鉢囉韈哆耶 吽
(まに はんどま じんばら はらばりたや うん)

二三三 応永三十三年 (丙午 一四二六)八月一日、武州一揆・白旗一揆・武州白旗一揆、関東公方足利持氏の軍勢催促により、甲斐の武田信長討伐のため発向し、一色持家の陣に加わる。

  • 鎌倉大日記〔生田繁氏蔵〕埼玉県史資料編7 所収

(裏書)
「応永卅三丙午、武田右馬助(信長)依出張、 一色刑部(持家)少輔為大将、六・廿六、被向御幡、同八・廿五、降参、武州一揆八・二着陣、」


  • 喜連川判鑑〔続群書類従

午丙三十三、(中略) 六月二十六日、武田右馬助信長甲州ノ府二出張、 一色刑部少輔大将トシテ参向、八月朔日、武州白旗一揆一色ガ陣二加ル、同二十五日、信長降参、 一色武田ヲ召連レ鎌倉ニ帰ル、武田ニ本領相違ナク下シ玉フ


  • 久下憲兼着到状〔松平義行氏所蔵文書〕埼玉県史資料編5所収

着到 白旗一揆 
久下修理亮入道代子息信濃守憲兼申軍忠事
右、為武田八郎信長御退治、依大将御発向、去月十九日令進発、馳集武州二宮、而同廿六日罷立彼所、馳参甲州鶴郡大槻御陣、至于信長降参之期、致宿直警固上者、給御証判、為備向後亀鏡、恐々言上如件、
応永丗三年八月 日
承了(証判)、 (花押影)(一色持家)

〔解説〕 これらの三史料には、武州一揆・武州白旗一揆・白旗一揆などの名称が用いられているが、この場合同一の一揆集団と考えられる。

応永三十四年 (丁未 一四二七)五月十三日 鎌倉府は、京都東福寺雑掌の訴えにより、南一揆輩等の多西部船木田荘領家年貢抑留を停め、武蔵守護代大石信重をして年貢を同寺雑掌に沙汰し渡させる
二三四 鎌倉府奉行人連署奉書〔尊経閣古文書纂東福寺文筆一〕埼玉県史資料編5所収
(封紙ウハ書)
「大石遠江入道殿治部丞黍規(道守、信重)」
東福寺雑掌中、武蔵国多西郡(多摩郡)船木田庄領家年貢事、
寺家知行無相違之処、領主等難渋之間、去年応永卅三・十一・二重自京都被成下御教書訖、案文壱通封裏遣之、爰平山参河入道・梶原美作守・南一揆輩令抑留年貢之間、有名無実分云々、太不可然、所詮守御教書、云未進▢、云当年貢、厳蜜可致其弁之旨、各相触之、可被沙汰渡寺家雑掌之由候也、仍執達如件、
応永卅四年五月十三日 治部丞(花押)(奏規).
修理亮(花押)
大石遠江入道殿(道守、信重)
○(本文書ノ挿入文字ノ真ニ、治部丞泰規ノ花押アリ。)

〔解説〕多西郡(多摩郡が二分され西の部分)の船木田荘(現在の日野市・八王子市のあたり)の領家・東福寺雑掌(荘園管理の役人)は、年貢滞納なきようにとの命令を受けたが、近隣の武士・平山参河入道・梶原美作守・南一揆の者たちが抑留して、そのため年貢が東福寺に納入されないので鎌倉府に訴え出た。これにより鎌倉府では問注所でこれを裁判し、二人の奉行人の連署をもって武蔵国守護入に対し、年貢が荘園に納入されるよういたすべきを命じたのである。
船木田荘の成立によって取り残された公領が再編されて多東郡・多西郡に二分割されたわけで、多西郡には得恒、土淵、吉富などの郷が成立し、ここには国人クラスの高麗氏一族がいた(高幡高麗氏、南一揆の構成員)。また、船木田荘平山のあたりに平山氏(平山越後守)がいたとみられる。こうした国人、土豪たちが自己の所領を中心として、独自の支配権を確立しょうとして荘園領主に対立したものとみられる。これに対して武蔵守護は鎌倉府の命をうけて荘園側の主張を認めたのである。参考までに、至徳二年(二三八五)船木田圧の算用は次のとおり。
武蔵国船木田庄年貢算用状〔東福寺文書〕『日野市史史料集』所収
(端裏書)「東福寺領船木田庄勘定状」
納東福寺領武蔵国多西郡内船木田新本両庄年貢事、

一 拾貫文 平山分
一 柒(七)百文 宇津木郷内青木村分
一 五貫七百文 豊田郷分
一 弐貫七百文 木切沢村分
一 肆貫五百文 由木郷分
一 参貫弐百文 大塚郷分
一 柒百文 梅坪分
一 参貫参百文 中野郷分
己上 卅四貫参百五十文 新庄分
一 弐拾貫文 本庄分
都合 伍拾肆(四)貫参百五十文
下行分
 合
一 寺納分 拾伍貫陸百文 此内弐貫六百文・夫賃
一 五貫文 管領(上杉憲方)進物
一 参貫文 梶原方  一献料
一 五貫文 守護代方 一献料
一 弐貫文 大石大井介方 一献料
一 弐貫文 芝印弾正方 一献料
一 貫文 小河原方 一献料
一 弐拾六貫文 国雑用方
己上 五拾玖貫陸百文
不足 五貫弐百五十文
至徳二年(一三八五)十二月廿五日長満(花押)

二三五 応永三十四年 (丁未 一四二七)銘の板碑
所在地 久保一6 亀竹 勝蔵寺墓地
主尊・銘 弥 陀3・応永丗「ニ+ニ」(四)丁未六月九日教法・禅門
高さ 七六・六センチ

二三六 応永三十五年 (戊申 一四二八、この年四月二十七日改元して正長元年となる)銘の板碑正長元年銘の板碑
所在地 久保16 亀竹 勝蔵寺墓地
主導・銘 弥陀1・応、第丗五年戊申▢▢▢
高さ 三三センチ

所在地 楡木42 東野 東光寺
主導・銘 弥陀1・正長元年五月十日 道有・禅門
高さ 三二・五センチ

永享六年(甲寅 一四三四)十二月九日、高麗越前守・同主計助は、武蔵六所宮(府中市大国魂神社)・一宮 (多摩市小野神社)造営料を納め、某連署による所納の証を受けた。
二三七 某連署返抄写〔彦根城博物館保管彦根藩井伊家史料「高
幡高寛文書」〕日野市史史料典所収
(武蔵国六所?宮・一宮等造営料、一国平均段別拾疋銭事
右、多西郡得恒郷内、高麗越前守知行分田数一町七段大四十歩、同主計助分九段小、所納如件、
永享六年十二月五日 (花押影)
(花押影)
写真22 某連署返抄写(彦根城博物館高幡高麗文書)

〔解説〕高麗越前守は多西那(多摩郡西部)得恒郷(高幡不動のあるところ)に一町七段大四〇歩(大は一段の三分の二、二四〇歩のこと)、同主計助は九段小(小は一段の三分の一、一二〇歩のこと)の田地を知行していたことが先ずわかる。つまり、得恒郷に本拠を持った土豪であろう。この高麗氏の田地に対して、六所宮と一宮造宮の費用を掛けてきたわけである。平均段別拾疋の銭(一疋とは銭二五〇文)を徴収したというから、これで両高麗氏の徴収額はきまった。
高麗越前守の名は、その後永禄十年(一五六七)にも見られる(高幡不動堂座敷次第覚書、史料四〇四)。高麗越前の家はここに継がれたとみることができる。高幡高麗氏の姿を具体的に知ることのできる貴重な文書というべきである。

永享七年(乙卯 一四三五) 八月中旬、鎌倉公方足利持氏、常陸の長倉遠江守追罰として軍勢を差し向ける。江戸・品川・河越・松山の武州一揆、扇谷上杉氏の手に属して参陣する。
二三八 長倉追罰記〔続群書炉従〕埼玉県史資料編8所収
(前略)抑比は永享七年乙卯の六月下旬の事なるに、常州佐竹の郡、長倉(義成)遠江守御追罰として、御所の御旗進発し、岩松右馬頭持国、大手の大将承り、八月中旬にはせむかふ、茂木(下野)の郷に着陣す、同かれか要害に馳向て、六千余騎にて張陣、かの籠城のありさま、四方切て、東西南北に対すへき山もなし、前は深谷、後は又岳峨々と聳たり、東に山河漲流、西には渓水をたゝへたり、是を用水に用る、日本無隻の城と見へたり、先大手に向て大将の御陣、鎌倉殿(足利持氏)御勢、其次に大将岩松殿、公方勢引率、野田・徳河・佐々木・梶原・染田・植野をはしめとして、すき間もなくつゝき、左は山内(上杉憲実)殿、 那和・前橋・金山・足利・佐貫・佐野を初めとして、上州一国同幕をうちつゝき、右は扇谷(上杉持朝)殿・江戸・品川・河越・松山・ふかや(深谷)をはしめとして、武州一揆も打続、東は那須の一党、其次海上・油井・大須加(賀)・相馬、總州(上杉)一揆張陣、西は又小田・結城・宇都宮相続て陣をはる、北は小山・薬師寺・佐野小太郎・高橋・傍士塚陣屋をならへてひしと打、大手・搦手入替々々攻戦といへ共、終に堅固に持かため、同年十月廿八日、結城・宇都宮相続、籌(ちゅう)をいはくの中に廻し、長倉(義成)遠江守開陣畢、(後略)

〔解説〕鎌倉公方足利持氏は、禅秀の乱に与した者の追討を厳しく進めた。永享七年、常陸国那珂郡長倉城(茨城県御前山村)の長倉義成討伐もその一つである。長倉氏は義成の父義景が禅秀の乱に際しては、佐竹氏の一族山人与義らと禅秀方として持氏に敵対していたのである。この長倉氏討伐のことは「長倉追罰記」によると、八月に攻め十月に落城させている。「長倉追罰記」は作者等不明だが、合戦後間もないころの成立とみられており、武蔵関係武士の動向を知る手がかりともなる。

永享八年 (丙辰 一四三六)ころと推定できる岩松持国本領所所注文に高麗郡加治郷がある
二三九 岩松持国本領所々注文〔正木文書〕埼玉県史資料嗣5所収
(端裏書)「御領所之注文」
岩松(持国)右京大夫本領所々注文
一上州新田庄 丹生郷
一武州春原庄(大里郡)内万苦郷 渋口郷(橘樹郡)
小泉郷(男衾郡) 片柳村(足立郡) 秀泰郷(埼玉郡)
久米六間在家(多摩郡) 蒲田郷(荏原郡) 小林村(荏原郡)
手墓相(棒沢郡) 得永名 加治郷(高麗郡)
糯田郷(埼玉郡)
一上総国 秋元郷内大谷村
一下総国 藤意郷 手賀郷 同郷内布施村
野毛崎村 菊田庄内家中郷
一相模国長持郷
一伊豆国宇久須郷
巳上

〔解説〕岩松氏は新田氏の一族、上野国新田庄内岩松郷(尾島町)など十三郷を譲与され、地頭職に任じられて岩松に住んだ。建武新政期に岩松経家は足利尊氏に属し飛騨守護に補任され、また、北条氏一族からの没収地十か所の地頭職を与えられ、他の新田一族に比べて優遇されている。以来有力な足利党で終始した。経家は中先代の乱の建武二年七月二十二日、女影原で討死した。満純は上杉禅秀に加担して敗死した。その後持国が家をつぎ、その家系は満純の系統(新田系礼部家)と持国の系統(岩松京兆家)に分かれた。満純の子家純のとき京兆家を圧して文明元年(一四六九)二月金山城を築き東上州を支配下に入れたが、家宰横瀬氏(のちの由良氏)に次第に実権を奪われていった。(吉川弘文館『国史大辞典』)岩松氏の本領所に、高麗郡加治郷があったという事実について、想起されるのが史料二の源頼朝下文との関連である

永享八年 (丙辰 一四三六)信州守護小笠原大膳大夫入道と村上中務大輔とに確執が生じたので、鎌倉公方足利持氏は上州一揆・武州新一揆に村上氏合力の出陣を命じたが、関東管領上杉憲実がこれを止めた。
二四〇 鎌倉九代後記〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料編8所収
同(永享)八年、信州守護人小笠原大勝大夫入道(政康)ト、村上(頼清)中務大輔確執ノ事アリ、村上ハ連々持氏(足利)へ心サシヲ通ルニヨリテ、村上カ合力トシテ桃井左衛門(憲義)督ヲ大将トシテ、上州一揆・武州新一揆ヲ信州ニ趣シム、管領上杉(山内)安房守憲実是ヲ聞テ、信濃ハ京都公方ノ御分国ナリ、小笠原其守護タレハ、村上是ニ敵対スル事イハレナシ、鎌倉ヨリノ加勢然ルへカラスト思ニヨリテ、上州ハ憲実カ守護タル故ニ、彼一揆ハ出陣ストイへトモ、憲実カハカライニテ国境ヲ越へス、是ニヨリテ其事延引ス、

〔解説〕鎌倉公方足利持氏が信濃守護小笠原改廃に反対する村上中務大輔援助のため、上州一揆、武州新一揆に出陣を命じたという。武州新一揆の名はこれを初見とする。武蔵国人層の去就、あるいは在地権力の編成などの変化によって、白旗一揆が上州・武州に再編され、武州白旗一揆、あるいは武州一揆・武州新一揆が構成されたとみられる。

二四一 永享九年 (丁巳一四三七)・永享銘の板碑二基
所在地 高萩102 西不動墓地
(光明真言)
主尊・銘 弥陀3?・了心寿位逆修 永享九年丁巳八月彼岸
(光明真言)
高さ 四七・五センチ

所在地 女影
主尊・銘弥陀1・永享
高さ 一尺二寸二分 (上下欠く) (清水嘉作氏調査)

二四二 永享十一年( 己未 一四三九)銘・永享銘の板碑二基
所在地 楡木42 東野 東光寺
主尊・銘 弥陀1・永享十一年己未正月一日 玉泉性・禅門
高さ 五九・五センチ

所在地 鹿山71 神明 神明社境内
(光明真言)
主尊・銘 弥陀3・永享 (欠)
(光明真言)
高さ 六八・二センチ

永享十二年 (庚申 一四四〇)四月十九日、関東管領上杉清方は、結城討伐のため鎌倉を出発、武蔵・上野の一揆勢等に参陣を催促し、軍勢をあつめる。
二四三 鎌倉大草紙〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料編8所収
(前略)上杉兵庫頭清方・同修理大夫持朝四月十九日に鎌倉を立出て在々所々を催促して軍勢を集めらる、東海道ハ不及申、武蔵・下野の一揆の輩、越後・信濃の軍勢、数万騎馳集る事、不遑(ふこう)注之(後略)

〔解説〕永享の乱(永享十年八月)は将軍足利義教と鎌倉公方持氏との足利家の内訌(内紛)であったが、鎌倉府内部では鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の争いであり、永享十l年(一四三九)二月十日、持氏敗れて鎌倉永安寺で自害して解決した。しかし、東国における内乱がこれで収まったわけではなかった。永享十二年三月、持氏を援けた結城氏朝は持氏の遺児春王丸・安王丸を結城城に迎え入れ、鎌倉の上杉憲実に反抗した。憲実はこれを幕府に報告、幕府は御教書を下し、関東管領上杉清方はこれをうけて結城討伐の軍を起したのである。しかし、永享乱が鎌倉公方と関東管領の主従間の争いであり、また持氏は鎌倉に地盤をもち、憲実は上野・越後方面に地盤をもち、その中間にある武蔵の国人たちは去就に迷う者もあったろうが、結局持氏に従う者が多く、例えは浅羽下総守の如く持氏と最後を共にした武士もあり、その子孫は『鎌倉持氏記』を著している。永享十二年四月十九日鎌倉を発した上杉清方は、武蔵国の各地を回って、永享の乱で持氏に付いた者をも引き寄せ、そして「数万騎馳集る事、不遑注之」と大軍を催すことができた。

永享十二年 (庚申 一四四〇)七月二十九日関東管領上杉清方は、諸軍を指揮して結城城を攻める。武蔵一揆は、南方から攻めるが落城しないで数日を送る。
二四四 鎌倉九代後記〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料編8所収
(前略)結城ノ城ニハ、結城中務大輔(中略)小笠原但馬守以下ノ軍兵楯寵ル、寄手ハ坤ノ方ニハ、惣大将清方、西ハ上州一揆、ハ上杉修理大夫持朝大将トシテ、安房国ノ軍兵、坎艮ハ京勢幷宇都宮新右馬頭・土岐刊部少輔・上杉治郎少輔教朝・小田讃岐守・常陸ノ北条駿河守、震巽ハ越後信濃ノ軍兵・武田大膳大夫入道、南ハ岩松三河守・小山小四郎・武田刑部少輔・武蔵一揆・千葉介・上総下総ノ軍勢相囲ムトイへトモ、城堅固ニシテ落カタケレハ、空ク数日ヲ送ル、(後略)

「参考」 (八卦方位を用いて記述、 坎艮、震巽、乾など)
八卦とは
https://www.denshougaku.com/%E5%85%AB%E5%8D%A6%E3%81%A8%E3%81%AF/

永享十二年(庚申 一四四〇)十二月一日、前関東管領上杉憲実は、安保宗繁の注進により、信州勢退治のため、武蔵守護代長尾景仲を遣わし、宗繁にも出陣を求める。
二四五 上杉憲実書状(切紙)〔安保文書〕埼玉児史資料編5所収
就信州之勢出張、態御音信喜入候、偽自当国没落人等、先以出張之分候欤、不可有殊子細候就、随而長尾左衛門尉(景仲)今明日之間御近所へ可令着陣侯、依此方時宜、当国へ可馳向之由、彼人ニ申付候、若彼人等此方へ罷向候時節、同時ニ此方へ御越候者、可為御志候、将又西本庄左衛門尉自金田帰宅之由承候、驚入侯、今時分不事問帰宅事、一向支度子細候哉と不審千万存候、御同道面々帰宅事、堅可被仰含候、猶猶々雖御当病候、依時宜此方へ御出陣可為肝要候、恐々謹言、
十二月一日 長棟(上杉憲実)(花押)
安保信乃(宗繋)入道殿

〔解説〕この文書は、一連の安保文書の一点で、結城合戦(永享十二年八月―翌嘉吉元年四月)に関係する文書四通の一点である。その四通の文書はいずれも年欠文書であるが、永享十二年のものとして『埼玉県史資料編5』に収められて、「本文書以下四通ノ文書ハ年欠ナレド、恐ラクコノ年ノモノカ。便宜ココニ合ワセ収ム」と註がされてあり、次の上杉憲実書状もこの四通の一点である。

永享十二年 (庚申 一四四〇)十二月六日入西一揆、武蔵守護代長尾景仲の手に属して信州勢退治のため上州板鼻に出陣する。
二四六 上杉憲実書状〔安保文書〕埼玉脱史資料編5所収
(封書ウハ書)
「安保信濃?入道殿長棟」
御状委細披見了、抑右馬助入道其外那須一族、当宿ニ可有在陣候、其故者、自野乗口御敵可出張之由其聞候、殊更長尾左衛門尉(景仲)当国へ馳越候間、国事無心元存候、其上人西一揆属右馬助入道手、当宿ニ可令在陣之旨申遺之処、自是の左右以前ニ、与長尾左衛門尉令同道、板鼻(上野)へ着陣間、旁以其方之時宜無心元存之、那須刑部少輔入道其外一族、悉以其方可有在陣之旨申候了、毎事其方事者、可有御計略侯、将又御親類以下、長尾左衛門尉ニ被差副之由承候、誠喜入存候、恐々謹言、
十二月六日 長棟(上杉憲実)(花押)
安保信濃入道(宗繁)殿

〔解説〕春王丸・安王丸を迎え入れた下総の結城氏朝は結城城に籠り、幕府・上杉方に反抗した。この結城城における合戦は永享十二年八月から翌嘉吉元年四月十六日の落城まで続く。この間における上杉方は、武蔵守護代長尾景仲の手に属して、信州から押し出してくる結城方勢にも対抗した。こうした中で、上州へ出陣する入西一揆のことがこの文書(前関東管領上杉憲実から北武蔵の国人安保氏宛)でわかる。なお、入西一揆については管見の限りこれ一点に止まる。入西郡内の国人領主層によって編成された一揆集団であることにちがいなかろう。南北朝期以来の白旗一揆などが再編され、地縁的に結合したものであろう。

二四七 嘉吉元年( 辛酉 一四四一)六月銘の板碑
所在地 女影 (清水嘉作氏調査)
銘 弥陀3・嘉吉辛酉六月日 (上下を欠く

二四八 嘉吉四年( 甲子 一四四四、二月五日改元文安元年と
なる)銘の板碑
所在地 横手 小瀬名 墓地
主尊・銘 弥陀1・嘉吉二年甲 子六月▢▢・禅尼
高さ 三九・五センチ

文安元年 ( 甲子 一四四四 )十二月十三日、越生の山本坊栄円は、箱根山御領高萩駒形之宮二所之旦那職を行満坊、豊前阿闇梨に譲渡した
二四九 旦那譲状写〔相馬文書〕埼玉県史資料編5所収
筥根(箱根)山御領属高萩駒形之官二所之檀那之事右、彼檀那等、豊前阿闍梨可有引導候、請用物三分二者、堂島造営之時計、三分一者、高萩駒形宮造営之時計、又細々之祈祷之事、道先達、土用・極月祈祷等之事者、豊前阿闇梨に申定候、なを々、此檀那者、いつかたに候共、行満坊はからいたるへく候、仍譲渡状如件、
文安元年十二月十三日
法印栄円(山本大坊)(花押影)
筥根山行満坊、又老豊前阿閣梨両人のほからいたるへく候
  
〔解説〕毛呂山西戸の山本坊栄円が持っていた高萩駒形之官の二所詣(箱根山、伊豆山の参詣)旦那引の権利を箱根山の行満坊に譲った文書である。高萩は箱根神社領、永正十六年(一五一九)には北条早雲の子で箱根神社別当である菊寿丸(長綱)の所領となる。「駒形之宮」は江戸時代、上・下高萩の鎮守で本山修験高萩院の持、現在はここに箱根神社がある。当時の高萩は駒形之官を中心としていたとみられる。二所詣とは走湯山権現(伊豆山神社)と箱根権現(箱根神社)を二所権現あるいは両所権現と称し、その参詣のことである。二所権現は頼朝以来将軍家の尊崇するところであり、室町時代には鎌倉府の崇敬も寄せられた。高萩は箱根神社領で、その住民は駒形之官を共同体の中心としたのであろう。土用・極月の祈祷、道先達は箱根山の修験豊前阿闇梨が行うことになったことがわかる

二五〇 文安四年 (丁卯 一四四七)銘の板碑
所在地 女影
主尊・銘 文安四年
高さ 一尺四寸上下を欠く
(清水嘉作氏調査)

二五一 文安六年 (己巳 一四四九  七月二十八日改元宝徳元年となる)銘の板碑

所在地 楡木41 貝戸 (林広次家)
行満六郎▢▢
大夫四郎孫▢▢
楠大郎孫八 <欠>
左藤大郎
主尊・銘 弥陀3三具足文安六年腎月廿三
楠法師   平蔵大郎・佐藤三郎・二郎大郎
禅門彦四郎・次郎太郎・又次郎・又三郎
高さ 一〇六センチ

〔解説〕額、日月、天蓋が三尊の上、三具足が下にある。廿三日は月待ちの日で、九月前後に「月待供養」の板碑がよくみられる。
月待板碑の最古は富士見市の嘉吉元年(一四四一)といわれ、日高市のこの板碑は十指の内に入る古例で、しかも美麗である。供養者一〇数名のなかの楠法師は導師、行満禅門は願主であろうか(『日高町の板碑』)。

所在地 楡木42 東野 東光寺
主尊・銘弥陀1・宝徳元年十一月十一日 妙三・禅尼
高さ 四七センチ

文安年間(一四四四~四九)の板碑二基
所在地 下鹿山8一 丸山墓地(細川五夫家)
主尊・銘弥陀3・文安巳ニ ▢▢ (欠
高さ 六二センチ

所在地 女影86 上ノ条 (飯塚長書家)
(光明真言)
主尊・銘 文安▢▢▢ (欠
(光明真言)
高さ 六六センチ

宝徳二年 (庚午 一四五〇)五月二十七日、将軍足利義政、幕府管領畠山持国をして、関東合戦につき関東奉公方面々中及び武州・上州白旗一揆中に戦功を励まさせる。
二五二 

  • 足 利義政御教書(切紙)〔喜連川文書〕埼玉県史資料編5所収

(封紙ウハ書)
「沙□ □ □ 関東奉公方面々中」
今度関東合戦事、不期次第、太不可然、於于今者、属無為欺、毎事無不忠之儀、可被励其功之由、所被仰下也、仍執達如件、
宝徳二年五月廿七日 沙弥(花押)(徳本、畠山持国)
関東奉公方面々中


  • 足利義政御教書写〔斎藤文書〕埼立県史資料編5所収

今度関東合戦事、不慮次第、太不可然於干今者属無為欺、毎事無不忠儀、可被励其功由、所被仰下也、仍執達如件
五月廿七日 徳本
武州・上州白旗一揆中

〔解説〕嘉吉元年(一四四二)結城落城で、永寿王丸(足利持氏の末子)は捕えられ京都に送られたが、たまたま、この年六月二十四日(嘉吉の変)将軍義政が横死したため、永寿王丸は許され、文安四年(一四四七)八月、京都より鎌倉に移り、父持氏のあとを継いで鎌倉の主となる。元服して将軍義成(のち義政)の一字を与えられて成氏と名乗る。これに先立つ同年七月、山内上杉憲忠(父憲実は、永享の乱で死んだ持氏と不和となった)が関東管領にあった。成氏は憲忠を父の仇の如く考えて対立したともいわれるが、上杉氏の家臣と公方家、その家臣との対立もあった。宝徳二年(一四五〇)四月二十日は、かねて結城成朝(結城合戦を起こした結城氏朝の子)の鎌倉府出仕に反対していた上杉氏の家臣長尾景仲、太田道真らが成氏の御所を襲撃しょうとしたことを察知した成氏は、急ぎ江の島へ移った。その翌日、長尾、太田氏らの軍と成氏救護にかけつけた小山、宇都宮、山田、千葉氏らの軍と各地で合戦した(江の島合戦)。この合戦は上杉勢がかなりの痛手をうけて終わったが、成氏は上杉方の非を幕府に訴え、その中で、武州一揆、上州一揆などは成氏に忠節を尽くすよう命じて欲しい旨を書き入れている(鎌倉大草子)。それを受けて幕府では、関東奉公方面々中へ、上杉氏権力の基盤となっている武州、上州一揆中にも及んで鎌倉公方に忠功を督励したのが本文書である。しかし事は成氏の考えたようには進まなかった。その後、成氏と上杉氏との対立は深まるばかりで、享徳三年(一四五四)十二月には、ついに成氏によって上杉憲実は殺害され享徳の大乱に癸展、成氏は翌康正元年(一四五五)古河に移りここを本拠として上杉氏と対立、長い戦いとなるのである。

二五二 宝徳二年 (庚午 一四五〇)銘の板碑
所在地 粟坪21 前畑 竜泉寺墓地
主尊・銘 弥陀3・宝徳二年
高さ 三三センチ

二五四 宝徳三年 (辛未 一四五一)・宝徳銘の板碑
所在地 楡木42 東光寺
主尊・銘 弥陀1・教法禅門 宝徳三年十月十四日
高さ 三五センチ

所在地 中沢
主尊・銘 弥陀・宝徳 十月(妙金トアク上・下欠ク)
高さ 六寸五分 (清水嘉作氏調査)

幸徳四年 (乙亥 一四五五、七月二十五日改元康正元年となる)六月一日、尼禅音は吾那村高麗端在家一宇、田畠山林を報恩寺阿弥陀堂に寄進する
二五五 尼禅音報恩寺に寄進〔報恩寺年譜〕埼玉県史資料網7所収
同四年乙亥、尼禅音 以吾那村高麗端在家一宇・田畠山林、寄附于当寺(報恩寺)阿弥陀之文有別
同四年六月一日 尼 禅 音判

〔解説〕当寺阿弥陀とは報恩寺境内にあった阿弥陀堂のこと。禅音は平沢の金剛寺の檀那、金剛寺の什物大般若経を応永二十年六月一日報恩寺に寄付した。史料二〇七を参照。

一五六 康正二年 (丙子 一四五六)銘の板碑
所在地 上鹿山74 屋敷ノ内 西光寺墓地
(光明真言)
主尊・銘 弥陀3・逆修道仙禅門 康正二年 丙子
(光明真言)  七月十六日
高さ 六三・三センチ

康正三年 (丁丑 一四五七九月二十八日改元して長禄元年)二月二十一日、古河公方足利成氏は武州南一揆跡五ヶ所を闕所として佐野盛綱に与え、重ねて佐野一族中に知行の証判を与えた。
二五七 足利成氏書状写〔喜連川家御書案留書〕東京大学史料編策所蔵
武州南一揆五ヶ所事、伯者守(佐野盛綱)雖致拝領、被借召被下候、然者知行不可有相違候、於此上者、可然闕所等各望申候者、重而可被成御判侯、謹言、
二月二十一日    成氏 御判
佐野一族中

〔解説〕足利成氏は康正元年(一四五五)六月十六日以来、古河に移り古河公方を称する。それ以前は鎌倉公方としてあり、武州南一揆は有力な奉公衆として戦力も期待されていたが、成氏が古河に追われてからの武州南一揆は成氏側から離れて、将軍足利義政・関東管領上杉方に付いた。そのため成氏は武州南一揆に与えた所領を没収し、それを成氏与党の佐野盛綱に与えたのである。しかしそれは空文に等しかったであろう。この文書によると、その宛行地を借り上げたことにしているが、佐野一族の知行地であることに相違ないとして、 一揆の者の望みによっては、重ねて判物をもってその知行を安堵するとしている。
この文書は年欠であるが、『埼玉県史資料編5』には、「本文書ハ年欠ナレド、足利成氏ノ所領安堵ニカカワル(康正三)モノニツキ、前号文書(享徳六年足利成氏判物) ニカケテ便宜ココニ収ム」としている。「喜連川家御書案留書」には、享徳四年(一四五五)の次に収めてある。

二五八 寛正六年 (乙酉 一四六五)銘の板碑
所属地 高萩
主尊・銘 弥陀3・妙阿禅尼 寛正六乙酉九月二十日
高さ 二尺二寸 (清水寡作氏調査)

一五九 寛正七年 (丙戊 一四六六、この年二月二十八日改元して文正元年となる)銘の板碑
所在地 新堀37 寺山 聖天院
主尊・銘 弥陀3・寛正七年四月丗日 権律師・覚▢
高さ 五二センチ

二六〇 応仁元年 (丁亥 一四六七、文正二年三月五日改元し
て応仁元年となる)銘の板碑
所在地 大谷沢110 西原 西浦墓地
主尊・銘弥陀3・応仁元年丁亥五月十二日浄珎・禅尼
高さ 七二・五センチ

二六一 応仁二年 (戊子 一四六八)銘鰐口
所在地 新堀 聖天院
銘 (表)久伊豆御宝前鰐口願主衛門五郎
武茄崎西郡(埼玉郡)鬼窪郷佐那賀谷村
(裏)大工渋江満五郎
応仁二年戊子十一月九日
大きさ 経二四センチ・厚五・五センチ

写真23 応仁二年銘鰐口(聖天院)(上が表、下が裏)

〔解説〕武州崎西郡鬼窪郷佐那賀谷村は現南埼玉郡白岡町実ケ谷、ここの久伊豆神社に奉納された鰐口が聖天院の所有になっているのである。いつ、どんな経緯で聖天院に移ったのか全く不明だが、戦乱の折などに鐘、鰐口など鳴り物は原在地から移動することはままある。高麗彦四郎経燈は正平六年(一三五一)足利尊氏に従って直義討伐のため宇都宮より鬼窪に来て、ここで旗上げをしている(正平七年軍忠状参照)から、高麗氏との関係があったのかも知れないが、鰐口の寄進者、願主の衛門五郎についても、またその関係についても全く不明である。大工渋江満五郎については、現岩槻市に渋江の地名があり、武蔵七党野与党の一族に渋江氏がいて岩槻周辺で勢力を振っていたから、ここで渋江氏との関係をもつ鋳物集団の一員であったとみられる。永禄―天正のころになると渋江鋳物師と呼ばれ、主として岩付城の下で御用を勤めて活躍したらしい。県指定文化財。『日高町史』(文化財編)参照。

二六二 応仁二年 ( 戊子 一四六八)銘の板碑
所在地 楡木42 東野 東光寺
(欠)
月待
□道法
主尊・銘 弥陀3 三具足 道本 応仁二年戊子八月廿三日
道徳道順 了杳
逆修道義道金 ▢ ▢▢▢
  妙園(欠)
高さ 六六センチ
備考 観音(サ)と勢至(サク)の円光に十仏を配し、弥陀(キリク)と合せ十三仏になる。キリクの円光は光明真言であろう。

二六三 文明二年( 庚寅 一四七〇)銘の板碑二基
所在地 高萩102 西不動墓地
(光明真言)
主尊・銘 弥陀3・逆修妙心禅尼 文明二年庚刁二月日
(光明真言)
高さ 七二・三センチ

所在地 大谷沢
主尊・銘 弥陀3・文明二庚寅十一月廿三日
高さ 三尺二分
備考 月待供養塔ナラム 三具足 二十名程ノ名ヲ刻ム(清水嘉作氏調査)

文明三年 (辛卯 一四七一) 九月十七日、将軍足利義政は関東管領上杉顕定に御内書を送り、上州・武州一揆等の上州館林城攻略の軍忠を賞する。
二六四 室町将軍家御内書写〔御内書符案〕東京大学史料編茶所所蔵写本
(飯肥奉案文出之)
同前
今度上州立林城進発事、差遣上州・武州一揆輩幷長尾左衛門尉以下被官人等、則時攻落之、数輩被疵之粂、忠節異于他、弥可廻計策候也、
同日(九月十七日)

〔解説〕「御内書符案」は室町幕府から公事以外のことで武家・社寺に出した文書(御内書)の案文が集められ、「室町家御内書案」ともいわれる。ここで取り上げた文書は「御内書符案、文明三 関東方」とある一括文書集の一点である。したがって年欠文書であるが文明三年のものである。文書中の( )書きは、この一括文書の編者による書入れであろう。室町幕府の将軍が上州・武州一揆に対し、立林城(現群馬県館林市、多々良沼に突き出した半島に本丸等があった要害)での軍功を賞した文書。康正元年(一四五五)幕府は関東管領上杉房顕を援けて成氏討伐を決め、同年六月、駿河の今川範忠が鎌倉に攻め入り、成氏は下総の古河に走る。以来成氏はここで古河公方を称し、幕府・上杉氏と戦う。文明三年三月、成氏は堀越公方政知を襲って伊豆三島へ進んだ隙に、上杉軍が立林の要害を攻めたのである。

二六五 文明三年 (辛卯 一四七一)銘の板碑
所在地 横手8 滝泉寺墓地
逆  義界 文明三年辛卯 
主尊・銘 南無阿弥陀仏・(花瓶)・(花瓶)
修  上座 九月廿六日
高さ 五二・五センチ
備考 上欠だが、天蓋の喫塔が左右に見られる義界上座は刻み直しの跡あり(『日高町の板碑』)

二六六 文明四年(壬辰一四七二)の板碑六基
所在地 台18 大沢 (新井定重家)
妙西 
主尊・銘 弥陀1・文明四年十月廿五日
禅尼
高さ 六二・五センチ

所在地 田波目67 榎堂小祠(田中義一家)
文明「ニ+ニ」(四)壬辰
主尊・銘 地蔵図像 三具足
十一月廿四(ニ+ニ)日
高さ 九六・五センチ

備考 地蔵は連座の上に立つ。右手に錫杖、左手に宝珠、大きな頭光。その上を鳥が羽ばたくような形をした天蓋。地蔵の足下には三具足が供えられている。廿四日は地蔵の縁日(『日高町の板碑』)

所在地 横手三 関ノ入墓地(大川戸弘家)
文明四年
主尊・銘 〈欠)・妙心禅尼
正月一日
高さ三六・五センチ

所在地 横手3 関ノ入墓地(大川戸弘家)
現世安穏文明四年
主尊・銘 弥陀3・逆修道禅善門
後生清浄 八月日
高さ 六〇センチ

所在地 横手3 関ノ入墓地(大川戸弘家)
現世安穏 文明四年
主尊・銘 弥陀3・道修道徳禅門
後世清浄 八月日
高さ 六〇・二センチ

所在地 横手3 関ノ入墓地(大川戸弘家)
文明四 ▢▢
主尊・銘 弥陀1・▢▢妙心▢ (欠)
▢月日
高さ 三六・五センチ

二六七 文明七年 (乙未 一四七五)銘の板碑三基
所在地 粟坪21 前畑 竜泉寺墓地
文明七年▢▢ (花瓶)
主尊・銘 弥陀3.道永禅門▢
四月二日 (花瓶)
高さ 五三センチ

所在地 新堀37 寺山 聖天院
文明七年・乙未
主尊・銘 南無阿弥陀仏▢▢道仲
八月吉日
高さ 六二センチ

所在地 猿田44 西ノ内 正福寺墓地
▢▢仏土中唯有一乗法・逆修道求禅門
主尊・銘 弥陀3 文明七乙未八月 日
無二亦無三除仏方便説
高さ 五一センチ

文明八年 (丙申 一四七六)上杉顕定の宰 長尾景春は顕定に叛逆、両者は児玉郡五十子(いかこ、現本庄市)で合戦する。
二六八 鎌倉九代後記〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料編8所収
文明年中、扇谷定正(山内上杉顛定)家老長尾四郎左衛門景春・後入道伊玄ト号ス、定正(顕定)ニ対シ逆心シテ、武州五十子(兄玉郡)ニテ合戦、定正利ナクシテ同国鉢形城(男衾郡)ニ入ル、是ヨリサキニ定正老臣太田道灌、景春カ奢甚ナルヲ見テシリソケン事ヲ諌レトモ、定正許容ナク、其後景春遂ニ叛逆ス、

文明九年 (丁酉 一四七七)四月十日、長尾景春の与党小机城(横浜市)主矢野兵庫助等は、河越城を攻めようと苦林に出陣、河越城将太田図書介資忠(道灌の弟)・上田上野介等は城を出て勝原でこれと合戦し敗退させた
二六九 鎌倉大草子〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料編8所収
(前略)景春(長尾)一味の実相寺幷吉里宮内左衛門尉以下、小沢(相模)の城の為後詰、横山(多摩郡)より打出、当国府中に陣取、小山の城を攻落して、矢野兵庫介を大将として河越の城押の為、若林(苦林?)と云所に陣を取、是を見て河越(入間郡)に籠る太田(資長)・上田等、同四月十日に打出ければ、矢野兵庫助其外小机(橘樹郡)の城主、勝原と云所に馳出合戦しける、敵ハ矢野を初として皆悉く打負、深手負て引退、(後略)

〔解説〕山内上杉家の顛定(関東管領)は、家宰の長尾景信(昌賢)が文明五年 (一四七三)に五十子で戦没ののち、その弟忠景を家宰とした。景信の子景春はこれをうらんで顕定に謀反を起こした。文明八年(一四七八)扇谷上杉定正の家宰太田道灌が駿河今川家の内紛を解決するため出陣した隙に同年六月鉢形城に拠り、五十子(現本庄市北泉五十子)に在陣中の両上杉氏を攻め、顕定・定正等を上野に敗走させた。長尾景春の乱はこうして始まり、景春は永正十一年(一五一四)七十二歳で没するまで山内家に反抗する。それは景春に与する者が多かったことで、景春与党は各地で戦勝した。上杉氏の江戸城・川越城は攻撃の対象とされたが、太田道潅が駿河の今川家の紛争収拾ののちは景春の乱平定のために各地で活躍することとなる。まず、景春方の相模の溝呂木・小磯両城を攻め落とし、河越城には弟の太田資正・上田上野介をはじめとする松山衆を篭めて守りを固めた。そこへ景春の与党実相寺・宮内左衛門尉などが府中に陣取り、矢野兵庫助を大将として、河越城を落とすため若林に陣を取った。これをみて川越城の太田・上田氏などが打って出て、勝原(坂戸市石井・塚越の周辺一帯は勝郷= 『坂戸市史』)で合戦したのである。若林は現在毛呂山町、府中からくる鎌倉街道上にあり、高萩・女影の次、勝原(勝呂原)は苦林からも川越城からもほぼ等距離の地にある。

二七〇 文明十年 (戊戌 一四七八)銘の板碑
所在地 高萩99 乙天神 (高萩公民館)
文明十天 (花瓶)
主尊.銘 弥陀3 妙心禅尼
十月十九日 (花瓶
高さ 六一・八センチ

二七一 文明十一年 (己亥 一四七九)銘の板碑
所在地 北平沢54 久保ケ谷戸墓地 (関口芳次家)
妙春 (花瓶)
主尊・銘 弥陀3・文明十一天四月廿五日禅尼
禅尼 (花瓶)
高さ 五六・五センチ

二七二 文明十二年 (庚子 一四八〇)銘の板碑二基
所在地 女影
主尊・銘 弥陀3・文明十二庚子六月廿三日妙香禅尼
光明真言
高さ 二尺六寸一分 (清水嘉作氏調査)

所在地 中沢105 開場墓地
文明十二年・庚子
主尊・銘弥陀3・妙心禅尼逆修
八月十六日
高さ 七三センチ

二七三 文明十五年 (癸卯 一四八三)文明年間の板碑
所在地 北平沢62 馬場 松福院墓地
道 永
主尊・銘 弥陀1・文明十五年十月四日
禅 門
高さ 四八センチ

所在地 清流27 入墓地 (和田箕家)
逆妙喜
主尊・銘 弥陀1 ・文明▢年▢ (欠)
修禅尼
高さ 三六センチ

二七四 文明十七年 (乙巳 一四八五)銘鰐口〔高麗神社蔵〕
奉掛鰐口一面武州高麗郡大官常住
文明十七年乙巳正月日 願主慶(珍)称
(径二四・六、鋳鋼製。陰刻銘、)

写真24 文明十七年銘鰐口(高麗神社)

文明十八年 (丙午 一四八六)七月二十六日、扇谷上杉
定正は家事の太田道潅を相模国粕屋の館で殺害した。
二七五 鎌倉九代後記〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料編8所収
同(文明)十八年、扇谷定正家臣太田道潅、山内顕定(上杉)ニ対シテ逆心ス、定正制スレトモ承引セス、是ニヨリテ同七月廿六日、相州糟屋館ニテ道潅ヲ誅ス、顕定モ合力トシテ高見原(比企郡)迄出馬ス、其後道灌カ城地川越城(入間郡)ハ、定正ノ嫡子朝良(上杉)カ執事曽我兵庫頭ヲ守護トシ、江戸城(豊島郡)ハ同豊後守ニ守ラス、道道灌カ家来斎藤加賀守(安元)ハ、軍法ノ故実アリトテ定正カ近臣ニス、又道灌ヲ諌シテ以後。心ヲヒルカへシテ定正ヲ亡スへキ企アリ、顕定ニハ関東ノ諸士多ク属スニヨリテ、弥定正ヲ討へキ謀ヲメクラス、定正ハ古河政氏(足利)・成氏男、ト一味シテ、顕定ヲ亡サンコトヲハカル、
一説先年長尾四郎左衛門景春、定正ニ背テ後顕定ノ麾下(旗下)ニ属ス、是ニヨリテ両上杉不和ナリ、其後定正ノ家臣太田道潅カ武略アルコトヲソネミテ、顕定、定正ノ許へ便ヲ遣シテ、両家元来迫恨ナシ、定正家臣道潅ヲ誅戮(ちゅうりく)セハ、我又景春ヲ殺シテ両家ノ戦ヲ止へシトイへ リ、定正是ヲ承引シテ、逐ニ道灌ヲ殺ス、顕定、謀略ノタメニ云ケルニヨリテ、景春ヲ誅セス、定正怒リテ両家弥不和ナト云々、

二七六 養竹院位牌〔川島町養竹院所蔵〕
(表) 故考、香月院殿春苑道潅庵主
(裏) 当院開山叔悦和尚兄開基太田信濃守父
太田左衛門太夫資長
文明十八丙午年七月廿六日逝

二七七 太田資武状〔東大史料編纂所影写本〕練馬郷土史研究会「研究史料第八桝」所収
一 道潅ハ文明十八年丙午七月廿六日、五十五歳にて遠行之由、慥被為聞之段被仰越、拙者右申進候も共通ニ御座候、扨又死去之正説ハ、風呂屋にて風呂之小口迄被出侯時、曽我兵庫と中者太刀付、被切倒なから、当方滅亡、と最後之一言、其時代ニハ都鄙以無隠由、親度々物語仕候、彼曽我兵庫ハ、道真重恩ヲ為蒙者にて御座候へとも、官〔管〕領より之貴命無拠故欺、右之仕合ニ候、道潅如一言、扇谷御家も無時刻相果、河越も属北条之手ニ申候、此物かたり、少々詞も難述、長キ事にて御座候間、存通ハ不被申候事、

二七八 文明十八年 (丙午 一四八六)銘懸仏〔狭山市相原長谷川文略埼玉県史資料編9所収
武州相原(高麗郡)
住又三郎
(不動明王)
文明十八年十一月十五日
(径一六・八㌧鋳鋼製。陰刻銘。)

〔解説〕『風土紀稿』(高麗郡柏原村)に次の記載がある。
剣明神社 里正武兵衛が持ちなり、宝永年時に武兵衛が曽祖父某屋舗、後に井を穿ちて一円鏡を得たり、正面に顔形を鋳造し、上に梵字、下に劔明神、右に文明元年二月廿八日左に柏原住人と鐫せり、是を神体とせしに、故ありて失たれは、別に円鏡を鋳てかへ置り、それも旧きことにや、鏡面に焚字一字及び文明十八年十一月十五日、武州柏原住人又三郎と刻す、依て今安置する神体は、古体を模して木にて製せるなり、

長享元年 (丁未 一四八七、文明十九年七月二十日改元)十一月三日、これより前、山内上杉顕定は養子の憲房と相談して、扇谷上杉定正退治を謀る。道潅の子太田資康は山内家に従い、定正は古河公方足利政氏の合力を得て、この日菅谷原に対陣する。
二七九 
① 北条記〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料編8所収
山内・扇谷不和の事
明ル年改元有て、長享元年ニ移ル、其比山内顔定・憲房御相談有て、扇谷ノ修理権大夫定政ヲ対治アルへキト聞エケル故、道灌カ子息太田源六郎、甲州へ忍出て、山内殿ノ下知ニシタカヒ、軍勢ヲ催ケル、関東八州ノ大名・小名、道潅有シ程コソ扇谷殿へ心ヲ寄シニ、何シカ扇谷ノ柱石推ヌ、何ニヨリテカ扇谷殿へ参ルへキトテ、皆山内殿へ馳参ル、定政・朝艮(扇谷上杉)ハ糟谷(相模)ニアリナカラ、河越ニ曾我ヲ寵メ、小田原に大森式部少輔ヲ寵メ、僅ニ二百騎ハカリニテ、八ヶ国ノ大軍ヲクツカへサント、少モサハカヌケシキ也、定政、使者ヲ古河ノ公方へ参ラセ、今度可太田入道当家(道灌、資長)へ二心ナク忠功ヲ積、度々奉公不。勝計、然とも山内へ逆心ノ企侯間、訣伐ヲ加候へハ、無程山内ヨリ当方対治ノ企、仰何事ニ依テ一家ノ好ミヲ忘レ、定政可討支度難心得、東八ヶ国亡国スへキ基ヒ也、縦ヒ山内ヨリ当方対治ノ企アリトモ、御所ニ於テハ正理ニマカセ、当方へ御下知ヲ被下、御旗本ニテ、家ノ安否ヲ可定由、詞ヲ轟シテ被申ケレハ、古河公方政氏(足利)、 御内得(納得)アリテ、定政へ合力ノ御動座、御加勢ニ及ヒシカハ、上杉普代ノ老臣長尾(景春)左衛門尉入道伊玄、定政へ馳付ケル、是ヲ初トシテ、左輔右弼何レモト勝レクル義士ナリケレハ、縦ヒ小勢ノ味方ニテ、敵何万騎アレトモ恐ルルニ不足ト、案ノ内二推量シテ、驚ク気色モナカリケル、(後略)

② 鎌倉管領九代記五〔内閣文庫本〕東松山市史資料網第二巻所収
同年十一月三日、両上杉の大将相(武)州菅谷原に対陣す

長享二年 (戊申 一四八八)正月、両上杉氏の軍勢、相・武の間を横行する。
二八〇 梅花無尽蔵〔五山文学新集〕埼玉県史資料編8所収
戊申上(長享二年) 武蔵所作
正月旦試筆 関左是時上杉之兵横行相武之間、八州大半逆波、未決其雌雄、余尚萬武陵無恙而巳
誕戊申重値戊申、残生六十一閑人、暁鴬未度風塵積、
夢裡尋花濃尾春、

長享二年 (戊申 一四八八)二月五日、扇谷上杉定正は相州実蒔原に出陣、山内上杉顕定の軍を破る。
二八一 北条記〔内閣文庫本〕埼玉県史資料編8所収
山内・扇谷不和の事
(前略)長亨二年二月五日、山内ノ軍勢、顕定・憲房両大将ニテ一千余騎、相州実蒔原へ出陣ス、聞之而、定政僅ニ遑兵二百騎ヲ相具、数百里ヲ一日一夜二打越て、参然タル敵ノ勇鋭ヲ見ナカラ、機ヲ撓メ給ハス、押寄責給へハ、敵モ小勢卜見てンケレハ、少も擬議セス相懸ニ進ミ、時ノ声ヲ三度作り、楓卜乱てマクツ、マクラレツ、半時計戦テ、両陣互ニ地ヲ易へ南北ニ分レて其路ヲ顧レハ、原野血ニ染テ野草緑ヲカへニケル、暫ク休息テ亦乱合て、追廻懸違へ、喚キ叫ンテ戦シカ、山内ノ大勢纔(わずか)ノ小勢ニ懸負、四方ニ乱テ落行ケレハ、定政(扇谷上杉)モ小ヲ以大ヲ計事、不思議ノ勝ト思ヒケレハ、勝時ヲ上テソ帰リケル、

長享二年 (戊申 一四八八)六月八日、山内顕定は須賀
原(菅谷原現嵐山町)に出陣し、扇谷定正に対陣する。
一八二 北条記〔内閣文庫本〕埼玉県史資料編8所収
高見原合戦事
(前略)長享二戊申年六月八日、山内殿上杉民部大輔顕定・同兵庫頭憲房、須賀原へ出陣ス、坂東八ヶ国ノ勢トモ、我モ我モト心馳集て如雲霞、甲胃ノ光耀ヒテ、明残ル夜ノ星ノ如シ、鳥雲ノ陣ヲ堅メケル扇谷殿上杉修理大夫定政、子息五郎朝良、古河公方(足利政氏)ノ御動座ヲ申ナシ、御旗ヲ打立、長尾景春入道(伊玄)参リシカハ、小勢ナレトモ家ノ安否、身ノ浮沈、只此一軍ニ定ムへシト各イサミ、束西ニ敵有トモ思ハヌ気分アラハレタリ、然レトモ、定政ノ弟幷ニ子息五郎朝良、若輩ニテ今日初テノ戦ヒナレハ、最前ニ懸リテ長尾新五郎(景長)・同修理亮(顕忠)ニ懸合、散々ニ進(追?)立ラル、顕定・憲房、斯レニ横合、散々ニ追立て、諸軍機ヲ得テ抜連て懸ル所ニ、定政高キ所ニ馬ヲ打上、アレ迫カへセト下知シテ、懸足ヲ出シ玉へハ、左右ノ軍兵、大将ノ前ニ馳抜く、一度ニハラリト切てカカル、喚キ叫テ戦フ声、サシモ広キ武蔵野ニ余ル計ソ聞エケル、カカリシ処二長尾伊玄入道(景春)、藤田卜懸合退散シテ、其軍勢ヲ其ママ横ニ立ナヲシ、山内殿ノ旗本へ突テカカル、顕定・顕房、両方ノ敵ニ追付ラレテ終ニハ相負引退ク(後略)

長享二年(戊申一四八八)六月十八日、比企郡須賀谷原において、両上杉軍合戦し、死者七百余人・馬数百匹死す。
二八三 梅花無尽蔵〔五山文学新集〕埼玉県史資料編8所収
(八月)十七日、入須賀谷(比企郡)之北平沢山、間大(太)田源六資康之軍営於明王堂畔、二三十騎突出、迎余、今亦深泥之中解投、各拝其面、賀資康無芸、余己暫寓云、
明王堂畔問君軍、雨後深泥似度雲、馬足末臨草吹血、
細看要作戦場文、六月十八日、源(須)賀谷有両上杉戦、
死者七百余矣、馬亦数百足(疋)

〔解説〕梅花無尽蔵は、室町時代の臨済宗一山派の僧万里集九(応仁乱後還俗して漆桶万里と称した)の庵室の名であるが、漢詩に長じその詩集にもこの名称を用いた。集九は文人僧侶との交遊の外、大名との交遊もあり、特に太田道潅からは招請をうけ、江戸城で漢詩を講じている。文明十八年太田道灌が扇谷定正に殺害された後は美濃に帰ろうとするが、定正に抑留されたり、叔悦禅懌の請をうけて漢詩を講じて留まる。長享二年八月、江戸を出て、武蔵鉢形、上野国白井、沼田、越後などへ旅立つ。その八月十七日、道灌の子源六資康が定正に背き山内顕定に参陣し、須賀谷(比企郡菅谷)に在陣中を訪ねるのである。そして、去る六月十八日、両上杉の大合戦のことをきき、その血なまぐさい戦場の跡をみて詩にその模様を托したのである。詩の「明王堂」とは現嵐山町平沢にある不動明王の不動堂である。

長享二年 (戊申 一四八八)十一月十五日、扇谷上杉定正は山内上杉顕定と高見原(現嵐山町)に戦う
二八四 足利政氏感状写〔相州文書〕埼玉県史資料編5所収
去十五日 於武州高見原(比企郡)合戦之時、被疵之条、神妙也、
弥可抽戦功之状 如件
長享二年十一月廿七日 (花押影)(足利政氏)
佐藤助太郎殿

長享三年 (己酉 一四八九、この年八月二十一日改元延徳元年)四月二十五日、渋垂小四郎が永享の乱(一四三八)中に押領された高麗郡広瀬郷内大谷沢村などの本知行分の安堵を申請した目録に、足利高氏が証判を与えた。
二八五 渋垂小四郎本知行目録写〔渋垂文書〕埼玉県史資料編5所収
(証判)「(花押影)」(足利高氏)
渋垂下野小四郎申本知行分
一武州高麗郡広瀬郷内大谷沢村
一同国大寄郷内芦苅庭村
一同国足立郡大官郷内吉野村
一同国小山田保鶴間郷内小河村幷心広寺田畠在家
一下野国足利庄渋垂郷内佐野給
一同国三河郡内上名間井村
一相州八幡庄内北原郷
一同国三浦郷内久野谷郷内猿江村幷相原在家
右、永享乱刻 被致強入部地也 若偽申候者 
八幡大菩薩可有照覧候也
長享三年四月廿五日

〔解説〕永享の乱は永享十年(一四三八)八月に始まり十一月に終息したが、その後半戦ともいうべき結城合戦は(永享十二年三月)持氏の遺児春王九、安王九、永寿王丸を擁立した結城氏が中心となって起こした。当時、幕府や上杉氏に対する反発が強くあったことから一年以上も戦乱が続いた。嘉吉元年(一四四一)四月結城城は落城し、春王九・安王丸は斬られたが、永寿王丸は将軍義教の死により、命をながらえ、宝徳元年(一四四九)鎌倉に移されて持氏の跡を継ぎ成氏と名乗り、鎌倉府は再興された。しかし、成氏にとって上杉氏は仇敵であったため、両者の対立は深まりやがて成氏は古河へ追われる。このように永享の乱以来争乱は絶えず、関東に主のいない状態が続いて、土地所有関係も乱れた。渋垂氏は下野国渋垂郷(現足利市上・下渋垂)を本貫地とした国人であったが、永享乱による乱れで所領が不知行化したため回復を願い、安堵状の申請をしたものであろう。高麗郡広瀬郷内大谷沢村は現日高市である。大寄郷内芦刈場は不明、加治郷に芦刈場(現飯能市)の地名はある。

二八六 延徳二年 (庚戊 一四九〇)銘棟札〔飯能市南我野神社〕埼玉県史資料編9所収
(表)
大檀那小野朝臣岡部新三郎員忠
熊野宮再興  敬白
河神田大工小室義三郎吉次
口口二郎
(蓑)
修造奉行 来蔵坊□□□ 延徳二年庚戊卯月吉日
加治中沢次郎五郎政広 敬白

〔解説〕長三八・三上幅九・〇。ほとんど墨色は残らず。かろぅじて文字跡が確認される。銘文は『銘記集』による。検討を要す(『埼玉県史』)。
加治中沢次郎五郎政広は加治郷の中沢氏で中世鍛冶師であった。

二月一日、太田資清(道真)没する。
二八七 太田道真位牌〔川島町養竹院〕
(表)
自得院殿実慶道真庵主
(蓑)
当院開山叔悦和尚父 開基太田信濃守祖父
太田備中守資清
二月朔日逝

〔解説〕太田道海は主君の上杉定正によって文明十八年(一四八六)に謀殺されたが父道真は天寿を全うして八十三歳で延徳四年に亡くなったのである。「太田家譜」によれは、越生の竜穏寺を建立(中興)して菩提所とし、越生に常住、自得軒と称していたという。また、没年については同家譜に「明応元壬子年二月二日卒于時八十三歳号自得院殿実歴道真庵主」とある。位牌には、年紀がなく、ただ二月朔日とのみ記してある。ここでは二月一日をとった。

二八八 廷徳四年(王子一四九二)銘 南村(飯鰭市)天神社棟札(所在不明) 宗稲武蔵風土記稿3・埼玉県史資料編9所収
(表)
同舎弟・鶴房丸・亀房丸・禄位伏専寿算保亀鶴之甲子貌容等
奉賀当山大檀那小野員忠本願平沼・兵衛次郎重政・同源六重宗・専子孫之寿算更無彊
椿松之春秋曽為仏霊湯永為王道柱石臭六百四十歳以後造営見之者也
(裏)
神河田 大工場窟紀諸州郎溺離村忙錯男藤太郎太夫延徳看晋月十九日 翁上中沢道了社人平沼八太夫同子右衛門四郎太夫

延徳四年(王子一四九二、七月十九日明応元年となる)父当(醇所鍛)冶次同郎番五子郎四弥政郎三広次郎郎
上谷萱舘蒜悶

二八九 延徳四年 (王子 一四九二、この年七月十九日改元して明応元年となる)銘の板碑二基
所在地 新堀39 吹上霊巌寺墓地
  延徳二天(花瓶)
主尊・銘 弥陀3・妙林禅尼逆修
六月九日(花瓶)
高さ 五一・五センチ

所在地 横手8 滝泉寺墓地
逆延徳「ニ+ニ」(四)年(花瓶)
主尊・銘 弥陀3・妙泉禅尼 壬子
修十月日(花瓶)
高さ四七・五七ソチ

明応三年 (甲寅 一四九四)十月三日、これより前、七月より山内・扇谷両上杉氏の抗争が再開、扇谷定正は伊勢宗瑞の援軍を併せ、山内題定は武・上・相の一揆を集めて荒川で対陣、この日、定正は落馬して頓死した。
二九〇 石川忠総留書〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料編8所収

明応三甲寅七月廿一日、上杉(山内・扇谷)同名再乱のはしめ、八月十五日関戸(多摩郡)要害没落、九月十九日相州玉縄要害没落、矢野右馬助討死、伊勢入道(長氏)宗瑞越山、同廿八日当国(武蔵)久目(米)川(多摩郡)着陣、範亭与宗瑞(扇谷定正)はしめて対談、十月二日両陣すすミ高見(比企郡)、与顕定(山内上杉)荒川をへたて対陣す、同三日範亭・宗瑞(北条早雲)両陣打立、川を渡らんとする処に、範亭落馬して頓死軍敗、川越(入間郡)の城に帰り、範亭別称大通護国院定正宗瑞とは早雲庵、

二九一 松陰私語〔東大史料編纂所騰写本〕埼玉県史資料編8所収

(前略)其後山内(上杉顕定)武州国中へ進発、武・上・相之一揆四五千騎供奉、五日十日打過、及数月数年、方々陣壘不相定、河越者(扇谷上杉定正)松山稻付(比企郡)方々地利遮塞御方行ヲ、其上ニ豆州押妨之早雲入道(伊勢長氏)ヲ自河越(入間郡)被招越、山内者向松山張陣被相攻、諸一揆陣労之上ニ、外国之新手数寓人関東中ニ乱入、先被乗執相(武?)州河越、乗勝江戸(豊島郡)・河越払両城被打出、山内ハ藤田(榛沢郡)・小舞田(榛沢郡)被人馬、敵者武州之越荒河者、可有合戦会議、向河辺引渡而張陣、早雲カ衆武州塚田(大里郡)前後ニ張陣、然処河越之治部少輔殿(修理大夫?)(扇谷上杉定正)頓死、江戸・河越・早雲衆悉退散、誠天道之令然処欺、(後略)

〔解説〕「石川忠総留書」は明応三年七月二十一日の両上杉氏の合戦から、天文十年の北条氏綱の死までの諸合戦が簡潔に記されていてわかりやすい。両上杉氏の抗争は既に十年に余り、長享二年(一四八八)両軍の須賀谷原(現嵐山町)の合戦は山内顕定軍の敗北で一応の結着をみた。しかし、それは惨状を極めた合戦だった。「松陰私語」は、両上杉の「錯乱十有余年」と評している。それから明応三年に至り両者は再び抗争を開始し、扇谷定正が没落していく。「松陰私語」は岩松氏(新田氏出)の陣僧であった松陰による永正六(一五〇九)年成立の記録である。岩松家は、最初は上杉方に従い、のち古河公方に従った。そうしたことで、「松陰私語」は、両上杉氏の抗争についても詳しい記録がされているので「石川忠総留書」と併用して理解できるように掲載した。なお、扇谷上杉定正没後、その跡は朝良が継いだが、朝良の子朝興はやがて北条氏に追われ、朝興の子朝定をもって扇谷上杉氏は滅亡する。

二九二 明応三年 (甲寅 一四九四)銘の板碑
所在地 清流27 入墓地 (和田賓家)
▢応三天・甲刁
主尊・銘 (欠)  (花瓶)
五月十六日
高さ 三〇センチ

二九三 明応四年(乙卯一四九五)銘棟札〔飯能市南我野
神社〕埼玉県史資料鰐9所収
(表)
大檀那小野朝臣岡部新三郎員忠 修造奉行平沼兵衛
次郎重政当社御造栄同内鳥居道立 明応四年陀十一月廿夕
十六日 敬白
河神田大工小室藤三郎吉次同弥次郎
(裏)
加治中沢次郎五郎政広香子道貞同弥三郎
執持 実蔵坊 柴原九郎三郎 会所社入明奉 同子左衛
門三郎大夫
本山谷津孫三郎 塩丸三郎太郎 岩崎兵衛次郎
同子六郎二郎
(長五八・五 幅一二・五 、検討を要す。)

二九四 明応四年 (乙卯 一四九五)銘の板碑
所在地 大谷沢110 西原 西浦墓地
明応「ニ+ニ」(四)天 (花瓶
主尊・銘 弥陀3・▢善禅門
(欠)
長さ 三一センチ 

二九五 明応五年 (丙辰 一四九六)銘の板碑
所在地 中鹿山76 前耕地 泉乗寺墓地
明応五年・丙辰
主尊・銘 (欠)  (花瓶)
▢月五日
高さ 四七・五センチ

二九六 明応七年 (戊午 一四九八)銘の板碑
所在地 高麗本郷10 井戸入 安州寺墓地
明応七天・▢
主尊・銘 弥陀3・妙征禅尼  (花瓶)
九月十 六日
高さ 三九・八センチ

明応八年 (己未 一四九九)二月十日、平沢村滝蔵坊の祐全は高麗惣社の大般若経の一部が破損したのでこれを補写し、その第三百二十三巻に奥書をした。
二九七 大般若経巻第三百二十三奥書〔高麗神社蔵〕
(奥題)
大般若波羅蜜多経巻第三百二十三
天下第一之悪筆掛酌千万、書写御□候待共、高麗惣社之大般若書次候間、如本大概斗(計)書写仕候、後世人ニ恥入申候得共、 一者

為逆修、一者三国伝灯諸大師等惣神分、殊者現世安穏後生善処為也、筆者武州高麗郡平沢村大滝滝蔵房久住者仁、実名祐全書写早(畢)、自思召侯人々者、六字名号一反、可被廻向候者、
可為仏果幷者(菩提)也、
明応八季大才己未二月時正十日書写异、

25 大般若経第三百二十三奥書(高麗神社)

〔解説〕この書写は建保五年(一二一七)にできた全六〇〇巻の般若経(四五六巻現存)の一部が長い年月の中で破損などしたので、その補写・補筆として行われたものである。この書写をしたのは平沢村大滝の滝蔵房に長く住居した祐全だという。祐全については不明だが、ここの小窪氏との関係があったのではなかろうか。写経の目的の一つは自分の逆修のためでもあったと書かれている。

二九八 明応九年 (庚申 一五〇〇)銘の板碑二墓
所在地 久保16 亀竹 勝蔵寺墓地
明応九天
主尊・銘 1・逆修道▢ 禅門 (花瓶)
八月 日
高さ 三九センチ 庚申

所在地 高麗本郷13 千鹿野墓地
▢逆妙心
毒・銘(欠) 明応九年□月 日
▢▢禅尼
高さ 四七センチ

二九九 文亀二年 (壬戊 一五〇二)銘板碑二基
文亀銘板碑一基
所在地 高萩99 乙天神 (高萩公民館)
文亀二天
主尊・銘 弥陀3 妙慶禅尼 (花瓶)
正月三日
高さ 五三・五センチ

所在地 楡木42 東野東光寺
浄称
毒・銘弥陀3 文亀二年壬戊十月日
逆修
高さ 七〇・五センチ

所在地 下大谷沢
主尊・銘    文亀
道▢▢▢
高さ 八・二寸 (清水嘉作氏調査)

文亀三年 (癸亥 一五〇三)三月十八日、足利高氏(高基)は、渋重大炊助の知行分を安堵する。この知行分中に高麗郡広瀬郷内大谷沢村・榛沢郡大書郷内達苅庭・足立郡大宮郷内吉野村などがある。
三〇〇 足利高氏安堵状写〔渋垂文書〕内閣文庫蔵埼玉県史資料編6所収
(封紙ウハ書)
「渋重大炊助殿  政氏」
知行分所々之事、如先々、不可有相違候、謹言、
文亀三年
三月十八日 (花押)(足利高基)
渋垂大炊助殿

〔解説〕古河公方足利高氏が渋垂下野小四郎宛に、所領安堵状を長享三年(一四八九)四月二十五日に発給している。これは恐らく永享の乱で不知行化した高麗郡広瀬郷大谷沢村(現日高市)などの知行を安堵したものであった。しかし、本文書の場合、受給者は渋垂大炊助と変った。渋垂氏の代替りにより再度安堵状の発給が要請されて行われたものであろう。発給者足利高氏は足利高基の初名である。祖父は成氏、父は政氏である。古河公方第三代の地位につくのは永正九年(一五二一)六月で、その前は父政氏が古河公方であった。本文書は父政氏が公方のときの文書である。古河公方は初代以来、使用した花押が似ていた(公方様)ので、本文書も従来政氏の文書として見られた。しかし本文書の花押が政氏の花押と僅かに異なり、高基が公方就任前、高氏と称した時代に使用した花押であることがはっきりした(武井尚「足利高基の花押について」県立文書館紀要三号)。このことは、その後の高氏(高基)の行動・花押などの検討とともに、高基の政治的立場を理解する上で重要な意義を持っている。

永正元年 (甲子 一五〇四)八月二十二日、山内上杉顕定は、上戸陣を出て、仙波に陣を移し、この日河越城を攻める。
三〇一 石川忠総留書〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料編8所収
一、永正元年甲子八月廿一日、顕定出于上戸(高麗郡)之陣移仙波(入間郡)陣、翌日向河越城(入間郡)寄陣毎日矢軍、

〔解説〕文明十八年(一四八六)の扇谷定正の太田道灌殺しから、山内・扇谷両上杉氏の不仲が生じ、長享二年(一四八八)の菅谷原における合戦は凄惨を極めるものであった。明応三年(一四九四)定正死後、扇谷家は朝良が跡をとり、両家の争いは続いた。永正元年(一五〇四)川越城にいる扇谷朝良を攻めるため、上戸(高麗郡、現川越市)に陣を張っていた山内顕定の軍は八月二十一日ここを出て川越城を攻めたのである。

永正元年(甲子一五〇四) 九月二十七日、両上杉氏は立河原で合戦する。駿河の今川氏・北条氏は扇谷上杉氏に加勢し、山内上杉氏には越後の軍勢が加勢する。扇谷上杉方は夜に入りて敗戦して川越城に入る。川越城を囲み日夜戦う。
三〇二

  • 鎌倉九代後記〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料鰐8所収

永正元年九月廿七日、武州立河原(多摩郡)ニテ上杉(扇谷)朝良卜同顕定(山内上杉)憲房(上杉)・合戦、駿河国主今川氏親、兵ヲツカハシテ朝良ニ合力ス、又北条長氏(伊勢)モ松田左衛門ニ八十騎ノ兵ヲ相添テ朝良ニ加勢ス、長氏初朝良ノ分領小田原城ヲ攻取ルトイへトモ朝良ノ旗下ニ属スヘシト和ヲ約スニヨリテ今合力ニ及フ、終日戦テ勝負ヲ決セス、夜ニ入テ顕定ノ加勢トシテ越後ノ軍勢馳釆ル、朝良荒手ニカケ負、引退テ川越城(入間郡)ニ入ル、
永正元 同年十月、顕定(山内上杉)・憲房(上杉)幷上杉民部大輔房能腰野其家臣長尾能景等、越州・上州ノ軍勢ヲ率シテ川越ヲ囲ミ、日夜責戦フ、


  • 松陰私語 〔東大史料編纂所蔵〕埼玉県史資料編8所収

山内河越両家牟楯者、非郡部之大途、其錯乱十有余年也、果而無其曲者、関東之照堪、外国之噸塀也、歎而猶有余者也、

〔解説〕川越城を追われた扇谷朝良は江戸城に退くが、山内顕定はこれを追って新座郡白子に陣する。九月二十日北条早雲は扇谷朝良を支援して進出し、永正元年九月二十七日、扇谷朝良・今川氏親・北条早雲の連合軍は山内顕定・足利政氏との連合軍を多摩郡立川原で破り、川越城も奪回する。山内顕定は越後守護である同族の上杉房能の援助を乞い、十月、その連合軍をもって川越城を包囲し対陣する。十二月六日顕定の本陣上戸に参陣した発智氏を賞したのである(次号文書)。尚、発智氏は実田攻略の際にも軍功あり、疵を負ったので賞され、上杉房能の感状が、翌永正二年正月十三日に出された(発智文書)。
永正元年九月二十七日の立川原(立川市)合戦は、現在の多摩川・浅川の合流点から甲州街道にかけての場所で行われたと考えられている(『埼玉県史』通史編二)。この近くに高幡・得恒郷があり、高幡高麗氏がいた。この合戦で顕定配下の長尾六郎や上州一揆など二千余人が討死し、生捕馬・物の具が充満した(「宗長手記」)。顕定方として参戦した毛呂顕李は、武州立川原合戦において戟死した者のための百万遍念仏として銅証四八口を鋳造し各所に奉納した。合戦の行われたこの年は、天下飢鯉にして大地震の年であった。こうした中でも両軍の戦闘は続いた。『松陰私語』はその中で「欺いても、なお余りあるものなり」と評しているのである。

永正元年 (甲子 一五〇四)十二月六日、越後守護上杉房能は、多摩郡立河原で苦戦(九月廿七日)の上杉(山内)顕定を救援して、武蔵卜相模に進陣する(十二月一日和田攻略、十二月廿六日実田攻略)。この日、房能、顕定の本陣高麗郡上戸にきた発智・江口・楡井らの諸氏に感状を送り、その陣労を慰めた。
三〇三 上杉戻能書状 (小切紙)〔癸智文書〕埼玉県史資料編6所収
(端裏切封墨引)
就武州上戸(高麗郡)難儀、
各差遣候処、向相州相動之由、
注進到釆、数日陣労察之候、謹言、
十二月六日 房能(上杉)(花押)
発智六郎右衛門尉殿

永正二年 (乙丑 一五〇五)三月、扇谷上杉氏と山内上杉氏は和睦する。
三〇四 鎌倉九代後記〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料編8所収
同二年三月、 朝良(扇谷上杉)卜顕定(山内上杉)和睦シ、川越城(入間郡)ノ囲ヲトキテ、顕定ハ上州:帰陣、朝良ハ江戸城(豊島郡)入ル、

永正二年 (乙丑 一五〇五)二月十五日、古河公方子足利高基は、渋垂小四郎の本知行分の高麗郡広瀬郷内大谷沢村らの地を安堵する。
三〇五 足利高基袖判渋垂小四郎申状写〔渋垂文書〕埼玉県史資料編6所収
(花押)(足利高基)
渋垂下野小四郎申本知行分、
一武州高麗郡広瀬郷内大谷沢村、
一同国大寄郷(榛沢郡)内蘆苅庭村、
一同国足立郡大官郷内吉野村、
一同国小山田保(都築郡)鶴間郷内小河村幷心広寺田畠在家、
一下野国足利庄渋垂郷内佐野給、
一同国三河郡内上名間井村、
一相州八幡庄内北原郷、
一同国三浦郡内久野谷郷内猿口村幷柏原在家、
右、永享乱刻、被致強入部地也、若偽申侯者、
八幡大菩薩可有照覧侯也、
永昌(正)弐年二月十五日

〔解説〕渋垂下野中四郎は、長享三年(一四八九)四月二十五日、同文の知行安堵を古河公方足利政氏に申請して証判をうけている。文亀三年(一五〇三)三月十八日には政氏の子高基の安堵状をうけている。そして永正二年二月十五日再び高基の安堵状をうけた。当時古河公方足利政氏は健在であった。高基の安堵をうけたことについては、それだけの影響力が高基にあったことを示すものとして注目されよう。なお、渋垂氏が再三の安堵状の申請をして証判を受けなければならなかったほど、不知行化していたことを物語る。遠隔地の所領の場合は特にそうであった。内乱の長期化がその背景にあった。

三〇六 永正二年 (乙丑 一五〇五)銘の板碑
所在地 大谷沢109 谷津墓地
永正二天乙丑
義.銘弥 陀3・妙琳禅尼
八月三日
高さ 四三・五センチ

永正十年 (葵酉 一五二二)九月十二日、浄聖院良賀、秩父の丹一族の旦那職を、十二貫文にて、廊之坊に永代売渡す。
三〇七 旦那売券〔潮崎稜威主文書〕埼玉県史資料編6所収
永売渡申旦那之事
合拾弐貫文
右彼旦那者、むさしちゝふ之丹之一族、何之先達も、引候へ、一円ニうり申候、同廊之御先達之引丹之一族、但何れ之名字ニても侯へ、我ら之持之分、諸国御先達引売渡申処明鏡也、若自何方違乱煩出来候者、本主道遺可申侯、仍永代之状如件、
永正十年九月十二日 浄聖院 良賀(花押)
買主廊之坊  口入大石坊

(参考) ちちふ之丹之一族の丹那職売券は、永正六年にも作製された。次のとおり。
旦那売券〔潮崎稜威主文書〕埼玉県史資料窮6所収
永売渡申旦那之事、
合七貫五百文、
右彼旦那者、我々錐為重代相伝、依有要用、武蔵国ちちふ(秩父)の丹之一族一円、同何之先達も引候へ永売渡申候、又御先達引何之名字ニて候共、諸国を一円相副渡申所明鏡也、若何方より違乱妨出来候共、本主道遺可申候、又天下一同之徳政と申事侯共、於彼状相違有間敷候、仍為後日永状如件、
浄聖院
永正六年己巳ニ月廿五日     良賀(花押)

永正十二年 (乙亥 一五l五)二月、高鷲郡長沢(現飯能市)の借宿大明神に、道久(大石氏)より神鏡が奉納された。
三〇八 円鏡銘〔武蔵銘記集〕
借宿大明神願主道久(大石氏)
武州高麗郡我野郷之内長沢村
永正十二年乙亥二月吉辰

〔解説〕『風土記稿』(高雅郡之十長沢村)には次のとおり。
借屋戸社(前略)「神体円鏡二つ、各五寸八分、銘に借宿大明神、願主道久、武州高麗郡我野郷之内長沢村、永正十二年乙亥二月吉辰とあり、二面とも銘同じ」(後略)
なお、道久は大石道久である。

永正十二年(乙亥一五l五)三田政定は下我野郷長沢 (現飯能市)の借宿大明神社殿を建造する。
三〇九 棟札〔『新編武蔵風土記稿』高麗郡之十長沢村〕
借星戸社(前略)「永正十二年の棟札に、大檀那三田平朝臣政定とあり、例祭九月九日、下我野郷五力村の鎮守なり、神職加藤蔵人吉田家の配下なり」

〔解説〕三田氏は多摩郡の杣保*を本拠とした青梅勝沼の城主であった。改定は三田弾正忠氏宗の嫡子。長沢の借宿大明神は下我野郷五か村の鎮守。つまり、借宿大明神の社殿を三田改定が築造したということは、このとき以前に勝沼城主三田氏が我野郷の土豪たちを被官化していたということになる。入間郡・多摩郡・高麗郡にまたがる山峡部に三田氏の領地が形戊され、北条氏支配下となってもその被官化した三田氏の所領はそのあたりに散在しそれらは三田谷と称された(『北条氏所領役帳』)。この三田谷が高麗郡内に形成された時期を知る重要な資料である。ちなみに、上杉氏支配下にあっては勝沼衆といわれた者の中に、三田弾正・毛呂・岡部・平山・師岡・賀沼修理亮等がいた(永緑四年「関東幕注文」上杉文書)。毛呂氏は毛呂郷(現毛呂山町)、岡部氏は下我野郷(現飯能市吾野の下流地域)を本拠とした在地土豪であり、平山・師岡両氏も三田氏の与力衆として活躍した。これらの人々の三田氏被官化を考えるにも有力な資料である。
なお、前号の史料にみるとおり、借宿明神には大石氏が円鏡を施入している。大石氏の勢力がここにも及んで
いたとみられる。
杣保(そまのほ)、杣山http://hya34.sakura.ne.jp/tamahoumenn/somanoho/somanohorekisi.html
 中世、羽村と青梅と奥多摩等の地域は杣保(そまのほ)と言われていた。また、杣山とは木材の切り出し、植林の為の山を指し、その範囲は奥多摩地方から高麗郡、入間郡西部、比企郡西部更に飛地として秩父地方の金尾、黒谷が該当。

三一〇 永正十三年(丙子一五一六)銘棟札〔飯能村諏訪明神社〕蒜相武蔵夙土記稲し所収
諏訪明神社………………社伝詳ならず唯棟札二札の写あるのみ其文に日、大槽那加治菊房丸助、願檀那平重清、同菊房丸祖母昌忠、永正十三丙子初春十一日、又其一に日、諏訪官再興之事、本願智観寺住僧法印慶貿、大槽那加治勘解由左衛門書範、当所諸檀那代官小室三右衛門戊就坊、千時天正十二年七月吉日 とあり、戊就坊は今の別当大泉寺なり、此寺享保九年回禄の災に躍りし時、棟札も亦灰塵に委す 仍て今写のみを存す(後略)

三一一 永正十三年(丙子一五一六)銘の板碑二基
所在地 高麗本郷15 上ノ原 長寿寺墓地
▢  ▢▢▢
主尊・銘 弥陀3・永正十三年八月▢▢
修公庵主
高さ 七〇センチ

所在地 中鹿山78 上若宮墓地
逆 修 丙
主尊・銘 弥陀3・永正十三年九月六日
妙 祐 子
高さ 六七センチ

永正十四年 (丁丑 一五l七)五月十四日、扇谷上杉氏の奉行人出雲守直朝・弾正忠尊能は、越生の山本坊に対して、高萩の実相寺ほか五寺の支配権を返付することを証した。
三一二 出雲守直朝・弾正忠尊能連署証状写〔相馬文書〕埼玉県史資料編6所収
武蔵国人西郡(入間郡)之内従出戸上之事、浅羽(入間郡)之潅常坊井大聖坊小祐福寿寺・赤治(沼?)(比企郡)之今蔵坊・奥田(比企郡)円通寺・高萩(高麗郡)之実相寺、何モ如前々被返置也、為後日之状如件、
永正十四年訂 出雲守直朝(花押)
五月十四日 弾正忠尊能(花押)
越生
   山本坊

〔解説〕出戸(坂戸市粟生田字出戸)、浅羽(坂戸市浅羽)、小祐(小用?)・赤沼・奥田(以上鳩山町)の五寺の支配を、以前のとおり山本坊(越生町西戸本山派修験であったが、それ以前は越生の黒山にあったことがわかる)に返すというのである。山本坊は潅常坊・大聖坊・福寿寺・今蔵坊・円通寺・実相寺などを配下(霞)にしていたが、いつのころかこの霞支配を扇谷上杉氏に没収されていたのであろう。それがこのたび、前々の如く返し置かれたのである。修験の在地活動にまで領主権力が介入していたことがわかる。しかし、時代が下がると、しだいに在地領主権力による安堵状は目立ってくる。扇谷上杉氏の奉行人弾正思考能については、扇谷上杉氏の宿老に難波田氏がおり、弾正恵の官途をもつ者がいたことから、難波田氏とみることもできるであろう。

三一三 永正十五年(戊寅一五一人)銘の板碑三基
所在地 高萩98 六郎ケ谷戸(清水亀久男家)
永正十五天戊刁
主尊・弥陀3・逆修きく子
十一月 日
高さ 五四センチ

所在地 同
永正十五天戊刁
主尊・銘 弥陀3・逆修利根子
十一月 日
高さ 五〇センチ

所在地 同
永正十五□□
主尊・銘 弥陀3・逆修八郎二郎□□ (欠)
十一月  日
高さ 五三センチ

〔解説〕昭和五十三年、小字中丸の地下約二メートルから重なって出土したと伝えられる。これら三基は同年月日の道修供養の遵碑で、俗名が書かれている稀少のものといえる。三基とも睡子・蓮座・年月日などに金箔押のあとが点々と残っているという。

永正十六年 (己卯 一五一九)四月十八日、伊勢宗瑞 (のちの北条早雲)は、子の菊寿丸(北条長綱入道幻魔?)に所領を宛行った。その中に武蔵高萩(高麗郡)の地五十一貫文がある。
三一四 伊勢宗瑞知行注文〔箱根神社文書〕埼玉県史資料編6所収
はこねりやう 別たうかんにん分さい(在)所
一 五十三くわん四百文 いつさの(伊豆佐野)
一 百二十くわん文 とくら(徳倉)
一 十七くわん文 さわち(沢地)
一 廿八くわん文 くわはら(桑原)
一 卅八くわん文 かつさ(上総)のくに二ミやのねん
くのうちニてしよしやう
己上二百四十八くわん四百文
はこねりやく所々菊寿丸知行分
一 四百くわん文 おたハら(小田原)
六くわん文 宿(同)のちしせん(地子銭)
廿くわん文 おの(同)おのより出やしきせん(屋敷銭)
一 百くわん文 かたうら(片浦)五かむら
一 二百くわん文 はや(早)川
一 十三くわん四百文 下はり(堀)
一 十五くわん文 くの(久野)のたうちやうふん
一 五十五くわん 上きつさわ(吉沢)
一 五くわん文但、いのとしの納分 しらね小やす
一 十一くわん五百文 はしのや(星谷)寺ふん
一 百四十くわん文 うのとしの納 ゑち(依知)のかう
一 百卅五くわん文 みしまとたふん
一 五十一くわん文 むさしたかはき(高萩)
一 八くわん文 中こはりふなこ(船子)
一 廿三貫文  同なかもち(長持)
一 八十くわん文   ひさとみ(久富)
但、これハ小田原やしきのかへにちきやう
巳上千二百五十二貫九百文
一 六十二貫七百十四文 松田そし(庶子)分おかたこ被下、
巳上
一 七十くわん文 かね(金)田しんミやうゐんニ被下、
一 廿くわん文  あなへ(穴部)の内せLも分同人
一 二百くわん文ほんねんく ひの(日野)ゝかう同人
一 百卅くわん文   小ふくろや(袋谷)同人
一 八十くわん文 いさい(井細)田同人
巳上 五百くわん文
一 二百くわん文  い(飯)山 しんてんニ被下
一 百廿くわん文  ひしぬま  同人
巳上三百廿くわん文
一 七十三くわん文 とみおか(富岡) 大草
巳上
一 七十三くわん文  こうふく寺分すすきニ被下、
一 卅くわん文  よた(依田)ふん 同源四郎ニ被下、
巳上百三くわん文
合千八十八くわん七百十四文
一 千くわん文 かつさ(上総)の国二のミやねんく
たいくわんしゆ別ニあり、
都合三千五百くわん十四文
此ほかそう(宗)瑞ゆつりのさい所
一 二百七十一くわん文米共こたか田のわんく
一 二百八十くわん文おにやなき(鬼柳)しんてんたいくわん
一 二百くわん文 加宝臥コ酢蛸響かさき大草たいくわん
一 卅四くわん六百文 官かた同はらかた
一 百五十くわん文  いつの内大たいら雛、一瑚読朋霊㍍るへし

以上九百冊五くわん六百文
惣都合四千四百六十五貫六百十四文
永正十六年己卯四月廿八日 宗瑞(伊勢長氏(花押)
菊寿丸殿 (北条長綱)
紙数四枚
永正十六年己卯四月廿八日まてのかミ数此分也
○コノ文書、紙継目裏毎ニ印文「纓」トアル黒印ヲ捺シタリ、

〔解説〕宛名の菊寿丸は伊勢宗瑞の子、北条長綱入道幻庵の幼名である。箱根神社の別当である菊寿丸の堪忍分(生計の資)として与えた知行注文(知行の内容などを書き上げた文書)である。高萩に五一貫文の箱根神社領があったことがわかり、早くも北条氏の力が関東内部にまで及んだことを知ることができよう。なお、文安元年(一四四四)相馬文書(史料二四九)により、早くより高萩が箱根神社領であったことがわかる。早雲は明応四年(一四九五)小田原城を奪っているから、箱根神社領に対する影響力が大きくあったことを考慮しなければならないだろう。

315 永正十八年(辛巳 一五二一)銘の五輪塔
所在地 新堀 聖天院
権秒・僧都 慶寿 「梵字(大日)」  永正十一年辛巳三月廿六日
高さ 総高約九〇センチ

永正年間 (一五〇四~二一) 僧朝覚は智観寺(現飯能市
中山)を中興開山する。
三一六 智観寺中興〔『新編武蔵風土記稿』高麗郡中山村〕
智観寺常寂山蓮華院と号す、新義真言宗、江戸大塚護日高市史 中世資料編抜粋

遊古疑考倶楽部


  • 編年史料目録抜粋

  • 観応の擾乱」関連編年史料抜粋

 第一章 日高市編年史料 目録

正和元年 八月十八日壬子(二二二一) 
六一 高麗郡大町分等の譲与(平忠綱譲状)
正和三年 甲寅(一三一四)
六二 板碑(弥陀1) 原宿四本木(市指定)
正和四年 乙卯(一三一五)
六三 板碑(弥陀3) 下大谷沢
正和銘板碑 (釈迦1・弥陀3) 台・新堀
文保元年 丁巳(一三一七)
六四 板碑(釈迦1)  北平沢
文保二年 戊午(一三一八)
六五 板碑三基(弥陀1・釈迦1二)原宿・北平沢
元応元年 己未(一三一九)
六六 板碑(弥陀1・3) 高麗本郷・高萩
元応二年 庚申(一三二〇)
六七 中村光時後家、
亡息遣領を音阿の養子丹治孫一丸に譲る(中村文書)
元亨二年 壬戊(一三二二)
六八 板碑(弥陀3)高萩
元亨三年 癸亥(一三二三)
六九 板碑(弥陀1)下大谷沢
元亨四年甲子(一三二四)
七〇 板碑(欠)大谷沢
正中二年 乙丑(一三二五)
七一 板碑(弥陀1)新堀・正中銘(欠)北千沢
嘉暦二年 丁卯(一三二七)
七二 板碑三基(欠二・弥陀3)清流・楡木・高萩
嘉暦三年 戊辰(一三二八)
七三 板碑四基(弥陀3・弥陀1二・大日1)中沢・愉木
嘉暦四年 己巳(一三二九)
七四 板碑(弥陀3)梅原
元徳二年 庚午(一三三〇)
七五 六月二十三日 加治時直妻、入間郡小代郷を領掌(関東下知状写)
七六 板碑二基(弥陀1二)楡木・北平沢
元徳三年・元弘元年 辛末(一三三一)
七七 八月 加治氏など幕府軍に加わり上洛(光明寺残篇)
七八 板碑二基(弥陀1・釈迦1)楡木・高萩
元徳四年・正慶元年 壬申(一三三二)
七九 板碑二基(弥陀1二)高萩
八〇 九月二十日 河越氏等幕府軍と上洛する(太平記)
正慶二年・元弘三年 癸酉(一三三三)
八一 三月二十八日 高麗太郎次郎入道、東平沢安堵を備進する (沙弥某奉書)
八二 五月九日 河越・金子氏等戦死
八三 八平氏・七党など幕府軍を鎌倉に追い込む(太平記)
八四 板碑四基

  • 五月十五日 飽間氏於府中打死徳蔵寺

五月十八日 同  於村岡討死

  • 五月十八日  坂戸市

  • 五月二十二日 加治道峯 円照寺 

  • 同 永源寺

八五 五月二十二日 高麗三郎・四郎東勝寺で討死(高麗氏系図)
建武二年 乙亥(一三三五)
八六 七月

  • 女影原合戦 (梅松論)

  • 同  (七巻冊子)

  • 同 (義輝本太平記)

八七 板碑三基 (弥陀1二・弥陀3)高萩・女影・南平沢
建武三年 丙子(一三三六
八八 三月十日 丹治一族の那智山旦那等譲状(米良文書)
建武四年・延元二年 丁丑(一三三七)
八九 十二月
① 高麗行高、新田義興に従軍、負傷(高麗氏系図
②鶴岡社務記録(鶴岡叢書)
九〇 板碑 (弥陀1) 楡木
暦応二年・延元四年 己卯(一三三九
九一 山内経之書状(高幡不動胎内文書)
九二 板碑三基(弥陀1・3・名号)女影・清流
暦応三年・興国元年 庚辰(一三四〇)
九三 板碑二基(欠・弥陀1)原宿・高麗本郷
暦応四年・興国二年 辛巳(一三四一
九四 板碑三基(弥陀1二・弥陀3)楡木・猿田・飯能市白子
暦応五年(康永元)・興国三年 壬午(二二四二
九五 板碑四基(欠・弥陀1・大日1二)稔木二億麗本郷
九六 ①不動明王像火焔背銘(高幡金剛寺)
②不動明王像内納入墨書銘札( 〃)
康永二年・興国四年 癸未(一三四三)十一月三日
九七 一一月三日 赤沢村妙見社創建(風土記稿)
九八 正月 板碑(狛四郎入道道修)県立歴史資料館
〃 三基(弥陀1二・大日1一)楡木
康永三年・興国五年 甲申(一三四四)
九九 十一月 究板碑(狛四郎入道逆修)県立歴史資料館
〃 (大日1・康)楡木
貞和元年・興国六年 乙酉(一三四五)
一〇〇 厨子銘(聖天社)
貞和二年・正平元年 丙戊(一三四六)
一〇一 板碑(欠)北平沢
貞和四年・正平三年 戊子(一三四八)
一〇二 板碑二基(弥陀3・弥陀1)高麗本郷・女影
一〇三 宝箇印塔(比丘□)高麗本郷
貞和五年・正平四年 己丑(一三四九)十月二十二日
一〇四 足利義詮上洛、東国大名大略上洛する(太平記)
一〇五 板碑二基(大日カ)女影
観応元年・正平五年 庚寅(一三五〇)
一〇六 板碑五基(弥陀3四・大日1)高萩・北平沢・清流
観応二年・正平六年 辛卯(一三五一)
一〇七 板碑五基(弥陀1・3・大日1・観音1・欠)
高萩三・下大谷沢・飯能市白子
一〇八 高麗彦四郎経澄、宇都宮以来の軍忠の事(町田文書
一〇九 高麗三郎左衛門尉助綱軍忠次第(高幡高麗文書)
一一〇 高麗行高、足利直義軍に参陣(高麗氏系図)
一一一 十二月十五日 薩多山合戦(太平記)
文和元年・正平七年 壬辰(一三五二)
一一二 正月 高麗経澄・伊豆国府に着到する(町田文書
一一三 正月十七日 高麗四郎左衛門尉季澄の戦功(尊氏御感御教書 町田文書
一一四 閏二月十六日 高麗彦四郎経澄地頭職宛行(尊氏袖判下文 町田文書
一一五 三月 高麗彦四郎経澄鎌倉以来の軍忠の事(人見原合戦・高麗原合戦 町田文書
一一六 板碑 (弥陀1) 高萩
一一七 高麗高広(三月)・則長(閏二月) 新田義興に従軍、討死(高麗氏系図)
一一八 五月 八文字一揆高麗季澄、金井原合戦に着到・軍忠の事(町田文書
一一九 板碑四基(欠二・弥陀1・3) 新堀・高萩・飯能市白子
一二〇 高麗行高、敗戦して上州藤岡に隠れる(高麗氏系図)
文和三年・正平九年甲午(一三五四)
一二一 板碑二基 (弥陀1・大日1) 北平沢・下鹿山
文和四年・正平一〇年乙未(一三五五)
一二二 板碑二基 (大日1・弥陀1) 楡木・南平沢
文和五年(延文元年) 正平一一年丙申(一三五六
一二三 十二月八日 河越・江戸氏などの那智山旦那売券(潮崎稜威主文書)
延文二年・正平二一年丁酉(一三五七)
二一四 高麗行高、鎌倉側に降り帰る(高麗氏系図)
延文三年・正平二二年 戊戌(一三五八)
一二五 板碑六基(欠二・弥陀1二・釈迦二)
新堀・高萩・鹿山・横手・飯能市白子
延文四年・正平一四年 己亥(一三五九)
一二六 二月七日 足利基氏、高麗彦四郎経澄、同五郎左衛門尉に軍勢催促(町田文書
一二七 板碑三基(弥陀1・3・欠)横手・下鹿山
延文五年・正平一五年 庚子(一三六〇
一二八 四月 白旗一揆平一揆、南方軍(吉野)と戦う(太平記)
一二九 板碑三基(大日1・弥陀1二)楡木・山根・高萩
延文六年(康安元年)・正平一六年 辛丑(一三六一)
一三〇 板碑(弥陀1) 下鹿山
一三一 女影郷が鎌倉八幡官公恵に給される(同官諸職次第)
康安二年(貞治元年)・正平一七年 壬寅(一三六二)
二二二 板碑三基(大日1二・不)南平沢・大谷沢・新堀
貞治二年・正平一八年 癸卯(一三六三)
一三三 板碑(題目)下鹿山
一三四 四月二十五日 高麗彦四郎入道に対し基氏は年貢完済を命じる (鎌倉府政所執事奉書、町田文書
一三五 六月二十五日 高麗郡北方地頭宛(鎌倉府政所執事奉書、町田文書
一三六 八月二十五日 足利基氏、苦林陣で笛を吹き祈る(源威集)
一三七 十一月 畑野常全一族、一揆して基氏に従軍(軍息状)
貞治三年・正平一九年甲辰(一三六四)
一三八 九月十八日 高麗郡北方の帖絹代直納を命じる(鎌倉府政所執事奉書、町田文書
一三九 八月八日 大般若経第六〇〇巻奥書(勝音寺)
一四〇 板碑二基(大日1・釈迦)粟坪・飯能市白子
貞治四年・正平二〇年 乙巳(一三六五)
一四一 高麗三郎左衛門尉跡に高幡郷を渡す(平重光打渡状)
一四二 板碑三基(欠・弥陀1二)高萩・大谷沢・横手
貞治五年・正平二一年 丙午(一三六六
一四三 宝薗印塔銘 (川越市笠幡延命寺)
応安元年・正平二三年 戊申(一三六八
一四四 二月八日 平一揆、河越館に拠る (鎌倉九代後記)
一四五 六月十七日 武州河越合戦 (市河文書)
一四六 五月二十一日 高麗四郎左衛門尉季澄、赤塚郷石戊村宛行わる (河越直重宛行状・町田文書
一四七 板碑二基 (欠) 久保・鹿山
応安二年・正平二四年 己酉(一三六九)
一四八 女影郷、鎌倉八幡宮井円に給される(八幡宮御殿司職次第)
一四九 板碑(弥陀1) 南平沢
応安三年・建徳元年 庚戌(一三七〇)
一五〇 板碑二基 (弥陀1二)下大谷沢清流
応安四年・建徳二年 辛亥(一三七一
一五一 河越・江戸・角田氏那智山旦那譲状(潮崎稜威主文書)
一五二 板碑 (大日1)楡木
応安五年・文中元年 壬子(一三七二)
一五三 板碑 (弥陀1)粟坪
応安六年・文中二年 癸丑(一三七三)
一五四 板碑三基 (弥陀1二・大日1)下大谷沢・猿田・女影
応安七年・文中三年 甲寅(一三七四)
一五五 板碑 (弥陀3)鹿山
応安八年・天授元年 乙卯(一三七五)
一五六 板碑三基 (釈迦1・弥陀1・3)高萩・南平沢・下大谷択
一五七 応安年銘板碑二基 (弥陀1・大日1)愉木・女影
永和三年・天授三年 丁巳(一三七七)
一五八 板碑二基(欠・弥陀3)高麗本郷・横手
一五九 七月六日 高麗周供の田、浅羽洪伝買得する(法恩寺年譜)
康暦元年・天授五年 己末(一三七九)
一六〇 二月十六日 金子家重、郷内屋敷を孫に譲る(同譲状)
康暦二年・天授六年 庚申(一三八〇)
一六一 高麗兵衛三郎師員、小山対治の軍忠次第(高幡高麗文書)
一六二 板碑二基(弥陀1三) 上鹿山・粟坪
永徳元年・弘和元年 辛酉(一三八一)
一六三 板碑三基(弥陀1≡) 楡木 
一六四 八月六日 女影郷領主頼全死(鶴岡八幡宮御殿司職一方)
永徳二年・弘和二年壬戊(一三八二
一六五 四月 武州中一揆金子氏、小山退治に軍忠(金子家祐軍忠状)
永徳三年・弘和三年 癸亥(一三八三)
一六六 十一月 円覚寺大般若経刊記に高麗大炊助の名がある (円覚寺)
一六七 宝箇印塔銘 飯能市白子長念寺・日高市大川戸洋家
一六八 板碑二基(欠・弥陀1)粟坪・大谷沢
至徳元年・元中元年 甲子(一三八四)
一六九 二月七日 丹治氏一族等の旦那譲状(米艮文書)
一七〇 板碑(弥陀1)南平沢
至徳二年・元中二年乙丑(一三八五)
一七一 十一月 円覚寺大般若経刊記に高麗伊豆正丸の名がある (円覚寺)
至徳三年・元中三年 丙寅(一三八六)
一七二 四月 円覚寺大般若経刊記に高麗亀松丸の名がある (円覚寺)
一七三 板碑五基(弥陀1)下大谷沢・南平沢・粟坪・新堀
一七四 宝箇印塔四基 飯能市白子 長念寺
至徳四年・元中四年 丁卯(一三八七)
一七五 宝箇印塔五基 飯能市白子 長念寺
一七六 至徳銘宝優印塔 飯能市白子 長念寺
嘉慶二年・元中五年 戊辰(一三八八)
一七七 五月十八日 高麗清義、常陸小田攻めに参陣(鎌倉大草子)
一七八 六月 武州北白旗一揆高麗掃部助清義軍忠状(町田文書
一七九 宝薗印塔 滝泉寺
一八〇 板碑(欠) 梅原
康応元年元中六年 己巳(一三八九)
一八一 六月三日 高麗郡内知行分を豊楠丸に譲る(浅羽宏繁譲吹)
一八二 板碑三基(弥陀1) 女影・横手・北平沢六六
明徳元年・元中七年 庚午(一三九〇
一八三 板碑(弥陀1)楡木、年不明(弥陀1) 鹿山
一八四 十二月二十七日 河越・江戸・角田氏那智山旦那売券(潮崎稜威主文書)
明徳二年元中八年 辛未(一三九一)
一八五 十月五日 丹治一族那智山旦那職につき相論し解決する (旦那避状)
一八六 板碑五基(弥陀1)高萩・南平沢・鹿山・女影
明徳四年 癸酉(一三九三)
一八七 佐西郷熊野堂に鰐口が艮勝により施入された (川島町薬師堂)
一八八 木部政頼寺領安堵状(法恩寺文書・明徳期カ)
応永元年甲戌(一三九四)
一八九 宝優印塔 長寿寺
応永二年乙亥(一三九五
一九〇 板碑二基 (弥陀1) 駒寺野新田・楡木
応永三年 丙子(一三九六)
一九一 加治豊後新左衛門尉貞継投(風土記稿)
一九二 板碑 (弥陀1) 高萩
応永四年 丁丑(一三九七)
一九三 板碑二基 (釈迦1) 南平沢・大谷沢
一九四 五月三日 入間・高麗郡内吾那光春領安堵を幕府に吹挙する(足利氏満挙状)
応永五年戊寅(一三九八)
一九五 板碑 (弥陀3) 上鹿山
応永七年 庚辰(一四〇〇
一九六 板碑(弥陀1)原宿
応永八年 辛巳(一四〇一)
一九七 板碑二基(弥陀1・3)高萩・新堀
応永一〇年 癸未(一四〇三
一九八 板碑 (弥陀1) 高萩
応永一一年 甲申(一四〇四)
一九九 板碑 (弥陀1) 女影
応永二一年 乙酉(一四〇五)
二〇〇 板碑三基 (弥陀1二・3) 鹿山・新堀
応永一五年 戊子(一四〇八)
二〇一 十二月十二日 高麗泰澄所領を子亀一に譲り申書状(町田文書
二〇二 板碑 (釈迦1) 高萩
応永一六年 己丑(一四〇九)
二〇三 板碑(弥陀1) 高萩
応永一九年 壬辰(一四一二)
二〇四 七月五日 高麗郡広瀬郷内を豊筑後守信秋蓮花定院に寄進する(上杉氏憲施行状)
二〇五 板碑(弥陀1) 南平沢
応永二〇年 癸巳(一四一三)
二〇六 五月十日 武州南一揆に大矢氏出府を糺させる(足利持氏御教書写)
二〇七 六月一日 平沢村金剛寺大般若経・大乗経を報恩寺へ寄付 (道用・禅音寄付状報恩寺年譜)
二〇八 六月十日 武州南一揆に参陣を命じる(足利持氏御教書案)
二〇九 板碑 (弥陀1) 楠木
応永二二年 乙未(一四一五)
二一〇 (四月二十五日)上杉氏憲、 鎌倉公方足利持氏の気色を蒙る(鎌倉大草子)
二一一  板碑 (弥陀3) 中沢
応永二三年 丙申(一四一六
二一二 (八月)上杉禅秀の廻状に丹党も同意(鎌倉大草子)
二一三 (十一月二十一日)持氏方に江戸・豊島・南一揆など一味する(鎌倉大草子)
二一四 板碑(弥陀1)楡木
応永二四年 丁酉(一四一七
二一五 (正月一日) 持氏方南一揆など敗れる(鎌倉大草子)
二一六 武州北白旗一揆別符尾張入道代内村勝久着到状(別府文書)
二一七 板碑 (弥陀1・花瓶) 粟坪
二一八 南一揆中、政所方公事を免除される (持氏御判御教書写)
二一九 南白旗一揆高麗雅楽助範貞、活却地の取り戻しを裁許される
応永二五年 戊戌(一四一八
二二〇 (四月)武州南一揆に馳参を命じる(持氏軍勢催促状写三通)
二二一 (九月)武州南一揆に馳参を命じる(持氏軍勢催促状写)
応永二六年 己亥(一四一九)
二二二 板碑二基(弥陀1・欠)女影・北平沢
二二三 (八月十五日)武州南一揆、守護代と同心(持氏軍勢催促状写)
応永三〇年 癸卯(一四二三)
二二四 (三月十二日)武州南一揆に警固を命じる(持氏御教書写)
二二五 板碑(弥陀1)楡木
二二六 (八月)武蔵国白旗一揆別符尾張太郎幸忠軍忠状(別符御教書写)
二二七 (十月十日)幕府管領、持氏討伐のため小笠原氏を武州・上州一揆に合力させる(畠山満家書状)
応永三一年 甲辰(一四二四)
二二八 (正月二十四日)武蔵・上野白旗一揆、持氏討伐に請文(満済准后日記)
二二九 板碑二基(弥陀1)楡木・高萩
応永三二年 乙巳(一四二五)
二三〇 (二月)柏原鍛冶増田正金没す(風土記稿)
二三一 板碑三基(弥陀1二・欠)南平沢・新堀・中沢
応永三三年 丙午(一四二六)
二三二板碑(弥陀3)楡木
二三三 ①(八月一日)武州白旗一揆、武田信長討伐(鎌倉大日記)
②(八月)武州白旗一揆、武田信長討伐(喜連川判鑑)
白旗一揆、武田信長討伐(久下憲兼着到状)
応永三四年 丁未(一四二七
二三四 (五月十三日)南一揆輩等に船木田荘年貢を東福寺雑掌へ渡させる(鎌倉府奉行人奉書)
二三五 板碑 (弥陀3) 久保
正長元年 戊申(一四二八)
二三六 板碑二基 (弥陀1) 久保・愉木
永享六年 甲寅(一四三四)
二三七 高麗越前守・主計助、六所宮・一宮造営料所納 (高幡高麗文書)
永享七年 乙卯(一四三五)
二三八 (八月)河越・松山はじめ武州一揆、扇谷上杉氏の手に属して常陸長倉氏追罰の軍に参陣(長倉追罰記)
永享八年 丙辰(一四三六
二三九 加治郷、岩松持国の本領所(岩松右京大夫本領所注文)
二四〇 足利持氏、武州新一揆に出陣命令(鎌倉九代後記)
永享九年 丁巳(一四三七)
二四一 板碑二基(弥陀1・3)高萩・女影
永享一一年 己未(一四三九)
二四二 板碑二基(弥陀1・3)楡木・鹿山
永享一二年 庚申(一四四〇)
二四三(四月十九日)結城征伐を武蔵・上野一揆に参陣催促(鎌倉大草子)
二四四(七月二十九日)武蔵一揆、結城城を攻撃(鎌倉九代後記)
二四五 信州勢退治に安保宗繁の出陣を求む(上杉憲実書状)
二四六(十二月六日)入西一揆、上州板鼻に出陣(上杉憲実書状)
嘉吉元年 辛酉(一四四一
二四七 板碑(弥陀3)女影
文安元年 甲子(一四四四)
二四八 板碑(弥陀1)横手
二四九 (十二月十三日) 箱根山領高萩駒形之官二所之旦那譲状(相馬文書)
文安四年 丁卯(一四四七)
二五〇 板碑(不明)女影
文安六年 己巳(一四四九)
二五一 ①板碑二基(弥陀3・1)愉木
②文安銘二基(弥陀3)F鹿山・女影
宝徳二年 庚午(一四五〇)
二五二 ① 五月二十七日 関東奉公方面々中の戦功を励ます(足利義政御教書)
②五月二十七日武州・上州白幡一溌中の戦功を励ます(足利義政御教書写)
二五三 板碑(弥陀3)粟坪
宝徳三年 辛未(一四五一)
二五四 板碑(弥陀1)楠木 
宝徳銘 中沢
享徳四年 乙亥(一四五五)
二五五 (六月一日) 尼禅音、高麗端在家等を寄進(報恩寺年譜)
康正二年 丙子 (一四五六)
二五六 板碑(弥陀3)上鹿山
長禄元年 丁丑(一四五七)
二五七 成氏、武州南1撲跡五所を関所とす(足利成氏書状写)
寛正六年 乙酉(一四六五)
二五八 板碑(弥陀3)高萩
寛正七年 丙戌(一四六六)
二五九 板碑(弥陀3)新堀
応仁元年 丁亥(一四六七)
二六〇板碑(弥陀3)大谷沢
応仁二年 戊子(一四六八)
二六一 鰐口聖天院
二六二 板碑(弥陀3 月待)楡木
文明二年 庚寅(一四七〇)
二六三 板碑二基(弥陀3)高萩・大谷沢
文明三年 辛卯(一四七一)
二六四 (九月十七日)上州武州一揆の館林攻略を質す(足利義政御内書写)
二六五 板碑(名号)横手
文明四年 壬辰(一四七二)
二六六 板碑六基(弥陀・図像・欠)台・多波目・横手
文明七年 乙末(一四七五)
二六七 板碑三基(弥陀3二・名号)粟坪・新堀・猿田
文明八年 丙申(一四七六)
二六八 長尾景春、上杉顕定に叛逆(鎌倉九代後記)
文明九年 丁酉(一四七七)
二六九 景春与党、河越で敗れる(鎌倉大草子)
文明一〇年 戊戌(一四七八
二七〇 板碑(弥陀3)田木
文明一一年 己亥(一四七九
二七一 板碑(弥陀3)北平沢
文明二一年 庚子(一四八〇)
二七二 板碑二基(弥陀3)女影・中沢
文明一五年 癸卯(一四八三
二七三 板碑(弥陀1)北平沢
文明銘板碑(弥陀1)清流
文明一七年 乙巳(一四八五)
二七四 鰐口高麗神社
文明一八年 丙午(一四八六)
一七五 扇谷定正、太田道潅を誅す(鎌倉九代後記)
二七六(七月二十六日)太田道潅位牌(養竹院)
二七七 太田道潅死去(太田資武状)
二七八 柏原住又三郎、剣明神に円鏡を施入(風土記稿)
長享元年 丁未(一四八七)
二七九 山内・扇谷不和の事(北条記)
長享二年 戊申(一四八八)
二八〇 (正月)上杉氏の軍、相武の間を横行する(梅花無尽蔵)
二八一 (二月五日)扇谷定正、山内顕定を実蒔原に破る(北条記)
二八二 定正、古河公方・長尾景春等の援軍を得る(北粂記)
二八三 両上杉、須賀谷原で大合戦する(梅花無尽蔵)
二八四 (十一月十五日) 高見原合戦(足利政氏感状写)
長享三年 己酉(一四八九)
二八五 広瀬郷内大谷沢村、渋垂小四郎の知行(知行目録写)
延徳二年 庚戌(一四九〇)
二八六 我野神社棟札
延徳四年 壬子(一四九二)
二八七 太田道真位牌(川島町養竹院)
二八八 上我野南村の天神社棟札
二八九 板碑二基(弥陀3)新堀・横手
明応三年 甲寅(一四九四)
二九〇 (十月三日)扇谷定正、伊勢長氏を味方とする(石川忠総留書)
二九一 山内顕定・武・上・相一揆を味方とする(松陰私語)
二九二 板碑(欠) 清流
明応四年 乙卯 (一四九五)
二九三 我野神社棟札
二九四 板碑(弥陀3) 大谷沢
明応五年 丙辰(一四九六)
二九五 板碑(欠) 中鹿山
明応七年 戊午(一四九八)
二九六 板碑(弥陀3) 高麗本郷
明応八年 己未 (一四九九)
二九七 大般若経巻三二三の奥書(高麗神社)
明応九年 庚申 (一五〇〇)
二九八 板碑二基(弥陀1・欠) 久保・高麗本郷
文亀二年 壬戌 (一五〇二)
二九九 板碑三基(弥陀3) 高萩・楡木・下大谷沢
文亀三年 癸亥 (一五〇三
三〇〇 (三月十八日)足利高基(高氏)、渋垂氏領大谷沢村を安堵する(渋垂文書)
永正元年 甲子(一五〇四)
三〇一 (八月二十二日)山内顕定、 河越城攻める(石川忠総留書)
三〇二九月二十七日
①越後・上州勢、川越城を攻める(鎌倉九代後記)
② 「錯乱の十有余年」(松陰私語)
三〇三 上戸に参陣の発智氏に上杉房能の感状(発智文書
永正二年 乙丑(一五〇五)
三月
三〇四 両上杉和睦する(鎌倉九代後記)
三〇五(二月十五日)渋重民知行の大谷沢村を安堵(足利高基袖判渋垂申状写)
三〇六 板碑(弥陀3)大谷沢
永正一〇年 癸酉(一五二二)
三〇七 秩父の丹一族の旦那売券(潮崎稜威主文書)
永正一一年 乙亥(一五一五)
三〇八 大石道久、我野借宿大明神へ円鏡奉納(武蔵銘記集)
三〇九 三田政定、我野借宿明神を創建(風土記稿)
永正一二年 丙子(一五一六)
三一〇 加治菊房九、平重清、昌忠銘棟札 (風土記稿)
三一二 板碑二基(弥陀3) 高麗本郷、中鹿山
永正一四年 丁丑(一五一七
三一二 扇谷上杉氏、高萩実相寺等の支配権を返付の証状(相馬文書)
永正一五年 戊寅一五一八)
三一三 板碑三基 (弥陀3) 高萩
永正一六年 己卯(一五一九)
三一四 高萩、伊勢宗瑞(北条早雲)の知行(同知行注文)
永正一八年 辛巳(一五二一)
三一五 五輪塔(聖天院)
三一六 僧朝覚、智観寺を中興(風土記稿)
大永二年 辛巳(一五二一)
三一七 北条家臣秩父行家没(名倉系図)
大永三年 (一五二一)
三一八 五輪塔(聖天院)
大永四年 甲申(一五二一)
三一九 伊勢氏綱(北条氏綱)御礼(品川妙国寺)

第二章 「観応の擾乱」関連編年史料抜粋

正和元年(壬子 一三一二、三月二十日改元) 八月十八日、平忠綱(高麗忠綱)は、高麗郡大町の村三分の一・多西郡徳恒郷三分二・その他船木田庄木伐沢・鎌倉甘縄などの忠綱領を嫡子孫若に譲り渡す。幕府執権北条照時がこれに署名した。
六一 高麗忠網譲状
〔昭和四十四年『第二回西武古書大即売展目録』、彦根城博物館保管彦根藩井伊家史料「高幡高震文書」〕
『日野市史資料集」所収

(裏書)(状)
「任比状可令領掌之□、依仰下知如件、
正和元年十二月廿八日相模守*在判」(*北条照時)

ゆつりわたす所領事、
ちゃくしまこわか(嫡子孫若)ゝ所に
一、武蔵国こまのくんふんおはまちの村三分いち、
一、同国たさいのこはりとくつねの郷忠綱か知行分三分二并ニふなきたの庄内きゝりさハのむら、 但、ふなきたの庄のきゝりさハにおきてハ、はゝいちこのうちしるへし、山ハ八幡の御前のゆさハをさかいとしてのほりに、ゆきハかしらを大つかみちのうゑのとゝをさかうて、みなみハゆきさかいをのはりにいけかやまさかいへ、にしハひらやまきかいを山のねをくたりに、動堂のまへゝおのみちさかいを八幡の御前をさかう、
一、かまくらあまなハのほくとたうのまへの屋地さんふん二、右、御けちをあいそえてゑいたいゆつりわたすところ也、したいてつきのせうもんハ、忠綱しさいを申所に忠助ふんしちのよし申あいた、ふせんのたんしやうのちうの奉行として案文をめし侯て、ふんしちしやうを申へきよし、そせうをいたすうへハ申給へきなり、又そりやうともさかいをたつへしといえとも、いたハりのあいた、まつふんけんをかきおく也、はゝのはからひにてさかいをたつへし、
一、やこうの又二郎よりくにのゆいりやう等のゆつりしやう 、まこわかにゆつる也、つのきゆうふの大輔殿のてにて、おっそを申うへハ、あいついて申給へ、給たらん時ハ、まこわかはからいとして、田七分かいちをさきいたして、はんふんをハまこいぬに、のこり五ふん三をまこわうに、又のこり三分二をまつやさこせんに、さんふんかいちをまついぬこせんに、わたすへし、いつれもゑいたいなり、のこるところハ、 一ゑんにまこわか知行すへし、二やまなの又二郎をハ、ち一大せんのしんにかへして
一、返事をとりたるなり、仍譲状如件、
正和元年八月十八日平息綱(花押)
写真5 高鷲息綱譲状写(彦根城博物館高幡高麗文書)

〔解説〕冒頭の裏書は、彦根城博物館保管彦根薄井伊家史料「高幡高麗文書」によって補う。なお、この裏書の一部の文字は、『目録』写真の表から確認できる。また「高幡高麗文書」では、末尾の花押は「在御判」とある(『日野市史史料集』高幡不動胎内文書編)。
この譲状は平忠綱が孫若に与えたもので、忠綱の子忠助への手継証文が紛失されたので訴訟の結果、孫への相続が認められたものである。忠綱の所領をみると、まず武蔵国高麗郡の中の大町の村(現川越市笠幡の大町)が挙げられている。次に忠綱の在所とみられる高幡のある多西郡(多摩郡西部)得恒郷・船木田庄に所領がある。このことから平忠綱は、高幡のあたりに在地しているが、本貫の地は高麗郡にある高麗氏の出身であろう。それを更に裏付けるものに、貞治四年(一三六五)の平重光打渡状(史料一四一)がある。これは忠綱譲状から五十三年後のものであるが、高幡郷を高麗三郎左衛門尉跡に打渡すため、三田蔵人大夫と平重光が彼地に行ってそれを施行したものである。つまり、高幡の地が高麗氏へ相伝されたとみられるのである。なお、この度、明らかにされた彦根城博物館保管彦根藩井伊家史料の「高幡高麗文書」には、忠綱譲状のほか、正平七年(一三五二)高麗助綱軍忠状、康暦二年(一三八〇)高麗師員軍忠状、応永二十四年(一四一七)高麗範具申状など、一連の高麗氏文書があることなどから、高幡郷の平氏は平姓の高麗氏であるとの見方をとっている(『日野市史史料集』高幡不動胎内文書編)。
大町は現在笠幡の中の一小字になっているが、大町だけで鏡神社を土産神としている。この土産神は古くはもっと南(前大町)にあったが、明治初年現在地(前大町)に移った。この神社を中心に二百十日のお日待ち (九月一日)は大町の盛大な行事となっている(『埼玉の神社』)。大町は南小畔川と北小畔川の低地にあり大きく水田地帯が開けているところであることが地名の起りと考えていいだろう。大町の上流は台地が張り出し、そこが笠幡の新町(三島日光社)・山伝(御嶽社)・倉ケ谷戸 (箱根神社)・協栄(八坂神社)・本町(浅間社)・西部 (金比羅)・芳地戸(尾崎神社、同社円鏡に「高寛郡笠幡郷尾崎天文二十年」の銘がある)などの小字と(鎮守)がある。尾崎神社は笠幡地区の総鎮守といわれているが (『埼玉の神社』)、大町がその中に入っていたかどうか不明。位置的には、大町の水田地帯(南・北小畔川)を隔てた東に大町集落があり、大町集落は古代東山道の駅家跡(川越市的場・八幡前・若宮追跡)に隣接している。この関係で古くから開けた地域と考えることができる。一方、中世高麗氏が小畔川低地の水田地帯を高麗郷からしだいに東下して、ここが再開癸され明治前期までの高麗郡を形成したのであろう。高麗氏の発展を知る重要な史料である。

正和三年(甲寅 一三一四)八月八日 結縁者による逆修供養の板碑(市内最大)が、原宿四本木に建てられた。
六二 正和三年甲寅銘の板碑 
所在地 原宿47 四本木路傍
光明遍照 「右志者為父母師長七世四恩并現」
十方世界 「在道□□□以衆二十二人惣□□寸」
      第二
主尊・銘 弥陀1・正和三年甲寅八月八日時正
      敬白
念仏衆生 「本一金半尋可奇助力結縁者往生」
摂取不捨 「極楽乃至法界平等利益道修如件」
高さ 二六六センチ

写真6 正和三年銘の板碑 (原宿)
備考 市指定文化財。日高市最大の板碑。昭和五十六年教育委員会は管理上、旧位置から東南に二メートル移動した。その記録によると脚部は地 下約五〇センチあり、概ね円弧形に作られた。

六三 正和四年(乙卯 一三一五)、正 和 (一三一二~一六)銘)の板碑三基
所在地  下大谷沢 松葉(大河原家)
主尊・銘 弥陀3・正和四乙卯六月十三日
(光明真言)
高さ 一尺二寸(清水嘉作氏調査)

所在地 台18 大沢(新井定重家)
主尊・銘 釈迦 1・正和□年十月□日
高さ 三九・五センチ

所在地 新堀38 新井法恩寺墓地
主尊・銘 弥陀3・正和〈欠〉
高さ 四八・七センチ

六四 文保元年(丁巳 一三一七)銘の板碑
所在地  北平沢60 中居(西島雅行家)
主尊・銘 釈迦1・文保元年七月 日(欠)
高さ 三八センチ

六五 文保二年(戊午 一三二八)銘の板碑三基
所在地 原宿47 四本木路傍
光明遍照       
十方世界 
 「沙弥西阿」    
主尊・銘 弥陀1・ 文保二年戊午十一月廿五日
 「為逆修也」     
念仏衆生
摂取不捨
高さ 六四センチ

所在地 原宿49 向方 広長寺墓地
主尊・銘  釈迦1・ 文保二年 〈欠〉
高さ 二三センチ

所在地 北平沢60  中居西(島雅行家)
主尊・銘  釈迦1 文保二年七月冊日
高さ 五七・五センチ

六六 元応元年(己未 一三一九)銘の板碑二基
所在地 高麗本郷12  市原(高麗川沿い)墓地
主尊・銘 弥陀1・ 元応元年  
高さ 四六・五センチ

所在地 高萩100 谷津 谷雲寺
主尊・銘 弥陀3・ 元応元年六月廿三日
高さ 一一四・八センチ

元応二年(庚申 三三〇)中村光時後家尼光阿の亡息
中村家政の遺領秩父郡三山郷小鹿野の屋敷等を、音阿
の養子の丹治孫一丸に譲り渡す。
六七 尼音阿譲状〔中村文書〕埼玉県史資料編5所収
ゆつりわたす所りやう(領)の事、
やうし(養子)丹治孫一丸
  
一むさしのくにちゝふのこほり(秩父郡)三山のかうおかの(小鹿野)ゝわたのやしき一所、中村かもさへもん(掃部左衛門)入道成願跡也、
一はりまのくに三方西中野村内田七たん廿歩、さいけ一う并御そのをの田三段事、
右、件の所々田島在家等ハ、中村右馬允こけ光阿所りやうなり、音阿かしそく 中村十郎いゑまさ(家政)にゆつりたふところに、いゑまき、 音阿にさきたちてしきよ(死去)の間、音阿ニ永代をかきりてたふ間、ちきやう無相違之処ニ、中村新三郎宗広薬師丸あふりやう(押領)するによって訴申ニつゐて、ゑのしたの次郎ふきやう(奉行)として、正和五年六月廿七日御下知ニあつかりて、たうちきやう無相違所也、こゝに丹治孫一丸、音阿かやうし(養子)として心さしあさからす、ふひんにおもひ候あひた、正和五年六月廿七日御下知あひそゑて、養子丹治孫一丸ニ永代をかきりてゆつりあたふるところ也、他のさまたけなく、ちきやうせられ候へく侯、よって為後証譲状如件、(押紙)
中村八郎後家
元応二年 かのゑ/さる     尼音阿(花押)

〔解説〕中村光時は丹党中村氏、播磨国(兵庫県)三方西へ地頭として移った光時の後家尼光阿の所領を、音阿の養子丹一族の孫一丸に譲った文書である。この中村氏は新補地頭として西遷した武士の一人であるが、秩父は本貫の地であった。嘉暦四年(一三二九)丹治時基は、播磨国三方西荘(兵庫県波賀町付近)において、備前長船派の景光・景政を招いて作刀、広峯神社(姫路市)に奉納している。

六八 元亨二年 (壬戌一三二二) 銘の板碑
所在地 高萩96 釘貫 高萩院跡
(光明真言)  毎月一八日
主尊・銘 弥陀3・元亨二年壬戌八月時正
(光明真言)  結衆廿五人
高さ 九七センチ

六九 元亨三年 (癸亥 一三二三) 銘の板碑
所在地 下大谷沢116 (道南)墓地(大河原福太郎家)
主尊・銘 弥陀1・元亨三年八月 日
高さ 五六センチ

七〇 元亨四年 (甲子 一三二四) 銘の板碑
所在地 大谷沢111 下墓地
(光明真言)
主尊・銘 (欠)  元亨四年甲子卯月十日
(光明真言
高さ 七四センチ

七一 正中二年(乙丑 一三二五)二月銘の板碑
所在地 新堀39 吹上霊巌寺墓地
主尊・銘 弥陀1・正中二年乙丑二月 欠 
高さ 四二センチ(細い二重枠線あり)

所在地 北平沢59 中居 墓地
主尊・銘 〈欠く〉1・正中(摩滅)
高さ 三〇センチ

七二 嘉暦二年(丁卯 一三二七)銘の板碑三基
所在地 清流28 清水 墓地(和田伊平家)
花押
主尊・銘〈欠〉3・嘉暦二年丁卯十月廿二日 敬白
花押
高さ 五二センチ
備考 上の欠けた部分に観音、勢至睡子とおもわれる一部が残り、弥陀三尊板碑であろう。

所在地 楡木42 東野 東光寺
主尊・銘(欠)3・嘉暦二年 欠 
高さ 二八・四センチ

所在地 高萩
主尊・銘 弥陀三尊・嘉暦二年十二月廿四日
高さ 一尺六寸七分(清水嘉作氏調査)

七三 嘉暦三年(戊辰 一三二八)銘の板碑四基
所在地 中沢宿方 正法寺境内
主尊・銘 弥陀3・嘉暦三年三月  日
高さ 八八センチ

所在地 楡木41 貝戸(林広次家)
主尊・銘 弥陀1・嘉暦三年戊辰六月廿   (欠)
高さ 三二センチ
備考 この当時、主尊に円光だけは珍。荒川西方板碑の影響か。

所在地 楡木41 貝戸(林広次家)
主尊・銘 弥陀1・嘉暦三年戊辰七月廿五日
高さ 八九センチ(細い二重枠線あり)

所在 億木43 東谷墓地 (新井日出男家)
主尊銘 大日1(金剛界)・嘉暦三年五月一日
高さ 六四・五センチ

七四 嘉暦四年(己巳 一三二九)銘の板碑
所在地 梅原20 町並(森田豊家)
主尊銘 弥陀3・嘉暦「ニ+ニ」(四)己巳二月 日
高さ 六一センチ
備考 伝、高萩公民館北方出土。

元徳二年 (庚午 一三三〇)六月二十三日 幕府は小代伊行の活却した入西部小代郷国延名田畠を加治時直妻藤原氏に領掌させる
七五 関東下知状写〔報恩寺年譜二〕埼玉県史賛料編7所収
加治又次郎時直妻藤原氏申武蔵国人西郡小代郷国延名内田畑(名字坪付/載沽券)事、
右、小代馬次郎伊行正中二年三月十日田八段、嘉暦三年七月十七日田壱町壱段・穂町小・畠壱町、同十二月廿二日田壱町壱段・穂町壱所、同四年三月二日田弐段・沼壱所、以六通証文売与訖、可賜御下知之由依由、遣召符之処、如去年十二月十一日請文者、放券条無相違云云、且当村為私領之旨、前々事旧託(訖?)、 然則於彼田島等者、以藤原氏可令領掌、次公事間事、子細於雖(いえども)載証文、有無宜依先例者、依鎌倉殿仰(守邦親王)、下知如件、証文/有別
元徳二年六月廿三日   相模守平朝臣(赤橋守時)  在判

〔解説〕小代氏は児玉党の武士。児玉党は藤原氏の出とされるが、遠峯から有道氏を名乗る。次の弘行から入西氏(餐行)が出て、資行の子遠広が小代郷(現東松山市)に住んで小代氏を称した。国延名は名田であるが、所在については不明、加治時直についても世系不明だが、加治家李の子孫助時の流れか。
file:///C:/Users/Yito/Downloads/kenkyuhokoku_2〇4_〇7.pdf
なおこのアドレスに、江戸時代の沽券と坪高に関する論文が掲載。

七六 票元徳二年(庚午一三三〇)銘の板碑二基

所在地 楡木41 貝戸(林広次家)
主尊・銘 弥陀1・元徳二年  (欠
高さ 三三・五センチ
備考 主尊は弥陀正体で荘厳なし。スマートな書風、同手が近隣にもある。

所在地 北平沢60 中居(西島雅行家)
主尊・銘 弥陀1・元徳二年  (欠)
高さ 三七・六センチチ

元弘元年 (辛末 一三三一、北朝は元徳三年)八月二十
四日、後醍醐天皇は京都を出て笠置山に龍城する。この報告により幕府は、北条陸奥守貞直以下の将士に上洛を命じる。九月には楠木正戊が挙兵、十月十五日、幕府軍はこれを四方から攻める。これら幕府軍の中に加治氏・安保氏・河越氏などの名が見られる。
七七 宅光明寺残篇〔光明寺文書第一] 『買料編集所収』

  • 大将軍

陸奥守遠江国(大仏貞直)、 武蔵右馬助伊勢国
遠江守尾張国(名越宗教)、 武蔵左近大夫将監美濃国
駿河左近大夫将監讃岐国、 足利宮内大輔三河国
足利上総三郎、
長沼越前権守淡路国、 宇都宮三河権守伊与国
佐々木源太左衛門尉備前国(加地)、
小笠原五郎阿波国
越州御手信濃国、 小山大夫判官一族
小田尾張権守一族、 結城七郎(親光)左衛門尉一族
武臥瑚酵i雛帥、 小笠原信濃入道一族
伊東大和入道一族、 宇佐美摂津前司一族
薩摩常陸前司一族、 安保左衛門入道一族
渋谷遠江権守一族、  河越参河入道一族
三浦若狭判官 ………………高坂山羽権守…………………
▢(佐)々木隠岐前司、 同備中前司
千葉太郎
勢多橋警固
佐々木近江前司、 同佐渡大夫判官入道
同十五日
②楠木城
一手東、自宇治至干大和道
陸奥守、  河越参河入
小山判官、 佐々木近江入道
佐々木備中前司、 千葉太郎
武田三郎、  小笠原彦五郎(貞宗)
諏訪祝、 高坂出羽権守
嶋津上総入道、 長崎四郎左衛門尉
大和弥六左衛門尉 安保左衛門入道
加治左衛門入道、 吉野執行
一手北、自八幡至干佐々良路、…………………
武蔵右馬助、 駿河八郎
千葉介、 長沼駿河権守
小田人々、 佐々木源太左衛門尉
伊東大和入道、 宇佐美摂津前司
薩摩常陸前司、 □野二郎左衛門尉
湯浅人々 、 和泉国軍勢
一手西南自山崎至干天王寺大路
江馬越前入道、 遠江前司
武田伊豆守、 三浦若狭判官
渋谷遠江権守、 狩野彦七左衛門尉
狩野介入道、 信膿国軍勢
一手伊賀路
足利治部大夫(高氏)、結城七郎左衛門尉
加藤丹後入道、 加藤左衛門尉                     
……………………………………………………………………
勝間田彦大郎入道、美濃軍勢、尾張軍勢
同十五日、
佐藤宮内左衛門尉自関東帰参、
同十六日、
中村弥二郎自関東帰参、

〔解説〕「光明寺残篇」は、伊勢市光明寺(臨済宗東福寺派、聖武天皇の勅願により創建)中興開山月波恵観の父結城宗広自筆の軍中日記である。といわれる古文書集である。現在、『群書類従』、「光明寺文書」に収録されたもので見ることができるが、『群書解題』によると、原本は同一筆者によって記されたものと考えられない、作者は不明であるが、原本が南北朝当時のものであること間違いなく、その史料価値は他書を凌駕しているという。以下の解説も同書によるところが大きい。ここに取り上げた①の大将軍というのは、幕府軍の動員計画における武将名で、その下に書かれている軍勢を率いて出陣が計画されたのである。佐々木源太左衛門尉は加治が本姓で、備前国の軍勢を率いた守護であったとみられる。丹党出身の安保氏、平氏出身の河越氏が一族を率いて幕府軍に編成されたことがわかる。②楠木城の記事は、元弘元年八月二十四日、後醍醐天皇が六波羅の幕府軍を避けて笠置山へ遷幸してから、十月の幕府軍の赤坂城(楠正戊の城)攻めまでが書かれた日記の中で、十月十五日の城攻めを四手に分けて行った幕府軍の部将が書き上げられている。加治左衛門入道・安保左衛門入道・河越参河入道等が東、即ち宇治から大和に向かう道から攻めたのである。
二十一日赤坂城は陥落した。

七八 天元徳三年・元弘元年(辛未一三三一、八月九日南朝は改元して元弘元年)銘の板碑二基

所在地 楡木41 貝戸(林広次家)
主尊・銘 弥陀1・元徳三年八月▢▢ 
高さ 七八・五センチ

所在地 高萩100 谷津 谷雲寺
主尊・銘 釈迦1・元弘元年十一月▢日
高さ 五六センチ

七九 元徳四年(壬申 一三三二、この年四月改元して正慶元年となる。南朝は元弘二年)銘の板碑二基
所在地 高萩99 乙天神
主尊・銘 弥陀1・元徳四年壬申三月四日
高さ六九・三センチ

所在地 高萩 寺林
主尊・銘 弥陀1・ 正慶元年十月
(光明真言)
高さ一尺、上下を欠く (清水寡作氏調査)

元弘二年(壬中 一三三二、北朝は正慶元年)九月二十日、幕府は畿内西国に南朝軍が蜂起するとの報により、河越三河入道等の諸大名以下三〇万七千五〇〇余騎を上洛させる。
八〇 太平記〔巻第六関東大勢上洛事〕日本古典文学大系所収
去程二畿内西国ノ凶徒、日ヲ逐テ蜂起スル由、六彼羅ヨリ早馬ヲ立テ関東へ被注進。相模入道大ニ驚テ、サラバ討手ヲ指遣セトテ、相模守ノ一族、其外東八箇国ノ中ニ、可然大名共ヲ催シ立テ被差上、先一族ニハ、阿曽弾正少弼(中略)外様ノ人々ニハ、千葉大介(貞胤)・宇都宮三河守・小山判官・武田伊豆三郎・小笠原彦五郎・土岐伯者入道・筆名判官・三浦若狭五郎・千田太郎・城太宰大弐入道・佐々木隠岐前司・同備中守・結城七郎左衛門尉・小田常陸前司・長崎四郎左衛門尉・同九郎左衛門尉・長江弥六左衛門尉・長沼駿河守・渋谷遠江守・河越三河入道(円重・貞重)・工藤次郎左衛門高景・狩野七郎左衛門尉・伊東常陸前司・同大和入道・安藤藤内左衛門尉・宇佐美摂津前司・二階堂出羽入道・同下野判官・同常陸介・安保左衛門入道(道堪)・南部次郎・山城四郎左衛門尉・此等ヲ始トシテ、宗トノ大名百三十二人、都合其勢三十万七千五百余騎、九月廿日鎌倉ヲ立テ、十月八日先陣既ニ京都ニ着ケバ後陣ハ未ダ足柄・箱根ニ支へタリ。(中略) 去程ニ元弘三年正月晦日、諸国ノ軍勢八十万騎ヲ三手ニ分テ、吉野・赤坂・金剛山・三ツノ城へゾ被向ケル。(後略)

正慶二年(葵酉 一三三三、南朝は元弘三年)三月二十八日幕府は、曽我光頬の所領高麗郡東平沢、及び笠幡村内田地の安堵申請の訴えを請けて、高麗太郎次郎入道に下文などの備進を命じる。
八一 沙弥某奉書〔遠野南部文書〕東京大学史料編茶所妙写本所収
曽我左衛門太郎入道光称申、祖母尼蓮阿幷亡母尼慈照遺領、武蔵国高麗郡東平沢内、田畑屋敷、幷賀作汲(波?)多村内、田地等安堵事、申状具書如此、早備進彼御下文等、相伝之真偽、可支申之仁有無、以起請詞可被注申之状、依仰執権如件、
正慶二年三月廿八日
高麗太郎次郎入道殿     沙弥(花押)

〔解説〕曽我左衛門太郎入道光称は曽我光額のこと。尼蓮阿は高麗景実の娘土用弥御前のことで、石黒弥四郎頼綱の妻。尼慈照は土用弥御前の娘讃岐局のことで、曽我余一左衛門尉春光の妻(以上、系図参照)。賀作波多村は中世の笠幡村(現川越市笠幡)。高麗太郎次郎入道については、高麗景実の子左衝門太郎時寮の子か孫にあたる人物と思われるが、実名不詳。
宝治二年(二一四八)二月二八日付譲状は、高麗氏の庶子家高麗二郎左衛門尉景実が娘の土用弥御前に高麗郡東平沢の経塚屋敷及び田波目の田二段を譲与した譲状であった。これに「永代を限りて」とあり、この所領は石黒弥四郎頼綱の妻となった土用弥御前の女子讃岐局 (曽我余一左衛門尉妻)に伝領され、更にその子曽我左衛門太郎光頼(入道光称) へと相伝されたことがわかる。

写真7 沙弥某奉書(遠野南部文書

元弘三年(葵酉 一三三三、北朝は正慶二年)五月九日、金子十郎左衛門尉僑弘・河越三河入道乗誓は、六波羅北方北条仲時他四三〇余名と共に、近江国馬場宿で合戦敗れて自害する。
八二 近江国番場宿蓮華寺過去帳〔『群書類従』第五百十四
敬白
陸波羅南北過去帳事
(前略) 
元弘三稔葵酉月七日、依京都合戦破、当君両院関東御下向之間、同九日、於近江国馬場宿米山麓一向堂前合戦、討死自害交名、荒々注文事、
(中略)
一向堂仏前自害
金子十郎左衛門尉儀弘、五十二才
川越参河入道乗誓、六十二才
同君党木戸三郎家保へ
(中略)
惣而於当寺討死、自害人数肆佰(400)三拾□人、雖然分明交名
不知輩者不住之云々、(以下略)

元弘三年(葵酉 一三三三) 五月十六日、新田義貞の軍勢は幕府軍と分倍河原で戦い、坂東八平氏・武蔵七党などの兵たちは三浦平六義勝の相模の軍勢と共に、幕府軍を攻撃して鎌倉へ追い込んだ。
八三 太平記〔巻第十三浦大多和合戦意見事〕埼玉県史資料編7所収
(前略)
明レバ五月十六日ノ寅刻ニ、三浦四万余騎ガ真前ニ進ソデ、分陪河原へ押寄ル、敵ノ陣近ク成マデ態卜旗ノ手ヲモ不下、時ノ声ヲモ不挙ケリ、是ハ敵ヲ出抜テ、手攻ノ勝負ヲ為決也、如案敵ハ前日数箇度ノ戦ニ人馬皆疲タリ、其上今敵可寄共不思懸ケレバ、馬ニ鞍ヲモ不置、物具ヲモ不取調、或ハ遊君ニ枕ヲ双テ帯紐ヲ解テ臥タル者モアリ、或ハ酒宴ニ酔ヲ被催テ、前後ヲ不知寝タル者モアリ、只一業所感ノ者共ガ招自滅不具、爰ニ寄手相近ヅクヲ見テ、河原面ニ陣ヲ取タル者、「只今面ヨリ旗ヲ巻テ、大勢ノ閑ニ馬ヲ打テ釆レバ、若敵ニテヤ有ラン、御安心候へ、」ト告クリケレバ、大将ヲ始テ、「サル事アリ、三浦大多和ガ相模国勢ヲ催テ、御方へ馳参ズルト間へシカバ、 一定参タリト覚ルゾ、懸ル目出度事コソナケレ、」トテ、驚者一人モナシ、只兎ニモ角ニモ、運命ノ尽ヌル程コソ浅猿ケレ、(中略)
去程ニ義貞、三浦ガ先懸ニ追スガフテ、十万余騎ヲ三手ニ分ケ、三方ヨリ推寄テ、同ク時ヲ作リケル、恵性 (北条奏家)時ノ声ニ驚テ、「馬ヨ物具ヨ」、ト周章騒処ヘ、義貞・義助ノ兵、縦横無尽ニ懸ケ立ル、三浦平六是ニ力ヲ得テ、江戸・豊嶋・葛西・河越、坂東ノ八平氏、武蔵ノ七党ヲ七手ニナシ、蜘手・輪達・十文字ニ、不余トゾ攻タリケル、四郎左近大夫入道(北条奏家)、大勢也トイへ共、三浦ガ一時ノ計ニ被破テ、落行勢ハ散々ニ、鎌倉ヲ指シテ引退ク、討ル、者ハ数ヲ不知、(後略)

八四 元弘三年 (癸酉 一三三三、北朝は正慶二年)銘板碑四基
所在地 東村山市諏訪町 徳蔵寺
飽間斎藤三郎藤原盛貞生年廿/六
(上欠)             勧進玖阿弥陀仏
於武州府中五月十五日令打死
主尊・銘 (光明真言) 元弘三年癸酉五月十五日敬白
同孫七家行廿三同死飽間孫三郎
執筆遍阿弥陀仏
定長丗五於相州村岡十八日討死
高さ 一〇一センチ

所在地  坂戸市森戸 大徳氏所蔵『坂戸市史』中世史料編Ⅱ所収
主尊・銘(上部欠) 元弘三年癸酉五月十八日
高さ 不明

所在地 入間市野田 円照寺
乾坤無卓孤筇地
只喜人空法亦空
主尊・銘 (大日3)元弘三年癸酉五月月廿二日道峯禅門
称重大元三尺釼
電光影裏析春風
高さ 一六七センチ

所在地 坂戸市仲町 永源寺『坂戸市史』中世史料編Ⅱ所収
(光明其言)
主尊・銘 元弘三年癸酉五月廿二日
(光明真言)
高さ 一二〇センチ

〔解説〕四基とも新田義貞挙兵から鎌倉幕府滅亡に至る二〇日間で、五月十五日の府中の戦い以後の戦いで戦死した者の供養として建てられたものである。太平記など戦記物語には記録のないところの戦いの部分を埋めている貴重な史料となっている。徳蔵寺の板碑には、「飽間斎藤三郎盛貞生年廿六、於武州府中五月十五日令打死、同孫七家行廿三同死」とあり、五月十五日の府中における合戦を伝えている。また、「飽間孫三郎定長廿五、於相州村岡、十八日討死」とあり、十八日には村岡で合戦があったことを証明している。この板碑はもと、久米村八国山将軍塚のあたりに立てられていたが、文化十年ころ徳蔵寺に移された。新田義貞が鎌倉勢と府中分倍河原の戦に敗れ、隣村久米川村に陣をひき、将軍塚に屯し、戦死した飽間斎藤氏のために、その地の時宗の僧をして石碑を建てたという(今立鉄雄『元弘の碑と徳蔵寺』)。
次に大徳氏蔵板碑について『坂戸市史』中世資料編Iは次のように書いている。「原所在地不明、五月十八日は鎌倉において大規模な市街戦が行われているさなかである。おそらくその戦いにおける戦死者の供養塔であろう。」
円照寺板碑は道峯禅門(加治二郎左衛門家貞)によって建てられた供養塔で、中国南宋の禅僧無学祖元(円覚寺開山)の詩文を偶としている禅宗風な板碑で、貴重な板碑といえる。この偏は「臨剣頒」といわれる撫学祖元の有名な詩文、祖元が堂内に聞入してきた元の兵に危く討たれるところ、この詩を述べた。元兵はその威容に打たれて立ち去った。「無常偶」や「光明真言」などによらず、「臨剣頒」をえらんだところに、北条氏と運命を共にした同族を供養する心情が表われている。
元弘三年(一三三三)五月二十二日は、鎌倉幕府が滅亡した日とされ、この日北条一門は御内人とともに葛西ケ谷の北条氏墓所のある東勝寺で自刃した。それ以前、新田義貞の軍勢は鎌倉幕府の北条軍と小手指原、久米河、分陪河原で戦っている。そして関戸の合戦で北条氏の滅亡は決定的となるが、入間川から小手指の合戦で幕府側の副大将として加治二郎左衛門入道の名がみられ、分倍の合戦で加治の名が『太平記』に見られる。これらのことから察せられるように、加治氏は北条氏の御内人となっていたようである。加治二郎左衛門入道は丹党系図上の家貞であろう(『新編埼玉県史』など)。加治氏の中でも多くの者が北条氏と運命を共にしたと考えられる。円照寺の板碑もこのときの加治一族の戦死者の供養塔とみられている。ただ加治左衛門人道道峯(家貞)を供養したのか、家貞が加治一族の戦死者を供養したのか。従来は家貞を供養するために建立したものといわれてきたが、板碑の形式などからみると、家貞が建立したもの、つまり、生き残っていた家貞が戦死した加治一族の供養のために建てたとする解釈が出されている。丹党高麗経家の分かれである加治氏の消息を知ることができるわけだが、この板碑から加治氏が北条氏の御内人としてその時代を生き抜いたけなげな姿と、一族の教養の高さをも感じとれる。
坂戸市永源寺の板碑については、『坂戸市史』中世資料編Ⅰは次のように書いている。「円照寺板碑と同じく幕府滅亡の月日を刻した板碑である。原所在地は不明であるが、浅羽氏の中には北条氏の御内人となったものがあり、おそらく幕府と運命を共にした者がいたのであろう。」

八五 高麗氏系図〔高麗神社蔵〕  資料価値無し
多門房行仙
弟三郎行持両人仕鎌倉、正慶二年五月廿二日於四郎行勝東勝寺向新田義貞勢、共討死

建武二年(乙亥 一三三五)七月二十三日これより先、鎌倉幕府執権北条高時の遺子相模次郎時行は鎌倉幕府再興を図り、信濃国に挙兵、武蔵国に進撃、この日武蔵国女影原(日高市)・小手指原(所沢市)・府中で足利軍と交戦した。足利軍は破れ、足利直義は幽閉中の護良親王を殺したのち、成良親王と共に鎌倉を逃れ、北条時行が鎌倉に入った。同年八月二日、足利尊氏は北条時行を討つため京都より関東に下向し、同月十八日これを破って鎌倉に入り、中先代の乱は終った。丹党の族・阿保氏は両派に分かれた
八六 ① 梅松論〔『新撰古典文庫』〕埼玉県史資料編7所収
(前略)
かくて建武元年も暮ければ、同二年、天下弥隠ならず、同七月のはじめ信濃国諏訪の上官の祝(はふり)安芸守時継の父参河入道照雲・滋野の一族等、高時の次男勝寿丸(北粂時行)を相模次郎と号しけるを大将として、国中(信漉)をなびかす由、守護小笠原信濃守貞宗 京都へ馳申間、御評定にいはく、凶徒木曽路をへて尾張黒田へ打出べきか、しからば早々に先御勢を尾張人(へ)指向らるべきと也、懸るところに凶徒はや、一国を相随へ鎌倉に責上間、渋川刑部(義孝)・岩松兵部(経家)、 武蔵女影原におひて終日合戦に及ぶといヘども、逆徒手しげくかゝりしかば、渋河刑部・岩松の兵部両人自害す、重て小山下野守秀朝発向せしむといヘども、戦難儀におよびしほどに同国の府中(多摩郡)にをひて、秀朝を始として一族家人数百人自害す、是によて七月廿二日下御所左馬頭殿、鎌倉を立て御向ありし、同日薬師堂谷(鎌倉)の御所におひて兵部卿親王(護良親王)を失ひ奉る、御痛しき申すも中々おろかなり、武蔵の井出(手)沢におひて戦暮しけるに御方の勢多く討れしほどに我に海道(多摩郡)を引退給ふ、
(中略)
さて、関東の合戦の事、先立より京都へ申されけるによて、将軍(足利尊氏)御奏聞ありけるは、関東におひて凶徒既合戦をいたし鎌倉に責入間、直義朝臣無勢にして、禦き戦べき智略なきによて海道に引退きし其聞えあるうへは、暇を給て合力を加べき旨、御申度々に及びといヘども勅許なき間、所詮、私にあらず、天下の御為のよしを申捨て、 (建武二年)八月二日京を御立出有、此比、公家を背奉る人々其数をしらず有しが、皆喜悦の眉を開て御供申けり、参河の矢作に御着有て京都・鎌倉の両大将御対面あり、則当所を立て関東に御下向ある処に、先代方の勢、遠江の橋本を要害に構て相支ふる間、先陣の軍士、阿保丹後守入海(光奏)を渡して合戦をいたし敵を追散して其身疵を蒙間、御感のあまりに其賞として家督安保左衛門人道道潭が跡を拝領せしむ、是を見る輩命をすてん事を忘れてぞ勇み戦ふ、當所の合戦を始として、同国さ(佐)夜の中山・駿河の高橋縄手・箱根山・相撲川・片瀬河 (みな相模)より鎌倉に至まで敵に足をためさせず七ケ度の戦に打勝て、八月十九日鎌倉へ責入給ふ時、諏方の祝父子、安保次郎左衛門人道々潭子自害す、相残輩、或は降参し、或は責おとさる。
(後略)
八六②  七巻冊子〔『改定史籍集覧』〕埼玉県史資料編7所収
(前略)
(忠)(上イ)
(建武二年)七月信濃国ヨリ凶徒蜂起、襲鎌倉ノヨシ風聞、世上物窓ナリ、北国ニモ凶徒蜂起ノヨシ云々、天下弥隠ナラス、信濃国ノ凶徒ハ、先亡相撲入道(北条高時)ノ二男亀寿丸(北条時行)ヲ大将ニ取立、諏訪ノ官祝部頼重・三浦介(時継)・葦名・清久等、大名多ククミシテ数万騎ニ及フト云々、同中旬、信州ノ凶徒、上野国ニ打入合戦、岩松左衛門尉、新田四郎等ノ官軍敗北、行方ヲシラスト云々、其後鎌倉ヨリ渋川刑部(義季)(大イ)少輔、小山秀朝等ノ兵数千人発向、久米河(多摩郡)・女影力原(高麗郡)ニテ合戦、官軍敗北シテ、小山・渋川ヲ初、 一族家人数百人自害スト云々、信濃国ノ凶徒イヨイヨ気ニノリテ、鎌倉ニ攻上ル間、直義以下馳向、防キ戦フト云トモ、無勢ノ間カナヒカタク、鎌倉ヲ出テ、成艮親王ヲ具シ奉リ、京都エ上ル、直義、武蔵国エ打出ル処ニ、猶凶徒攻カカルユへ、直義カ一族細川四郎頼貞入道返シ戦ヒ、家人百余人トモニ討死、此間ニ成良親王并直義、京都エ落上ルト云々、   
(後略)

八六③  太平記〔義輝本・巻二二〕国文学研究資料館所蔵
相模二郎謀反之事
相模二郎時行ニハ、諏方三河守・三浦介入道・同若狭五郎判官・那和左近大夫・清久山城守・芦名入道・塩谷民部大輔・工藤・長崎安保入道ヲ始トシテ、宗徒ノ者共五十余人与シテケレバ、伊豆・駿河・武蔵・相模・甲斐・信濃勢 兵馳加テ五万余騎トゾ聞エケルニ・相模二郎時行、其勢ヲ合テ 信濃国ヨリ起テ、鎌倉エソ攻入ケル、之ニ依り鎌倉左馬頭直義朝臣、驚キ騒イデ軈、渋川刑部大輔義季ヲ防グ大将ニ向セラルベシトゾ宣給ケル、義季ハ敵ノ勢ノ強大ニシテ、東国ノ兵共過半ハ内通ノ由ゾ聞給シカバ、馳向テ闘トモ利有ラジト思ハレケレバ、善悪ニ付テ爰ヲ最後卜思定テゾ立テラレケル、相随フ兵五百余騎、建武二年七月廿二日、武蔵国女景原ニ馳着テ、四隊ノ陣ヲゾ張給ケル、相模二郎時行雲霞ノ勢ヲタナビキテ、先陣己ニ流鏑ノ声ヲ発シ、火出ル程ゾ闘ケル、渋川刑部大輔義季ハ、トテモ腹切ソト思定ラレクル事ナレバ、自ラ敵ニ相当マデモナク、自害セソトシ給処ニ、河原国小三郎、誠ニ合戦キビシカリケリト見エテ、鎧エアタマノ矢折カケ、馳来テ、御方小勢ナルニ依テ、戦難議ナル由ヲ申ケレハ、義孝是ヲ聞給テ合戦ノ吉凶ハ入マジ、今度鎌倉ヲ出ヨリ、死ヲ一途ニ思定シカバ、今更驚べキニアラズ、ソヾロナル軍ニヨリ、力ヲ費ヤシ、匹夫ノ矢前ニ懸ランヨリ、自、死ヲ心安セント思也、汝ハ未ダ新参ノ者ニテ、見知物モアルマジ、急キ此陣ヲ遁出テ、鎌倉エ馳参り、合戦ノ体ヲモ、自害ノ様ヲモ、委細ニ左馬頭ニ申シ、其侭汝カ進退ヲ心ニ任スへシトゾ宣給ケル、河原国畏テ、御意トモ覚候ハヌ者哉、弓矢ノ道ニハ譜代・新参卜云事ハ侯ヌ者ヲ、サテハ能ク未練ノ物卜思召サレケルヤ、且ハ御心中恐恥入テ侯、トテモ御腹召サレ侯ハバ、冥途ノ先懸仕候ハント云モハテズ、馬ノ上ニテ腹カキ切テ諸軍ノ死ニゾ先立ケル、義季是ヲ見給テ感涙ヲナガシ、是ゾ侍ノ義ヲ守テ、節二死スト云手本ナルニ、ヨリテ、サラバトテ帷幕(いばく)之中ニ物ノ具ヌギステテ、心閑ニ腹カキ切テ、西枕:ゾ臥給ケル、是ヲ見テ御共申ケル侍ニハ石原ノ五郎左衛門尉惟義、同九郎頼輔・同七郎高貞・板倉ノ七郎左衛門泰宣・子息弥七・舎弟ノ七郎二郎・同又七・大寐平五入道・其子五郎・舎弟ノ七郎五郎・三宮ノ二郎・同四郎・森戸ノ二郎左衛門・同与一入道・子息ノ弥二郎・同孫五郎・湯上ノ彦七・同舎弟ノ彦八・小笠原常業ノ五郎・石原ノ六郎入道道覚・子息ノ四郎頼成・其ノ弟辰寿九・有馬ノ又四郎・岡部・河原国ノ小二郎・同四郎・墨田ノ五郎入道・子息ノ孫四郎・同兵衛二郎・中村ノ五郎四郎・同松王九・印東ノ五郎二郎・同小二郎・保田ノ又六・同小四郎・佐野ノ二郎・進士ノ左衛門三郎・同太郎二郎・大串ノ余二・同七郎・帯刀ノ三郎左衛門尉・菅屋左衛門四郎・田辺管太郎入道・石原ノ二郎入道西真・同左衛門太郎貞継・大窪六郎・子孫弥五郎・三官弥三郎・同平七・神戸彦四郎・印東伊勢房・大崎ノ四郎左衛門入道・其子ノ孫四郎・同兵衛五郎・牛窪ノ小五郎・薩摩四郎・三宮孫八入道、同八郎太郎、是等(これら)宗徒ノ侍トシテ、中間厩者ニテ己上百丗余人、主ノ死骸ヲ枕トシテ、同腹切テゾ失ニケル、
猿程ニ、女景原合戦ニ御方無勢ニテ、難議ナル由聞シカハ、鎌倉左馬頭、重ネテ小山ノ判官秀朝ヲ助ノ兵ニゾ指下サレケル、秀朝厳刑ヲ蒙テ、二千余騎ニテ馳下リ、武蔵国ノ国府ニ着テ相戦シカドモ、其モ軍利ヲ失テ、判官腹切シカバ、若党五百余人同枕ニ自害シテ、戸路径ニゾ横ハリケル、是ノミナラズ、新田四郎上野国蕪川?ニテ攴戦シモ、一戦ニ力ヲ失テ、兵悉ク討タレヌ、細川四郎入道モ病床に臥ナガラ 敵陣ニ馳向、其身ハ腹切ル、若党共ニ打死ス、サレバ所々ノ合戦ニ股肱ノ氏族、耳目ノ勇士数ヲ尽シテ腹切討レシカバ、鎌倉ノ左馬頭直義カクテハ叶マジトテ、将軍ノ官ヲ具足シ奉リ、細川ノ陸奥守顕氏ヲ御伴ニテ、七月廿三日暁天ニ鎌倉ヲゾ落給ケル、

〔解説〕女影原は、現在日高市大字女影として地名が残っている。鎌倉古道に接し、小畔川の低地、台地が広く展開しているところで、竹ノ内の地名もあり、鎌倉武士女影四郎の名字の地である。戦国期の六斎市として名の出る高萩(高萩宿)に接する。戦国期、女影郷の名があった。
(「中先代の乱」とは。建武二年(一三三五年)七月、最後の得宗で幕府滅亡時に自害した北条高時の遺児時行が蜂起して鎌倉を攻撃したのを中先代の乱という。)
女影原の合戦は諸書に見られるが、ここでは梅松論・七巻冊子、太平記から関係部分を引用した。女影合戦は、建武二年の中先代の乱の際、北条時行軍と足利直義軍が激闘し、直義軍が敗北した合戦である。時行軍は進撃、鎌倉を占領する(直義は鎌倉を離れるとき士牢に閉じ込めた護良親王を殺す)。しかし、尊氏が京都から鎌倉に向かい直義と合流し、八月十九日時行を放逐することで中先代の乱は終結する。
尊氏は鎌倉に入り、建武の新政権に対向し、幕府の開設に向けて進むことになる。建武新政の崩壊と足利政権の成立への具体的な動きがここに始まる。女影合戦はこうした流れの中で重要であったとみられ、多くの史書で扱われている。なお、太平記は数多く伝えられている中で、慶長八年の古活字本が一般に流布されている(本資料集でも断りのない限り同書を引用している)が、本書には女影原の合戦について脱漏しているため、古態本の「義輝本太平記」から引用した。女影原合戦の日が明記されており、武士名や合戦の模様が詳しい。
女影合戦で安保一族は、尊氏側と時行側に分かれて戦った。安保氏は丹党の出、基房を祖としている。高麗五郎経家とは同族であった(系図参照)。基房―恒房―実光、実光が安保郷(児玉郡神川村元阿保)に任し、安保氏を称し、惣領家は得宗被官(北条氏の家督得宗家の家臣)となった。安保左衛門人道道澤は幕府北条氏と運命を共にするが、丹後守光春は足利尊氏の御感を得て、通常の跡を安堵され、安保氏の家督を継承した。一方、北条時行側にあった道澤の子は自害して果てた。 
上野新田郡武蔵島の「宮下過去帳」(『狭山市史』中世資料編所収)には、「建武二年七月廿二日、於女影討死、岩松四郎経家・同禅師・同本空・長岡大蔵卿源織女影討死、」と女影合戦を伝えている。
なお、当時の女影氏については不明。

八七 建武二年(乙亥 一三三五)十月銘の板碑三基
所在地 高萩 別所
主尊・銘 弥陀1・建武二年十月 日
高さ二尺三寸(清水寡作氏調査)

所在地 女影90 宿東
主尊・銘 弥陀1・建武二年十月 日
高さ.九〇・五センチ

所在地 女影90 宿東
     光明遍照十方世界
主尊・銘 弥陀3・建武二年乙亥十月 日
念仏衆生摂取不捨
高さ 一〇六センチ

建武三年 (丙子 一三三六、南朝は二月二十九日改元して延元元年)御師法眼祐豪は、武蔵国丹治一族の那智山旦那職等を照円房に譲り渡す。
八八 旦那譲状〔米良文書〕埼玉県史資料編5所収
永譲渡処分事
照円房分
一寺 坊同敷地在所伏拝、
一檀那 奥川(州)常陸下野武蔵「丹治一族(追筆)」 相模 駿川(河)遠江 尾張 山城 美作 同江見一門等、 長門同冨田一門等、肥前 肥後 此外諸弟配分所漏諸檀那等、
右於彼所帯等者、祐豪重代相伝之私領也、而為兵部卿照円房嫡弟之間、永所譲渡実也、全不可有他人之妨、仇為後日証文譲状如件、
建武三年三月十日 法眼祐豪(花押)

〔解説〕武蔵国丹一族の旦那職は、宝治元年(一二四七)十一月十一日、法眼家慶から証道房に譲られたもの(史料二四)。また、永徳四年(一三八四) 二月七日には武蔵国丹治一族の旦那職が寛宝坊に譲与されている(史料一六九)。「祐豪重代相伝之私領也」とあるとおり相伝された。

建武四年(丁丑 一三三七)南朝は延元二年)十二月、
八九 ①鶴岡社務記録 坤〔『鶴岡叢書』〕
(十二月)廿三日 国司顕家卿打入鎌倉
廿四日合戦
廿五日杉本城落了
八九 ① 高麗氏系図〔高麗神社蔵〕 
高麗行高、新田義興に従軍、負傷
 多門房行高  行純長男 母井上次郎女
建武四年秋 奥州国司顕家卿 卒大軍攻鎌 倉行高時十九才 成宮御方 応新田義興招 馳参 終責落鎌倉 時被疵帰干家(以下略) 
高麗氏系図は偽書の可能性が高いので資料としては不適切なり。

〔解説〕建武の新政が失敗し、足利政権成立への動きは、中先代の乱・女影合戦を契機として具体的に始まったといえよう。この年建武二年の七月二十五日、北条時行は鎌倉を攻略するが、征東将軍の命をうけた足利尊氏は、八月十九日時行を破って鎌倉に入る。後醍醐天皇は上洛を促すが応ぜず、十一月二日には直義の名をもって新田義貞討伐の兵を集め、十二月十二日尊氏らは義貞の軍を箱根に破り、翌建武三年一月十一日尊氏は京都に入る。間もなく義貞軍に破れ西国へ、しかし再び盛りかえして楠正成・千種忠顕らを戦死させ、義貞を越前に追い、京都に入り、建武式目を定め、実質的に足利氏の室町幕府が開かれるのである(十一月七日)。翌建武四年元日より尊氏は義貞の金崎城を攻撃して三月に陥落させる。義顕戦死、義貞は敗走。こうした中で尊艮親王を奉じて陸奥国霊山に拠った北畠顕家は、霊山を発って西上、十二月二十三日鎌倉を陥れる。翌暦応元年、顕家は鎌倉を発ち西上するが、五月二十二日討死する。(下記削除)

九〇 建武四年(丁丑 一三三九、南朝は延元四年)銘の板碑
所在地 愉木4一 貝戸(林広次家)
主尊・銘 弥陀1・建武「ニ+ニ」(四)年丁丑十月十八日逆修
高さ 四三センチ

備考 「逆修」なので、建武四年の「四(ㇱ)」は「死年」を想起するので「ニ」をふたつ並べて刻んでいる。

暦応二年(己卯 一三三九、南朝は延元四年)十月十三日同十六日、多西郡高幡の山内経之は、常陸の陣中より留守宅の子息(又けさ)に書状を送り、食糧品や馬・馬具などを送り届けるよう指示した。
九一 山内経之書状二点〔高幡不動胎内文書〕r日野市史史料典j高幡不動胎内文沓三七・三八と註訳全文
(前紙欠)
二まいらせ侯、
一にこはのちや(茶2)にか(苦)く候ハさらんを、
てら(寺3)へ申て、入侯て給るへく侯、
一にはなか(中)にちや(茶)にてもかへ入候て給るへく候、
ほしかき、かちくり(4) すこし
給り候て侯し かへ入侯て、もち(持ち)侯へく侯、
恐々謹言、(暦応二年)十月十三日
(切封墨引)
〔注〕
(1)皮龍のような容器を二つ。
(2)古菓あるいは粉薬の茶か。
(3)高幡不動堂であろう。
(4)干柿・掩粟は戦場で常用された携行食晶。搗栗は搗と勝の音が通ずるところから、出陣する際などの祝儀の膳に供せられた。
◎留守宅の「又けさ」に宛てたものと思われ、陣中で用いる茶や干柿・線粟を、寺で分けてもらうか購入して、送り届けるように指示している。戦場において、このような携行食糧にも不自由していた実情をうかがうことができる。

(前紙欠)
…………………………………………
………人かす(数)に………………
…………く候、むま(馬)は……………………
…………事をかせ……………………    
ひやくしやうとものかたに、
いかやうにも候へ、おはせ侯て、
くらくそく(鞍具足1)かりて、のせて給るへく候、
くらくそくハ(2)しな(無)く候ハ、
かち(徒歩)にても、むま(馬)をはひかせて
下申へく侯、よろつなに事も
はゝこ(母御)に申あハせて、かい(甲斐)かいしく、
おさなき事ニても侯ハす侯へハ
はからひ(計)申させ候へく侯、
恐々謹言、十月十六 (暦応二年)(日脱?)
(切封墨引) やまかはより(4)
経之(山内)
〔注〕
(1)鞍とその附属品一式。
(2)強めの助詞。
(3)「又けさ」の母、すなわち経之の妻。
(4)茨城県結城市南部の上山川・下山川一帯の地。上山川は結城市の中心部から南へ約五キロの鬼怒川西岸にあり、ここに結城市庶流の有力国人山川(山河)氏の居館跡が現存する。居館跡は現在東持寺となっており、四周に土塁と堀が残存している。
◎ この書状に発信地が記されていることから、高師冬軍が山川の地に布陣したことが知られる。南朝方が下河辺荘内から撤退し、師冬軍は下総の北東部山川まで進出した。激戦のうちに経之は従者や乗馬・馬具に不足をきたしたため、百姓を説得して鞍具足を馬に載せて下せ、鞍具足がなければ、徒歩で馬だけを牽いて下せ、と「又けさ」に指示している。さらに母御と万事相談して、甲斐甲斐しく計らうようにと叱咤し励ましており、留守を託した元服前の子息を気遣う経之の心情がよくうかがわれる。

〔解説〕高幡不動は日野市高幡七三三番地高幡山明王院金剛寺境内の不動堂にある。この胎内文書は既に大正・昭和初年にその所在が確認されたが、調査されないままに六十余年を過ぎ、平成二年に日野市史編さん委員会により調査が始められ、平成五年「日野市史史料集高幡不動胎内文書編」として同委員会より刊行されたものである。この胎内文書は六九通七三点あるが、その裏面に印仏が押捺されたり、切断されたり、その上破損が激しいものであるから、その解読には絶大な労苦を経て行われた。こうして貴重な史料が明らかにされた。文書の内容は、この地の山内経之という武士が、南北朝初期に武蔵守護高師冬に率いられて、常陸にあった北畠親房の南朝軍を攻撃するため出陣中、戦場から故郷に送った書状が主要部分をなしていることがわかった。その内容は、当時の戦場の悲惨な様子や、留守宅(在地武士の生活)、およびそれに対する農民の態度などを窺い知ることができる。山内経之という武士について充分に明らかにされてはいないが、この時期、高麗氏を名乗る国人衆が高幡をはじめ各地に在地していて、南北朝争乱期に出陣したと思われる。

九二 暦応二年(己卯 一三三九、南朝延元四年)銘の板碑三基
所在地 女影 北口
主尊・銘弥陀1・暦応二年己卯
高さ 一尺五寸(上部を欠く)(清水嘉作氏調査)

所在地 女影8 宿西 薬師堂墓地
主尊・銘弥陀3・暦応二年己卯二月妙心逆修
高さ 六三・五センチ

所在地 清流29 上ノ原 (関口岩五郎家)
暦応二年己卯三月十九日
主導・銘 南無阿弥陀仏
慶心老子敬白
高さ 九一七ソチ

九三 暦応三年(庚辰 一三四〇、南朝延元五年この年四月二
十八日南朝改元して興国元年)銘の板碑二基
所在地 原宿47 四本木路傍
主導・銘(欠) 暦応三年庚辰三月十五日
高さ 三二・五センチ

所在地 高麗本郷一5 上ノ原 長寿寺墓地
主導・銘 弥陀1 ・暦応三年庚辰十月▢
高さ 三五・五センチチ

九四 暦応四年(辛巳 一三四二南朝は興国二年)銘の板碑三基
所在地 楡木4一 貝戸 (林広次家)
主尊・銘 弥陀1 ・暦応四年辛巳七月日廿六
高さ 七八センチ

所在地 猿田45 東田 西蔵寺墓地
主尊・銘 弥陀1・暦応四年辛巳四▢
高さ 三〇センチ

所在地 飯能市白子 長念寺
主尊・銘 弥陀3・暦応四年辛巳八月七日
高さ 三二センチ

九五 暦応五年(壬午一三四二、この年四月二十七日改元して康永元年となる。南朝は興国三年)銘の板碑、暦応銘の板碑康永元年銘の板碑
所在地 楡木4一 貝戸 (林広次家)
主尊・銘 (欠) 暦応五年壬午▢月廿八日
高さ 三〇・五センチ(二切)

所在地 楡木4一 見戸 (林広次家)
主尊・銘 弥陀1・康永元年壬午月日 敬也妙生/逆修
高さ 八七・三センチ(二切)

所在地 高麗本郷10 井戸入 安州寺墓地
主尊・銘 大日10月(金剛界) 康永元年九月十七日
高さ三六・二センチ

所在地 楡木4一 貝戸 (林広次家)
主尊・銘大日1(金剛界)・暦応▢▢
高さ二五センチ

康永元年 (壬午 一三四二、四月二十七日改元、南朝は興国元年)六月二十八日、平助綱(高麗氏)は大檀那として、多西郡徳常郷の不動堂(高幡不動)の修復を完了して、不動明王像火焔背に銘をした
九六 ① 不動明王像火焔背銘〔金剛寺所蔵〕
日野市史史料典し高幡不動胎内文杏編所収
(復)
武州多西郡徳常郷(得恒郷)内十院不動堂修復事 右此堂者建立不知何代檀那、又不知云何人、只星霜相継、貴賎崇敬也、然建武二年乙亥八月四日夜、大風俄起大木抜根抵、仍当寺忽顛倒、本尊諸尊皆以令破損、然問暦応二年己卯檀那平助綱地頭并大中臣氏女、各専合力励大功、仍重奉修造本堂一宇并二童子尊躰、是只非興隆仏法供願、為檀那安穏、四海泰平、六趣衆生平等利済也、仍所演旨趣如件、
康永元年六月廿八日修復功畢、
大檀那平助綱 大工橘広忠
別当権少僧都儀海 大中臣氏女 假治(鍛冶)橘行近
本尊修復小比丘朗意

九六 ② 不動明王像内納入墨書銘札〔金剛寺所蔵〕
日野市史史料典3高幡不動胎内文沓絹所収
武州多西郡徳常郷内十院不動堂修復? 右此堂者建立不知云何代檀那、又不知云誰人、只星霜相継貴賎崇敬也、然建武二年乙亥八月四日夜大風俄起大木抜根、偽当寺忽顛并倒本尊諸尊皆以令破損、然間暦応二年己卯檀那平助綱地頭大中臣氏女各専合?励大功、仍重奉修造本堂一宇幷本尊二童子尊躰、是只非興隆仏法供願、為檀那安穏四海泰平六趣衆生平等利済?也、仇所済旨趣如件? 、
(裏)
別当権少僧都儀海?
檀那平助綱 大工橘広忠?
大中臣氏女 慣治権守入道
本尊修理小比丘朗?意 茸?平教広等
○板の表裏に記されている。

〔解説〕火焔背銘(①)は四枚の板から成る火焔背に刻まれてある。これと同様の内容が不動明王像内の墨書銘札(②)にも書かれてあるが、墨書銘札は文字の判読が困難になった部分が多い。この不動堂は現在、高幡不動と称されて、日野市高幡七三三番地にある高幡山明王院金剛寺の不動堂である。中に像高九尺三寸余りの不動明王坐像(制作年代平安末期・南北朝期の二説がある)があり、左に斡掲羅童子(こんがらどうじ)、右に制唖迦童子(せいたかどうじ 平安末期作)が配されている。
この銘文にあるとおり、この堂建立の年代・檀那等不明であるが、建武二年(一三三五)八月四日の大風で倒れ、本尊も破損したので、暦応二年(一三三九)、檀那で当地の地頭である平助綱・大中臣民女が合力して、修造したというのである。この平助綱については、これ以前、正和元年(一三一二)八月十八日、平忠綱の譲状に「嫡子孫若」とある(史料六一)その人とみられる。つまり、平忠綱の所領が孫の平助綱に伝領された。高幡地方における平氏一族をここに見ることができるわけだが、この平氏が高麗氏であることは前述のとおりである(同資料解説)。なお、高幡村の隣村平村には、平資網の碑という「文永八年辛未申冬日」の板碑があり、平村の地名も平氏が所領したことによるのではないかといわれている(『風土記稿』多摩郡平村)ことなどから、高幡平氏の存在はかなり古くまでさかのぼる。それが高麗郡の高麗氏から出て、本姓平氏を称したとみることができるわけで、高麗氏のルーツと、その発展の具体的姿を考える上で極めて重要なことである。(根拠無しで削除)

康永二年(葵末 一三四三、南朝は興国四年)十一月三日、畠山駿河守重俊は赤沢村(高麗郡・現飯能市)妙見社を創建する
九七 新編武蔵風土記稿(高麗郡之二赤沢村)
妙見社 慶安二年 二石五斗の朱印を附せらる。社内に元禄中の棟札あり。その文に康永二葵末十一月三日、畠山駿河守重俊草創 (以下、元亀二年(一五七一)再興の記事あり 史料四一二解説参照)

九八 康永二年(癸未 一三四三、南朝は興国四年)銘の板碑四基
所在地 楡木の道端に旧在、現在は県立歴史資料館
狛四郎入道
主尊・銘 (欠)・▢永二年癸未正月 日
逆修
高さ 一尺五寸三分

所在地 楡木4一 貝戸 (林広次家)
四郎大郎大三郎
主尊・銘 弥陀1 ・康永二年癸未二月日
逆修
高さ 七五センチ

所在地 楡木4一 貝戸 (林広次家)
道善
主尊・銘 弥陀1 ・康永二年竿一月日
逆修
高さ 八七センチ

所在地 楡木42 東野 東光寺
主尊・銘 大日1(金剛界)・康永二年庚未十一月(欠
高さ 三三センチ

写真8 康永二年銘「狛四郎入道」板碑(県立歴史資料館)

九九 康永三年(甲申二二四四、南朝は興国五年)銘・康永年と思われる板碑
所在地 検木の道端に旧在、現在は県立歴史資料館
四郎入道
主尊・銘 (欠〉・甲 申十一月 日
逆修
高さ一尺三寸

所在地 楡木4一 貝戸(林広次家)
主尊・銘 大日1(金剛界)・康(欠)
高さ 二六センチ

写真9 康永三年銘「狛四郎入道」板碑(県立歴史資料館)

〔解説〕史料九八・九九の狛四郎入道による逆修板碑について、大徳子竜(現坂戸市森戸で、大徳氏は江戸時代より漢学塾経営)が昭和六年採録した記録によると、楡木(現日高市)より大徳氏宅に移管したという(『鶴ヶ島町史』原始・古代・中世編)。この狛四郎入道とは丹党高麗氏一族の高麗四郎入道希弘・左衛門尉季澄のことであろう(史料一四六)。年代は康永二年癸未であり、他の一基も板碑の形態などからみて同年代とみられ、甲申と読まれているから康永三年とみていいだろう。そうするとこのころの高麗氏の動向を伝える貴重な板碑といえる
暦応元年(一三三八)五月二十二日北畠顕家討死、同年間七月二日には新田義貞が討死した。つぎつぎに支柱を失った南朝側は、顕家の弟顕信を鎮守府将軍に任命して坂東諸国経営のため東国に下らせたが、船団が暴風雨に遭遇して北畠親房は常陸に到着した。親房は翌暦応二年、小田治久の小田城(現つくば市)で神皇正統記を書き、春日顕国の支援もあって南朝方の拠点を築く。しかし、この年、鎌倉からは高師冬が常陸に出陣(後醍醐天皇は没する)小田城を攻める。岡城は暦応四年開城、北畠親房は関城(茨城県関城町) へ、春日顕国は大宝城(同県下妻市)に移ると、そこが対決の場となった。康永二年(一三四三)十一月十一日両城が落城することによって、関東における南北朝の争乱は一段落を迎えることとなったが、この間、関東の在地武士たちは、常陸の南朝方や、足利、高などの北朝方の軍として動員された。別府氏、浅羽氏などは高師冬に従って出陣している。南朝側が退去(親房は吉野山へ)した後、高師冬が鎌倉に帰ったのは康永三年二月二十五日であった。
当時のこうした状勢の中で、従軍した武士たちは生死の間に置かれたわけである。彼らはそうした中で仏にすがり、生前供養をした。(以下は書き過ぎと判断)。それが忽々とした出陣の束の間にしかできなかったとしたら、有り合わせの石で加工もままならず、弥陀一尊と僅かに自分の名を記すに精一はいのことであったかも知れない。高麗四郎入道の名の書き方をみても、そんなありさまを想像できる板碑である。

貞和元年(乙酉 一三四五、康永四年十月改元して貞和元年、南朝は興国六年)十二月十三日銘の厨子が聖天社に奉請された。
一〇〇 厨子銘(高麓本郷聖天社厨子)
奉請宮口□□貞和元年乙酉十二月十三日

〔解説〕この史料は『風土記稿』による。現物は所在不明、聖天社と聖天院とは別、聖天社は高麗本郷日向組の鎮守、市原組の鎮守は蔵王社、駒高の鎮守は子ノ神社、高麗本郷の鎮守は九万八千社という (『風土記稿』)。

一〇一 貞和二年(丙戊一三四六 南朝は興国七年この年十二月八日改元して正平元年となる)とみられる板碑
所在地 北平沢5  根岸 福蔵院墓地
主尊・銘 (欠) 貞和二□□
高さ 四一センチ

一〇二 貞和四年(戊子 一三四八、南朝は正平三年)銘の板碑
所在地 高麗本郷一5 上ノ原 長寿寺墓地
主尊・銘 弥陀3・貞和四年戊子二月▢▢
高さ 四九・五センチ

所在地 女影 北口
主尊・銘弥陀1・貞和戊子四平月日
高さ 一尺二寸上下を欠く
(清水嘉作氏調査)

一〇三 貞和四年 (戊子 一三四八、南朝は正平三年)銘宝箇印塔
所在地 高麗本郷 日和田山 女坂
口□宝塔
銘 貞和第四戊子
十月上旬比丘□□立
総高 九五・一センチ
(備考)反花座・基礎・笠・笠の順に積まれ、基礎は上部二段、素面で一面に銘文を有する。検討を要す(『埼玉県史』)。
写真一〇 貞和四年銘宝匪印塔(日和田山女坂中腹)

貞和五年 (己丑 一三四九、南朝は正平四年)十月二十二日、足利義詮が関東より上洛する。その送りに河越・高坂氏らを始め東国の大名が大略上洛する。
一〇四 太平記〔巻二十七〕埼玉県史資料編7所収
左馬頭義詮上洛事
去程ニ三粂殿(足利直義)ハ、師直・師泰ガ憤猶深キニ依テ、天下ノ政務ノ事不及口入、大樹(足利尊氏)ハ元来政務ヲ謙譲シ給へバ、自関東左馬頭義詮(足利)ヲ急ギ上洛アラセテ、直義ニ不相替政道ヲ申付、師直諸事ヲ可申沙汰定リニケル、此左馬頭卜申スハ千寿王丸ト申テ久ク関東ニ居へ置レタリシガ、今ハ器ニアタルベシトテ、権柄ノ為ニ上洛アルトゾ間へシ、同十月四日左馬頭鎌倉ヲ立テ、同二十二日入洛シ給ケリ、上洛ノ体由々敷見物也トテ、 粟田口(山城)・四官(山城)河原辺マデ桟敷ヲ打テ車ヲ立、貴賎巷ヲゾ争ヒケル、師直以下ノ在京ノ大名、悉勢多(近江)マデ参向ス、東国ノ大名モ川越・鳥坂ヲ始トシテ大略送リニ上洛ス、馬具足奇麗也シカバ誠ニ耳目ヲ驚ス、其美ヲ盡シ善ヲ盡スモ理哉、将軍ノ長男ニテ直義ノ政務ニ替リ天下ノ権ヲ執ラン為ニ上洛アル事ナレバ、 一涯珍ラカ也、(後略)
    
一〇五 貞和五年(己丑 一三四九、南朝は正平四年)銘、貞和銘の板碑二基
所在地 女影 北口 (清水嘉作氏調査)
主尊・銘 貞和五年三月十日
高さ 一尺(上下欠く)

所在地 女影88 宿西 薬師堂墓地
主尊・銘 大日? 貞和(欠)
高さ 三七・二センチ

一〇六 観応元年(庚寅 一三五〇、貞和六年二月二十八日改元して観応元年、南朝は正平五年)銘の板碑五基
所在地 高萩97 中宿、光全寺墓
主尊・銘 弥陀3・観応元年庚刁四月廿 妙? 敬白?((欠)
高さ 五九センチ

所在地 高萩 寺林 (清水嘉作氏調査)
主尊・銘 弥陀3・観応元年庚庚刁八月日道仏道逆修
高さ 二尺三寸

所在地 南平沢66 塚場 (高麗川公民館)
主尊・銘 大日1(金剛界) ・観応元年十一月廿六日
高さ 四七・五センチ(北平沢中居付近出土)

所在地 清流29 上ノ原(関口岩五郎家)
主尊・銘 弥陀く・観応元年庚刁十一月日逆修敬白
高さ 八〇センチ

所在地 清流29 上ノ原(関口岩五郎家)
主尊・銘 弥陀3・観応元年庚刁十一月日逆修敬白
高さ 九八センチ

(注)上記二基は双碑、夫婦の逆修か。

一〇七 観応二年 (辛卯 一三五一、南朝は正平六年)銘の板碑五基
所在地 高萩92 別所 第四公会堂
主尊・銘 (欠) 観応二年三月十八日性善
高さ 三八・三センチ

所在地 高萩 (清水嘉作氏調査)
主尊・銘 弥陀1・観応二年三月日
高さ 二尺九寸六分 (三輪拝花瓶一対卒歿とある)

所在地 下大谷沢118 下田墓地
主尊・銘 大日1(金剛界)・観応二年四月八日
高さ 四五・一センチ

所在地 高萩 寺林(清水嘉作氏調査)
主尊・銘 弥陀3・観応二年四月二十八日妙心禅尼
高さ 二尺四寸二分  花瓶一対

所在地 飯能市 白子 長念寺
玄一尼
主尊・銘 1 ・観応二年辛卯四月廿九日
敬白
高さ 五四センチ

正平六年(辛卯 一三五一、北朝は観応二年)八月、高麗彦四郎経澄・同三郎左衛門尉助綱は鎌倉殿(足利義詮)の御教書をうけ、下野国宇都宮に出陣、武蔵国守護代薬師寺加賀入道と対面し、上杉民部大輔憲顕(直義派)を討つことを話し合い、以来尊氏の側で軍忠を尽くし、薬師寺加賀入道の証判を受く。
一〇八 高麗彦四郎経澄軍忠状〔町田文書〕
高麗彦四郎経澄軍忠事
一去年観応二 八月 下給鎌倉殿御教書
 馳越下野国字都宮、致忠節畢
一薬師寺加賀入道宇都宮下向之間 遂対面可令誅伐上
椙民部大輔之由 条々致談合畢
一同十二月十七日 於鬼窪揚御旗畢
一同十八日 自鬼窪打立 符中罷向之処 
同十九 於羽祢倉合戦時 難波田九郎三郎以下凶徒等打捕候畢
一同夜於阿須垣原取陣之処 御敵吉江新左衛門尉寄釆間
致散々合戦之処 薬師寺中務丞令見知畢
一同廿日 押寄符中 退散御敵等 焼払小沢城畢
一同廿九日 於足柄山追落御敵等畢(府)
一今年正月一日 馳参伊豆国符 至干鎌倉御共仕畢
右軍忠之次第如斯
正平七年正月日
承了(証判) (花押)(薬師寺加賀入道公義)

一〇九 高麗助綱軍忠状写〔彦根城博物館保管彦根藩井伊家史料「高幡高麗文書」〕『日野市史史料集』高幡不動胎内文書編所収
高麗三郎左衛門尉助綱抽軍忠条々次第事
▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢宇都宮▢▢▢▢   
同八月十一日□□□□長四郎兵衛足利義詮殿御教書幷三戸七郎(高師親)殿依賜内状、馳参十九日之処、相語一族他門可揚義兵之由仰之間、帰国仕候畢、
同(十二月)十七日、於鬼窪揚義兵訖、
十八日自鬼窪打立府中江罷向之処、
同十九日羽弥蔵合戦、那波多(難波田)九郎三郎令追罰畢、
同日於阿須書(垣)原合戦、抽軍忠訖、
同廿日、押寄府中追散御敵等、令放火幷小沢城訖、
廿九日、於相模国足柄山追落御敵訖、
今月一日、馳参伊豆府、至于(ここにいたり)鎌倉御共仕候了、
右、軍忠次第如斯、
正平七年正月 日
承候了(証判) (花押影)(薬師寺公義)
写真11 高麗助綱軍忠状写(彦根城博物館高幡高麗文書)

〔解説〕足利尊氏と直義の不和は、幕府開幕当初二頭政治で出発したことに大きな原因があった。両者は対南朝の軍事行動についても対立し、貞和五年(一三四九)閏六月、直義は尊氏に強請して尊氏派の高師直の執事を罷免するという強硬手段をとったことで、決定的な破局を迎えた。しかし、軍事的優位の師直は直義を政務から罷免させ、自らは執事に復職する。両者の争いは更に発展し、翌観応元年十月直義は、尊氏のいる京都を逃れて大和に走り、十二月には南朝と講和し、南朝軍を同盟軍とし争乱は全国的に発展する。これが観応の擾乱といわれる。翌観応二年二月の摂津打出浜の合戦で直義軍は尊氏軍を破り、同二十日両者の和睦が成立、師直・師泰は出家し、のち殺されて一応の結着をみた。そして、直義は尊氏の子義詮の政務を後見する形をとって幕政は再開するが、両派の一本化は成らず反目は再燃する。
観応二年八月一日、直義は尊氏に策謀あることを探知し、京を脱出、北陸の斯波・富樫氏などの力を頼って北陸へ下り、ここで東国・西国の力を結集して尊氏に当たることを謀るが、十一月十五日鎌倉に入る。鎌倉の基氏は、実父尊氏と義父直義との間にあって迷ったらしい。その行動には不明なことが多い。こうした中で八月、鎌倉殿(義詮)の御教書を受けて出陣した者が多かった。高麗経澄・同助綱も義詮の御教書を八月にうけて出陣し、ほぼ同一行動をとっている(助綱軍忠状には欠字が多いが、経澄軍忠状の内容と同様であろう)。
高麗経澄・助綱は宇都宮で武蔵守護代薬師寺加賀入道と面談する。ここで、直義側の上杉憲顕を撃つことについて談合を遂げるのである。そして十二月十七日鬼窪(鬼窪郷・現白岡町)で兵を挙げ、尊氏・義詮方に従軍する。
高麗経澄・同助綱は十二月十八日鬼窪を出発、十九日羽祢倉(羽根倉・浦和市と富士見市の間)合戦、阿須垣原(阿佐谷?)では吉江氏(直義側の武蔵守護代)の軍勢と合戦、二十日には府中に押寄せ、小沢城(現川崎市)を焼払い、二十九日には足柄山の敵を追い落し、そして観応三年・正平七年正月一日、伊豆国府(現三島市内)の尊氏陣に参陣、お供して鎌倉に入った。以上、観応二年八月以来、約半年間における経澄と助綱は軍忠の数々を自ら書き上げ、これを薬師寺加賀入道公義(武蔵守護代)に差出して証判を得たのである。
この軍忠状の証判は武蔵国守護代薬師寺公義である(海津一朗氏)。薬師寺公義は観応の擾乱以前から武蔵国守護代であったが、観応二年二月、高師直一族が誅伐されると、武蔵国守護職は師直から上杉憲顕に代わり、公義は直義方に隆伏したとの見方が成立する(園太暦)ことから、公義は(高麗氏も含め)鎌倉殿、即ちこの場合基氏の御教書をうけて宇都宮に下向し、ここでかつての部下であった武蔵国人たちと談合した結果、直義党の上杉憲顕を討つことに決したという解釈も成り立つ(高麗氏は十二月十七日鬼窪で旗上げすることになる)。しかし、助綱軍忠状によると、「ロロ殿御教書幷三戸七郎殿依賜内状」とあるように、三戸七郎の内状によって助綱は宇都宮へ出陣したわけである。この三戸七郎は「高階系図」によれは高氏の養子で、観応元年高師冬が基氏を離して鎌倉を落ちたとき、上杉憲顕方に討たれた師親かと思われる。その点若干の検討が必要だが、こうしてみると、鎌倉殿・三戸七郎・宇都宮氏綱・薬師寺公義の人脈が考えられ、基氏・直義・上杉憲顕の人脈とは別にできる。したがって鎌倉殿は義詮とすべきであろう。当時、義詮は上洛したのちも、「鎌倉殿」あるいは「鎌倉大納言」と呼ばれたことはよく知られているところでもある(湯山学「鎌倉殿御教書」の発給者についてー未刊)。
なお、観応二年段階で、政治的動乱期にあっても既に幕政は尊氏と義詮の両者によって進められていたということは両者の発給文書から判断される。特に観応元年五月七日段階で、足利義詮袖判下知状による裁許状が出されている(小安博「関東府小論」)ことなど、当時の支配権力を示唆していると考えられている。高麗彦四郎経澄は高麗郷に在地し、高麗三郎左衛門尉助綱は高幡郷に在地した同族の高麗氏である。

観応二年(辛卯一一一云一、北朝は観応二年)冬、高麗行高(多門房)は足利直義に招かれ、駿河国薩睡山に尊氏軍と戦うが、敗れて逃げ帰る。
一一〇  高鷲氏系図〔高麗神社蔵〕
多門房行高新讐男九謂最郎B+
(前略)観応二年冬、応高倉禅門直義公招率百八十余人馳参薩睡山御陣敗軍而逃帰(後略)
(高麗氏系図は偽書、針小棒大の記述であり不採用。高麗神社の系図にこの記述を殊更に載せている最大の理由は、明治維新後の神職・村社認可のためには反尊氏側で戦い敗走したという作文が必要だったためである。)
〔解説〕「高麗氏系図」に書かれてあるこの資料によると、高麗氏三二代高麗行高は足利直義の招きに広じて、 一八〇余人を引率して参陣したが、薩睡山(静岡県由比町)の合戦に敗れて帰ったという。薩睡山は海に面して険しい。あまり高くはないが、この山の峠越えをする交通路があり要衝の地となっている。尊氏は直義を討つため京都よく下り、観応二年十一月晦日ここに陣を張ったのである。直義は東国、北陸の軍勢を集めて鎌倉を出発、尊氏軍に宇都宮の軍勢が後詰めに来る前に打ち滅ぼそうと、 一隊を上州へ向け、一隊を薩睡山へと向けて進んだ。上州へ向いた軍は宇都宮氏の薬師寺加賀入道側に付いた高麗彦四郎経澄などと闘い、薩睡山へ向った軍に高麗行高が従軍したものと思われる。直義軍は尊氏軍に優る大軍であったが、上野・武蔵そして薩睡山でも大敗する。直義に従った高麗行高も破れて、故郷へ逃げ帰るのである。

薩睡山の合戦については『大平記』に詳しい。次に抄掲しておく。

一一一 薩多山合戦事〔大平記巻第三十〕慶長八年古活字本(氏綱)
(前略) 宇都宮(氏綱)ハ、薬師寺次郎左衛門人道元可ガ勧依テ、兼テヨリ将軍(足利尊氏)ニ志ヲ存ケレバ……(略)……(薩睡山ノ後攻ヲセント企ケル……(略)……十二月十五日宇都宮ヲ立テ薩睡山へゾ急ケル。相伴フ勢ニハ氏家大宰小貮周綱……(略)……武蔵国住人猪俣兵庫入道・安保信濃守・岡部新左衛門入道・子息出羽守、都合其勢千五百騎。十六日午剋ニ、下野国天命宿ニ打出タリ。此日佐野・佐貫ノ一族等五百余騎ニテ馳加リケル間、兵皆勇進デ、……(略)……打連テ薩唾山へ懸ラソト評定シケル……(略)……同十九日ノ午剋ニ戸祢河ヲ打渡テ、那和庄(上野)ニ著ニケリ。此ニテ跡ニ立タル馬煙ヲ、馳著ク御方欺卜見レバサニアラデ、桃井播磨守(直常)・長尾左衛門一万余騎ニテ迹ニ著テ押寄タリ……(略)……飽マデ広キ平野ノ馬ノ足ニ懸ル草木ノ一本モナキ所ニテ敵御方一万二千余騎、東ニ開ケ西ニ靡ケテ追ツ返ツ半時計戦タルニ、長尾孫六ガ下立タル一揆ノ勢五百余人縦横ニ懸悩マサレテ、一人モ不残被打ケレバ桃井モ長尾左衛門モ叶ハジトヤ思ヒケン、十万ニ分レテ落行ケリ。……(略)……是ノミナラズ吉江中務ガ武蔵国ノ守護代ニテ勢ヲ集テ居タリケルモ、那和ノ合戦卜同日ニ、津山禅正左衛門幷野与ノ一党ニ被寄、忽ニ討レケレバ、今ハ武蔵・上野両国ノ間ニ敵ト云者一人モナク成テ、宇都宮ニ付勢三万余騎ニ成ニケリ。宇都宮巳ニ所々ノ合戦ニ打勝テ後攻ニ廻ル由、薩唾山ノ寄手ノ方へ聞へケレバ、諸軍勢皆一同ニ「アハレ後攻ノ近付ヌ前ニ薩唾山ヲ被責落候べシ」ト云ケレ共、傾リ運ニカ引レケン、石堂・上杉曽テ不許容ケレバ、余リニ身ヲ揉デ児玉党三千余騎、極メテ峻シキ桜野(駿河)ヨリ薩唾山へト寄タリケル。此坂ヲバ今河上総介(範氏)・南部一族・羽切遠江守・三百余騎ニテ堅メタリケルガ、坂中ニ一段高キ所ノ有ケルヲ切払テ、石弓ヲ多ク張タリケル間、一度ニバツト切テ落ス。大石共ニ、先陣ノ寄手数百人、楯ノ板ナガラ打撃ガレテ、矢庭ニ死スル者数ヲ不知。後陣ノ兵是ニ色メイテ、少シ引色ニ見へケル処へ、南部・羽切抜連テ懸リケル間、大頬禅正(行光?)・富田以下ヲ宗トシテ、児玉党十七人一所ニシテ被討ケリ、「此陣ノ合戦ハ加様也トモ、五十万騎ニ余リタル陣々ノ寄手共、同時ニ皆責上ラバ、薩睡山ヲバ一時ニ責落スベカリシヲ、何トナク共今ニ可落城ヲ、高名顔ニ合戦シテ討レクル ハカナサヨ」ト、面々ニ笑嘲
ケル心ノ程コソ浅猿ケレ、(後略)

正平七年(壬辰 一三五二、北朝は観応三年九月改元して文和元年)正月、高麗彦四郎経澄は足利尊氏側に属して伊豆国府に馳参、更に御供して鎌倉に参着、着到状に関東執事仁木頼章の証判をうける。
一一二 高麗経澄着到状〔町田文書〕
武 州
高麗彦四郎経澄
右、為後攻、今月一日馳参 伊豆国符(府)、 鎌倉御共仕、
至于今当参仕候了、偽者到如件
正平七年正月  日
  (花押)(仁木頼牽)

〔解説〕高麗彦四郎経笹は、前出文書(史料一〇八)の如く観応の騒乱には尊氏側について軍忠を尽くし、その軍忠状は武蔵守護代の証判を得たが、更に関東執事(のちの関東管領)仁木頼章(武蔵守護でもあった)によって、尊氏陣に参陣したことの証判を得たのがこの文書である。なお、この文書に、武 州とあるのは、この文書の補修の際、断ち載られて不明なので、「武州文書」所収文書によって補ったのである。
次の一一三の文書によると、高麗四郎左衛門尉季澄も尊氏から後攻めの戦功を賞されているので、経澄とほぼ同様の行動をしたのであろう。

正平七年(壬辰 一三五二、北朝は観応三年九月改元して文和元年となる)正月十七日、高麗四郎左衛門尉季澄は、足利尊氏から後攻めの戦功に対する感状を拝領する。
一一三 足利尊氏御感御教書〔町田文書〕
(花押)(足利尊氏)
為後責致忠節云々、尤以神妙也、弥可抽戦功之状如件、
正平七年正月十七日
高麗四郎左衛門尉殿睡

正平七年(壬辰 一三五二、北朝は観応三年九月改元して文和元年となる)閏二月十六日、高麗経澄は足利尊氏より、勅功の賞として高麗郡の内の地頭職を宛行われる。
一一四 足利尊氏袖判下文〔町田文書〕
  (花押)(足利尊氏)
下 高麗彦四郎経澄
可令早領地 武蔵国高麗郡内高麗三郎兵衛尉跡地頭職事
右 為勅功之賞所 宛行也者 守先例可致沙汰之状如件
正平七年閏二月十六日

〔解説〕南北朝期以降の守護領国制の下では、その支配下に組み込まれた現地の地主的領主に与えられた権益が地頭職といわれた。高麗三郎兵衛尉跡については詳細でないが、高麗郡内における彼の地頭職が、高麗彦四郎に擾乱後の勳功の賞として宛行われたのである。二月二十六日は足利直義死亡の日、三郎兵衛尉は直義方に付いて没収された闕所地*が、同族の彦四郎に宛行われたとみられる。
*闕所地とは、欠所地とも書く、所有者がいなくなった所領のこと。

正平七年(壬辰 一三五二、北朝は観応三年九月改元して文和元年)三月日、高麗経澄は多摩郡人見原・高麗郡高麗原合戦の軍忠を注進し、某の証判を受けた。
一一五 高麗経澄軍忠状〔町田文書〕
高麗彦四郎経澄申軍忠事
右 去潤二月正平七 十七日 将軍家御発向之間 自鎌倉令供奉訖
一同十九日 自谷口御陣 属于薬師寺加賀権守入道手
同廿日 於人見原 致散々合戦 通裏訖 此等次第 
鬼窪弾正左衛門尉渋江左衛門太郎 於同時合戦令見知者也
一同廿八日 於高麗原為執事御手(仁木頼章) 於東手崎 最初合戦致戦 若党原七郎手負被架右股之条 此等次第 岡部弾正左衛門尉鬼窪左近将監令見知供託 偽軍忠次第如件
正平七年三月日
承了(証判) (花押)(薬師寺加賀入道)

〔解説〕観応の擾乱は観応三年(一三五二)二月二十六日、直義が兄尊氏に殺されて終結した。しかし、この年閏二月十五日、南朝軍の新田義貞の子義興・義宗兄弟は宗良親王を奉じて上野で挙兵し、十八日鎌倉に入り、尊氏を逐った。こうして、いわゆる武蔵野合戦が起った。十九日、義興等は武蔵関戸(現多摩市)に陣し、尊氏は谷口(現東京都稲城市谷野口)に陣した。二十日、両軍は多摩郡人見原(現府中市人見)・金井原(現小金井市付近か)に戦ったが、新田軍は敗れて鎌倉に帰った。二十八日、新田義宗は宗良親王と共に武蔵国高麗原(日高市平沢のあたりか)・龍手指(小手指)・入間河原などで、尊氏側の仁木頼章軍と合戦し敗れた。こうして新田軍は鎌倉から退き、三月十三日には尊氏が鎌倉に入り関東は一応の静けさを取りもどした。この間において新田側にあった武士としては、児玉党(勝代・浅羽・四方田・庄・若児玉・中条)、丹党(中村・安保・加治豊後守・同丹内左衛門)・猪俣党(蓮沼・瓶尻)、野与党(桜井・大田)、私市党(私市)、西党(平山)、横山党(横山)、村山党(村山)など、武蔵七党の武士、及び熊谷氏らの西北武士が多く、旧直義方であった上杉憲顕・石塔義房・三浦高通らが尊氏に反して新田方に味方した、また、尊氏方に味方した武蔵武士としては、江戸・豊島・石浜・川越氏らであり、常総の武士としては、常陸大掾・佐竹・結城・小山・宇都宮氏などがいた。尊氏方に味方した一揆集団としては、平一揆・白旗一揆・花一揆・御所一揆・八文字一揆などがあった。高麗彦四郎経澄は尊氏側に味方して、執事仁木頼章の手に属し軍忠をつくした。なお、年号に正平(南朝年号)を用いているのは、正平六年十一月南北朝の和議が成立し、元号を正平に統一し観応を廃することになったためである。これは「正平一統」といわれた。しかし、翌正平七年閏二月二十日、南朝軍の京都占拠があり、当初の取り決めもここに決裂へ義詮は同月二十三日の日付から観応に復した。これに応じて各地でも元号が使い分けられた。この文書で正平を用いているのは、まだ元号が北朝元号に復したことを知らされてなかったためであろう。五月の文書(史料一一八)は観応に復している。
なお、南朝方の宗良親王が、小手指ケ原合戦で詠んだ次の和歌は有名になっている。
君がため世のため何かをしからん
すててかひある命なりせば(『新薬和歌集』)
また、高麗原について『風土記稿』では「……高麗原と云るは、今の新堀辺なり、南北十三四町東は的場村まで二里半許、渺々たる平原なりしと云う……」と記している。

一一六 観応三年(壬辰 一三五二、この年九月文和元年、南朝は正平七年) 三月日の板碑
所在地 高萩 寺林 (清水嘉作氏調査)
主尊・銘 弥陀1・観応三年三月日

観応三年(壬辰一三五二、この年九月二十七日改元文和元年、南朝は正平七年)高鷲氏三十二代多門房行高の弟左衛門介高広はこの年の三月、河村城で討死、三十一歳。高広弟兵庫介則長は同年間二月、武蔵野で戦い、鎌倉で死、二十八歳。
一一七 高麗氏系図〔高麗神社蔵〕
多門房行
(前略)
弟左衛門介高広同兄参宮御身方文和元年三月於河村城討死三十一弟兵庫介則長岡兄参宮御身方文和元年閏二月戦武蔵野有功攻入鎌倉時当流矢死二十八
〔解説〕高麗氏三二代多門房行高の弟兵庫介則長は観応三年間二月、南朝の征夷大将軍に任じられた宗良親王、新田義興、義宗の軍に応じて尊氏軍と戦いへ武蔵野合戦で功を挙げたが、鎌倉に攻め入るとき流失に当って死んだという。恐らく同月十八日のことであろう。その後三月には則長の兄左衛門介高広が河村城で討死した。これは鎌倉を取り戻そうとした尊氏軍との合戦ではなかったろうか。河村城(現神奈川県山北町)については、この年三月十五日当城で合戦があったことが三富元胤軍忠状(『神奈川県史』三)でわかる。なお、「高寛氏系図」によると、新田義興、義治が当城に逃げ込んだこともあった。(高麗氏系図は不適当にて削除)

観応三年(壬辰 一三五二、この年九月文和元年となる、南朝は正平七年)五月、八文字一棟の高麗四郎左衛門尉季澄は、去る閏二月十七日、武州を癸向し、金井原合戦・高麗原合戦に戦功をあげた着到状に足利尊氏の証判をうけた。
一一八 高麗季澄着到状〔町田文書〕
  (花押)(足利尊氏)
着到
八文字一揆高麗四郎左衛門尉季澄軍忠事、
右、去閏二月十七日、武州御癸之時令御共、
同廿日、金井原(多摩郡)御合戦之時、
薬師寺加賀権守入道令同道、至(致)散々大刀討了、
同廿八日、於高麗原抽戦功了、為備後証、着到如件、
観応三年五月 日

〔解説〕高麗四郎左衛門尉季笹は通称四郎と称したのであろう。その親は誰か特定できないが、年代的に推察すれば正慶二年(一三三三)三月二十八日東平沢などの所領について備進を命じられた高麗太郎次郎入道(史料八一)になろうか。平姓高麗一族の総領家とも推察できるからである。その子息に三郎兵衛尉・四郎左衛門尉・彦四郎・五郎左衛門尉を当ててみたらどうだろうか。いずれにせよこの時期、南北朝期には高麗氏がいくつかの庶子家を分出した姿としてみることができる。
八文字一揆とはこれら高麗一族を中心とした一揆集団であったと思われる。この着到状で四郎季浬は、観応三年閏二月十七日尊氏のもとに着到しているが、これは新田義興、義宗が上野に兵を挙げ武蔵に入った翌日である。恐らく尊氏から八文字一揆への軍勢催促が出されそれに応じたもので、この日尊氏は新田勢に押されて神奈川へ逃れ、十九日には谷ノロに陣し、そして二十日に金井原(現武蔵小金井)の合戦となり、尊氏軍は敗れ石浜にひき、勢いを盛り返した尊氏は府中に陣を張り、二十八日には小手指・高麗原・笛吹峠等に進軍して新田軍を破るのである。この間季澄は尊氏に軍忠をつくし、尊氏の証判をうけたのがこの着到状である。これと同じ行動が記載されているのが、高麗彦四郎経澄の軍忠状(史料二五)である。つまり、彦四郎と四郎左衛門尉は行動が同一である。共に八文字一揆として行動したのであろう。彦四郎軍忠状に名のある鬼窪・渋江氏(平氏・野与党)も同一揆のメンバーであったのかも知れない。こうした弱小土豪たちの一揆は在地支配に詳しい守護代クラスの国人が掌握した。この際武蔵守護代薬師寺公儀入道元可に結集した一揆であった。
なお、八文字一揆について、『新編埼玉県史』は、旗指物などに、八の字を書いたところからこの名を得たのであろう。高麗郡とその周辺の武士たちが結成した武士団、としている。高麗原についても確証に欠けるが、鎌倉街道に沿ったところで高麗川に近いあたりに想定できるであろう。

一一九 観応三年(壬辰 一三五二、この年九月二十七日改元して文和元年となる、南朝は正平七年)正平七年・正平銘の板碑
所在地 新堀39 吹上 霊巌寺墓地
主尊・銘 〈欠〉観応三年壬辰十月十六日 性円敬白
高さ 五〇センチ

所在地  高萩
主尊・銘1 弥陀1・正平七
高さ 一尺七寸上・下部を欠く (清水嘉作氏調査)

所在地 高萩 新宿
主尊・銘3 弥陀3・正平
高さ 一尺八寸下部を欠く (清水嘉作氏調査)

所在地 飯能市白子 長念寺
以色見我以音求我僧玄明
主尊・銘 (欠) 観応三年警月六日
是入行邪道不能見如来 敬白

観応三年(壬辰 一三五二、九月二十七日文和元年へ南朝は正平七年) この年春、高貰行高(高麗氏三十二代多門房行高)は新田義興に従軍し各地で合戦して敗れる。文和三年(一三五四)上州藤岡に隠れる。
一二〇 高麗氏系図〔高麗神社蔵〕 多門房行高
建武四年秋、奥州国司顕家郷 卒大軍攻鎌倉、行高時十九才成官御方 応新田義興招馳参 終責落鎌倉、時 (率)被庇帰干家、観応二年冬、応高倉禅門直義公招、卒百八十余人、馳参薩唾山御陳、 敗軍而逃帰、明文和元年春応新田義興招、所々合戦 同三年軍無利、義興・義治等逃河村城 時暫尋所縁隠上州藤岡(後略)
〔解説〕高麗氏の多門房行高については、建武四年に新田義興に従い、観応二年には足利直義に従い、そして文和元年には再び義興軍に従い再三の出陣であった。しかし、戦いは利なく 「尋所縁」上州藤岡に隠れることになった。これについて傍証とする史料に乏しいが、高麗氏と新田氏との関係の深いこと、上州高麗氏を考える上でも重要なことといえよう(群馬県には吉井町・甘楽町・富岡市・藤岡市に現在も高麗氏を名乗る者が多い) (高麗氏系図は参考にならず)

一二一 文和三年(甲午 一三五四、南朝は正平九年)十月十三日銘の板碑
所在地 北平沢60 中居(西島雅行家)
主尊・銘 弥陀1・文和三年甲午十月十三日
高さ 六四・五センチ

所在地 下鹿山 白幡(水村義夫家)
主尊・銘 大日1・文和三年十月   
高さ 二九・五センチ

一二二 文和四年(乙未一三五五、南朝は正平十年)銘の板碑二基
所在地 楡木41 貝戸(林広次家)
主尊・銘 大日?1・文和「ニ+ニ」(四)年三月四日
高さ 四二センチ

所在地 南平沢65 宮前 宮ヶ谷戸墓地
主尊・銘 弥陀1・文和「ニ+ニ」(四)年三円(土中
高さ 三九・二センチ

延文元年(丙申 一三五六、文和五年三月二十八日改元、南朝は正平十一年)十二月八日、熊野御師森次郎太郎則宗、武蔵国河越殿等の那智山旦那職を直銭一貫三百文にて光蔵坊に売り渡す
一二三 旦那売券〔潮崎稜威主文書〕埼玉県史資料編5所収
永ウリわタ(売渡)ス タソナ(且那)ノ事、

ムサシノ国 (武蔵国)力ワコエトノ(河越殿)
ツノタトノ (角田殿)
エト、ノ (江戸殿)
右、件タンナハ、竹内源慶ヨリ森ノ新三郎入道シンシャウ(真性?)ニユツリウルトコロナリ、シカルヲ大嶋ノモリノ二郎ニユツリわタス、シャ(ム)シヤウタカヒ(他界)ノノチ、依有要々、
一貫三百文ニ子息森ノ二郎大(太)郎ノリムネノハカライトシテ、
光蔵坊ニウリワタストコロ実也、不可有他妨、仍為後日之状如件、
延文元年十二月八日 森次郎大(太)郎則宗 (花押)

延文二年 (丁酉 一三五七、南朝は正平十二年) 高麗氏多門房行高、鎌倉側に降り、豪に帰る。死に臨んで遺言する。
二一四 高麗氏系図〔高麗神社蔵〕
多門房行高
(前略) 文和元年春 応新田義興招所に合戦 同三年軍無利 義興・義治尊逃河村城、時暫尋所縁 隠上州藤岡 延文二年乞降鎌倉 被御免許帰家 臨死遺言 我家者修験也 以後子孫代々錐有何事 必勿為武士之行 軍不致者也 堅戒卒
〔解説〕文和元年(一三五二)の春はまだ観応三年、この年九月に文和と改元。この年の閏二月、宗良親王を奉じた新田義興・義宗の招きに高麗行高が応じて出陣し尊氏の軍と戦ったことがわかる。しかし、文和三年戦利なく義興・義治は河村城へ逃げたという。詳細はわからないが、その後は縁ある者を尋ね上州藤岡に隠れていたが、延文二年二三五七)鎌倉方に降ったという(義興が矢ノロで自殺するのはその翌年である)。五年間にわたる合戦と逃亡の生活を新田氏と共にしたのである。しかもこの争乱には弟高広・則長も加って、二人の弟は討死した(史料二七参照)。行高は嘉慶二年(一三八八)七十歳で没するが、臨
終の際「我家は修験也…、いくさは致さざるものなり」、と堅く戒めるのである。

一二五 延文三年(戊戌 一三五八、南朝は正平十三年)銘板碑六基
所在地 新堀39 吹上 霊巌寺墓地
主尊・銘 (欠〉 延文三年二月廿六日逆修敬白
高さ 四六・七センチ

所在地 高萩91 甲別所墓地
主尊・銘 弥陀1・延文三年二月廿八日
高さ 五三・五センチ

所在地 鹿山68 四反田 掘南(市史編さん室)
主尊・銘 弥陀1・延文三年八月日
高さ 五七センチ (旧所在地不明)

所在地 横手2 入口 山上墓地 (石森トヨ家)
主尊・銘 (欠) 延文三年十月日
高さ 四五センチ

所在地 飯能市白子 長念寺(中村家墓地)
一切有為法 如夢幻泡影 玄法庵主
主尊銘 釈迦 延文第三戊戌 小春十七日
如露亦如電 応作如是観 逆修敬白
高さ 七七センチ

所在地 飯能市白子 長念寺(中村家墓地)
若以色見我
以音声求我 弧月玄心和尚
主尊・銘 釈迦3
是入行邪道 延文三戊戌十月日
不能見如来 預 修 敬 白
高さ 一四六センチ

延文四年(己亥一三五九、南朝は正平十四年) 二月七日、高麗彦四郎入道経澄、高麗五郎左衛門尉は、足利基氏より南方凶徒退治のための軍勢催足を受ける
一二六 ① 足利基氏軍勢催促状〔町田文書〕
南方凶徒退治事、将軍家所有御癸向也、早令参洛、
可致忠節之状如件、
延文四年二月七日  (花押)(足利基氏)
高麗彦四郎入道殿

  • 足利基氏軍勢催促状町田文書

南方凶徒退治事、将軍家所有御癸向也、早令参洛、
可致忠節之状如件、
延文四年二月七日  (花押)(足利基氏)
高麗五郎左衛門尉殿
[解説] 
延文三年四月三十日足利尊氏が死亡、義詮が将軍となるが、これを機にしてか南朝側は各地に蜂起する。十月十日新田義興は鎌倉府の畠山国清(関東管領・武蔵国守諺)によって矢ノロで滅ぼされるが(義興の怨霊が義詮の御所のあった入間川の在家三百余・仏閣数十を雷火で焼失したという)、南方各地の南朝軍については将軍義詮により征討軍が発せられた。これに合流すべく、鎌倉公方足利基氏により関東の武士にも動員がかけられてきたのである。この軍勢催促は高麗氏のほか、金子氏・別府氏・波多野氏などにも出されたことがわかっている。八文字一揆高麗四郎左衛門尉季澄(史料一一八)については詳細を得ないが、この際の一揆衆として把握されていたのであろう。
『太平記』には畠山国清(入道道管)が、関東の軍勢を率いて上洛したことが次のようにみえる。
延文四年十月八日、畠山入道々暫、武蔵ノ入間河ヲ立テ上洛スルニ、相順フ人々ニハ、先舎弟畠山尾張守(義深)・其弟式部大輔(義煕)、外様ニハ、武田刑部大輔(氏信)・舎弟信濃守(直信?)・逸見美濃入道・舎弟刑部少輔・同掃部助・武田左京亮・佐竹刑部大輔(師義)・河越弾正少弼(直重)・戸嶋因幡入道・土星修理亮・白塩入道・土屋備前入道・長井治部少輔入道(時治)・結城入道・難波掃部助・小田讃岐守(孝朝)・小山一族十三人・宇都宮芳賀兵衛入道禅可(高名)・子息伊賀守(高貞)・高根沢備中守・同一族十一人、是等ヲ宗徒ノ大名トシテ、坂東ノ八平氏・武蔵ノ七党・紀清両党、伊豆・駿河・三河・遠江ノ勢馳加テ、都合二十万七千余騎卜聞へシ……………

一二七 延文四年(己亥 一三五九、南朝は正平十四年)銘の板碑、同年とみられる板碑三基
所在地 横手8 滝泉寺墓地
主尊・銘 弥陀1 ・延文四年十月廿八日
高さ 三六センチ

所在地 下鹿山 白幡 (水村義夫家)
法仙?
主尊・銘 弥陀3 ・延文「ニ+ニ」(四)己亥十月十三   
逆修
高さ 四一センチ

所在地 横手8 滝泉寺墓地
主尊・銘 (欠) 延文「ニ+ニ」(四)□月廿日
高さ 四二センチ

延文五年(庚子二二六〇、南朝は正平十五年)四月三日、白旗一揆・平一揆等の軍勢は畠山義深を大将として、南方の四条隆俊の軍と戦う。
一二八 太平記〔巻第三十四〕埼玉県史資料編7所収
紀州龍門山軍ノ事
四条中納言隆俊ハ、紀伊国ノ勢三千余騎ヲ卒シテ、紀伊国最初峯ニ陣ヲ取テヲハスル由聞へケレバ、同四月三日、畠山入道々誓ガ舎弟尾張守義深ヲ大将ニテ、白旗一揆・平一揆・諏訪祝部・千葉ノ一族・杉原ガ一類、彼レ此レ都合三万余騎、最初ガ峯へ差向ラル。

〔解説〕四条中納言隆俊は南方軍(吉野)の総大将である。隆俊が最初ガ峯(和歌山県打出町)に陣を取っていた。延文五年四月三日、畠山国清の弟尾張守義深が大将となってこの陣に向った。その軍勢三万余騎、その中に白旗一揆・平一揆があって合戦が行われたのである(紀州合戦)。白旗一揆の名は『太平記』では貞和四年(一三四八)に既にでてくる一揆名である。これがのちに、上州・武州別に白旗一揆を名乗るようになる。白旗一揆はもともと上野・武蔵における児玉党などの中小武士団が中心となって、南北朝初期の観応の擾乱以前に結成されたもので、『源威集』によると、「白旗一揆ハ児玉・猪俣・村山ノ輩ヲ分進ル」とある.このことから白旗一揆は党という同族結合を母体として結成されたとみられる(久保田順一「南北朝・室町期の上野における在地領主の一揆について」).それがしだいに地縁的な結合体になるのである。

一二九 延文五年(庚子 一三六〇、南朝は正平十五年)銘の板碑三基
所在地 楡木42 東野 東光寺
主尊・銘 大日1(金剛界) ・延文五年十月日(細い二重枠線)
高さ 六二センチ

所在地 山根50 下大寺墓地(荻野菩一家)
主尊・銘 弥陀1・延文五年庚子十一月十一日心頼禅門
高さ 一〇二センチ

所在地 高萩
主尊・銘 弥陀1・延文五年
高さ 一尺二寸五分 (上下欠く 清水嘉作氏調査)

一三〇 延文六年 (辛丑 一三六一、この年三月二十九日改元して康安元年となる。南朝は正平十六年)銘の板碑
所在地 下鹿山 丸山墓地(細川五夫家)
主尊・銘 弥陀1・延文六年辛丑正月十   妙▢禅 尼
高さ 六九・五センチ

康安元年(辛丑一三六二延文六年三月二十九日改元、南朝正平十六年) 七月七日、鶴岡八幡宮の供僧公恵は宮の副御殿司職(祭事の際殿内のことを司る一人)に補せられ、井円と共に装束料所として女影郷が給された。
一三一 鶴岡御殿司職一方〔鶴岡八幡宮寺諸職次第〕
鶴岡紫斡第四輯所収
公 恵(着松坊)中納言大僧都
康安元七月七日依孔子、御殿司装束料所、幷円法印輿
相共於公方致訴詔(訟?)云々、女景郷可賜由落居云々、

〔解説〕鶴岡八幡宮御殿司職が一方である時の支障を考慮して二人に定めた。おのずから正副の別があり、副の御殿司職の歴代の記録がこの「御殿司職一万」系図である。公恵が鬮(くじ)によって御殿司職が当たり、その装束料所について井円法師と訴訟があり、女影郷が給されることで落着をみたという。しかしその詳細についてはよくわからない。 
なお、この史料は『鶴岡葉書』所収のものだが、『続群書類従本』所載の同史料に比べて、錯簡・脱落・誤植等が糺されているとみられている。

一三二 康安二年(壬寅 一三六二、この年九月二十三日改元して貞治元年となる。南朝は正平十七年)銘の板碑三基
所在地 南平沢65 宮前 宮ヶ谷戸墓地
主尊銘・大日1(金剛界) ・康安二年四月十明円禅尼
高さ 四七・五センチ

所在地 大谷沢112 下原墓地 (大河原宏家)
主尊・銘 大日1(金剛界) ・康安二年 (欠)
高さ 二九センチ

「康安二壬寅年(一三六二)八月時正、道法逆修」銘記の板碑が、新堀の建光寺にあったと伝えられている (『風土記稿』)。現物は所在不明。
一三三 貞治二年(癸卯一三六三へ南朝は正平十<年)銘の板碑
所在地 下鹿山丸山墓地 (細川五夫家)
主尊・銘 南無妙法蓮花経 貞治二年一月二十二日 日円
高さ 五二・三センチ

貞治二年(葵卯 一三六三、南朝は正平十八年)四月二十五日、足利基氏は高麗経澄をして高麗郡内知行分の年貢帖絹代を完済させる
二三四 鎌倉府政所執事奉書〔町田文書〕
武蔵国高麗郡内知行分年貢帖絹代事 先度被仰下之処 
于今無音 何様事候哉 所詮 云年々未進 云去年分 致究済可被遂結解 若猶遅怠者 任被定置之法 可被入請使之状依仰執達如件
貞治二年四月廿五日  沙弥(花神)
高麗彦四郎入道殿

〔解説〕高麗郡が北方・南方に二分され、北方郡の地頭職が高麗彦四郎に与えられていたことが一連の文書でわかる。その知行分の年貢と公事役として納入すべき帖絹(紙・絹織物)に代えるべき銭(公事銭) の催促をしている文書である。高麗郡の北方とは恐らく旧高麗郷 ほぼ現在の日高市を中心とした地域で、南方は旧上総郷 ほぼ現在の飯能市を中心とした地域であったとみられる。高麗北方郡が鎌倉府の御領所で、鎌倉府から必要な紙・絹の類を公事役として負担させられたわけである。高麗郡の生産物であったのであろう。ただ、ここではそれを銭で納めさせている。これが年々滞納されているので、よく調べて決済すべきこと、納入を怠れば法により処罰するとしている。沙弥は鎌倉公方足利基氏の執事・関東管領の上杉民部大輔憲顕であろう。このように鎌倉公方の奉書をもって、年貢・諸役について完納させることを命じているが、滞りがちであったとみられる。

貞治二年(癸卯三二ハ三、南朝は正平十八年)六月二十五日足利基氏は高鷲郡北方地頭をして、笠幡の年貢帖絹代を武蔵国長井庄定使森三郎に給し、年々の未進及び当年の残余を直納させる。
一三五 鎌倉府政所執事奉書〔町田文書〕
武蔵国高麗郡笠縁(幡?)年貢帖絹代事、為森三郎長井庄定使給物、且所切下也、任切符之旨、不日可沙汰渡給人、於年々未進及当年切残分者、令直納之、可被遂結解之状、依仰執達如件、
貞治二年六月廿五日        沙 弥(花押)
北方地頭殿

〔解説〕これも前の文書と同様、鎌倉府上杉憲顕から、高麗北方郡地頭高麗彦四郎に宛てた年貢・公事銭の納入を催促したものである。ここでは笠縁(笠幡)と限定しているから、他の村では納入済となったのだろうか。笠幡の分は長井庄定使(じょうし・荘官の一)の給物として当てている(未納となっても鎌倉府の欠損とはならない)。但し残余については鎌倉に納めよ、としている。この催促状の翌年、貞治三年にも次の文書(史料二二八)のとおり九月に同様の催促をしている。なかなか結解(けちげ)を遂げるに至らなかったことがわかる。長井荘は大里郡妻沼町長井とその周辺地域の荘園で、平安末は斎藤別当実盛が荘官であった。その後変遷して南北朝期には鎌倉府領になったと思われる。長井荘の定使森三郎は鎌倉府と長井荘の荘官の間に存在した者であろう。

貞治二年(癸卯 一三八三 南朝は正平十八年)八月二十五旦倣半、足利基氏は明日の岩殿山合戦をひかえた苦林の陣中においても、日ごろたしなむ笛を吹いて、心静かに決意を固めtかつ、天候を祈った。
一三六 源威集『新撰日本古典文庫3』所収
基氏朝臣、貞治二癸卯八月廿五日夜雨、御陣武州若林ノ野宿ニテ、明日厳殿山合戦成シ夜半計、御唐檀ヨリ御笛取出シ、御具足堅メナガラ左右ノ御寵手ノ指掛ヲヲロシ、鎖ノ指懸ヲ解セ給、御寵手ヲ臂ノ方へ押コカシ、音ヲハ不立御息ノ下ニテ、早キ楽ヲ半時計遊セシヲ承テ、乍恐何楽ニテ候由言上シタリシカバ、初ソ聞覧、 荒序也、手砕テ忘安キ楽成間、百日不闘是ニ稽古毎日所作也、明日合戦手ヲ、ロサバ、存命不定也、不可有後日ニ、且ハ笛ノ餘波(ナゴ)リ、且ハ為晴天両ノ祈祷成トテ、押沈メ御座シ事ノ体、御笛ノ稽古ハ去事ナレトモ、不思儀ニソ見奉リシ、思へハ永保ノ昔、義家・義光戦場ニ御笛ヲ携(タツサへ)賜テ、彼若冠ニ大事ヲ授給ケルハ、御当家ノ庭訓成ケリト、昔今ヲ感奉シカ、夜明シカハ、武州厳殿山ノ御合戦ニテ、敵ヲ多ク討取、関東静謐有りシ也、

〔解説〕足利基氏は、京都の楽家・笙の名家である豊原竜秋から笙を学んでいた。かつて入間河在陣のとき、竜秋次男成秋を陣中に呼び寄せたし、のち、竜秋の嫡子信秋を鎌倉に招き秘曲の相伝をうけた。そのときは、鎧・征矢・馬などのほか、所領二か所を信秋に与えた(その一か所が高麗郡広瀬郷内であった)。こういう基氏であったからこのたびの陣中にも笛を持参していたものと思われる。明日の合戦は鎌倉府の支配力を占う重要な戦いと心得ていた。その決戦を前にした基氏の心境を窺うことのできる出来事であった。源威集は嘉慶元年(一三八七)足利尊氏の臣下の者が足利氏繁栄のさまを記述したものといわれている。

貞治二年(癸卯 一三六三南朝は正平十<年)十一月、
畑野六郎左衛門入道常全は、一族一揆輩を催して鎌倉公方足利基氏の上州発向に従い、岩殿山合戦に疵を負う等、戦功を挙げたことを注進、矢野政親が証判した。
一三七 畑野六郎左衛門入道常全軍忠状〔畑野静司氏所蔵〕埼玉県史資料編5所収
畑 野六郎左衛門入道常全申忠節事、
去三月五日、鎌倉令当参之処、同八    御教書、相催一族一揆輩、可馳参    之間、則以飛脚、甲州之一族等相触畢、御所(足利基氏)上州御発向之間令供奉、同卅日石殿山属当御手候之処、最初御敵 散 合戦之間、常全馳向 、御敵数輩    畢 、 高股被庇畢、然則直御見之 上 賜 證 判、為備向後亀鏡、恐 言上の如件、 
貞治二年十一月
承了(証判) (花押)(矢野政親)

〔解説〕鎌倉府の足利基氏は、延文三年(一三五八)尊氏の死のあと、将軍義詮を助けて延文四年には南朝軍を鎮め、康安元年(一三六一)には、伊豆国に城郭を構えて基氏に背いた畠山国清を討伐した(これを支えた軍事力は平一揆、白旗一揆等の国人一揆であった)。貞治二年(一三六三)基氏は、直義党の重鎮であった上杉憲顕を取り立て、関東執事、また越後守護としたことが原因となり、宇都宮氏綱、芳賀兵衛入道禅司(高名)が妨害に出たため、基氏は鎌倉を発し、八月二十六日、比企郡岩殿山で芳賀勢を撃破、下野に入る。しかし、ここで宇都宮氏等も許した。以来、関東は静かな数年を迎えることとなる。
この宇都宮攻めのとき、畑野六郎左衛門常全は、基氏の御教書をうけ、甲州の一族に飛脚をもって相触れ、 一族の一揆をもって基氏に供奉し、岩殿山合戦では多数の敵と相討ち戦傷をうけるほどの奮戦をした。この働きに対し矢野政親の証判をうけたのである。

貞治三年 (甲辰 一三六四、南朝は正平十九年)九月十八日、鎌倉公方足利基氏、高麗郡笠縁・北方郡分帖絹代を長井庄定使森三郎に給付し、その直納を高鷲彦四郎入道経澄に命じる。
二三八 鎌倉府政所執事奉書〔町田文書〕
武蔵国高麗郡笠縁・北方郡分帖絹代事、為長井庄定便森三郎給物、所切下也、任切符之旨、不日可致沙汰、於所残者可被直納之状、
依仰執達如件、
貞治三年九月十八日   沙弥(花押)
高麗彦四郎入道殿
〔解説〕
高麗郡の北方郡分笠幡の帖絹代が未納なので長井荘定便給として、また残余は直納することを命じた催促である。前々からの年貢帖絹代未納が解決されないことがわかる(史料一三四・一三五)。

貞治三年 (甲辰三二ハ四、南朝は正平十九年)八月八日
勝音寺伝来の大般若経六百巻は、下野国上佐野庄の比
丘昌旭により、この日書き終えた。
一三九 大般若経巻第六百奥書〔旦向市粟坪勝音寺〕
(奥題)
大般若彼岸蜜多経巻第六百
千時貞治三年八月八日、下野国上佐野症(荘)之住人、此経一巻百礼、観音憾法l坐、横厳Eq一返、金剛経一巻、般若心経七巻読諭、文殊真言百反、虚空蔵冗百反、千手呪百反、地蔵m凡百反、不動光百反、毘沙門光百反、愛染党首反、此諸真言満供養書、比丘昌旭(花押) 生年二十七歳、年二年半ニ書写了、大檀那浄心禅尼一人
南無薬師如来

〔解説〕たて二四・六センチ、一行一七字詰、折本。この写経は浄心尼が大旦那となり、比丘昌旭が書いた。巻第一には「康安二年(一三六二)四月九日之立筆、一巻百礼、楞厳咒一反、観音懴法一座供養之大般若経也、大旦那浄心尼、書比丘昌旭(花押)」の奥書があるから、二年四か月で仕上げたことになる。これは大変な努力であった筈である。写経発願の趣意については、巻百九に「………以願此経之功徳、無量粟散国、衆生同生類成仏得道之為也」とある。一巻ごとに一〇〇礼し、観音懴法を修し、金剛経・般若心経を読誦し、多くの真言を誦して書きあげた。この写経がどのような経緯で勝音寺に所蔵されたのか、比丘昌旭・大旦那浄心禅尼などについても明らかでない。勝音寺は粟原山勝音寺臨済宗建長寺末、仏印大光禅師久庵僧可大和尚(建長寺七三世応永二四年没)開山、開基は開山の父親上杉兵庫頭憲将(上杉憲顕の子)。
 
写真一2 大般若経第一奥書(勝音寺)

一四〇 貞治三年(甲辰 一三六四、南朝は正平十九年)銘の板碑二基
所在地 粟坪25 土井尻墓 (中丸艶子家)
主尊・銘大日1 (金剛界)・貞治三年八月廿二日
高さ 五五・三センチ

所在地 飯能市白子 長念寺 (中村家墓地)
一見率塔婆 奉三宝弟子道円
主尊・銘釈迦1・ 永離三悪道 建立塔婆一基為
何況          善因者也
必定戊菩提 貞治甲辰十一月廿六日誌
高さ 八三センチ

貞治四年(乙巳 一三六五、南朝正平二〇年)四月二五日、多摩郡高幡郷平重光の下地を高麗三郎左衛門尉跡に打ち渡す。
一四一 平重光打渡状〔尊経閣古文書纂綱年四〕埼玉県史資料鰐5所収
被仰下僕武蔵国高幡郷事、任今月十九日御施行之旨、三田蔵人大夫相共荏彼所、沙汰付下地於高麗三郎左衛門尉跡供訖、仍渡状如件、
貞治四年四月廿五日 平重光 (花押)

〔解説〕高幡郷を高麗三郎左衛門尉助綱の後継者に渡すことを平重光・三田蔵人大夫の二人が現地へ行って伝えたのである。これは今月十九日の施行状(関東管領からの伝達文)の旨に任せて行った打渡状である。平重光は鎌倉府の奉行の者か、武蔵守護代クラスの者であろうが、三田蔵人は三田谷(青梅を中心とした地域)に根拠地を持った国人クラスの在地土豪であるから、平重光も高幡郷を中心とした地域にある在地土豪であるのかも知れない。高麗三郎左衛門尉助綱は、正和元年(一三一二)平忠綱譲状において所領を譲り受けた孫若のことで、高幡の平姓高麗氏であり、高麗郡の支族とみられている(『日野市史史料集』)。平重光との関係については明らかでないが同族であるのかも知れない。

一四二 貞治四年 (乙巳 一三六四、南朝は正平二十年)銘・貞治年間とみられる板碑三基
所在地 高萩100 谷津 谷雲寺
主尊・銘 (欠) 貞治「ニ+ニ」(四)乙巳年七月五日
高さ 五三センチ

所在地 大谷沢111 下墓地
主尊・銘 弥陀1・貞治「ニ+ニ」(四)年九月廿日
高さ 六八・五センチ

所在地 横手8 滝泉寺墓地
主尊・銘 弥陀1 ・貞治
高さ 四九・五センチ

一四三 貞治五年 (丙午 一三六六、南朝は正平二十一年)銘の宝薩印塔埼玉県史資料編9所収
所在地 川越市笠幡 延命寺
銘 大興開山元二辺公和尚
貞治五年丙午月十日
高さ 二〇センチ(基礎のみ)

〔解説〕笠幡の地頭は高麗彦四郎であった。貞治二年、同三年の鎌倉府政所執事奉書(町田文書)には、北方地頭・高麗彦四郎入道宛に、笠幡の年貢上納のことがある。延命寺(天台宗・川越中院末)については『風土記稿』に「開山元二 貞治五年九月十日寂す」、また「この寺往古は禅宗なりしが、慈眼天海(天台宗)と宗論のことありて改宗せしといい伝う」とある。なお、観応・応永・延文などの板碑もあり、高麗氏(高麗彦四郎)との関係で見る必要もあるのではなかろうか。

応安元年 (戊申 三一六八、貞治七年二月十八日改元、南朝は正平二十三年)二月八日、平一揆河越館に拠り鎌倉府足利氏満(金王丸)に叛くが、六月十七日上杉憲顕・朝戻らにより河越城は攻略され、 一揆が平定された。平一揆と通じた新田勢なども九月には平定された。
一四四 ① 鎌倉九代後記〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料編8所収
応安元年二月八日、武州河越ノ館ニ平一揆楯寵ル、氏満「于時十歳」・金王」発向、同閏六月十七日合戦、悉退治、
同八月十六日、野州宇都宮ノ城ヲ攻ム、九月廿日降参、
同年(応安元年)平一揆ニ与スル輩罪科ノ事、去観応年中駿州(駿河)薩睡山戦功ノ恩賞トシテ賜ル新地収公セラレ本領安堵ス、又観応ニ恩賞ノ地ナキ族ハ、本領三分一収公セラル


  • 花営三代記〔内閣文庫蔵〕埼玉娘史資料繍7所収

廿八日(六月)夜、関東事、去十一日、於武州、
平一揆打負合戦 引寵川越館之由、使者来云々、

一四五 市河頼房・同弥六人道代難波基房軍忠状
〔市河文書〕埼玉県史資料編5所収
「市河甲斐守」(端衷寄)
市河甲斐守頼房・同弥六人道代難波四郎左衛門尉基房軍忠事、
右、平一揆幷宇都宮以下凶徒蜂起之間、
為退治御発向之処属御手馳参、
六月十七日武州河越合戦之間、致散々太刀打、
至于符中致宿直畢、就中宇都宮御癸向之間、
八月十九日横田要害(多摩郡)、 廿九日勢木城合戦抽忠功、
九月六日宇都宮城攻之時、於屛際致忠節之上、顔房被射左肩・右股畢、然早任忠功下賜御判、為備亀鑑、言上如件、
応安元年九月 日
承了(証判)、 (花押)(上杉朝房)

〔解説〕平一投は河越・高坂・江戸等秩父平氏(系図参照)を中核とした武士の集団である。『源威集』によると「平一揆ニハ高坂・江戸・古屋・土肥・土屋」とある。これは平氏を本姓とする氏であるが、この当時一揆は血縁集団というよりは、地縁的な集団として活動するようになっていた。白旗一揆についても同様で、かつての児玉・猪股・村山の各党の人々によるところの上野・武蔵の地縁的集団である。この平一揆も平氏を本姓とする者だけでなく、河越を軸とした西武蔵一帯にわたる国人・土豪層によって結成された一揆集団とみられている。この平一揆は応安元年の二月になって、にわかに鎌倉府に対し反逆し、二月八日に河越城に籠る。原因は明らかでないが、平一揆の有力メンバーの高坂氏の所領問題ではなかろうか(『東松山市史』)。三月になると、平一揆が叛乱を起こすとの報が上京中の上杉憲顕に届く。憲顕は三月二十八日京都を出発して関東に戻り、足利氏満を擁して河越氏討伐に向かう。六月十七日(『鎌倉九代後記』など、閏六月とするが、市河文書で見るとおり六月十七日)河越館における合戦があり平一揆は敗戦、河.越・高坂氏は衰亡する。
平一揆と通じていた新田義宗・義治、下野の宇都宮一揆が不穏な動きをみせたが、これも九月六日には平定された。一揆の乱は鎌倉府草創期において、基氏没後の間隙を突いた形で癸生した国人一揆であったが、この乱の結果、これら有力な在地勢力(秩父平氏など)が姿を消し鎌倉公方は基氏から氏満へと移り、鎌倉府の支配は新たな段階に入った。
なお、『鎌倉九代後記』には、平一揆に与する者の罪科として「薩唾山戦功の恩賞地の没収」、恩賞地のない者は「本領地の三分の一を収公」とある。

応安元年 (戊申 一三六八、貞治七年二月十八日改元、南朝正平二十三年)五月二十l日、河越直重は高鷲季澄に、武蔵赤塚郷内石成村(板橋区成増町)半分を宛行った
一四六 河越直重宛行状〔町田文書〕
  (花押)(河越直重)
可令早高麗四郎左衛門入道希弘領知武蔵国赤塚郷内石成村半分事
右以人 任先例可令領掌之状如件
応安元年五月廿一日

〔解説〕この文書は発給者の名がないが、袖判の花押は河越直重のものである(武井尚「平一揆の文書について」埼玉地方史研究癸表会レジュメ1990年)赤塚郷(現板橋区赤塚のあたり)内石成村とは、現在板橋区成増・赤塚五丁目のあたり。ここの清涼寺は石成山を山号としている.高麗四郎左衛門入道希弘は四郎左衛門尉季澄のこと(正平七年、尊氏の感状がある。史料一一三)入道して希弘と号したことがわかる。
応安元年には三月に河越氏を中心としてこのあたりの国人土豪たちが一揆して鎌倉府に反抗した(平一揆)。これは六月に鎌倉公方足利氏満によって討伐されたが、その最中にこの宛行状は河越氏から発給されたものである。このことから判断すると、高麗希弘も一揆に加わり、その功績によって河越直重から赤塚郷内右成村を宛行われたものであろう。板橋区『図説板橋区史』によると、赤塚郷は、元弘三年(一三三三)には足利直義の所領であった。その後、直義の正室渋川頼子に譲られたが、正平七年直義が殺されると、赤塚郷も没収され、義詮の室渋川幸子が領することになった。ここで応安元年の平一揆があり、河越直重によって赤塚郷も押収されて高麗希弘に宛行われたとみられる。
赤塚郷はその後、永徳三年(一三八三)渋川幸子によって鹿王院へ寄進された。つまり高麗希弘が領したのはこのとき以前までということになる。但し、平一揆は制圧されるとその一揆に加わった者はほとんど所領を没収されたとみられているので、このとき以前にどんな処分があり、石成村の高麗希弘領がいつ没収されたのかなど詳細についてはわからない。

一四七 応安元年(戊申 一三六八、貞治七年二月十八日改元、南朝は正平二十三年)銘の板碑二基
所在地 久保16 亀竹 勝蔵寺墓地
主尊・銘 (欠) 応安元年十一月十日
高さ 三三センチ

所在地 鹿山73 内野墓地
主尊・銘 (欠)応安元年十二月五日阿 (欠
高さ 三六・九センチ

応安二年(己酉 一三六九、南朝は正平二十四年)正月、鶴岡八幡宮の供僧井円は、同社の御殿司職(祭事の際殿内のことを司る)に補せられ、装束料として女影郷を賜ったが、康暦元年(一三七九)この職を辞した。
一四八 八幡宮御殿司職次第『鶴岡叢書』第四輯所収
井 円(碩学坊) 民部卿法印
為装束(しゃうぞく)料武州女景郷申賜之、応安ニー正ー服辞之、

〔解説〕鶴岡八幡宮御殿司職の役を記した補任記録に記されたくじ記録である。御影堂の前でくじをひいて御殿司職を決めた。井円はそれに当たったので、その職の装束料として女影郷が給された。しかし、康暦元年(一三七九)にこれを辞したというのは、恐らく公恵との関係がうまくいかなかったためではなかろうか(史料一三一)。

一四九 応安二年(己酉 一三六九、南朝は正平二十四年)銘の板
所在地 南平沢65 宮前 宮ヶ谷戸墓地
主尊・銘 弥陀1・応安二年正月十六日道心禅尼
高さ 四九センチ

一五〇 応安三年(庚戊 一三七〇、南朝は正平二十五年この年七月改元し建徳元年となる)銘の板碑二基
所在地 下大谷沢119 西ノ久保墓地
光明遍照十方世界
主尊・銘 弥陀1 ・応安三年五月四日明一  
念仏衆生摂取不捨
高さ 八八センチ

所在地 清流28 清水墓地(和田伊平家)
主尊・銘 弥陀1・応安三年八月十七日成生明一
高さ 四四センチ

応安四年(辛亥 一三七一)南朝は建徳二年)閏三月九日熊野御師権少僧都善増は、武蔵国河越・江戸・角田氏等の那智山旦那職を盛甚律師、河瀬定幸に譲る
一五一 旦那譲状〔潮崎稜威主文書〕埼玉県史資料編5所収
譲与処分「但於宿坊者、盛甚可為計老也、(花押)(善増)
合武蔵国河越・江戸・角田等事、
右、相副相伝支証、于盛甚律師・河頬左衛門太郎定幸所譲渡実正也、然而彼檀那参詣之時者、相共致其沙汰、以残所可訪善増之後生者也、仍為後日亀鏡之状如件、
応安四年間三月九日  権少僧都善増(花押)

河越・江戸・角田(すみだ)氏は秩父平氏の出身(系図参照)

一五二 応安四年(辛亥 一三七一、南朝は建徳二年)銘の板碑
所在地 楡木42 東野 東光寺
主尊・銘 大日1(金剛界)・応安「ニ+ニ」(四)年十一月十二日 幸善
高さ 五四センチ

一五三 応安五年(王子 一三七二、南朝は建徳三年この年四月改元して文中元年となる)銘の板碑
所在地 粟坪26 発霧墓地
主尊・銘 弥陀1・応安五年八月日
高さ 五九センチ

一五四 応安六年(癸丑 一三七二「南朝は文中二年)銘の板碑三基
所在地 下大谷沢116 南(道南)墓地(大河原福太郎家)
主尊・銘 弥陀1・応安六年十一月九日
高さ 四六・二センチ

所在地 猿田45 東田 西蔵寺墓地
主尊・銘 弥陀1・応安六年十二月十二日
高さ 四四センチ

所在地 女影八88 宿西 薬師堂墓地
主尊・銘 大日1(金剛界)・応安六年十二月▢▢▢▢
高さ 三六・七センチ

一五五 応安七年(甲寅 一三七四、南朝は文中三年)銘の板碑
所在地 鹿山73 内野墓地

主尊・銘 弥陀3・応安七年甲刁西阿禅門逆修?
高さ 三五・五センチ

一五六 応安八年(乙卯 一三七五、この年二月改元永和元年となる。南朝は文中四年、この年五月改元天授元年となる)銘の板碑三基
所在地 高萩103 北不動 (比留間守福家)
諸法寂滅相
主尊・銘 釈迦1 ・応安八年乙卯五月廿七日浄宗大師
不可以言宣
高さ 一〇一・三センチ

所在地 南平沢65 宮前 宮ヶ谷戸墓地
毎日農朝入諸定
入諸地獄令離苦
主尊・銘 弥陀3 ・永和元乙卯七月十二日右為聖清禅尼立
無仏世界度衆生
今世後世能引導
(弥陀の脇侍は観音と地蔵(?)となっている稀少な例)
高さ 一一二センチ

所在地 下大谷沢119 西ノ久保墓地
主導・銘  弥陀1・応安八年七月廿二日
高さ 五六・八センチ

一五七 応安年間(一三六八~七五)の板碑二基
所在地 楡木42 東野 東光寺
(光明真言)
主尊・銘 弥陀1 ・応安(欠) □円敬白
(光明真言)
五七・五 センチ

所在地 女影八七 若宮 若宮墓地
主尊・銘 大日1(金剛界) ・応安(欠)
高さ 二五センチ

一五八 永和三年(丁巳 一三七七、南朝は天授三年)銘の板碑二基
所在地 高麗本郷14 鹿台墓地
(光明真言)
主尊・銘 (欠) 永和年丁巳二月時正 妙全逆修
(光明真言)
高さ 六四センチ

所在地 横手7 峯墓地 (山口憲寿家)
主尊・銘 弥陀3・永和三年六月▢▢▢
高さ 五一・六センチ

永和三年 (丁巳 一三七七、南朝は天授三年)七月六日・浅羽太郎右衛門入道洪伝は、高麗兵庫入道の子周洪の田を買い、これを報恩寺に寄付した。
一三九 越生報恩寺年譜〔法恩寺蔵〕埼玉県史資料鰐7所収
同(永和)三年丁巳、浅羽太郎右衛門入道洪伝、買得高麗兵庫入道之息周洪之田、寄附焉、証文別有、七月六日 洪伝判一天

〔解説〕高麗兵庫入道については、丹党加治氏の一族に兵庫助規季があり、この人物が高麗氏関係族の中で兵庫助を名乗っている(丹党系図)ので、その関係者であろうかと推察できる。加治氏も高麗氏も丹党の同族であり、ともに高麗郡の中心的存在であったことから、両者の往来は多かったのであろう。浅羽太郎右衛門入道洪伝は児玉党人西氏で、浅羽郷(現坂戸市の上・下浅羽・周辺)の在地領主であろう。

康暦元年 (己未 一三七九、永和五年三月二十二日改元、南朝天授五年)二月十六日金子豪重、入西郡金子郷内屋敷を孫いぬそうに譲り渡す。
一六〇 金子家重譲状写〔萩藩閥閲録八十一〕埼玉県史資料編5所収
ゆつりわたす、むさしのくに にへとしのこおり(郡)かねこのかう(金子ゴ郷)のうちやしきの事、いぬそうまこ(孫)たるによて也、いらいをかきて(限りて)、ゆつりあたうるところしち也、しんしきかいハ(四至境は)、ひんかしのさわのなかれ(流)、ひんかしのさか(坂)のミなミのくねくねお、なかミちのかさかけ(笠懸)のあつちのうしろのなミきをすくに(直ぐに)、やまなかのくねきのかふ(株)ゑすくにとおして、うちこしのきわた(澤田)のミなミのほりほりお、にし(西)ハかきり、さわのとおりを、やまきハのほそミち(細道)おゆてうさかいのミね(峯)ミねお、うちこしゑすくにとおして、きた(北)ハかきる、しやうちう(正中)二年のいるまかわ(入間川)のなかれ(流)おちきゃう(知行)すへし、しひつ(自筆)おもつてゑいたい(永代)おかきて、ゆつり(譲)わたすところしち(實)也、
たゝし、そうき(宗基)かゆつり(譲)おそ(背)むかん物ハ、そうき(宗基)かあとお一ふん(分)もちきやう(知行)すへからす、もしふしきなる事候ハハ、もとのことく、いぬそうかはゝ(母)ちきゃう(知行)すへし、よつて(仍)のちのためにゆつり(譲)状くたんくのことし(如件) 
ゑいわ(永和)五年二月十六日 宗基判(金子家重)

〔解説〕金子家重は金子系図(山口県立文書館「萩津譜録」―系図参照)によると金子十郎家忠の八代目、右衛門督・宗基、母は上杉重藤女・応永十年(一四〇三)六月十七日没.武蔵七党の一、村山党の出身、入間郡金子が本貫の地。金子郷の屋敷を孫いぬそうに譲り渡した。同系図によると、家重の孫は充広。充広は家重の父の没年・年齢などから考えて家重が四十歳ころの孫、出生を喜んで譲渡したものだろうか。それから二四年経って家重は没し、孫充広は譲渡を受けて六〇年後に没している。

康暦二年(庚申 一三八〇、南朝は天授六年)十月高麗兵衛三郎師員は、鎌倉公方足利氏満の小山義政退治に従い、六月十八日武蔵府中に馳参以来の軍忠次第を提出、下野守護代木戸法李の証判を得た
一六一 高麗師員軍忠状写〔彦根城博物館保管彦根藩井伊家史料「高幡高麗文書」〕「日野市史史料集」所収
着到高麗兵衛三郎師員軍忠次第事
右、小山下野守義政為御対治御進発之間、属当御手 去六月十八日馳参武州国府以来、於村岡・足利・天明・岩船其外在々所々御陣、致宿所警固、 同八月九日小山祇薗城北口被召御陣之時、御敵出張之間、抽忠節追入城内畢、
一、同八月十二日・十六日両日、御敵出張之間、終日致忠節、追入城内畢、
一、同八月廿三日、宇津官・那須押寄兵(天?)王口合戦之問、致模相追入城内畢、
一、此外毎日於矢軍者、致随分忠節之条、為大将御前之間、不及証人無其隠者也、然早賜御証判、為備御証、恐々言上如件、
康暦二年十月 日
「承了(証判)(花押影)(木戸法季)」

写真13 高麗師昌軍忠状写(彦根城博物館高幡高麗文書)

〔解説〕康暦二年五月、下野守護小山義政は、宇都官の豪族宇都宮基綱(氏網子)と争いを起こし(地下人の境争いが原因という)、宇都宮氏を討ち取ってしまった(小山義政の乱)。鎌倉公方足利氏満はこの私闘に激怒する一方、下野に豪族的勢力を拡大していた小山氏退治の絶好の口実をつかんだ。六月一日氏満は、関八州の武士に御教書をもって義政退治を命じた。高麗師員・別府尾張太郎幸直もこれをうけて出陣した。高麗師員は六月十八日府中に馳参、武州村岡から下野天明に進んだ。その進軍と戦功についてこの軍忠状に詳しく書き上げている。小山義政は九月十九日降参して、この小山氏討伐は一応終了したところで、高麗師員軍忠状は書かれている(その他、波多野・庭野・大嫁・個田各氏の軍忠状も遺されている)。
 しかし、その翌年康暦三年(二月永徳元年)義政は再び叛き、上杉朝宗・木戸法挙の軍に降伏し、永徳二年義政は三度叛いて挙兵、この年四月十三日遂に自匁して果てるが、こうした執拗な豪族の反抗を鎌倉府が制圧するために、康暦三年正月、将軍足利義満に対し、小山対治のために白幡一揆の下賜を願っている(『空華日用工共時集』)、当時白幡一揆は、幕府・将軍の影響力が強く、鎌倉府からの指示命令だけでは行動を起こさなかったのかも知れない。また、こうして合戦に臨んでも鎌倉府の指揮系統に従わない行動に出ることも多かったようだ。高麗氏・別府氏もこの当時、武州白旗一投の構成メンバーであったとみられるが、観応の擾乱期における白旗一揆とは質的にも変化したことが伺える。
高麗兵衛三郎師員については、当時の高幡高麗氏の中心人物であったろう。史料では三郎左衛門尉助綱の次に見える。助綱と父子関係とみていいだろう。

一六二 康暦二年(庚申三一八〇、南朝は天授六年)銘の板碑二基
所在地 上鹿山74 屋敷ノ内 西光寺墓地
主尊・銘 弥陀1・康暦二年七月十三日 善阿
高さ 四五・八センチ

所在地 粟坪25 土井尻墓地(中丸艶子家)
主尊・銘 弥陀1・康暦二年六月廿四日
高さ 三六センチ

一六三 康暦三年・永徳元年(辛酉一三八一、この年二月二
十四日改元して永徳元年。南朝は天授六年二月十日改元して
弘和元年)銘の板碑三基
所在地 楡木42 東野 東光寺
主尊・銘 弥陀1・康暦三 〈欠〉  
高さ 三八センチ

所在地 楡木41 (林広次家)
主導・銘 弥陀1・永徳元年七月十二  
高さ 三三センチ

所在地 楡木41 (林広次家)
主尊・銘 弥陀1・永徳元年八月一口口口
高さ 五三センチ

永徳元年(辛酉 一三八一、南朝は弘和元年)八月六日、女影郷を装束料として給されていた鶴岡八幡宮御殿司職一方の頼全はこの日死去した。
一六四 鶴岡八幡宮御殿司職一方〔『鶴岡叢書』第四輯〕
頼 全(寂静坊) 大弐法印
為装束料武州女景郷一万腸之、随分興隆軟、元(永)徳元八六逝去

〔解説〕鶴岡八幡宮御殿司職一方の公恵のあとをこの頼全がその職にあったのだろう。頼全没後の女影郷については不明だが、女影郷は康安元年(一三六一)~永徳元年(一三八一)この間、鶴岡八幡宮御殿司職装束料に充てられていたことがわかる。
file:///C:/Users/Yito/Downloads/shigaku_45_nakajima.pdf
中嶋 和志[PDF]鶴岡八幡宮における供僧の成立と役割

永徳二年(壬戊一三八二)四月、武州中一按の金子家柘は、小山義政退治のための軍忠を注進、木戸法季が証判した。
一六五 金子家祐軍忠状〔金子文書〕埼玉県史資料編5所収
着到武州中一揆
金子越中又六家祐申軍忠事
右、去月廿二日夜、(郭)(下野)小山下野守義政結没落祇薗城、糟尾山構城榔楯寵云々、而同廿  依仰、為御退治大将御発向之間、家祐為一跡家督、一族相共令供奉、抽戦忠畢、而御退治以後至 干小山(下野)御陣、御帰参之期、致宿直警固之上者、給御証判、為備後証 仍着到如件
永徳二年四月 日
承了(証判)、 (花押)(木戸法季)

永徳三年(癸亥一三八三、南朝は弘和三年)十一月銘の円堂寺大般若経第四二二の行間に、喜捨者として高麗大炊助頼秋の名がある
一六六 永徳三年大般若経第四二二刊記(鎌倉市円覚寺)埼玉県史資料編9所収
高麗大炊助頼秋(行間音捨者)
(奥題)大般若波羅密多経巻第四百一十三 化縁比丘智感
永徳三癸?亥十一月日
(後輩)文安五(一四四八)稔戊辰秋之孟(七月) 堂司正瑞謹誌之

〔解説〕円覚寺蔵のこの大般若経は、勧進を沙門智感が中心となって刊行した版本の大般若経で智感版大般若経といわれる。その行間に多くの人名の記入が見られる。高麗大炊助の名は巻第四一三の行間に見られる。智感の勧進に応じて費用を寄進した喜捨者として記されたとみられている。これらによってこの大般若経の出資者は鎌倉御所の氏満・氏兼、関東管領上杉氏のほか、斯波・畠山・今川・吉良・平野・高麗氏など関東の人々であった。版を彫ったのも鎌倉のあたりの人であろう (貫達人「円覚寺蔵大般若経刊記等に就て」金沢文庫研究七五)。高麗大炊助頼秋の世系についても、また智感との関係についても明らかでない。

写真⒕ 永徳三年大般若経第四一三刊記(鎌倉市円覚寺埼玉県史編纂室提供)

一六七 永徳三年 (癸亥一三八三、南朝は弘和三年)銘の宝箇印塔二基

所在地 飯能市白子 長念寺
銘 永徳三癸亥年(七月?) 三日
総高 七五・〇センチ
備考 二個積まれた基礎のくち下段に銘がある。上段の基礎は摩滅がひどく、銘の確認は不可能。

所在地 横手(大川戸洋家)
銘 永徳三年十月十日 道善逆修
総高  七一・二センチ
備考 反花座・基礎・笠・相輪の順に積まれているが、相輪は大部分欠損。基礎は上部二段、二区に区画されており、銘は一面のみ。

写真一5 永徳三年銘宝箇印塔(大川戸禅家)

一六八 永徳三年(癸亥碑二基二二八三、南朝は弘和三年)銘の板碑二基
所在地 粟坪24 栗原 前墓地
主導・銘 〈欠〉 永徳三年三月  日 明善逆修
高さ 四七・五センチ

所在地 大谷沢一一〇 西原 西浦墓地
主尊・銘 弥陀1・永徳三年十二月▢▢▢▢ 
高さ 五五センチ
年四月二十八日改元して元中元年)二月七日、御師道賢は武蔵国丹治氏一族等の那智山旦那職を寛宝坊に譲与する。
一六九 旦那等譲状〔米艮文庫〕埼玉県史資料編5所収
譲状惣丸帳
寛宝坊分
一寺坊、同敷地、資財、雑具等、又寺敷地一所下院浄日坊跡、
一井関林山、同田畠等、
一駿河国北安東庄内蔡(葵?)名領家年貢米二石五斗、色代銭八百文、同庄内松久名小袖銭壱貫文、同得用名年貢米廿八石七斗五升六合、同田所名年貢米七石五斗五升、自鵜殿輔法橋政存譲得分、
一下人 末代法師、和泉女ニいとまとらする也、
北案東庄内得用名領家年貢米/富成名年貢十一石六斗、色代銭五貰文、
             
一槽那
鎌倉熊野堂別当経有僧正門弟引檀那等、同鎌倉若王子
別当慶智法印跡門弟引檀那、二階堂信乃一門、
一槽那 奥州(一二迫一族幷金ワカウ之一族、多田満中御一家、
延頼一家、井安頼一家)
出羽 上野 下野 下総 相模熊谷一族、
武蔵丹治氏一族一円、 伊豆 駿河 遠江 駿河国高橋一家
…………………… (紙継目・裏花押)………………………… 
三河(大草一族、同杉山一門、野依一門)、 尾張、美濃、
近江、大和、伊賀(北畠一族一円)、伊勢(丹生山四村一円、伊勢之国司御一族、不一人漏)、丹後 丹波(ハワカへ之一族)、摂津(久?我大納言一円)、 美作江見一族、
長門(富田一族西東一円)、肥後 肥前 豊前 日向 出雲 伊与 幡摩 紀伊 越中 佐渡計良、同中川一族、伯著、此外、諸弟配分所漏諸旦那等一円、
一大方殿分
坂本大坊地之南小地、同坊、資財、雑具等、
檀那 越後 越前 加賀
一姫女分坂本大坊敷地、同坊、資財、雑具等、
下人泰地女并犬女
檀那 河内 大隅 讃岐
…………………… (紙継目・裏花押)…………………………一証一証宝房分、寺敷地一所、六角豊北、仙良房跡也、駿河国北安東庄内富成名年貢米十一石六斗、色代銭五貫(接)文、小芝安(按)察法橋祐論自譲得分也、檀那大和小官少輔阿闍梨、
一応供坊分 豊後浄順大夫僧都より譲得分(坂之郷旦那)、
一城喜坊分 下人四郎母子共、存生時より譲之、
一長儀坊分 幡摩(播磨)国津万里西林寺先達引旦那等、
一照連坊分 石見国小石見護摩堂僧宗俊門弟、
一聖浄坊分 二階堂隠岐一門等、
右、件檀那・田畠等、自先師執行法眼祐豪手、任建武参年譲状、譲渡所之所帯也、全不可有他妨候、偽為後日亀鏡状如斯、
…………………… (紙継目・裏花押)………………………… 
永徳「ニ+ニ」(四)年二月七日    執行法印通覧(花押)

〔解説〕この譲状で、丹治一族一門の那智山旦那職が道賢から寛宝坊に譲られたことがわかるが、この文書が示しているように、旦那職は他の財産とともに、財産の一つとして譲渡売買の対象とされたのである。なお、この文書は執行法印道賢が寛宝坊をはじめ、弟子たちに分け与えたものであるが、それは先師たる祐豪より建武三年(二二三六)に譲り受けたもの(史料八八)だとしている。

一七〇 永徳四年 (甲子 一三八四、この年二月二十七日改元して至徳元年となる。南朝は弘和三年四月二十八日改元して元中元年となる)銘の板碑
所在地 南平沢65 宮ヶ谷戸墓地
光明遍照十方世界
主尊・銘 弥陀1・永徳四年八月廿六日 願清
念仏衆生摂取不捨
高さ 五五・五セソチ

至徳二年(乙丑一三八五、南朝は元中二年)十一月銘の鎌倉円覚寺大般若経第四〇八の行間に、高麗伊豆正丸の名が記されている。
一七一 至徳二年大般若経巻第四〇八刊記〔鎌倉市円覚寺〕埼玉県史資料編9所収

高麗伊豆正丸(行間喜捨者)     /化縁比丘智感
(奥題)大般若波羅蜜多経巻第四百八 /至徳二乙丑十一月日
(後輩)文安五稔戊辰(七月)秋之孟 堂司正瑞謹誌蔦

写真⒗ 至徳二年大般若経第四〇八刊記(鎌倉市円覚寺埼玉県史編纂室提供)

〔解説〕鎌倉円覚寺智感版大般若経(史料一六六参照)の巻第四〇八の行間に高麗伊豆正丸の名が記されているのである。この大般若経を書き上げるに当たりへ智感の要語に応じて喜捨した者とみられる。高麗伊豆正丸について世系等不明であるが、高麗郡を二分して流れる高麗川の水源が伊豆岳、正丸峠にあることから伊豆正丸の名を称したことを推察できる。(?)
高麗郡の高麗氏一族であることにまちがいないだろう。そうすると、前出(史料一六六)の高麗大炊助も、後出(史料一七二)もその一族であろうか。なお、高腰神社には建暦元年(一二一一)から建保五年(一二一七)にかけて、高麗氏顕学房慶弁によって書写された大般若経がある(史料十一、十三)。武士たちの信仰心、本地垂逆説的考え方が強く、現世利益を追求した背景がうかがえる。

至徳三年(丙寅三一八六、南朝は元中三年)四月銘のヽ円覚寺大般若経巻第四一〇刊記に、高麗亀松丸の名がある
高麗亀松丸(行間喜捨者)       化縁比丘智感
(奥題)大般若波羅密多経巻第四百一十 至徳三丙刁四月日

写真⒘ 至徳三年大般若経第四IO刊記(鎌倉市円覚寺埼玉県史編纂室提供)

一七二 至徳三年(丙寅三一八六、南朝は元中三年)銘の板碑五基
所在地 下大谷沢113 二反田墓地
主尊・銘弥陀1 ・至徳三年二月四日▢▢
高さ 五五・八センチ

所在地 南平沢65 宮前 宮ヶ谷戸墓地
主尊・銘 弥陀1 ・至徳三年四月八日 法一
高さ 二九・五センチ

所在地 下大谷沢119 西ノ久保墓地
光明遍照
十方世界 教法
主尊・銘 弥陀1・至徳三年丙刁十一月十九日
念仏衆生 禅門
摂取不捨
高さ 九三センチ

所在地 粟坪21 前畑 竜泉寺墓地
主尊・銘弥陀1・至徳三年丙刁十l月十九日妙心禅尼
一6一
至徳三年(丙寅一386)
高さ  六七・五センチ

所在地 新堀40 楡木 建光寺墓地
主尊・銘 弥陀1 ・至徳三年 二月廿日妙善
高さ 六二センチ

一七五 至徳三年 (丙寅 一三八六、南朝は元中三年)銘の宝篋印塔四基 埼玉県史賢料編9所収

  • 所在地 飯能市白子 長念寺

銘  道賢
至徳三年丙寅八月二十四日
総高 七四・五センチ
備考 基礎は二段積まれて、下段の基礎にこの銘がある。上段の基礎には一七五⑤ の銘(至徳四年八月七日)がある。長念寺に現在このように基礎が二段積まれた宝篋印塔が九基ある(写真18)。


  • 所在地 飯能市白子 長念寺

清夢一公禅師
至徳三年丙寅 八月二十四日
総高 七五センチ
備考 上段の基礎には一七六の銘(至徳年銘)がある。

③ 所在地 飯能市白子 長念寺
性善
至徳三年丙寅八月二十四日
総高 七二・〇センチ
備考 下段の基礎には銘がない。


  •  所在地 飯能市白子 長念寺

道願
至徳三年丙寅八月二十四日
総高 六八センチ
備考 上段の基礎に、一七五②の銘(至徳四年二月廿八日)がある。

一七五 至徳四年 (丁卯 一三八七、南朝は元中四年)銘宝薗印塔五基 埼玉県史資料編9所収

  • 所在地 飯能市白子 長念寺

銘   ▢▢▢▢▢▢
至徳「ニ+ニ」(四)年二月廿八日
総高 七六センチ
備考 下段の基礎に、一七五の銘(至徳四年二月廿九日)がある。


  • 所在地 飯能市白子 長念寺

玄椿
至徳「ニ+ニ」(四)年二月廿八日
総高 六八センチ
備考 下段の基礎には一七四の銘(至徳三年八月二十四日)がある。


  • 所在地 飯能市白子 長念寺

霊用尼
至徳「ニ+ニ」(四)丁卯二月廿九日
総高 七六センチ
備考 上段の基礎に一七五① の銘(至徳四年二月廿八日)がある。


  • 所在地 飯能市白子 長念寺

道円
至徳四年二月▢▢▢
総高 六九センチ
備考 下段の基礎にも銘文があるが、磨滅して判読不能


  • 所在地 飯能市白子 長念寺

銘  ▢▢▢▢
至徳「ニ+ニ」(四)年八月七日
総高 七四・五センチ
備考 下段の基礎に一七四② の銘(至徳三年八月二十四日)がある。

一七六 至徳 (一三八四~一三八七)銘宝簡印塔一基
所在地 飯能市白子 長念寺
宗久禅□
至徳▢▢▢▢二月廿九日
総高 七五センチ
備考 上段の基礎に一七四②の銘(至徳三年八月二十四日)がある。

嘉慶二年 (戊辰 一三八八、南朝は元中五年)五月十八日、高麗清義は武州北白旗一揆に属して、鎌倉府に反抗する常陸国の小田孝朝退治に参陣し、この日男体城攻めの先懸を為し、一の城戸で散々の太刀打ちをして戦功を挙げた。
一七七 鎌倉大草子〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料編8所収
(前略)
嘉慶元年(至徳四年)丁卯五月十三日、 古河住人(下総国葛飾郡)野田右馬助 囚人一人搦進す、此男白状申けるは、小田讃岐入道父子(恵尊・孝朝)、小山若犬丸同意にて、野心ありて、若犬丸穏置のよし申、(恕カ)此小田入道西尊(恵尊?)ハ、先年小山退治の先手に参、忠功の人なり、何のうらみありて敵と同意有やらむとうたがひながら、六月十三日、小田が子二人被召預、七月十九日、上杉神助(朝宗)大将にて常陸の小田城を攻らる、小田幷子息二人幷家老信田の某等、小田を落て男体山(常陸)に楯籠る、此城高山にて、力攻に落ちしかたし、十一月廿四日より相戦といえども、勝負もなし、鎌倉殿(足利氏満)より海老名備中守(満季)為御便、御免許可被成間、可有出城由、被仰遣ける間、明る康応元年五月廿二日、小田幷子息孫四郎被召出ける、摘子太郎(小田治朝)を那須越後(前)守に預けらる、同十七日、暁天に又攻寄、小田家来百余人打負、切腹、城中より火を懸、焼払て没落す、
(後略)

一七八 高麗清義軍忠状〔町田文書〕
着到武州北白旗一揆
高麗掃部助清義申軍忠事
右、為小田讃岐入道(孝朝)子息以下輩御退治、大将御発向之間、去年至徳四 七月廿七日馳参常州布川御陣、八月十日小田(常陸)御陣、同十七日志筑御陣、同十九日山崎御陣、同廿日岩間御陣、同廿八日朝日山御陣、爰嘉慶二 五月十二日男躰城切岸御陣取之時 致忠節訖、同十八日城攻之時 令先懸、於一城戸散々致太刀打、抽戦功畢、凡於在々所々、御陣致宿直警固、至手当城没落之期 令長攻、抽軍忠之上者、賜御証判、為備向後亀鏡 着到如件
嘉慶二年六月 日
承侯了(証判) (花押)(上杉朝宗)

〔解説〕平一揆は応安元年(一三六八)正月に起き、六月十七日の河越合戦で平定され、続いてこれに一味した宇都宮氏・新田義貞の遺子義宗・義治等が討たれて以来、東国は鎌倉府・関東管領の下に敵対する者がなかったが、康暦二年(一三八〇)下野守護小山義政が同国の宇都宮基綱を討ち取るという事件が癸生したため、鎌倉公方足利氏満は小山氏退治を関東八か国に命じ自らも出陣して小山氏の乱は起きた。鎌倉府は小山氏討伐にあたり、白旗一揆に動員を要請、永徳元年(一三八一)二月には武州北白旗一揆が従い、各地で奮戦した。この年 小山氏は鎌倉軍に攻められて降伏した。翌永徳二年(一三八二)小山義政は子若犬丸と共に再び反抗し、これも一か月後に平定され小山氏の乱は一応収められた。しかし、至徳三午(一三八六)五月、奥州方面に隠れていた若犬丸が突如として小山の祇園城に入り、兵を挙げた。そこで足利氏満は同年七月鎌倉を発ってこれを討伐した。若犬丸は逃走したが、翌嘉慶元年(一三八七)、常陸国の豪族小田氏が若犬丸をかくまっていたことがわかったため、鎌倉府は上杉朝宗をして小田孝朝を討たせた。このとき、武州北白旗一揆に属した高麗掃部助義清が参陣し戦功を立てたのである。
嘉慶元年(一三八七)七月二十七日、常陸布川(茨城県下館市布川)の陣に馳せ参じ、八月十日には小田(同つくは市小田)陣において、同十七日は志筑(同千代田村)陣において、同十九日は山崎(同八郷町)陣において、同二十日には岩間(同岩間町)陣において、同二十八日には朝日山(同岩間町館岸、山には朝日山安国寺がある)において、そして翌嘉慶二年五月十八日には男躰城(同岩間町・八郷町)においてこれを攻め、先懸して一の城戸では散々の太刀打ちをして戦功は抽でたというのである。
小田氏は治久・讃岐守孝朝・太郎治朝と続く小田城主、高麗掃部助清義は、年代的にみても高麗季澄(四郎左衛門尉・入道希弘)の子と思われる。この文書は武州北白旗一揆の高麗氏が小田氏征伐に参陣した軍忠状に対し、大将の上杉朝宗(関東管領・武蔵守護職)が証判を与えたものである。一揆については、南北朝期関東では武蔵の平一揆、白旗一揆、上野の藤家一揆などが有名であった。武蔵の平一揆は南武蔵の平氏(河越・高坂・江戸・豊島など)を中心に構成され、白旗一揆は北武蔵及び上野の源氏・別符氏・久下氏・高麗氏などを中心に構成され、藤家一揆は東上野の秀郷流藤原氏(大胡・桐生・赤堀など)を中心に構成されたとみられ、同一地域内の同族的武士集団であった。それは諸氏の惣領制の解体がもたらしたものである。こうした同族的一揆は室町前期ごろから内乱の過程で、庶子家の独立と共にしだいに同族的集団の色彩を弱め、しだいに地域的集団へと変化して、上州白旗一揆・武州白旗一揆などと称し、更に武州北一揆・武州南一揆のように、また、上州一揆・武州一揆のように完全に地域名だけの一揆集団が成立する。その構成員は、自己の領主制を主張する、国人といわれた在地武士であった。これら一揆を被官化し組織化できるのは在地支配に詳しい目代=守護代で守護(上杉氏など)はそれに支えられていた。一揆衆は、領主としての自立性が弱いから一揆を形成したので、求心的に守護代・守護に身を寄せたのである。従って一揆衆は天下の形勢に敏感で、その去就は浮動的であった。

一七九 嘉慶二年(戊辰 一三八八、南朝は元中五年)銘の宝篋印塔
所在地 横手 滝泉寺
銘 右意趣者一結諸衆同
心合力逆修作善是滅罪
嘉慶二年戊辰四月廿五日
諸衆
敬白
総高 一一一・七センチ
備考 相輪上部と塔身がわずかに欠損しているが、ほぼ完形。上部二段、二区に区画。四面にわたって銘文があるが、二面、三面は磨滅して判読不能。

一八〇 嘉慶二年(戊辰一三八八、南朝は元中五年)銘の板碑
所在地 梅原19 前山 満蔵寺墓地
法智
主尊・銘 (欠) 嘉慶二年戊辰九月二十八日
高さ 四六・五センチ

康応元年(己巳一三八九、嘉慶三年二月九日改元して康応元年。南朝は元中六年)六月三日沙弥宏繁は高麗郡内知行分等を孫の豊楠丸に譲り与える。
一八一 浅羽宏繁譲状写〔報恩寺年譜〕埼玉県史資料編7所収
譲与 孫子豊楠丸
武蔵国吾那入西郡越生郷内知行分、高麗郡内知行分、春原庄広瀬郷田畠在家、太田庄内新恩地等事云々
康永元年六月三日沙弥宏繁在判

〔解説〕浅羽豊楠丸は浅羽氏、沙弥宏繁は越生氏の一族であろう(『坂戸市史』)。ともに入西氏の出。太田庄については、鎌倉時代は八粂院領で南・北埼玉郡にまたがる大荘園であった。旧太田村(行田市小針・下須戸・若小玉など)の地名が残っている。春原荘は現在の狭山市上・下広瀬のあたりに比定される。荘内に広瀬郷がある。承元二年(二一〇八)三月十三日、鎌倉幕府は越生有弘の譲状に任せて春原荘広瀬郷地頭職を有高に安堵している。以後越生氏に代々継承された。応永十九年(一四二一)七月五日の上杉氏憲施行状写によれは、豊筑後守信秋が広瀬郷内の所領を蓮花定院(鎌倉)に寄進している。長享三年(一四八九)四月二十五日及び永正二年(一五〇五)二月十五日の渋垂小四郎本知行目録写などによれは、渋垂小四郎の所領の一つに「武州高麗郡広瀬郷内大谷沢村(現日高市)」があげられている。高麗郡内知行分については不明。

一八二 嘉慶三年 (己巳 一三八九、この年二月九日
改元して康応元年となる。南朝は元中六年)銘の板碑三基
所在地 女影8 宿西 薬師堂墓地
主尊・銘 弥陀1・嘉慶三年己巳十月十五日道一禅門
高さ 六八・三センチ

所在地 横手9 坂下墓地 (関口隆雄家)
主尊・銘 弥陀1 康応元年▢▢十月道一▢▢
高さ 四七・二センチ

所在地 北平沢58 中居 墓地
主尊・銘 弥陀1・康応元年▢▢▢▢
高さ 三一センチ

一八三 康応二年 (庚午一三九〇、三月二十六日改元明徳元年となる。南朝は元中七年)銘・康応銘の板碑二基
所在地 楡木41 貝戸 (林広次家)
主尊・銘 弥陀1・康応二年六月廿五日
高さ 四九センチ

所在地 鹿山72 東道添墓地
主尊・銘 弥陀1・康応▢▢▢
高さ 三一センチ

明徳元年(庚午 一三九〇、康応二年三月二十六日改元、南朝は元中七年)十二月二十七日、熊野御師河面妙款は武蔵国河越・江戸・角田の那智山旦那職を代銭一貫五百文にて池頭殿に永代売り渡す。
一八四 旦那売券〔潮崎稜威主文書〕埼玉県史賢料編5所収
永売渡檀那事、
合武蔵国河越・江戸・角田事、
右、檀那者、弁僧都善増の手より妙欽か譲得分を、用(要)あるによって、代一貫五百文ニ地頭殿ニ永代売渡申処実正也、於妙欽か子孫いらん(違乱)妨あらん輩者、可為不孝仁侯、仇為後日亀鏡、売けん(券)の状如件、
明徳元年かのへむま十二月廿七日
妙金(花押)
嫡子桜井定光(花押)

〔解説〕河越・江戸・角田各氏の那智山旦那職が、権小僧都善増から盛甚律師・河頰定幸に譲り渡されたのは応安四年二三七一)であった(潮崎稜威主文書)。それがここで、 一貫五〇〇文で地頭殿に永代売り渡されることになったのである。売り主の妙金とは河頰定幸のことであろう。応安元年(一三六八)の平一揆後三〇余年後のことであるが、河越氏は武蔵国で命脈を保っていたことを知ることができる。河越氏については、藤沢市遊行寺の時衆往古過去帳に「応安三年二月七日幸阿弥陀仏河越武庫」と記された人物がある(『埼玉県史』)。これは恐らく河越兵庫助なる者が河越氏ゆかりの時宗寺院に帰依しながら永らえた姿としてみることができよう。

明徳二年(辛未三一九一、南朝は元中八年)十月五日、
熊野御師長盛、武蔵国丹治一族の旦那職について卿阿
闇梨と相論するが、この日解決し、旦那職を卿阿闇梨
御房に渡す。
一八五 旦那避状〔米良文書〕埼玉県史資料編5所収
武蔵国檀那、卿阿闇梨御房と相論之事、先立出之候身所特の丹之継(系)図之名字の下ニ不可入候由、檀那鐘を打申候者、無子細可去渡中之侯、此外相互ニ旦那参詣之時、願文の一通をも不可出之候、
仍為後日之状如件、
明徳二年十月五日 良盛(花押)

一八六 明徳二年 (辛未 一三九一、南朝は元中八年)銘・明徳銘の板碑五基
所在地 高萩102 西不動墓地
(光明真言)
主尊・銘 弥陀1明徳二年辛未四月十四日妙安禅尼
(光明真言)
高さ  一〇〇センチ

所在地 南平沢64 宮ヶ谷戸 馬坂墓地 (小久保武三家)
(光明真言)
主尊・銘 弥陀1・明徳二年辛未七月廿九道有禅門
(光明真言)
高さ  七六センチ

所在地 鹿山69 熊野 光音寺墓地
主尊・銘 弥陀1・明徳▢▢▢▢▢
高さ  三七センチ

所在地 高萩
主尊・銘 弥陀1・明徳二年辛未二月八日(大徳トアリ上・下欠ク)
高さ 一尺四寸一分(清水嘉作氏調査)

所在地 女影
主尊・銘 弥陀1・明徳二年十二月五日(法一トアリ上・下欠ク)
高さ 二尺一寸六分 (清水嘉作氏調査)

明徳四年 (癸酉 一三九三)四月銘の鰐口が、高麗郡佐西郷熊野堂に律師良勝により施入された。
一八七 鰐口銘〔川島町下八ッ林 善福寺蔵〕
(表)
明徳四年癸酉四月日 大工河内権佐国光
武州高麗郡佐西郷熊野堂律師良勝
(裏)
応永七庚辰五月六日 本同氏女
奉掛薬師如来鰐口一面

〔解説〕この鰐口は明徳四年良勝により熊野堂に奉納されたが、のち応永七年(一四〇〇)五月六日、良勝の娘が薬師堂に奉掛したものと思われる。比企郡川島町大字下八ッ林の威徳寺薬師堂にこの鰐口が掛けられていたが、現在は下八ッ林善福寺に保存されている。薬師堂に奉掛された事情について記録はないが、薬師堂の本尊薬師如来は鎌倉時代の木彫仏であり、いまも近隣に知られた薬師堂であることから推察すると、良勝亡きのち、その娘が信仰していた薬師堂に奉掛したものであろう。
佐西郷は狭山市笹井付近にあった中世の郷名。笹井には観音堂があって本山派修験の年行事職をつとめていた。

明徳年間(一三九〇―九三)のものと推定される木部政頬の寺領安堵状が報恩寺に出された。
一八八 木部政頼寺領安堵状(折紙)〔法恩寺文書〕
追而本意迄 不可有相違候、
吾野知行分内報恩寺領之事、如前々安堵之事承候、
尤令得其意候、恐々敬白、
十二月十三日 木部政頼(花押)
法恩寺

〔解説〕この文書は法恩寺の所蔵文書として、「武州文書」にも収録されており、『法恩寺年譜二』にも収録されている。ここでは『越生の歴史』(古代・中世史料(平戊三年発行)所収のものからとった。年欠の文書だが、『法恩寺年譜』では「明徳元年庚午三年壬申 此間当郡之守 有木部政頼者 寄進知行之云」と前書きしてあるから、 一応 明徳年間(一三九〇―九三)のものとして応永元年(一三九四)の前に置いた。木部政頼が吾野(高麗郡、現飯能市)に知行地を持って、それから報恩寺領分を寄進していたとうけとれる。しかし、木部政頼という人物について定かでない。関東の木部氏としては、緑野郡木部(高崎市)を本拠とした新田氏一族の木部氏がおり、ここの心洞寺建立をしたという木部城主木部範虎(一五八一没)がいる(心洞寺文書).また、榛名神社別当寺榛名寺の俗別当職の木部弾正左衛門人道道金(榛名神社文書)もいるので、これら木部氏と同族であろうが、その木部氏の所領が吾野にあったことについては全く不明である。「吾野知行分」は吾那知行分のことであろう。吾那は応永年間へ吾那氏外、越生一族の所領が多く、報恩寺に対する寄進も多かった(『報恩寺年譜』)。この中に木部氏の所領があるのはどういういきさつなのか。「法恩寺年譜二」にはこの文書を紹介したあと、政顕の妻について、「彼政頼之妻投身於榛名之池忽於大蛇而作池之主 因慈東関不時大風 丁氷雹沙磔降 向空唱木部之領 則暴風歘止也 是彼妻之怨念所為故云云」という物語りを載せている。このことはつまり、雹害除けの伝説の根拠をこの文書に求めているとみられ、榛名信仰とのかかわりの深さを思わせる。こうしてみると、日高市新堀の霊岸寺地蔵堂には、「榛名満行」の画いた地蔵菩薩があって宝とされ、榛名愛宕稲荷が合社されている。また、平沢の天神社には満行画菅原道真像が祀ってあるなど、このあたりがかつての榛名信仰とのかかわりが深かったことを立証している。こうした農民信仰の高まりの中で、法恩寺がその中心的存在となることは自然なことであったろう。この文書をこうした観点でみれば興味が深い。
ここで新堀の霊巌寺について触れておく。当寺は箕輪山満行院霊巌寺といい、「当山縁起」によると「昔棒名山満行宮遊化の砌この地に来り給い……浄処として一体の地蔵尊を画かれ一宇の堂を草営せらる」とある。榛名山満行宮とは、榛名山神代の別名(神仏混淆の際、榛名山満行宮大権現と称した)である(「榛名神社社記」)から、霊巌寺が榛名信仰の広まりの結果、 ここに建てられたことがわかる。しかも、満行宮遊化の砌浄処として一体の地蔵尊を画かれたとあるとおり、中世以降地蔵信仰の高まりの中で、榛名神社の本地仏に地蔵尊が当てられた以降のことであることもわかる(満行上人といわれることがあるが、恐らく、奈良・平安期の遊行僧満願の名に似せて、 一人の遊行僧ができたものであろう)。こうした榛名信仰の広がりは関東各地にあったと思われるが、殊に山麓地帯に多くみられる雹害の地域(それは養蚕との関係で重視されてくる)において顕著であったように思われる。古い縁起を持つ寺が、庶民・農民の榛名信仰の高まりの中で、満行宮や地蔵尊を安置するようになった。その一つが霊巌寺であるといえるのではないか(霊巌寺の地蔵尊が田植えの手伝いに出たという伝説があるが、これも農民の信仰の高まりの結果である)。

一八九 応永元年 (甲戌 一三九四、明徳四年七月五日改元)銘の宝箇印塔
所在地 高麗本郷 長寿寺
銘 応永元年甲戌十月一日
敬里
銀公和尚
総高 六七・九センチ
写真20 応永元年銘宝置印塔(長寿寺)

一九〇 応永二年 (乙亥 一三九五)銘の板碑二基
所在地 駒寺野新田82 清蓮寺墓地
主尊・銘 弥陀1・応永二年十一月廿八日
高さ 七一・五センチ

所在地 楡木42 東野 東光寺
主尊・銘 弥陀1・応永二年 (欠)
高さ 三七・五センチ

応永三年 (丙子 一三九六)八月一日 宝蔵寺の開基加治豊後新左街門尉貞継、この日没すると伝えられる。
一九一 新編武蔵風土記稿高麗郡中居村
宝蔵寺 青雲山と号す、曹洞宗、郡中飯能村能仁寺末、開山とする所は、能仁寺四世格外玄逸、慶長九年三月廿八日化す、是より前のことは伝へず、開基は加治豊後新左衛門尉丹氏朝臣貞継、応永三年八月朔日卒す、法名は山翁仁公庵主、寺後の山腹に加治氏の庵跡あり、一区の平地十五六歩、その西北東に曲りて深さ五六尺の堀切あり、又庵地の後山に五輪の石塔あり、加治新左衛門の墓なりと云。(後略)

一九二 応永三年 (丙子 一三九六)銘の板碑
所在地 高萩93 別所墓地
主尊・銘 弥陀1・応永三年四月九□ (欠)
高さ 四四センチ

一九三 応永四年 (丁丑 一三九七)銘の板碑二基
所在地 南平沢6 塚場(高麗川公民館)
主尊・銘 釈迦1・応永「ニ+ニ」(四)丁丑八月十三日欠 禅尼
高さ 四六センチ

所在地 大谷沢111 下墓地
主尊・銘 釈迦1・応永四年八月十八日
高さ 四八・五センチ

応永四年 (丁丑 一三九七)五月三日鎌倉公方足利氏清は、吾那光泰の申請により、入西郡越生郷是永名内・同郷水口田内・同郷谷賀侯村内・同郡浅羽郷内・高麗郡吾那村内の田畠在家等の安堵を幕府管領斯波義将に吹挙する。
一九四 足利氏満挙状写〔報恩寺年譜〕埼玉県史資料桐7所収
吾那式部丞光春申、武蔵国人西郡(入間郡)越生郷是名永内在家弐宇・同郷水口田内窪田弐段・同郷谷賀侯村内田島在家弐宇・同郡浅羽郷内金田在家一宇田島・高麗郡吾那村内在家弐宇安堵事、任譲状之旨、相伝当知行無相違候、可有申沙汰候哉、恐惶謹言、
同(応永四年)五月三日 氏満(足利)判 在別
右衛門督入道殿(道将、斯波義将)巌

〔解説〕
吾那保は古代入間郡内にあった保(古代郷里制の末端組織、平安時代以降、国衙領の地域的行政単位とされ、多くの場合、郷司など在地有力者が中心になって開墾した土地)とされ、『大日本地名辞書』では現飯能市の旧吾野村・旧東吾野村から現越生町にかけての地域と推定している。吾那領・上下吾那・吾那保などの地名は鎌倉期の文書(『法恩寺年譜』)に既に見られ越生氏とのかかわりであったが、ここで吾那光春の名が初見される。永正三年(一五〇六)八月日、「公家礼碁集註」を足利学校に寄進した「武州児玉党吾那式部少輔」(『武蔵資料銘記集』)の名が見られるから、吾那氏は児玉党の出で、越生氏とは同族であったと考えられる。
吾那光春は越生郷の是永名(旧越生町のあたり) ・高麗郡吾那村(現飯能市吾野のあたり)などのうちの田島・在家(二戸の農民の住宅・耕地)を安堵してもらうため鎌倉府に申請したので、それが幕府へ推挙されたわけである。

一九五 応永五年 (戊寅 一三九八)銘の板碑
所在地 上鹿山74 屋敷ノ内 西光寺墓地
応永五年八月五日
主尊・銘 弥陀3・(花瓶)
逆修 幸円禅尼
高さ 四〇・三センチ

一九六 応永七年 (庚辰 一四〇〇)銘の板碑
所在地 原宿48 向方 (大沢和男家)
主尊・銘 弥陀1・応永七年八月 日法一禅尼
高さ 五七・五センチ

一九七 応永八年 (辛巳 一四〇一)銘の板碑二基
所在地 高萩
主尊・銘 弥陀1・応永八年五月廿七日
長さ一尺二寸(清水嘉作氏調査)

所在地 新堀37 寺山聖天院
逆修
現世安隠為浄周禅尼
主尊・銘 弥陀3・応永八年辛巳十一月日
後生善処乃至法界平
等利益
高さ 七五センチ

一九八 応永十年(癸未一四〇三)銘の板碑
所在地 高萩100 谷津 谷雲寺
主尊・銘 弥陀?1・応永十年八月 日逆修法経
高さ 四九・五センチ

一九九 応永十一年(甲申 一四〇四)銘の板碑
所在地 女影84 北竹ノ内 清泉寺跡墓地
主尊・銘 弥陀1・応永十一年二月廿八日□□禅尼
高さ 五八センチ

二〇〇 応永十二年(乙酉 一四〇五)銘の板碑三基
所在地 鹿山72 東道添墓地
主尊・銘 弥陀1・応永十二年六月〈欠〉□□ 禅□
高さ 四九センチ

所在地 新堀37 寺山聖天院
主尊・銘 弥陀3・応永十二年十二月八日妙義禅尼
高さ 四二・五センチ

所在地 鹿山72 東道添墓地
主尊・銘 弥陀1・応永十二年(欠)
高さ 三一センチ

応永十五年 (戊子 一四〇八)十二月十二日、これより前、高麗泰澄(平姓)は、子亀一に高鷲郡内の所領を譲るための申状を某氏に出し、この日某氏の承判をうけた。
二〇一 高麗泰澄申状〔田文書〕
武州高麗郡□分内知 行分事 
黍澄不断病者 ▢ ▢任亡父道果譲状 子息亀一譲与仕侯
仍為給御証判言上候 以此旨可 有御披露供 恐憧謹言
十二月十二日 平奏澄
(裏書)
譲与事 承候 何□可存其旨 候恐々謹言
応永十五年十二月□日 (花押?)
高麗筑前□□ 

〔解説〕高麗泰津が所持していた高麗郡内の知行地を子の亀一に譲るために書いた言上の書、上申文書といわれる。個人が上位の者に差出し承認を願うものである。この文書は破損が激しく、泰澄が誰に差し出し枕のか不明だが、裏書きで証判した者が、高麗筑前宛に返しているから、泰澄は高麗筑前泰澄と称したのであろう。また、泰澄は平姓を名乗り、亡父道果の譲状に任せ、子息亀一に譲与しているから、この高麗氏は次のような系譜であり、その譲与の対象地は平姓高麗氏相伝の地であったと思われる。
平姓高麗
道果―泰澄― 亀一
筑前

二〇二 応永十五年 (戊子 一四〇八)銘の板碑
所在地 高萩99 乙天神(高萩公民館)
法性
主尊・銘釈迦1・応永十五年戊子八月廿六日(欠)
禅尼
高さ 四〇・五センチ

二〇三 応永十六年 (己丑 一四〇九)とみられる板碑
所在地 高萩103 北不動(比留間守福家)
主尊・銘 弥陀1・応李六□ 月九日 妙心禅尼
高さ 五九・七センチ

応永十九年(壬辰 一四一二)七月五日、関東管領上杉氏憲は、鎌倉公方足利持氏の意をうけ、武蔵守護代埴谷備前入道をして、高麗郡広瀬郷内豊筑後守信秋寄進の地を蓮花定院代官に打ち渡させた。
二〇四 上杉氏憲施行状写〔鶴岡等覚相承両院蔵文書〕埼玉県史資料編5所収、
武蔵国高麗郡広瀬郷内豊筑後守信秋寄進地事、
早任御教書之旨、 可打渡下地於蓮花定院代官之状、
依仰執達如件、
応永十九年七月五日 沙弥在判(禅秀、上杉氏磁)
埴谷備前入道殿

〔解説〕
広瀬郷は現入間市上広瀬・下広瀬のあたりだが、現日高市大谷沢が含まれたこともあった。広瀬郷は春原荘にあったが、春原荘の成立年代や成立事情については不明。承元二年(一二〇八)三月十三日、広瀬郷地頭職は越生有弘の譲状に任せて越生有高に安堵されて(関東下知状写『報恩寺年譜』二)以後、越生氏に代々継承され、康応元年(一三八九)六月三日には浅羽宏繁により同郷の田畠在家などが孫の豊楠丸に譲り与えられた。この広瀬郷については、それ以前既に、雅楽頭であった笙の豊原竜秋の子信秋の所領があった(史料一三六解説)から、浅羽氏の広瀬郷における所領は一部分であったろう。豊原信秋(豊筑後守信秋)は広瀬郷の所領を鎌倉の蓮華定院に寄進したのである。蓮華定院は鶴岡八幡宮の御影堂であった(明治維新後は鎌倉市手広の青蓮寺に移された)。差出人の沙弥とは武蔵守護上杉氏憲入道禅秀、応永十八年二月、山内憲定のあと関東管領となった。埴谷備前入道は同守護代。鎌倉公方の意をうけて守護が守護代をして施行させたのである。

二〇五 応永十九年 (壬辰 一四二一)銘の板碑
所在地 南平沢65 宮前 宮ヶ谷戸墓地
主尊・銘 弥陀1・応永十九年六月廿六日妙覚禅門
高さ 五九・七センチ

応永二十年(癸巳 一四三一)五月十日、鎌倉公方足利持氏は、武州南一揆に対し、大矢蔵之輔の鎌倉府に出仕すべき旨の実否について糾明を命じた。
二〇六 足利持氏御判御教書写〔三島明神社文書〕埼玉県史賢料網5所収
甲州之武士大矢蔵之輔事 同国小官之内住居仕由、
当家出勤可仕旨中之状、有其間者也早速糾其実否可申達也
応永廿年五月十日 (花押影)(足利持氏
武州南一揆中

〔解説武州南一揆は、主として多摩郡内の国人土豪層をもって構成された一揆集団で、鎌倉公方足利持氏の軍事力の中核的存在であった。甲州小官之内に在住の大矢蔵之輔の登用に当ってこの一揆集団に調査を命じたのである。

応永二十年(葵巳 一四一三)六月一日、平沢郷(現日高市)金剛寺の檀那禅音・道用は、報恩寺栄曇の懇望により、金剛寺の什物大般若経・大乗経を報恩寺に寄付した。栄曇の差出した香料はその三分の二を阿弥陀堂の修理費として報恩寺に寄進し、三分の一は地蔵堂の修理費として妙宣寺に遣わした。
二〇七 道用・禅音寄附状写〔報恩寺年譜〕埼玉県史資料編7所収
大般若経幷大乗経事、奉寄附報恩寺侯 雖然修理銭三分二為阿弥陀堂修造寄進申候、三分一為地蔵堂修理可有妙宣寺御遁侯、殊大般若事、其方御心指而自金剛寺(高麗郡)下、直被越侯間、
専可為当寺修理料候、仍為後証寄附之状如件、
応永廿牛糞巳六月一日  藤原授・衣名 禅音判
報恩寺栄雲僧都 沙弥道用判

〔解説〕『法恩寺年譜』二によると、文治二年(一一八六)越生氏の一族、倉田孫四郎基行という者が倉田(越生町大字新宿字倉田、越生神社周辺の台地か)に隠棲していたとき、平生、後世の利を念じ、恒常口に念仏を唱え、夫妻ともおこたるところがなかった。ある時天竺の僧という者が、大般若経六百と五部大乗経を持って来た。基行夫妻はこの僧を大切に迎えた。僧はこのあたりの霊地靉靆寺山に登り草堂を建立した。ここで夫妻は仏道に入り、瑞光坊と妙泉尼となったという。ここに法恩寺の縁起がある。更に妙泉尼は自分の家を寺とし、妙泉寺と名づけ地蔵菩薩をもって本尊としたともある。以上が法恩寺住栄曇が懇望した大般若経・大乗経、及び妙泉寺阿弥陀堂の縁起・由来に関する記事の概略であるが、この大般若経・大乗経が、いつのことか平沢村金剛寺の什物となっていたというのである。同年譜応永二十年の項では次のように述べている。
昔日 焚僧所荷負来之大般若経全六百巻 五部大乗経全部一篋 代換年移無何時展転而 作同州高麗郡平沢村金剛寺之什物也尚矣 曇公(栄雲)伝聞此事 奮励深恨為他宝 遂詣干金剛寺 懇請此経再三懇懃也 彼寺住僧感上人の来請 乃以大般若・五部大乗経而令寄進干報恩寺 且為後世之証添数封之書 又以雲公所投之香金 充二堂修理
法恩寺が応永五年(一三九八)栄曇によって中興開山されたことは『法恩寺年譜』にもみられるとおりである。雲秀は中興第二世である。同年譜によると栄雲から雲秀の没するまでの六三年間は、報恩寺の近郷・近在の者からの寄付が多かった。金剛寺檀那の禅音はこのころの人である。藤原授衣名禅音とあるから藤原氏である。毛呂左近将監妻(嘉吉二年―一四四二に田を寄進している)ともある。これは禅智の誤りらしいが、同じ藤原氏で毛呂氏の一族であろう。禅音は平沢村金剛寺の檀那の家に嫁したものと思われる。金剛寺は現存しないが、『風土記稿』では臨済宗、粟坪村勝音寺門徒となっており、既に昔の面影を失っていた。ただし地蔵堂は現存して昔を僅かに偲べる。開山が寛永年間に寂しているから江戸初期の中興で、それ以前は密教系の寺院であったろう。禅音は、金剛寺を支えたのは勿論のこと、法恩寺に対しても多くの寄付をしている。応永二十年の寄付(本文書)のはか、永享元年(一四二九)、同八年には「粟坪田一段」、嘉吉二年(一四四二)には「上野村辻堂南之田」(ともに越生郷のうち)を寄進し、享徳四年(一四五五)には「吾那村高麗端在家一宇・田畠・山林を法恩寺阿弥陀に寄進している(史料二五五)など、実に四十三年以上にわたり、金剛寺や法恩寺の檀那として貢献したことがわかる。寺の檀那として名を出している女性であるから、恐らく若くして夫を失い、家を支えて来た女性であったろう。当時の庶民社会・生活の一断面を提供した貴重な史料である。

応永二十年(癸巳 一四一三)六月十日、鎌倉公方足利持氏は甲州凶徒等退治のため、武州一揆中に参陣を命じる。
二〇八 足利持氏御教書案写〔三島神社文書〕埼玉県史資料編5所収
甲州凶徒井地下▢ ▢ ▢武▢ ▢ ▢備中次郎▢ ▢ 平?
山三河入道馳向之由、注進之上着、不日令進癸、
合力□平山、可致忠節之状如件、
応永廿年六 月十日 □□□(花押影)(足利持氏カ)
武州南一揆中

〔解説〕甲州凶徒とは甲州武田勢力のことであろう。この反鎌倉府的行動に対し公方持氏が討伐の軍勢を催促したものである。鎌倉公方足利持氏は、反対する旧勢力などの討伐には、 一揆集団の戦力に頼るところが大きく、特に武州南一揆は、持氏軍勢の中核ともいうべきものであった。南一揆は奥多摩に根拠を持つ国人衆団で、平山氏などはその有力な一員であった。

二〇九 応永二十年 (癸巳 一四一三)銘の板碑
所在地 楡木42 東野 東光寺
主尊・銘 弥陀1・応永廿年八月廿一日
高さ 三九センチ

応永二十二年 (乙未 一四一五)四月二十五日、鎌倉公方足利持氏は、常陸の越幡六郎の所領を没収したので、関東管領上杉氏憲はこれを不満とし、持氏の気色を蒙る。
二一〇 鎌倉大草紙〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料編8所収
応永二十二年四月廿五日 鎌倉政所にて御評定のとき 犬懸(上杉氏憲)の家人常陸国住人越幡六郎某 科ありて所帯を没収せらるゝ   禅秀(上杉氏憲)さしたる罪科にあらす不便のよし扶持せらるゝ問 以の外に御気色を蒙りける

〔解説〕越幡六郎について詳細は不明だが、常陸国小田氏の一族に小幡氏がおり、その一族かと思われる。いずれにしても犬懸氏憲の家人であったので、これが氏憲のその後の行動の契機となった。禅秀の乱の原因に挙げられているのである。

二一一 応永二十二年 (乙未 一四一五)銘板碑
所在地 中沢
主尊・銘 弥陀3・応永廿二年十一月日
妙意逆修
高さ 一尺三寸七分
(清水嘉作氏調査)

応永二十三年(丙申 一四一六)八月、前の鎌倉府管領上杉禅秀(氏憲)は、足利満隆・持仲等と共謀、鎌倉府の公方足利持氏に背き、新御堂殿(満隆)の御内書・禅秀の副状を廻状として、近国の国人衆にめぐらし多くの同心を得た。丹党の族もこれに同意した。
二一二 鎌倉大草紙〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料編8所収
秋のはしめより禅秀病気のよし披露して引寵謀反を起す、犬懸の郎郎等国々より兵具を俵に入、兵糧のやうにみせて、人馬に負せて上りあつまりけれハ、人更に志る事なし、新御堂殿(足利満隆)の御内書に禅秀副状にて廻文を遣はし、京都よりの仰にて持氏公幷憲基 (上杉)を可被追罰由、頼ミ被仰けれバ、御話中人々にハ、千葉介兼胤・岩松治郎大輔満純入道天用、両人ハ禅秀の聟なれハ不及申、渋河左馬助・舞木太郎(持広)、 小玉党にハ大類・倉賀野、丹党の者ども、其外荏原・蓮沼・別府・玉野井・瀬山・甕尻(かめぬま)、甲州に武田安芸入道(明俺)、 信満ハ禅秀の舅なれハ最前に来る、小笠原の一族、伊豆に狩野介一類、相州にハ曽我・中村・土肥・土屋、常陸にハ名越一党・佐竹上総介(山人興義)・小田太郎治朝(持永?)・府中大掾(満幹)・行方・小栗、下野に那須越後入道(明海)資之・宇都宮左衛門佐、陸奥にハ篠河殿(足利満直)へ頼申間、葦名盛久・白川結城(満朝)・石川(河)・南部・葛西・海東四郡の者ともみな同心す、鎌倉在国衆に、水戸内匠助伯父甥・二階堂・佐々木一頬を初として百余人同心す、

応永二十三年(丙申 一四一六)十二月二十一日、禅秀方の足利持仲・上杉伊予守憲方は小机(現横浜市)辺に出陣、持氏方は江戸・豊島・二階堂・南一揆などが一味して入間川に陣をとる。
二二二 鎌倉大草紙〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料編8所収
(前略) 去程に新御堂殿(足利満隆)幷持中(仲?)(足利)、 鎌倉に御座まし、関東の公方と仰かれ給ふ、然とも近国猶持氏(足利)の味方にて、召に応ぜず、さらバ討手をつかはすべしとて、持仲を大将軍として、中務大輔憲顕)(上杉)・某弟伊与守憲方(上杉)武州へ発向す、憲顕ハいたはる事ありて留り、与州を大将軍として、十二月廿一日小机(橘樹郡)辺迄出張す、持氏御方にハ、江戸・豊島・二階堂下総守幷南一揆幷宍戸備前守兵幷入間河(入間郡)に馳集り陣を取、(後略)

〔解説〕鎌倉公方足利持氏に背いた上杉禅秀は、十二月二日ついに持氏追討に蜂起、持氏の御所を急襲した。持氏は山内上杉憲基の屋敷へ入り、ここで憲基の兵七〇〇余騎が守る。この軍勢は山内家執事長尾満景・武蔵守護代大石源左衛門・その他武蔵の国人安保豊後守・加治氏等七〇〇余騎であった。三日は悪日だというので合戦なし、四日より町中で陣取りが行われ合戦があった。六日には一〇万にも及ぶ禅秀方は持氏方を圧倒、持氏は憲基と共に鎌倉を脱出した。持氏を追放した満隆・持仲等は鎌倉に入り、満隆は公方と称したが、近国にはやはり鎌倉公方持氏に味方するものが多く、満隆の召集には応じないものがいたため、これらを追討するため、持仲を大.将とし、禅秀の子憲顕・憲方が武州へ出陣した。これに対して持氏方は江戸氏・豊島氏・二階堂氏・宍戸氏・武州南一揆など武蔵の兵が入間河に集結して陣をとった。この行動を知った持仲・憲方は入間河に向かったが、その途中、世谷原(横浜市瀬谷区)で双方が遭遇し合戦となり、憲方・持仲等は敗れ、十二月二十五日鎌倉に逃げ帰った。
武州南一揆とは多摩川流域の中小国人領主の地縁的連合で、平山三河守・立河駿河入道・宅部下総入道などがその構成員に考えられる。二階堂下総守は鎌倉府政所執事に二階堂氏盛がいるのでその一族か。宍戸備前守は常陸国宍戸(茨城県友部町)を本拠とした国人である。

二一四 応永二十三年(丙申一四一六)銘の板碑
所在地 楡木42 東野 東光寺
主尊・銘 弥陀1・応永廿三年十一月  禅(欠
高さ 三四・五センチ

応永二十四年(丁酉 一四一七)正月一日、足利持氏方の武州南一揆・江戸・豊島の兵は、上杉禅秀・足利満隆の軍勢と戦い世谷原で敗れる。一方、武州北白旗一揆の別府尾張入道の軍は持氏救援のため、高坂を経て、正月六日に入間川に出陣した。
二一五 鎌倉大草紙〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料編8所収
(前略) 明れば応永廿四年正月一日鎌倉より満隆御所幷禅秀、武州世谷原に陣を取、南一揆幷江戸・豊嶋と合戦しけるが、江戸・豊嶋打負て引退きけり(後略)

二一六 別符尾張入道代内村勝久着到状〔別符文書〕埼玉県史資料編5所収
着到 武州北白旗一揆
別符尾張入道代内村四郎左衛門尉勝久申、
右、去二日馳参庁鼻和(幡羅郡)御陣、同四日村岡(大里郡)御陣、同五日高坂(比企郡)御陣、同六日入間河(入間郡)御陣、同八日久米河(多摩郡)御陣、同九日関戸(多摩郡)御陣、同十日飯田(相模)御陣、同十一日鎌倉江令供奉、就中至于上方還御之期、於在々所々陣致宿直警固上者、下絵御証判、為備向後亀鏡、粗言上如件、
応永廿四年正月日
承候了(証判)、 (花押)(上杉憲基)」

〔解説〕 応永二十四年正月一日、禅秀方は世谷原に再び出兵、南一揆・江戸・豊島と合戦しそれを敗退させる。しかし、一方、幕府は禅秀一類追討の御教書を出し、これが十二月二十五日関東の諸士に廻状として送られると、禅秀方の武士には寝返りする者が次々と出て、禅秀方は急激に形勢不利となる。武州北白旗一揆の別符尾張入道代内村勝久着到状も、この御教書をうけて正月六日、持氏方の入間河御陣に馳参したことを言上している。こうして、禅秀方は最後の決戦をすることもなく、正月十日には、満隆・持仲・禅秀等が自害し、この乱は終結した。

二一七  応永二十四年 (丁酉 一四一七)銘の板碑
所在地 粟坪24 粟原前墓地
主尊・銘 弥陀1・(花瓶) 玄 心禅門 応永廿「ニ+ニ」(四)年十二月廿日
高さ 五一・五センチ

応永二十四年(丁酉 一四一七)十二月二十六日、鎌倉
公方足利持氏は、禅秀並びにその与党の討伐にあたり、忠節をつくした賞として武州南一摸中に対し、政所方公事を五年間免除した。 二一八 足利持氏御判御教書写〔三島明神社文書〕埼玉県史資料編5所収
政所方公事等除日・炭油供事、就今度忠節、
自今年五ヶ年所免除也、可存知其旨之状如件、
応永廿四年十二月廿六日 (花押影)(足利持氏)
南一揆中

〔解説〕禅秀の乱で、禅秀に与したのは児玉党・丹党であったが、南一揆・江戸氏・豊島氏は足利持氏に同心した(鎌倉大日記など)。応永二十四年一月十日禅秀の自殺でこの乱は収拾したが、その後も禅秀与党の反抗はあった。鎌倉公方足利持氏はこれらの討伐に当たり功番のあった南一揆に対し、この年より五年間の政所方公事等を免除したのである。公事とは年貢と違い、夫役・雑公事があった。夫役は人夫役のことであり、雑公事とは産物や加工品の負担であった。

応永二十四年(丁酉一四一七)十二月日、南白旗一按の高麗雅楽助範員は、多西郡内の活却地(売却地)を、勲功の賞として徳政をもって取り戻してくれるよう請求し裁許された。
二一九 高鷲範昌申状菓〔彦根城博物館保管彦根藩井伊家史料〕「高幡高麗文書」『日野市史史料集』所収
目安 南白旗一揆
高麗雅楽助範員申
右、武蔵国多西郡内活脚地之事 御感状幷備右、御下文?、任御法、以彼所々券、今度忠節、恩賞下給御判、弥為致忠忠懃 恐々言上如件、
応永廿四年十二月 日

右、武州多西郡内活却地等事、任一揆調色、可預御裁許(徳政)旨也、然者下賜還補御判、弥為弓箭勇、恐々言上如件、

写真2一 高麗範員申状案(彦根城博物館高幡高麗文書)

〔解説〕高麗範員は、南白旗一揆として禅秀の乱で功労多く、鎌倉公方足利持氏の感状を賜った。この忠節をもって、高麗範員が以前売却した多西郡内の土地を取り戻したいと、目安(訴状)を鎌倉府政所に提出した。これに対し裁許があった。つまり、鎌倉公方持氏は姑却地(売却地)の徳政を裁許したのである。南一揆は持氏の有力な戦力で、前史料のように政所公事の免除も与えられた。徳政の裁許も恩賞の一つの与え方であった。高麗範員について詳細を得ないが、高麗三郎兵衛師員(史料一六I)から三七年後であり、名前からも父子の関係とみられる。南白旗一揆(武州南白旗一揆)の構成員となっていた。

応永二十五年(戊戊 一四一八)四月二十日、鎌倉公方足利持氏は、武州南一揆中に馳参を命じ、上杉特定の手に属して忠節を尽くすよう求め、同月二十八日tl一十九日にも催促した。
二二〇 

  •   足利持氏軍勢催促状写〔三島明神社文書〕埼玉県史資料編5所収

為新田幷岩松余頼対治、 差遣治部(一色)少輔特定也、
不日馳参、属彼手可致忠節之状?之如件、
応永廿五年四月廿日 (花押影)(足利持氏)
武州南一揆中


  •  足利持氏軍勢催促状写〔三島明神社文書〕

埼玉県史資料網5所収
新田井岩松余頬可出張由、所有其聞也、令出▢▢▢者、
不日馳向於討進者、可有抽賞之状如件
応永廿五年四月廿八日 (花押影) (足利持氏)
武州南一揆中


  • 足利持氏軍勢催促状写〔三島明神社文書〕埼玉県史資料編5所収

(四月廿日の文書と同文ゆえ略す)
応永廿五年四月廿九日  (花押)(足利持氏)
武州南一揆中

〔解説〕上杉禅秀の与党として鎌倉公方足利持氏に敵対する新田・岩松一類対治のための軍勢催促状である.岩松氏は新田氏一族、建武新政期には有力な足利党で終始した。しかし、満純の時、満純の母が上杉禅秀の女であったことから禅秀に味方し、その先鋒として鎌倉で足利持氏を敗走させている。その後上野に帰り、新田氏を称して持氏党と戦う。応永二十四年正月十日,禅秀の敗死後はその一味を集め、岩松に挙兵、武蔵の恩田美作守・同肥前守及び上杉憲国らも加わった。しかし、同年五月二十九日入間川で敗れ、閏五月十三日鎌倉竜ノロで斬られた。この三通の軍勢催促状は、禅秀並びに岩松満純死後のものであるが、その余類のものがあり、不穏な状勢が続いたことがわかる(次号文書も同類).しかも四月二十日、同二十八日、同二十九日と続いて南一揆中宛に発せられている。急を要する状勢の発生、南一揆の持氏に対しての反応などが考えられるであろう。なお、ここで武州南一揆とは、前の史料二一九高麗範員申状案における南白旗一揆と同じと考えてよい(佐脇栄智「武蔵国太田渋子郷雑考」『日本歴史五〇五』)。したがって高幡高麗氏も武州南白幡の構成員であった。

応永二十五年(戊戊 一四一<)九月十日、鎌倉公方足利持氏は、上杉氏憲与党の恩田美作守・同肥前守等退治のため、武州南一揆中に参陣を命じる。
二二一 足利持氏軍勢催促状写〔三島明神社文書〕埼玉県史資料編5所収
恩田美作守・同肥前守等事、隠謀露顕之問追放之処、相語悪与等、出張彼在所之由、所有其聞也、早々被同心忠節、不日馳向、可加対治之状如件、
応永廿五年九月十日 (花押影)(足利持氏)
武州南一揆中
○応永二十六年八月十七日ノホボ同文ノ写アルモ略ス。

二二二 応永二十六年 (己亥 一四一九)銘の板碑二基
所在地 女影88 宿西 薬師堂墓地
主尊・銘 弥陀1・応永廿六年五月廿一日 善光禅門
高さ 四八センチ

所在地 北平沢52 山口墓地
(光明真言)
主尊・銘 (欠)応永廿六年七 逆修妙阿禅尼
(光明真言)
高さ 五九センチ

応永二十六年(己亥一四一九)八月十五日、鎌倉公方足利持氏は、没落の風聞のあった上杉意国・同氏憲与党の恩田美作守・同肥前守の再起に備えて、武州南一揆の守護代への同心を命じる。
二二三 足利持氏軍勢催促状写〔三島明神社文書〕埼玉県史資料編5所収
恩田美作守・同肥前守事、兵庫助憲国(上杉)幷禅秀(上杉氏憲)同意之段露顕之間、欲致糾明之処、没落之由所令注進也、令現形者、令同心守護代、可抽戦功之状如件、
応永廿六年八月十五日 (花押影)足利持氏)
南一携中

応永三十年(葵卯一四二三)三月十二日、鎌倉公方足利持氏(?)は、武州南一揆中に国内の警固を命じる。
二二四 足利持氏(?)御判御教書写〔三島明神社文書〕埼玉頻史資料編5所収
▢▢▢不日令▢▢▢ 致国警固之状如件、
応永卅年三月十二日 花押影?(足利持氏?)
武州南一揆中

〔解説〕鎌倉公方足利持氏が、武州南一揆をして、国内の反鎌倉府勢力に対する警戒と国内の守護とを命じたもので、ここでも足利持氏が、武州南一揆に対して信頼を寄せていたことを理解できる。前年の応永二十九年、常陸平氏の一族小乗満重は足利持氏に叛し、八月持氏は上杉重方をしてこれを討たせている。そして、この年の八月二日、武州白旗一揆・吉見範直・安保宗繁らが持氏に従って小栗城を政略した。小山氏・小栗氏と打続く豪族の叛乱に鎌倉府の警戒心は高く、それを助け、鎌倉体制を支えてきたのが武蔵・上野の国人衆の一揆で、特に持氏のときの武州南一揆は、持氏戦力の中心的存在であったことが窺える。

二二五 応永三十年 (癸卯 一四二三)銘の板碑
所在地 楡木42 東野 東光寺
主尊・銘 弥陀1・応永丗年三月
高さ 二三センチ

応永三十年(癸卯 一四二三)八月、武蔵国白旗一揆の別符幸忠は、常陸の小栗満重退治のため、去る五月二十八日埼玉郡太田荘に出陣、六月二十五日・八月二日の両合戦の軍忠などを注進し、上杉定頼の証判をうけた。
二二六 別符幸忠軍忠状〔別符文書〕埼玉県史資料編5所収
着到 武蔵国白旗一揆
別符尾張太郎幸忠申軍忠事、
右、為小栗常陸孫次郎満重御退治、去五月廿八日太田庄(埼玉郡)罷着、大将結城(下総)仁御在陣之間、六月八日彼御陣江馳参、同十七日伊佐(常陸)御陣、同廿四日近陣、当日於陣取終日箭軍、翌日廿五日致合戦、東戸張二重焼破、自身被疵肩右同親頼家人数輩被疵、其以後日々矢軍無退転、八月二日合戦仁最前自重東戸張責人、散々致太刀打分捕仕、敵城於焼落、同道家人等被庇之条、大将所有御検知也、仍至于御敵悉没落之期、致日夜宿直警固、異于他抽戦功上者、下賜御証判、為備向後之亀鏡、恐々言上如件、
応永卅年八月 日
承候託(証判)、(花押)(上杉定検))

〔解説〕別符氏は横山党東別府(現深谷市)の出身、別符幸忠は武州北白旗一揆として持氏に従った(史料二一六参照)。小栗満重は常陸小栗城(茨城県真壁郡協和町小栗山)にいた。小栗氏は、常陸平氏の一揆で、伊勢神宮領小栗御厨の寄進者ともいわれ、ここに館を設け代々御厨の下司を世襲していた。建武年間は足利方の拠点となって南朝方と攻防戦もあった。しかし、応永二十九年小栗満重は鎌倉公方足利持氏に叛き、翌応永三十年持氏に攻められて城を失った。別符氏はこの小栗城攻めで持氏軍に属し、自らも疵を負う太刀打ちをして戦功を立てたのである。     
小栗氏はその後嘉吉元年(一四四一)の結城合戦で小栗助重が鎌倉公方に属して功があり、城を一旦回復したが、康正元年(一四五五)足利成氏に敗れて再び城を失った。城はその後宇都宮氏に、天文二十一年(一五五二)結城氏に、永禄三年(一五六〇)宇都宮氏へと変転した。

応永三十年(癸卯 一四二三)十月十日、幕府管領畠山満家は、鎌倉公方足利持氏討伐のため、信濃守護小笠原政康をして武州・上州一按と合力させる。
二二七 畠山満家書状(小切紙)〔小笠原文書〕埼玉県史資料網5所収
(異筆)
「義教将軍御奉書政康江」
(封紙ウハ書)
「小笠原石馬助(政康)殿 道端(畠山満家)」
自武州・上州一揆中以使節言上候之様者、被越臼井(上野)到下候老、上野一揆中号為防信州之勢、相催国中馳加当国勢、可致一味忠節之由申候、武州一揆中同前申候、仍被成御書侯、両国談合之様、為御心得委細可申之由侯也、
恐々謹言、
十月十日 道端(畠山満家)(花押)
小笠原右馬助(政康)殿
○コノ年、幕府、鎌倉公方足利持氏討伐ヲ諸士ニ命ズ。
本文書、年缺ナレド、恐ラクコノ年ノモノナラン。(県史)

応永三十一年(甲辰 一四二四)正月二十四日、篠川御所足利満直は鎌倉公方足利持氏討伐のため関東に進発、武蔵及び上野の白旗一揆中は、これに応ずる請文を幕府に提出する。
二二八 天満済准后日記〔続群書頬従〕埼玉県史資料編8所収
廿四日、晴、……(中略)……佐々河(篠川)殿関東へ進発事、先御領掌候也、則公方様へ御内書御請可被申入処、一陣於も被召、其後日陣中請文ハ可被進上候、乍居御請中条、為其恐故也、此旨且為得御意申入也云々、次武蔵・上野白旗一揆者、大略可馳参由捧請文了、或ハ以告文等申請文一揆中在之、為御一見進之由、大夫方へ申遺趣也、(後略)

〔解説〕満済一三七八―一四三五)は権大納言今小路師冬の子、足利義満の猶子となり三宝院貿俊の室で得度、応永二年醍醐寺座主、三十五年准后の宣下をうけた僧侶である。「黒衣の宰相」といわれるように幕府の機密に参画するようになり、その日記の内容は放密にわたり詳細・正確なことが特色である。ここでは他の戦記物にみられない白旗一揆の記事があるので掲載した。佐々河(福島県、安積郡篠川)御所といわれた足利満直(三代鎌倉公方満兼弟)は、稲村御所の足利満貞を補佐して鎌倉府の奥州支配の役割りを果たしていた。
http://zyousai.sakura.ne.jp/mysite1/kooriyama/sasagawa.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%A0%E5%B7%9D%E5%9F%8E
満貞は禅秀の乱ではその与党となったが、禅秀の乱後の鎌倉公方の持氏が、幕府の扶持衆であった常陸の山人与義や小栗満重らをも攻め、幕府に討伐をうけるようになると、反持氏側に結集する。幕府は満直から関東の情報を集め、篠川の手に属して忠節を尽くすことを奥州・関東の武士に呼びかけることになるのである。
既に前文書でもわかるように、白旗一揆が、武蔵と上野に分かれ再編されていた。武蔵・上野毎に、更に武蔵北白旗一揆・南白旗一揆と地縁的な一揆集団になったのである。これら一揆がここでは鎌倉公方足利持氏から離れ、幕府についた。一揆集団は状勢に機敏に対応したのである。

二二九 応永三十一年 (甲辰 一四二四)銘の板碑二基
所在地 楡木43 東谷墓地
主尊・銘 弥陀1・応永三十一 六月二十二日 妙心・禅尼
高さ 五五・五センチ

所在地 高萩
主尊・銘 弥陀1・応永一年十月廿二日 逆 修・助□正禅尼
応永三十二年(乙巳一425)
高さ 一尺五寸八分(下部欠) (清水嘉作氏調査)

応永三十二年(乙巳一四二五)二月、柏原鍛冶の増田正金、この月没する。
二三〇 新編武蔵風土記稿 高麗郡之五 柏原村
旧家者庄兵衛増田を氏とす、先祖増田正金また大水貴先と号して鍛冶業とす、応永州二年二月歿す、鍛する所の鎗一本その家に伝ふ、身の長さ一尺三寸、中心銘に柏原住人大水と鐫す、それよりして箕裘を継もの四世、今その名を失ヘリ、

二三一 応永三十二年 (乙巳 一四一云)銘の板碑三基
所在地 南平沢66 塚場(高麗川公民館)
主尊・銘 弥陀1・妙道禅門 応永丗二年□□□ 〈欠〉
十月□□□
高さ 三三センチ

所在地 新堀39 吹上 霊巌寺墓地
主尊・銘 〈欠〉応永州二年乙巳十二月月廿二日 浄泉・上座
高さ 三七センチ

所在地 中沢105 関場 墓地
主尊 ・銘 弥陀1・応永丗二年□月十日 善秀・禅尼
高さ 三〇センチ

二三二 応永三十三年 (丙午 一四二六)銘の板碑
所在地 楡木42 東野 東光寺
(光明真言)
主尊・銘 弥陀3・応永丗三年丙午六月□ 欠〉□□・禅門
(光明真言)
高さ 三七センチ

(参照) 光明真言(マントラ)とは
『唵 阿謨伽 尾盧左曩 摩訶母捺攞
(おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら)
麼抳 鉢納麼 入縛攞 鉢囉韈哆耶 吽
(まに はんどま じんばら はらばりたや うん)

二三三 応永三十三年 (丙午 一四二六)八月一日、武州一揆・白旗一揆・武州白旗一揆、関東公方足利持氏の軍勢催促により、甲斐の武田信長討伐のため発向し、一色持家の陣に加わる。

  • 鎌倉大日記〔生田繁氏蔵〕埼玉県史資料編7 所収

(裏書)
「応永卅三丙午、武田右馬助(信長)依出張、 一色刑部(持家)少輔為大将、六・廿六、被向御幡、同八・廿五、降参、武州一揆八・二着陣、」


  • 喜連川判鑑〔続群書類従

午丙三十三、(中略) 六月二十六日、武田右馬助信長甲州ノ府二出張、 一色刑部少輔大将トシテ参向、八月朔日、武州白旗一揆一色ガ陣二加ル、同二十五日、信長降参、 一色武田ヲ召連レ鎌倉ニ帰ル、武田ニ本領相違ナク下シ玉フ


  • 久下憲兼着到状〔松平義行氏所蔵文書〕埼玉県史資料編5所収

着到 白旗一揆 
久下修理亮入道代子息信濃守憲兼申軍忠事
右、為武田八郎信長御退治、依大将御発向、去月十九日令進発、馳集武州二宮、而同廿六日罷立彼所、馳参甲州鶴郡大槻御陣、至于信長降参之期、致宿直警固上者、給御証判、為備向後亀鏡、恐々言上如件、
応永丗三年八月 日
承了(証判)、 (花押影)(一色持家)

〔解説〕 これらの三史料には、武州一揆・武州白旗一揆・白旗一揆などの名称が用いられているが、この場合同一の一揆集団と考えられる。

応永三十四年 (丁未 一四二七)五月十三日 鎌倉府は、京都東福寺雑掌の訴えにより、南一揆輩等の多西部船木田荘領家年貢抑留を停め、武蔵守護代大石信重をして年貢を同寺雑掌に沙汰し渡させる
二三四 鎌倉府奉行人連署奉書〔尊経閣古文書纂東福寺文筆一〕埼玉県史資料編5所収
(封紙ウハ書)
「大石遠江入道殿治部丞黍規(道守、信重)」
東福寺雑掌中、武蔵国多西郡(多摩郡)船木田庄領家年貢事、
寺家知行無相違之処、領主等難渋之間、去年応永卅三・十一・二重自京都被成下御教書訖、案文壱通封裏遣之、爰平山参河入道・梶原美作守・南一揆輩令抑留年貢之間、有名無実分云々、太不可然、所詮守御教書、云未進▢、云当年貢、厳蜜可致其弁之旨、各相触之、可被沙汰渡寺家雑掌之由候也、仍執達如件、
応永卅四年五月十三日 治部丞(花押)(奏規).
修理亮(花押)
大石遠江入道殿(道守、信重)
○(本文書ノ挿入文字ノ真ニ、治部丞泰規ノ花押アリ。)

〔解説〕多西郡(多摩郡が二分され西の部分)の船木田荘(現在の日野市・八王子市のあたり)の領家・東福寺雑掌(荘園管理の役人)は、年貢滞納なきようにとの命令を受けたが、近隣の武士・平山参河入道・梶原美作守・南一揆の者たちが抑留して、そのため年貢が東福寺に納入されないので鎌倉府に訴え出た。これにより鎌倉府では問注所でこれを裁判し、二人の奉行人の連署をもって武蔵国守護入に対し、年貢が荘園に納入されるよういたすべきを命じたのである。
船木田荘の成立によって取り残された公領が再編されて多東郡・多西郡に二分割されたわけで、多西郡には得恒、土淵、吉富などの郷が成立し、ここには国人クラスの高麗氏一族がいた(高幡高麗氏、南一揆の構成員)。また、船木田荘平山のあたりに平山氏(平山越後守)がいたとみられる。こうした国人、土豪たちが自己の所領を中心として、独自の支配権を確立しょうとして荘園領主に対立したものとみられる。これに対して武蔵守護は鎌倉府の命をうけて荘園側の主張を認めたのである。参考までに、至徳二年(二三八五)船木田圧の算用は次のとおり。
武蔵国船木田庄年貢算用状〔東福寺文書〕『日野市史史料集』所収
(端裏書)「東福寺領船木田庄勘定状」
納東福寺領武蔵国多西郡内船木田新本両庄年貢事、

一 拾貫文 平山分
一 柒(七)百文 宇津木郷内青木村分
一 五貫七百文 豊田郷分
一 弐貫七百文 木切沢村分
一 肆貫五百文 由木郷分
一 参貫弐百文 大塚郷分
一 柒百文 梅坪分
一 参貫参百文 中野郷分
己上 卅四貫参百五十文 新庄分
一 弐拾貫文 本庄分
都合 伍拾肆(四)貫参百五十文
下行分
 合
一 寺納分 拾伍貫陸百文 此内弐貫六百文・夫賃
一 五貫文 管領(上杉憲方)進物
一 参貫文 梶原方  一献料
一 五貫文 守護代方 一献料
一 弐貫文 大石大井介方 一献料
一 弐貫文 芝印弾正方 一献料
一 貫文 小河原方 一献料
一 弐拾六貫文 国雑用方
己上 五拾玖貫陸百文
不足 五貫弐百五十文
至徳二年(一三八五)十二月廿五日長満(花押)

二三五 応永三十四年 (丁未 一四二七)銘の板碑
所在地 久保一6 亀竹 勝蔵寺墓地
主尊・銘 弥 陀3・応永丗「ニ+ニ」(四)丁未六月九日教法・禅門
高さ 七六・六センチ

二三六 応永三十五年 (戊申 一四二八、この年四月二十七日改元して正長元年となる)銘の板碑正長元年銘の板碑
所在地 久保16 亀竹 勝蔵寺墓地
主導・銘 弥陀1・応、第丗五年戊申▢▢▢
高さ 三三センチ

所在地 楡木42 東野 東光寺
主導・銘 弥陀1・正長元年五月十日 道有・禅門
高さ 三二・五センチ

永享六年(甲寅 一四三四)十二月九日、高麗越前守・同主計助は、武蔵六所宮(府中市大国魂神社)・一宮 (多摩市小野神社)造営料を納め、某連署による所納の証を受けた。
二三七 某連署返抄写〔彦根城博物館保管彦根藩井伊家史料「高
幡高寛文書」〕日野市史史料典所収
(武蔵国六所?宮・一宮等造営料、一国平均段別拾疋銭事
右、多西郡得恒郷内、高麗越前守知行分田数一町七段大四十歩、同主計助分九段小、所納如件、
永享六年十二月五日 (花押影)
(花押影)
写真22 某連署返抄写(彦根城博物館高幡高麗文書)

〔解説〕高麗越前守は多西那(多摩郡西部)得恒郷(高幡不動のあるところ)に一町七段大四〇歩(大は一段の三分の二、二四〇歩のこと)、同主計助は九段小(小は一段の三分の一、一二〇歩のこと)の田地を知行していたことが先ずわかる。つまり、得恒郷に本拠を持った土豪であろう。この高麗氏の田地に対して、六所宮と一宮造宮の費用を掛けてきたわけである。平均段別拾疋の銭(一疋とは銭二五〇文)を徴収したというから、これで両高麗氏の徴収額はきまった。
高麗越前守の名は、その後永禄十年(一五六七)にも見られる(高幡不動堂座敷次第覚書、史料四〇四)。高麗越前の家はここに継がれたとみることができる。高幡高麗氏の姿を具体的に知ることのできる貴重な文書というべきである。

永享七年(乙卯 一四三五) 八月中旬、鎌倉公方足利持氏、常陸の長倉遠江守追罰として軍勢を差し向ける。江戸・品川・河越・松山の武州一揆、扇谷上杉氏の手に属して参陣する。
二三八 長倉追罰記〔続群書炉従〕埼玉県史資料編8所収
(前略)抑比は永享七年乙卯の六月下旬の事なるに、常州佐竹の郡、長倉(義成)遠江守御追罰として、御所の御旗進発し、岩松右馬頭持国、大手の大将承り、八月中旬にはせむかふ、茂木(下野)の郷に着陣す、同かれか要害に馳向て、六千余騎にて張陣、かの籠城のありさま、四方切て、東西南北に対すへき山もなし、前は深谷、後は又岳峨々と聳たり、東に山河漲流、西には渓水をたゝへたり、是を用水に用る、日本無隻の城と見へたり、先大手に向て大将の御陣、鎌倉殿(足利持氏)御勢、其次に大将岩松殿、公方勢引率、野田・徳河・佐々木・梶原・染田・植野をはしめとして、すき間もなくつゝき、左は山内(上杉憲実)殿、 那和・前橋・金山・足利・佐貫・佐野を初めとして、上州一国同幕をうちつゝき、右は扇谷(上杉持朝)殿・江戸・品川・河越・松山・ふかや(深谷)をはしめとして、武州一揆も打続、東は那須の一党、其次海上・油井・大須加(賀)・相馬、總州(上杉)一揆張陣、西は又小田・結城・宇都宮相続て陣をはる、北は小山・薬師寺・佐野小太郎・高橋・傍士塚陣屋をならへてひしと打、大手・搦手入替々々攻戦といへ共、終に堅固に持かため、同年十月廿八日、結城・宇都宮相続、籌(ちゅう)をいはくの中に廻し、長倉(義成)遠江守開陣畢、(後略)

〔解説〕鎌倉公方足利持氏は、禅秀の乱に与した者の追討を厳しく進めた。永享七年、常陸国那珂郡長倉城(茨城県御前山村)の長倉義成討伐もその一つである。長倉氏は義成の父義景が禅秀の乱に際しては、佐竹氏の一族山人与義らと禅秀方として持氏に敵対していたのである。この長倉氏討伐のことは「長倉追罰記」によると、八月に攻め十月に落城させている。「長倉追罰記」は作者等不明だが、合戦後間もないころの成立とみられており、武蔵関係武士の動向を知る手がかりともなる。

永享八年 (丙辰 一四三六)ころと推定できる岩松持国本領所所注文に高麗郡加治郷がある
二三九 岩松持国本領所々注文〔正木文書〕埼玉県史資料嗣5所収
(端裏書)「御領所之注文」
岩松(持国)右京大夫本領所々注文
一上州新田庄 丹生郷
一武州春原庄(大里郡)内万苦郷 渋口郷(橘樹郡)
小泉郷(男衾郡) 片柳村(足立郡) 秀泰郷(埼玉郡)
久米六間在家(多摩郡) 蒲田郷(荏原郡) 小林村(荏原郡)
手墓相(棒沢郡) 得永名 加治郷(高麗郡)
糯田郷(埼玉郡)
一上総国 秋元郷内大谷村
一下総国 藤意郷 手賀郷 同郷内布施村
野毛崎村 菊田庄内家中郷
一相模国長持郷
一伊豆国宇久須郷
巳上

〔解説〕岩松氏は新田氏の一族、上野国新田庄内岩松郷(尾島町)など十三郷を譲与され、地頭職に任じられて岩松に住んだ。建武新政期に岩松経家は足利尊氏に属し飛騨守護に補任され、また、北条氏一族からの没収地十か所の地頭職を与えられ、他の新田一族に比べて優遇されている。以来有力な足利党で終始した。経家は中先代の乱の建武二年七月二十二日、女影原で討死した。満純は上杉禅秀に加担して敗死した。その後持国が家をつぎ、その家系は満純の系統(新田系礼部家)と持国の系統(岩松京兆家)に分かれた。満純の子家純のとき京兆家を圧して文明元年(一四六九)二月金山城を築き東上州を支配下に入れたが、家宰横瀬氏(のちの由良氏)に次第に実権を奪われていった。(吉川弘文館『国史大辞典』)岩松氏の本領所に、高麗郡加治郷があったという事実について、想起されるのが史料二の源頼朝下文との関連である

永享八年 (丙辰 一四三六)信州守護小笠原大膳大夫入道と村上中務大輔とに確執が生じたので、鎌倉公方足利持氏は上州一揆・武州新一揆に村上氏合力の出陣を命じたが、関東管領上杉憲実がこれを止めた。
二四〇 鎌倉九代後記〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料編8所収
同(永享)八年、信州守護人小笠原大勝大夫入道(政康)ト、村上(頼清)中務大輔確執ノ事アリ、村上ハ連々持氏(足利)へ心サシヲ通ルニヨリテ、村上カ合力トシテ桃井左衛門(憲義)督ヲ大将トシテ、上州一揆・武州新一揆ヲ信州ニ趣シム、管領上杉(山内)安房守憲実是ヲ聞テ、信濃ハ京都公方ノ御分国ナリ、小笠原其守護タレハ、村上是ニ敵対スル事イハレナシ、鎌倉ヨリノ加勢然ルへカラスト思ニヨリテ、上州ハ憲実カ守護タル故ニ、彼一揆ハ出陣ストイへトモ、憲実カハカライニテ国境ヲ越へス、是ニヨリテ其事延引ス、

〔解説〕鎌倉公方足利持氏が信濃守護小笠原改廃に反対する村上中務大輔援助のため、上州一揆、武州新一揆に出陣を命じたという。武州新一揆の名はこれを初見とする。武蔵国人層の去就、あるいは在地権力の編成などの変化によって、白旗一揆が上州・武州に再編され、武州白旗一揆、あるいは武州一揆・武州新一揆が構成されたとみられる。

二四一 永享九年 (丁巳一四三七)・永享銘の板碑二基
所在地 高萩102 西不動墓地
(光明真言)
主尊・銘 弥陀3?・了心寿位逆修 永享九年丁巳八月彼岸
(光明真言)
高さ 四七・五センチ

所在地 女影
主尊・銘弥陀1・永享
高さ 一尺二寸二分 (上下欠く) (清水嘉作氏調査)

二四二 永享十一年( 己未 一四三九)銘・永享銘の板碑二基
所在地 楡木42 東野 東光寺
主尊・銘 弥陀1・永享十一年己未正月一日 玉泉性・禅門
高さ 五九・五センチ

所在地 鹿山71 神明 神明社境内
(光明真言)
主尊・銘 弥陀3・永享 (欠)
(光明真言)
高さ 六八・二センチ

永享十二年 (庚申 一四四〇)四月十九日、関東管領上杉清方は、結城討伐のため鎌倉を出発、武蔵・上野の一揆勢等に参陣を催促し、軍勢をあつめる。
二四三 鎌倉大草紙〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料編8所収
(前略)上杉兵庫頭清方・同修理大夫持朝四月十九日に鎌倉を立出て在々所々を催促して軍勢を集めらる、東海道ハ不及申、武蔵・下野の一揆の輩、越後・信濃の軍勢、数万騎馳集る事、不遑(ふこう)注之(後略)

〔解説〕永享の乱(永享十年八月)は将軍足利義教と鎌倉公方持氏との足利家の内訌(内紛)であったが、鎌倉府内部では鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の争いであり、永享十l年(一四三九)二月十日、持氏敗れて鎌倉永安寺で自害して解決した。しかし、東国における内乱がこれで収まったわけではなかった。永享十二年三月、持氏を援けた結城氏朝は持氏の遺児春王丸・安王丸を結城城に迎え入れ、鎌倉の上杉憲実に反抗した。憲実はこれを幕府に報告、幕府は御教書を下し、関東管領上杉清方はこれをうけて結城討伐の軍を起したのである。しかし、永享乱が鎌倉公方と関東管領の主従間の争いであり、また持氏は鎌倉に地盤をもち、憲実は上野・越後方面に地盤をもち、その中間にある武蔵の国人たちは去就に迷う者もあったろうが、結局持氏に従う者が多く、例えは浅羽下総守の如く持氏と最後を共にした武士もあり、その子孫は『鎌倉持氏記』を著している。永享十二年四月十九日鎌倉を発した上杉清方は、武蔵国の各地を回って、永享の乱で持氏に付いた者をも引き寄せ、そして「数万騎馳集る事、不遑注之」と大軍を催すことができた。

永享十二年 (庚申 一四四〇)七月二十九日関東管領上杉清方は、諸軍を指揮して結城城を攻める。武蔵一揆は、南方から攻めるが落城しないで数日を送る。
二四四 鎌倉九代後記〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料編8所収
(前略)結城ノ城ニハ、結城中務大輔(中略)小笠原但馬守以下ノ軍兵楯寵ル、寄手ハ坤ノ方ニハ、惣大将清方、西ハ上州一揆、ハ上杉修理大夫持朝大将トシテ、安房国ノ軍兵、坎艮ハ京勢幷宇都宮新右馬頭・土岐刊部少輔・上杉治郎少輔教朝・小田讃岐守・常陸ノ北条駿河守、震巽ハ越後信濃ノ軍兵・武田大膳大夫入道、南ハ岩松三河守・小山小四郎・武田刑部少輔・武蔵一揆・千葉介・上総下総ノ軍勢相囲ムトイへトモ、城堅固ニシテ落カタケレハ、空ク数日ヲ送ル、(後略)

「参考」 (八卦方位を用いて記述、 坎艮、震巽、乾など)
八卦とは
https://www.denshougaku.com/%E5%85%AB%E5%8D%A6%E3%81%A8%E3%81%AF/

永享十二年(庚申 一四四〇)十二月一日、前関東管領上杉憲実は、安保宗繁の注進により、信州勢退治のため、武蔵守護代長尾景仲を遣わし、宗繁にも出陣を求める。
二四五 上杉憲実書状(切紙)〔安保文書〕埼玉児史資料編5所収
就信州之勢出張、態御音信喜入候、偽自当国没落人等、先以出張之分候欤、不可有殊子細候就、随而長尾左衛門尉(景仲)今明日之間御近所へ可令着陣侯、依此方時宜、当国へ可馳向之由、彼人ニ申付候、若彼人等此方へ罷向候時節、同時ニ此方へ御越候者、可為御志候、将又西本庄左衛門尉自金田帰宅之由承候、驚入侯、今時分不事問帰宅事、一向支度子細候哉と不審千万存候、御同道面々帰宅事、堅可被仰含候、猶猶々雖御当病候、依時宜此方へ御出陣可為肝要候、恐々謹言、
十二月一日 長棟(上杉憲実)(花押)
安保信乃(宗繋)入道殿

〔解説〕この文書は、一連の安保文書の一点で、結城合戦(永享十二年八月―翌嘉吉元年四月)に関係する文書四通の一点である。その四通の文書はいずれも年欠文書であるが、永享十二年のものとして『埼玉県史資料編5』に収められて、「本文書以下四通ノ文書ハ年欠ナレド、恐ラクコノ年ノモノカ。便宜ココニ合ワセ収ム」と註がされてあり、次の上杉憲実書状もこの四通の一点である。

永享十二年 (庚申 一四四〇)十二月六日入西一揆、武蔵守護代長尾景仲の手に属して信州勢退治のため上州板鼻に出陣する。
二四六 上杉憲実書状〔安保文書〕埼玉脱史資料編5所収
(封書ウハ書)
「安保信濃?入道殿長棟」
御状委細披見了、抑右馬助入道其外那須一族、当宿ニ可有在陣候、其故者、自野乗口御敵可出張之由其聞候、殊更長尾左衛門尉(景仲)当国へ馳越候間、国事無心元存候、其上人西一揆属右馬助入道手、当宿ニ可令在陣之旨申遺之処、自是の左右以前ニ、与長尾左衛門尉令同道、板鼻(上野)へ着陣間、旁以其方之時宜無心元存之、那須刑部少輔入道其外一族、悉以其方可有在陣之旨申候了、毎事其方事者、可有御計略侯、将又御親類以下、長尾左衛門尉ニ被差副之由承候、誠喜入存候、恐々謹言、
十二月六日 長棟(上杉憲実)(花押)
安保信濃入道(宗繁)殿

〔解説〕春王丸・安王丸を迎え入れた下総の結城氏朝は結城城に籠り、幕府・上杉方に反抗した。この結城城における合戦は永享十二年八月から翌嘉吉元年四月十六日の落城まで続く。この間における上杉方は、武蔵守護代長尾景仲の手に属して、信州から押し出してくる結城方勢にも対抗した。こうした中で、上州へ出陣する入西一揆のことがこの文書(前関東管領上杉憲実から北武蔵の国人安保氏宛)でわかる。なお、入西一揆については管見の限りこれ一点に止まる。入西郡内の国人領主層によって編成された一揆集団であることにちがいなかろう。南北朝期以来の白旗一揆などが再編され、地縁的に結合したものであろう。

二四七 嘉吉元年( 辛酉 一四四一)六月銘の板碑
所在地 女影 (清水嘉作氏調査)
銘 弥陀3・嘉吉辛酉六月日 (上下を欠く

二四八 嘉吉四年( 甲子 一四四四、二月五日改元文安元年と
なる)銘の板碑
所在地 横手 小瀬名 墓地
主尊・銘 弥陀1・嘉吉二年甲 子六月▢▢・禅尼
高さ 三九・五センチ

文安元年 ( 甲子 一四四四 )十二月十三日、越生の山本坊栄円は、箱根山御領高萩駒形之宮二所之旦那職を行満坊、豊前阿闇梨に譲渡した
二四九 旦那譲状写〔相馬文書〕埼玉県史資料編5所収
筥根(箱根)山御領属高萩駒形之官二所之檀那之事右、彼檀那等、豊前阿闍梨可有引導候、請用物三分二者、堂島造営之時計、三分一者、高萩駒形宮造営之時計、又細々之祈祷之事、道先達、土用・極月祈祷等之事者、豊前阿闇梨に申定候、なを々、此檀那者、いつかたに候共、行満坊はからいたるへく候、仍譲渡状如件、
文安元年十二月十三日
法印栄円(山本大坊)(花押影)
筥根山行満坊、又老豊前阿閣梨両人のほからいたるへく候
  
〔解説〕毛呂山西戸の山本坊栄円が持っていた高萩駒形之官の二所詣(箱根山、伊豆山の参詣)旦那引の権利を箱根山の行満坊に譲った文書である。高萩は箱根神社領、永正十六年(一五一九)には北条早雲の子で箱根神社別当である菊寿丸(長綱)の所領となる。「駒形之宮」は江戸時代、上・下高萩の鎮守で本山修験高萩院の持、現在はここに箱根神社がある。当時の高萩は駒形之官を中心としていたとみられる。二所詣とは走湯山権現(伊豆山神社)と箱根権現(箱根神社)を二所権現あるいは両所権現と称し、その参詣のことである。二所権現は頼朝以来将軍家の尊崇するところであり、室町時代には鎌倉府の崇敬も寄せられた。高萩は箱根神社領で、その住民は駒形之官を共同体の中心としたのであろう。土用・極月の祈祷、道先達は箱根山の修験豊前阿闇梨が行うことになったことがわかる

二五〇 文安四年 (丁卯 一四四七)銘の板碑
所在地 女影
主尊・銘 文安四年
高さ 一尺四寸上下を欠く
(清水嘉作氏調査)

二五一 文安六年 (己巳 一四四九  七月二十八日改元宝徳元年となる)銘の板碑

所在地 楡木41 貝戸 (林広次家)
行満六郎▢▢
大夫四郎孫▢▢
楠大郎孫八 <欠>
左藤大郎
主尊・銘 弥陀3三具足文安六年腎月廿三
楠法師   平蔵大郎・佐藤三郎・二郎大郎
禅門彦四郎・次郎太郎・又次郎・又三郎
高さ 一〇六センチ

〔解説〕額、日月、天蓋が三尊の上、三具足が下にある。廿三日は月待ちの日で、九月前後に「月待供養」の板碑がよくみられる。
月待板碑の最古は富士見市の嘉吉元年(一四四一)といわれ、日高市のこの板碑は十指の内に入る古例で、しかも美麗である。供養者一〇数名のなかの楠法師は導師、行満禅門は願主であろうか(『日高町の板碑』)。

所在地 楡木42 東野 東光寺
主尊・銘弥陀1・宝徳元年十一月十一日 妙三・禅尼
高さ 四七センチ

文安年間(一四四四~四九)の板碑二基
所在地 下鹿山8一 丸山墓地(細川五夫家)
主尊・銘弥陀3・文安巳ニ ▢▢ (欠
高さ 六二センチ

所在地 女影86 上ノ条 (飯塚長書家)
(光明真言)
主尊・銘 文安▢▢▢ (欠
(光明真言)
高さ 六六センチ

宝徳二年 (庚午 一四五〇)五月二十七日、将軍足利義政、幕府管領畠山持国をして、関東合戦につき関東奉公方面々中及び武州・上州白旗一揆中に戦功を励まさせる。
二五二 

  • 足 利義政御教書(切紙)〔喜連川文書〕埼玉県史資料編5所収

(封紙ウハ書)
「沙□ □ □ 関東奉公方面々中」
今度関東合戦事、不期次第、太不可然、於于今者、属無為欺、毎事無不忠之儀、可被励其功之由、所被仰下也、仍執達如件、
宝徳二年五月廿七日 沙弥(花押)(徳本、畠山持国)
関東奉公方面々中


  • 足利義政御教書写〔斎藤文書〕埼立県史資料編5所収

今度関東合戦事、不慮次第、太不可然於干今者属無為欺、毎事無不忠儀、可被励其功由、所被仰下也、仍執達如件
五月廿七日 徳本
武州・上州白旗一揆中

〔解説〕嘉吉元年(一四四二)結城落城で、永寿王丸(足利持氏の末子)は捕えられ京都に送られたが、たまたま、この年六月二十四日(嘉吉の変)将軍義政が横死したため、永寿王丸は許され、文安四年(一四四七)八月、京都より鎌倉に移り、父持氏のあとを継いで鎌倉の主となる。元服して将軍義成(のち義政)の一字を与えられて成氏と名乗る。これに先立つ同年七月、山内上杉憲忠(父憲実は、永享の乱で死んだ持氏と不和となった)が関東管領にあった。成氏は憲忠を父の仇の如く考えて対立したともいわれるが、上杉氏の家臣と公方家、その家臣との対立もあった。宝徳二年(一四五〇)四月二十日は、かねて結城成朝(結城合戦を起こした結城氏朝の子)の鎌倉府出仕に反対していた上杉氏の家臣長尾景仲、太田道真らが成氏の御所を襲撃しょうとしたことを察知した成氏は、急ぎ江の島へ移った。その翌日、長尾、太田氏らの軍と成氏救護にかけつけた小山、宇都宮、山田、千葉氏らの軍と各地で合戦した(江の島合戦)。この合戦は上杉勢がかなりの痛手をうけて終わったが、成氏は上杉方の非を幕府に訴え、その中で、武州一揆、上州一揆などは成氏に忠節を尽くすよう命じて欲しい旨を書き入れている(鎌倉大草子)。それを受けて幕府では、関東奉公方面々中へ、上杉氏権力の基盤となっている武州、上州一揆中にも及んで鎌倉公方に忠功を督励したのが本文書である。しかし事は成氏の考えたようには進まなかった。その後、成氏と上杉氏との対立は深まるばかりで、享徳三年(一四五四)十二月には、ついに成氏によって上杉憲実は殺害され享徳の大乱に癸展、成氏は翌康正元年(一四五五)古河に移りここを本拠として上杉氏と対立、長い戦いとなるのである。

二五二 宝徳二年 (庚午 一四五〇)銘の板碑
所在地 粟坪21 前畑 竜泉寺墓地
主尊・銘 弥陀3・宝徳二年
高さ 三三センチ

二五四 宝徳三年 (辛未 一四五一)・宝徳銘の板碑
所在地 楡木42 東光寺
主尊・銘 弥陀1・教法禅門 宝徳三年十月十四日
高さ 三五センチ

所在地 中沢
主尊・銘 弥陀・宝徳 十月(妙金トアク上・下欠ク)
高さ 六寸五分 (清水嘉作氏調査)

幸徳四年 (乙亥 一四五五、七月二十五日改元康正元年となる)六月一日、尼禅音は吾那村高麗端在家一宇、田畠山林を報恩寺阿弥陀堂に寄進する
二五五 尼禅音報恩寺に寄進〔報恩寺年譜〕埼玉県史資料網7所収
同四年乙亥、尼禅音 以吾那村高麗端在家一宇・田畠山林、寄附于当寺(報恩寺)阿弥陀之文有別
同四年六月一日 尼 禅 音判

〔解説〕当寺阿弥陀とは報恩寺境内にあった阿弥陀堂のこと。禅音は平沢の金剛寺の檀那、金剛寺の什物大般若経を応永二十年六月一日報恩寺に寄付した。史料二〇七を参照。

一五六 康正二年 (丙子 一四五六)銘の板碑
所在地 上鹿山74 屋敷ノ内 西光寺墓地
(光明真言)
主尊・銘 弥陀3・逆修道仙禅門 康正二年 丙子
(光明真言)  七月十六日
高さ 六三・三センチ

康正三年 (丁丑 一四五七九月二十八日改元して長禄元年)二月二十一日、古河公方足利成氏は武州南一揆跡五ヶ所を闕所として佐野盛綱に与え、重ねて佐野一族中に知行の証判を与えた。
二五七 足利成氏書状写〔喜連川家御書案留書〕東京大学史料編策所蔵
武州南一揆五ヶ所事、伯者守(佐野盛綱)雖致拝領、被借召被下候、然者知行不可有相違候、於此上者、可然闕所等各望申候者、重而可被成御判侯、謹言、
二月二十一日    成氏 御判
佐野一族中

〔解説〕足利成氏は康正元年(一四五五)六月十六日以来、古河に移り古河公方を称する。それ以前は鎌倉公方としてあり、武州南一揆は有力な奉公衆として戦力も期待されていたが、成氏が古河に追われてからの武州南一揆は成氏側から離れて、将軍足利義政・関東管領上杉方に付いた。そのため成氏は武州南一揆に与えた所領を没収し、それを成氏与党の佐野盛綱に与えたのである。しかしそれは空文に等しかったであろう。この文書によると、その宛行地を借り上げたことにしているが、佐野一族の知行地であることに相違ないとして、 一揆の者の望みによっては、重ねて判物をもってその知行を安堵するとしている。
この文書は年欠であるが、『埼玉県史資料編5』には、「本文書ハ年欠ナレド、足利成氏ノ所領安堵ニカカワル(康正三)モノニツキ、前号文書(享徳六年足利成氏判物) ニカケテ便宜ココニ収ム」としている。「喜連川家御書案留書」には、享徳四年(一四五五)の次に収めてある。

二五八 寛正六年 (乙酉 一四六五)銘の板碑
所属地 高萩
主尊・銘 弥陀3・妙阿禅尼 寛正六乙酉九月二十日
高さ 二尺二寸 (清水寡作氏調査)

一五九 寛正七年 (丙戊 一四六六、この年二月二十八日改元して文正元年となる)銘の板碑
所在地 新堀37 寺山 聖天院
主尊・銘 弥陀3・寛正七年四月丗日 権律師・覚▢
高さ 五二センチ

二六〇 応仁元年 (丁亥 一四六七、文正二年三月五日改元し
て応仁元年となる)銘の板碑
所在地 大谷沢110 西原 西浦墓地
主尊・銘弥陀3・応仁元年丁亥五月十二日浄珎・禅尼
高さ 七二・五センチ

二六一 応仁二年 (戊子 一四六八)銘鰐口
所在地 新堀 聖天院
銘 (表)久伊豆御宝前鰐口願主衛門五郎
武茄崎西郡(埼玉郡)鬼窪郷佐那賀谷村
(裏)大工渋江満五郎
応仁二年戊子十一月九日
大きさ 経二四センチ・厚五・五センチ

写真23 応仁二年銘鰐口(聖天院)(上が表、下が裏)

〔解説〕武州崎西郡鬼窪郷佐那賀谷村は現南埼玉郡白岡町実ケ谷、ここの久伊豆神社に奉納された鰐口が聖天院の所有になっているのである。いつ、どんな経緯で聖天院に移ったのか全く不明だが、戦乱の折などに鐘、鰐口など鳴り物は原在地から移動することはままある。高麗彦四郎経燈は正平六年(一三五一)足利尊氏に従って直義討伐のため宇都宮より鬼窪に来て、ここで旗上げをしている(正平七年軍忠状参照)から、高麗氏との関係があったのかも知れないが、鰐口の寄進者、願主の衛門五郎についても、またその関係についても全く不明である。大工渋江満五郎については、現岩槻市に渋江の地名があり、武蔵七党野与党の一族に渋江氏がいて岩槻周辺で勢力を振っていたから、ここで渋江氏との関係をもつ鋳物集団の一員であったとみられる。永禄―天正のころになると渋江鋳物師と呼ばれ、主として岩付城の下で御用を勤めて活躍したらしい。県指定文化財。『日高町史』(文化財編)参照。

二六二 応仁二年 ( 戊子 一四六八)銘の板碑
所在地 楡木42 東野 東光寺
(欠)
月待
□道法
主尊・銘 弥陀3 三具足 道本 応仁二年戊子八月廿三日
道徳道順 了杳
逆修道義道金 ▢ ▢▢▢
  妙園(欠)
高さ 六六センチ
備考 観音(サ)と勢至(サク)の円光に十仏を配し、弥陀(キリク)と合せ十三仏になる。キリクの円光は光明真言であろう。

二六三 文明二年( 庚寅 一四七〇)銘の板碑二基
所在地 高萩102 西不動墓地
(光明真言)
主尊・銘 弥陀3・逆修妙心禅尼 文明二年庚刁二月日
(光明真言)
高さ 七二・三センチ

所在地 大谷沢
主尊・銘 弥陀3・文明二庚寅十一月廿三日
高さ 三尺二分
備考 月待供養塔ナラム 三具足 二十名程ノ名ヲ刻ム(清水嘉作氏調査)

文明三年 (辛卯 一四七一) 九月十七日、将軍足利義政は関東管領上杉顕定に御内書を送り、上州・武州一揆等の上州館林城攻略の軍忠を賞する。
二六四 室町将軍家御内書写〔御内書符案〕東京大学史料編茶所所蔵写本
(飯肥奉案文出之)
同前
今度上州立林城進発事、差遣上州・武州一揆輩幷長尾左衛門尉以下被官人等、則時攻落之、数輩被疵之粂、忠節異于他、弥可廻計策候也、
同日(九月十七日)

〔解説〕「御内書符案」は室町幕府から公事以外のことで武家・社寺に出した文書(御内書)の案文が集められ、「室町家御内書案」ともいわれる。ここで取り上げた文書は「御内書符案、文明三 関東方」とある一括文書集の一点である。したがって年欠文書であるが文明三年のものである。文書中の( )書きは、この一括文書の編者による書入れであろう。室町幕府の将軍が上州・武州一揆に対し、立林城(現群馬県館林市、多々良沼に突き出した半島に本丸等があった要害)での軍功を賞した文書。康正元年(一四五五)幕府は関東管領上杉房顕を援けて成氏討伐を決め、同年六月、駿河の今川範忠が鎌倉に攻め入り、成氏は下総の古河に走る。以来成氏はここで古河公方を称し、幕府・上杉氏と戦う。文明三年三月、成氏は堀越公方政知を襲って伊豆三島へ進んだ隙に、上杉軍が立林の要害を攻めたのである。

二六五 文明三年 (辛卯 一四七一)銘の板碑
所在地 横手8 滝泉寺墓地
逆  義界 文明三年辛卯 
主尊・銘 南無阿弥陀仏・(花瓶)・(花瓶)
修  上座 九月廿六日
高さ 五二・五センチ
備考 上欠だが、天蓋の喫塔が左右に見られる義界上座は刻み直しの跡あり(『日高町の板碑』)

二六六 文明四年(壬辰一四七二)の板碑六基
所在地 台18 大沢 (新井定重家)
妙西 
主尊・銘 弥陀1・文明四年十月廿五日
禅尼
高さ 六二・五センチ

所在地 田波目67 榎堂小祠(田中義一家)
文明「ニ+ニ」(四)壬辰
主尊・銘 地蔵図像 三具足
十一月廿四(ニ+ニ)日
高さ 九六・五センチ

備考 地蔵は連座の上に立つ。右手に錫杖、左手に宝珠、大きな頭光。その上を鳥が羽ばたくような形をした天蓋。地蔵の足下には三具足が供えられている。廿四日は地蔵の縁日(『日高町の板碑』)

所在地 横手三 関ノ入墓地(大川戸弘家)
文明四年
主尊・銘 〈欠)・妙心禅尼
正月一日
高さ三六・五センチ

所在地 横手3 関ノ入墓地(大川戸弘家)
現世安穏文明四年
主尊・銘 弥陀3・逆修道禅善門
後生清浄 八月日
高さ 六〇センチ

所在地 横手3 関ノ入墓地(大川戸弘家)
現世安穏 文明四年
主尊・銘 弥陀3・道修道徳禅門
後世清浄 八月日
高さ 六〇・二センチ

所在地 横手3 関ノ入墓地(大川戸弘家)
文明四 ▢▢
主尊・銘 弥陀1・▢▢妙心▢ (欠)
▢月日
高さ 三六・五センチ

二六七 文明七年 (乙未 一四七五)銘の板碑三基
所在地 粟坪21 前畑 竜泉寺墓地
文明七年▢▢ (花瓶)
主尊・銘 弥陀3.道永禅門▢
四月二日 (花瓶)
高さ 五三センチ

所在地 新堀37 寺山 聖天院
文明七年・乙未
主尊・銘 南無阿弥陀仏▢▢道仲
八月吉日
高さ 六二センチ

所在地 猿田44 西ノ内 正福寺墓地
▢▢仏土中唯有一乗法・逆修道求禅門
主尊・銘 弥陀3 文明七乙未八月 日
無二亦無三除仏方便説
高さ 五一センチ

文明八年 (丙申 一四七六)上杉顕定の宰 長尾景春は顕定に叛逆、両者は児玉郡五十子(いかこ、現本庄市)で合戦する。
二六八 鎌倉九代後記〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料編8所収
文明年中、扇谷定正(山内上杉顛定)家老長尾四郎左衛門景春・後入道伊玄ト号ス、定正(顕定)ニ対シ逆心シテ、武州五十子(兄玉郡)ニテ合戦、定正利ナクシテ同国鉢形城(男衾郡)ニ入ル、是ヨリサキニ定正老臣太田道灌、景春カ奢甚ナルヲ見テシリソケン事ヲ諌レトモ、定正許容ナク、其後景春遂ニ叛逆ス、

文明九年 (丁酉 一四七七)四月十日、長尾景春の与党小机城(横浜市)主矢野兵庫助等は、河越城を攻めようと苦林に出陣、河越城将太田図書介資忠(道灌の弟)・上田上野介等は城を出て勝原でこれと合戦し敗退させた
二六九 鎌倉大草子〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料編8所収
(前略)景春(長尾)一味の実相寺幷吉里宮内左衛門尉以下、小沢(相模)の城の為後詰、横山(多摩郡)より打出、当国府中に陣取、小山の城を攻落して、矢野兵庫介を大将として河越の城押の為、若林(苦林?)と云所に陣を取、是を見て河越(入間郡)に籠る太田(資長)・上田等、同四月十日に打出ければ、矢野兵庫助其外小机(橘樹郡)の城主、勝原と云所に馳出合戦しける、敵ハ矢野を初として皆悉く打負、深手負て引退、(後略)

〔解説〕山内上杉家の顛定(関東管領)は、家宰の長尾景信(昌賢)が文明五年 (一四七三)に五十子で戦没ののち、その弟忠景を家宰とした。景信の子景春はこれをうらんで顕定に謀反を起こした。文明八年(一四七八)扇谷上杉定正の家宰太田道灌が駿河今川家の内紛を解決するため出陣した隙に同年六月鉢形城に拠り、五十子(現本庄市北泉五十子)に在陣中の両上杉氏を攻め、顕定・定正等を上野に敗走させた。長尾景春の乱はこうして始まり、景春は永正十一年(一五一四)七十二歳で没するまで山内家に反抗する。それは景春に与する者が多かったことで、景春与党は各地で戦勝した。上杉氏の江戸城・川越城は攻撃の対象とされたが、太田道潅が駿河の今川家の紛争収拾ののちは景春の乱平定のために各地で活躍することとなる。まず、景春方の相模の溝呂木・小磯両城を攻め落とし、河越城には弟の太田資正・上田上野介をはじめとする松山衆を篭めて守りを固めた。そこへ景春の与党実相寺・宮内左衛門尉などが府中に陣取り、矢野兵庫助を大将として、河越城を落とすため若林に陣を取った。これをみて川越城の太田・上田氏などが打って出て、勝原(坂戸市石井・塚越の周辺一帯は勝郷= 『坂戸市史』)で合戦したのである。若林は現在毛呂山町、府中からくる鎌倉街道上にあり、高萩・女影の次、勝原(勝呂原)は苦林からも川越城からもほぼ等距離の地にある。

二七〇 文明十年 (戊戌 一四七八)銘の板碑
所在地 高萩99 乙天神 (高萩公民館)
文明十天 (花瓶)
主尊.銘 弥陀3 妙心禅尼
十月十九日 (花瓶
高さ 六一・八センチ

二七一 文明十一年 (己亥 一四七九)銘の板碑
所在地 北平沢54 久保ケ谷戸墓地 (関口芳次家)
妙春 (花瓶)
主尊・銘 弥陀3・文明十一天四月廿五日禅尼
禅尼 (花瓶)
高さ 五六・五センチ

二七二 文明十二年 (庚子 一四八〇)銘の板碑二基
所在地 女影
主尊・銘 弥陀3・文明十二庚子六月廿三日妙香禅尼
光明真言
高さ 二尺六寸一分 (清水嘉作氏調査)

所在地 中沢105 開場墓地
文明十二年・庚子
主尊・銘弥陀3・妙心禅尼逆修
八月十六日
高さ 七三センチ

二七三 文明十五年 (癸卯 一四八三)文明年間の板碑
所在地 北平沢62 馬場 松福院墓地
道 永
主尊・銘 弥陀1・文明十五年十月四日
禅 門
高さ 四八センチ

所在地 清流27 入墓地 (和田箕家)
逆妙喜
主尊・銘 弥陀1 ・文明▢年▢ (欠)
修禅尼
高さ 三六センチ

二七四 文明十七年 (乙巳 一四八五)銘鰐口〔高麗神社蔵〕
奉掛鰐口一面武州高麗郡大官常住
文明十七年乙巳正月日 願主慶(珍)称
(径二四・六、鋳鋼製。陰刻銘、)

写真24 文明十七年銘鰐口(高麗神社)

文明十八年 (丙午 一四八六)七月二十六日、扇谷上杉
定正は家事の太田道潅を相模国粕屋の館で殺害した。
二七五 鎌倉九代後記〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料編8所収
同(文明)十八年、扇谷定正家臣太田道潅、山内顕定(上杉)ニ対シテ逆心ス、定正制スレトモ承引セス、是ニヨリテ同七月廿六日、相州糟屋館ニテ道潅ヲ誅ス、顕定モ合力トシテ高見原(比企郡)迄出馬ス、其後道灌カ城地川越城(入間郡)ハ、定正ノ嫡子朝良(上杉)カ執事曽我兵庫頭ヲ守護トシ、江戸城(豊島郡)ハ同豊後守ニ守ラス、道道灌カ家来斎藤加賀守(安元)ハ、軍法ノ故実アリトテ定正カ近臣ニス、又道灌ヲ諌シテ以後。心ヲヒルカへシテ定正ヲ亡スへキ企アリ、顕定ニハ関東ノ諸士多ク属スニヨリテ、弥定正ヲ討へキ謀ヲメクラス、定正ハ古河政氏(足利)・成氏男、ト一味シテ、顕定ヲ亡サンコトヲハカル、
一説先年長尾四郎左衛門景春、定正ニ背テ後顕定ノ麾下(旗下)ニ属ス、是ニヨリテ両上杉不和ナリ、其後定正ノ家臣太田道潅カ武略アルコトヲソネミテ、顕定、定正ノ許へ便ヲ遣シテ、両家元来迫恨ナシ、定正家臣道潅ヲ誅戮(ちゅうりく)セハ、我又景春ヲ殺シテ両家ノ戦ヲ止へシトイへ リ、定正是ヲ承引シテ、逐ニ道灌ヲ殺ス、顕定、謀略ノタメニ云ケルニヨリテ、景春ヲ誅セス、定正怒リテ両家弥不和ナト云々、

二七六 養竹院位牌〔川島町養竹院所蔵〕
(表) 故考、香月院殿春苑道潅庵主
(裏) 当院開山叔悦和尚兄開基太田信濃守父
太田左衛門太夫資長
文明十八丙午年七月廿六日逝

二七七 太田資武状〔東大史料編纂所影写本〕練馬郷土史研究会「研究史料第八桝」所収
一 道潅ハ文明十八年丙午七月廿六日、五十五歳にて遠行之由、慥被為聞之段被仰越、拙者右申進候も共通ニ御座候、扨又死去之正説ハ、風呂屋にて風呂之小口迄被出侯時、曽我兵庫と中者太刀付、被切倒なから、当方滅亡、と最後之一言、其時代ニハ都鄙以無隠由、親度々物語仕候、彼曽我兵庫ハ、道真重恩ヲ為蒙者にて御座候へとも、官〔管〕領より之貴命無拠故欺、右之仕合ニ候、道潅如一言、扇谷御家も無時刻相果、河越も属北条之手ニ申候、此物かたり、少々詞も難述、長キ事にて御座候間、存通ハ不被申候事、

二七八 文明十八年 (丙午 一四八六)銘懸仏〔狭山市相原長谷川文略埼玉県史資料編9所収
武州相原(高麗郡)
住又三郎
(不動明王)
文明十八年十一月十五日
(径一六・八㌧鋳鋼製。陰刻銘。)

〔解説〕『風土紀稿』(高麗郡柏原村)に次の記載がある。
剣明神社 里正武兵衛が持ちなり、宝永年時に武兵衛が曽祖父某屋舗、後に井を穿ちて一円鏡を得たり、正面に顔形を鋳造し、上に梵字、下に劔明神、右に文明元年二月廿八日左に柏原住人と鐫せり、是を神体とせしに、故ありて失たれは、別に円鏡を鋳てかへ置り、それも旧きことにや、鏡面に焚字一字及び文明十八年十一月十五日、武州柏原住人又三郎と刻す、依て今安置する神体は、古体を模して木にて製せるなり、

長享元年 (丁未 一四八七、文明十九年七月二十日改元)十一月三日、これより前、山内上杉顕定は養子の憲房と相談して、扇谷上杉定正退治を謀る。道潅の子太田資康は山内家に従い、定正は古河公方足利政氏の合力を得て、この日菅谷原に対陣する。
二七九 
① 北条記〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料編8所収
山内・扇谷不和の事
明ル年改元有て、長享元年ニ移ル、其比山内顔定・憲房御相談有て、扇谷ノ修理権大夫定政ヲ対治アルへキト聞エケル故、道灌カ子息太田源六郎、甲州へ忍出て、山内殿ノ下知ニシタカヒ、軍勢ヲ催ケル、関東八州ノ大名・小名、道潅有シ程コソ扇谷殿へ心ヲ寄シニ、何シカ扇谷ノ柱石推ヌ、何ニヨリテカ扇谷殿へ参ルへキトテ、皆山内殿へ馳参ル、定政・朝艮(扇谷上杉)ハ糟谷(相模)ニアリナカラ、河越ニ曾我ヲ寵メ、小田原に大森式部少輔ヲ寵メ、僅ニ二百騎ハカリニテ、八ヶ国ノ大軍ヲクツカへサント、少モサハカヌケシキ也、定政、使者ヲ古河ノ公方へ参ラセ、今度可太田入道当家(道灌、資長)へ二心ナク忠功ヲ積、度々奉公不。勝計、然とも山内へ逆心ノ企侯間、訣伐ヲ加候へハ、無程山内ヨリ当方対治ノ企、仰何事ニ依テ一家ノ好ミヲ忘レ、定政可討支度難心得、東八ヶ国亡国スへキ基ヒ也、縦ヒ山内ヨリ当方対治ノ企アリトモ、御所ニ於テハ正理ニマカセ、当方へ御下知ヲ被下、御旗本ニテ、家ノ安否ヲ可定由、詞ヲ轟シテ被申ケレハ、古河公方政氏(足利)、 御内得(納得)アリテ、定政へ合力ノ御動座、御加勢ニ及ヒシカハ、上杉普代ノ老臣長尾(景春)左衛門尉入道伊玄、定政へ馳付ケル、是ヲ初トシテ、左輔右弼何レモト勝レクル義士ナリケレハ、縦ヒ小勢ノ味方ニテ、敵何万騎アレトモ恐ルルニ不足ト、案ノ内二推量シテ、驚ク気色モナカリケル、(後略)

② 鎌倉管領九代記五〔内閣文庫本〕東松山市史資料網第二巻所収
同年十一月三日、両上杉の大将相(武)州菅谷原に対陣す

長享二年 (戊申 一四八八)正月、両上杉氏の軍勢、相・武の間を横行する。
二八〇 梅花無尽蔵〔五山文学新集〕埼玉県史資料編8所収
戊申上(長享二年) 武蔵所作
正月旦試筆 関左是時上杉之兵横行相武之間、八州大半逆波、未決其雌雄、余尚萬武陵無恙而巳
誕戊申重値戊申、残生六十一閑人、暁鴬未度風塵積、
夢裡尋花濃尾春、

長享二年 (戊申 一四八八)二月五日、扇谷上杉定正は相州実蒔原に出陣、山内上杉顕定の軍を破る。
二八一 北条記〔内閣文庫本〕埼玉県史資料編8所収
山内・扇谷不和の事
(前略)長亨二年二月五日、山内ノ軍勢、顕定・憲房両大将ニテ一千余騎、相州実蒔原へ出陣ス、聞之而、定政僅ニ遑兵二百騎ヲ相具、数百里ヲ一日一夜二打越て、参然タル敵ノ勇鋭ヲ見ナカラ、機ヲ撓メ給ハス、押寄責給へハ、敵モ小勢卜見てンケレハ、少も擬議セス相懸ニ進ミ、時ノ声ヲ三度作り、楓卜乱てマクツ、マクラレツ、半時計戦テ、両陣互ニ地ヲ易へ南北ニ分レて其路ヲ顧レハ、原野血ニ染テ野草緑ヲカへニケル、暫ク休息テ亦乱合て、追廻懸違へ、喚キ叫ンテ戦シカ、山内ノ大勢纔(わずか)ノ小勢ニ懸負、四方ニ乱テ落行ケレハ、定政(扇谷上杉)モ小ヲ以大ヲ計事、不思議ノ勝ト思ヒケレハ、勝時ヲ上テソ帰リケル、

長享二年 (戊申 一四八八)六月八日、山内顕定は須賀
原(菅谷原現嵐山町)に出陣し、扇谷定正に対陣する。
一八二 北条記〔内閣文庫本〕埼玉県史資料編8所収
高見原合戦事
(前略)長享二戊申年六月八日、山内殿上杉民部大輔顕定・同兵庫頭憲房、須賀原へ出陣ス、坂東八ヶ国ノ勢トモ、我モ我モト心馳集て如雲霞、甲胃ノ光耀ヒテ、明残ル夜ノ星ノ如シ、鳥雲ノ陣ヲ堅メケル扇谷殿上杉修理大夫定政、子息五郎朝良、古河公方(足利政氏)ノ御動座ヲ申ナシ、御旗ヲ打立、長尾景春入道(伊玄)参リシカハ、小勢ナレトモ家ノ安否、身ノ浮沈、只此一軍ニ定ムへシト各イサミ、束西ニ敵有トモ思ハヌ気分アラハレタリ、然レトモ、定政ノ弟幷ニ子息五郎朝良、若輩ニテ今日初テノ戦ヒナレハ、最前ニ懸リテ長尾新五郎(景長)・同修理亮(顕忠)ニ懸合、散々ニ進(追?)立ラル、顕定・憲房、斯レニ横合、散々ニ追立て、諸軍機ヲ得テ抜連て懸ル所ニ、定政高キ所ニ馬ヲ打上、アレ迫カへセト下知シテ、懸足ヲ出シ玉へハ、左右ノ軍兵、大将ノ前ニ馳抜く、一度ニハラリト切てカカル、喚キ叫テ戦フ声、サシモ広キ武蔵野ニ余ル計ソ聞エケル、カカリシ処二長尾伊玄入道(景春)、藤田卜懸合退散シテ、其軍勢ヲ其ママ横ニ立ナヲシ、山内殿ノ旗本へ突テカカル、顕定・顕房、両方ノ敵ニ追付ラレテ終ニハ相負引退ク(後略)

長享二年(戊申一四八八)六月十八日、比企郡須賀谷原において、両上杉軍合戦し、死者七百余人・馬数百匹死す。
二八三 梅花無尽蔵〔五山文学新集〕埼玉県史資料編8所収
(八月)十七日、入須賀谷(比企郡)之北平沢山、間大(太)田源六資康之軍営於明王堂畔、二三十騎突出、迎余、今亦深泥之中解投、各拝其面、賀資康無芸、余己暫寓云、
明王堂畔問君軍、雨後深泥似度雲、馬足末臨草吹血、
細看要作戦場文、六月十八日、源(須)賀谷有両上杉戦、
死者七百余矣、馬亦数百足(疋)

〔解説〕梅花無尽蔵は、室町時代の臨済宗一山派の僧万里集九(応仁乱後還俗して漆桶万里と称した)の庵室の名であるが、漢詩に長じその詩集にもこの名称を用いた。集九は文人僧侶との交遊の外、大名との交遊もあり、特に太田道潅からは招請をうけ、江戸城で漢詩を講じている。文明十八年太田道灌が扇谷定正に殺害された後は美濃に帰ろうとするが、定正に抑留されたり、叔悦禅懌の請をうけて漢詩を講じて留まる。長享二年八月、江戸を出て、武蔵鉢形、上野国白井、沼田、越後などへ旅立つ。その八月十七日、道灌の子源六資康が定正に背き山内顕定に参陣し、須賀谷(比企郡菅谷)に在陣中を訪ねるのである。そして、去る六月十八日、両上杉の大合戦のことをきき、その血なまぐさい戦場の跡をみて詩にその模様を托したのである。詩の「明王堂」とは現嵐山町平沢にある不動明王の不動堂である。

長享二年 (戊申 一四八八)十一月十五日、扇谷上杉定正は山内上杉顕定と高見原(現嵐山町)に戦う
二八四 足利政氏感状写〔相州文書〕埼玉県史資料編5所収
去十五日 於武州高見原(比企郡)合戦之時、被疵之条、神妙也、
弥可抽戦功之状 如件
長享二年十一月廿七日 (花押影)(足利政氏)
佐藤助太郎殿

長享三年 (己酉 一四八九、この年八月二十一日改元延徳元年)四月二十五日、渋垂小四郎が永享の乱(一四三八)中に押領された高麗郡広瀬郷内大谷沢村などの本知行分の安堵を申請した目録に、足利高氏が証判を与えた。
二八五 渋垂小四郎本知行目録写〔渋垂文書〕埼玉県史資料編5所収
(証判)「(花押影)」(足利高氏)
渋垂下野小四郎申本知行分
一武州高麗郡広瀬郷内大谷沢村
一同国大寄郷内芦苅庭村
一同国足立郡大官郷内吉野村
一同国小山田保鶴間郷内小河村幷心広寺田畠在家
一下野国足利庄渋垂郷内佐野給
一同国三河郡内上名間井村
一相州八幡庄内北原郷
一同国三浦郷内久野谷郷内猿江村幷相原在家
右、永享乱刻 被致強入部地也 若偽申候者 
八幡大菩薩可有照覧候也
長享三年四月廿五日

〔解説〕永享の乱は永享十年(一四三八)八月に始まり十一月に終息したが、その後半戦ともいうべき結城合戦は(永享十二年三月)持氏の遺児春王九、安王九、永寿王丸を擁立した結城氏が中心となって起こした。当時、幕府や上杉氏に対する反発が強くあったことから一年以上も戦乱が続いた。嘉吉元年(一四四一)四月結城城は落城し、春王九・安王丸は斬られたが、永寿王丸は将軍義教の死により、命をながらえ、宝徳元年(一四四九)鎌倉に移されて持氏の跡を継ぎ成氏と名乗り、鎌倉府は再興された。しかし、成氏にとって上杉氏は仇敵であったため、両者の対立は深まりやがて成氏は古河へ追われる。このように永享の乱以来争乱は絶えず、関東に主のいない状態が続いて、土地所有関係も乱れた。渋垂氏は下野国渋垂郷(現足利市上・下渋垂)を本貫地とした国人であったが、永享乱による乱れで所領が不知行化したため回復を願い、安堵状の申請をしたものであろう。高麗郡広瀬郷内大谷沢村は現日高市である。大寄郷内芦刈場は不明、加治郷に芦刈場(現飯能市)の地名はある。

二八六 延徳二年 (庚戊 一四九〇)銘棟札〔飯能市南我野神社〕埼玉県史資料編9所収
(表)
大檀那小野朝臣岡部新三郎員忠
熊野宮再興  敬白
河神田大工小室義三郎吉次
口口二郎
(蓑)
修造奉行 来蔵坊□□□ 延徳二年庚戊卯月吉日
加治中沢次郎五郎政広 敬白

〔解説〕長三八・三上幅九・〇。ほとんど墨色は残らず。かろぅじて文字跡が確認される。銘文は『銘記集』による。検討を要す(『埼玉県史』)。
加治中沢次郎五郎政広は加治郷の中沢氏で中世鍛冶師であった。

二月一日、太田資清(道真)没する。
二八七 太田道真位牌〔川島町養竹院〕
(表)
自得院殿実慶道真庵主
(蓑)
当院開山叔悦和尚父 開基太田信濃守祖父
太田備中守資清
二月朔日逝

〔解説〕太田道海は主君の上杉定正によって文明十八年(一四八六)に謀殺されたが父道真は天寿を全うして八十三歳で延徳四年に亡くなったのである。「太田家譜」によれは、越生の竜穏寺を建立(中興)して菩提所とし、越生に常住、自得軒と称していたという。また、没年については同家譜に「明応元壬子年二月二日卒于時八十三歳号自得院殿実歴道真庵主」とある。位牌には、年紀がなく、ただ二月朔日とのみ記してある。ここでは二月一日をとった。

二八八 廷徳四年(王子一四九二)銘 南村(飯鰭市)天神社棟札(所在不明) 宗稲武蔵風土記稿3・埼玉県史資料編9所収
(表)
同舎弟・鶴房丸・亀房丸・禄位伏専寿算保亀鶴之甲子貌容等
奉賀当山大檀那小野員忠本願平沼・兵衛次郎重政・同源六重宗・専子孫之寿算更無彊
椿松之春秋曽為仏霊湯永為王道柱石臭六百四十歳以後造営見之者也
(裏)
神河田 大工場窟紀諸州郎溺離村忙錯男藤太郎太夫延徳看晋月十九日 翁上中沢道了社人平沼八太夫同子右衛門四郎太夫

延徳四年(王子一四九二、七月十九日明応元年となる)父当(醇所鍛)冶次同郎番五子郎四弥政郎三広次郎郎
上谷萱舘蒜悶

二八九 延徳四年 (王子 一四九二、この年七月十九日改元して明応元年となる)銘の板碑二基
所在地 新堀39 吹上霊巌寺墓地
  延徳二天(花瓶)
主尊・銘 弥陀3・妙林禅尼逆修
六月九日(花瓶)
高さ 五一・五センチ

所在地 横手8 滝泉寺墓地
逆延徳「ニ+ニ」(四)年(花瓶)
主尊・銘 弥陀3・妙泉禅尼 壬子
修十月日(花瓶)
高さ四七・五七ソチ

明応三年 (甲寅 一四九四)十月三日、これより前、七月より山内・扇谷両上杉氏の抗争が再開、扇谷定正は伊勢宗瑞の援軍を併せ、山内題定は武・上・相の一揆を集めて荒川で対陣、この日、定正は落馬して頓死した。
二九〇 石川忠総留書〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料編8所収

明応三甲寅七月廿一日、上杉(山内・扇谷)同名再乱のはしめ、八月十五日関戸(多摩郡)要害没落、九月十九日相州玉縄要害没落、矢野右馬助討死、伊勢入道(長氏)宗瑞越山、同廿八日当国(武蔵)久目(米)川(多摩郡)着陣、範亭与宗瑞(扇谷定正)はしめて対談、十月二日両陣すすミ高見(比企郡)、与顕定(山内上杉)荒川をへたて対陣す、同三日範亭・宗瑞(北条早雲)両陣打立、川を渡らんとする処に、範亭落馬して頓死軍敗、川越(入間郡)の城に帰り、範亭別称大通護国院定正宗瑞とは早雲庵、

二九一 松陰私語〔東大史料編纂所騰写本〕埼玉県史資料編8所収

(前略)其後山内(上杉顕定)武州国中へ進発、武・上・相之一揆四五千騎供奉、五日十日打過、及数月数年、方々陣壘不相定、河越者(扇谷上杉定正)松山稻付(比企郡)方々地利遮塞御方行ヲ、其上ニ豆州押妨之早雲入道(伊勢長氏)ヲ自河越(入間郡)被招越、山内者向松山張陣被相攻、諸一揆陣労之上ニ、外国之新手数寓人関東中ニ乱入、先被乗執相(武?)州河越、乗勝江戸(豊島郡)・河越払両城被打出、山内ハ藤田(榛沢郡)・小舞田(榛沢郡)被人馬、敵者武州之越荒河者、可有合戦会議、向河辺引渡而張陣、早雲カ衆武州塚田(大里郡)前後ニ張陣、然処河越之治部少輔殿(修理大夫?)(扇谷上杉定正)頓死、江戸・河越・早雲衆悉退散、誠天道之令然処欺、(後略)

〔解説〕「石川忠総留書」は明応三年七月二十一日の両上杉氏の合戦から、天文十年の北条氏綱の死までの諸合戦が簡潔に記されていてわかりやすい。両上杉氏の抗争は既に十年に余り、長享二年(一四八八)両軍の須賀谷原(現嵐山町)の合戦は山内顕定軍の敗北で一応の結着をみた。しかし、それは惨状を極めた合戦だった。「松陰私語」は、両上杉の「錯乱十有余年」と評している。それから明応三年に至り両者は再び抗争を開始し、扇谷定正が没落していく。「松陰私語」は岩松氏(新田氏出)の陣僧であった松陰による永正六(一五〇九)年成立の記録である。岩松家は、最初は上杉方に従い、のち古河公方に従った。そうしたことで、「松陰私語」は、両上杉氏の抗争についても詳しい記録がされているので「石川忠総留書」と併用して理解できるように掲載した。なお、扇谷上杉定正没後、その跡は朝良が継いだが、朝良の子朝興はやがて北条氏に追われ、朝興の子朝定をもって扇谷上杉氏は滅亡する。

二九二 明応三年 (甲寅 一四九四)銘の板碑
所在地 清流27 入墓地 (和田賓家)
▢応三天・甲刁
主尊・銘 (欠)  (花瓶)
五月十六日
高さ 三〇センチ

二九三 明応四年(乙卯一四九五)銘棟札〔飯能市南我野
神社〕埼玉県史資料鰐9所収
(表)
大檀那小野朝臣岡部新三郎員忠 修造奉行平沼兵衛
次郎重政当社御造栄同内鳥居道立 明応四年陀十一月廿夕
十六日 敬白
河神田大工小室藤三郎吉次同弥次郎
(裏)
加治中沢次郎五郎政広香子道貞同弥三郎
執持 実蔵坊 柴原九郎三郎 会所社入明奉 同子左衛
門三郎大夫
本山谷津孫三郎 塩丸三郎太郎 岩崎兵衛次郎
同子六郎二郎
(長五八・五 幅一二・五 、検討を要す。)

二九四 明応四年 (乙卯 一四九五)銘の板碑
所在地 大谷沢110 西原 西浦墓地
明応「ニ+ニ」(四)天 (花瓶
主尊・銘 弥陀3・▢善禅門
(欠)
長さ 三一センチ 

二九五 明応五年 (丙辰 一四九六)銘の板碑
所在地 中鹿山76 前耕地 泉乗寺墓地
明応五年・丙辰
主尊・銘 (欠)  (花瓶)
▢月五日
高さ 四七・五センチ

二九六 明応七年 (戊午 一四九八)銘の板碑
所在地 高麗本郷10 井戸入 安州寺墓地
明応七天・▢
主尊・銘 弥陀3・妙征禅尼  (花瓶)
九月十 六日
高さ 三九・八センチ

明応八年 (己未 一四九九)二月十日、平沢村滝蔵坊の祐全は高麗惣社の大般若経の一部が破損したのでこれを補写し、その第三百二十三巻に奥書をした。
二九七 大般若経巻第三百二十三奥書〔高麗神社蔵〕
(奥題)
大般若波羅蜜多経巻第三百二十三
天下第一之悪筆掛酌千万、書写御□候待共、高麗惣社之大般若書次候間、如本大概斗(計)書写仕候、後世人ニ恥入申候得共、 一者

為逆修、一者三国伝灯諸大師等惣神分、殊者現世安穏後生善処為也、筆者武州高麗郡平沢村大滝滝蔵房久住者仁、実名祐全書写早(畢)、自思召侯人々者、六字名号一反、可被廻向候者、
可為仏果幷者(菩提)也、
明応八季大才己未二月時正十日書写异、

25 大般若経第三百二十三奥書(高麗神社)

〔解説〕この書写は建保五年(一二一七)にできた全六〇〇巻の般若経(四五六巻現存)の一部が長い年月の中で破損などしたので、その補写・補筆として行われたものである。この書写をしたのは平沢村大滝の滝蔵房に長く住居した祐全だという。祐全については不明だが、ここの小窪氏との関係があったのではなかろうか。写経の目的の一つは自分の逆修のためでもあったと書かれている。

二九八 明応九年 (庚申 一五〇〇)銘の板碑二墓
所在地 久保16 亀竹 勝蔵寺墓地
明応九天
主尊・銘 1・逆修道▢ 禅門 (花瓶)
八月 日
高さ 三九センチ 庚申

所在地 高麗本郷13 千鹿野墓地
▢逆妙心
毒・銘(欠) 明応九年□月 日
▢▢禅尼
高さ 四七センチ

二九九 文亀二年 (壬戊 一五〇二)銘板碑二基
文亀銘板碑一基
所在地 高萩99 乙天神 (高萩公民館)
文亀二天
主尊・銘 弥陀3 妙慶禅尼 (花瓶)
正月三日
高さ 五三・五センチ

所在地 楡木42 東野東光寺
浄称
毒・銘弥陀3 文亀二年壬戊十月日
逆修
高さ 七〇・五センチ

所在地 下大谷沢
主尊・銘    文亀
道▢▢▢
高さ 八・二寸 (清水嘉作氏調査)

文亀三年 (癸亥 一五〇三)三月十八日、足利高氏(高基)は、渋重大炊助の知行分を安堵する。この知行分中に高麗郡広瀬郷内大谷沢村・榛沢郡大書郷内達苅庭・足立郡大宮郷内吉野村などがある。
三〇〇 足利高氏安堵状写〔渋垂文書〕内閣文庫蔵埼玉県史資料編6所収
(封紙ウハ書)
「渋重大炊助殿  政氏」
知行分所々之事、如先々、不可有相違候、謹言、
文亀三年
三月十八日 (花押)(足利高基)
渋垂大炊助殿

〔解説〕古河公方足利高氏が渋垂下野小四郎宛に、所領安堵状を長享三年(一四八九)四月二十五日に発給している。これは恐らく永享の乱で不知行化した高麗郡広瀬郷大谷沢村(現日高市)などの知行を安堵したものであった。しかし、本文書の場合、受給者は渋垂大炊助と変った。渋垂氏の代替りにより再度安堵状の発給が要請されて行われたものであろう。発給者足利高氏は足利高基の初名である。祖父は成氏、父は政氏である。古河公方第三代の地位につくのは永正九年(一五二一)六月で、その前は父政氏が古河公方であった。本文書は父政氏が公方のときの文書である。古河公方は初代以来、使用した花押が似ていた(公方様)ので、本文書も従来政氏の文書として見られた。しかし本文書の花押が政氏の花押と僅かに異なり、高基が公方就任前、高氏と称した時代に使用した花押であることがはっきりした(武井尚「足利高基の花押について」県立文書館紀要三号)。このことは、その後の高氏(高基)の行動・花押などの検討とともに、高基の政治的立場を理解する上で重要な意義を持っている。

永正元年 (甲子 一五〇四)八月二十二日、山内上杉顕定は、上戸陣を出て、仙波に陣を移し、この日河越城を攻める。
三〇一 石川忠総留書〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料編8所収
一、永正元年甲子八月廿一日、顕定出于上戸(高麗郡)之陣移仙波(入間郡)陣、翌日向河越城(入間郡)寄陣毎日矢軍、

〔解説〕文明十八年(一四八六)の扇谷定正の太田道灌殺しから、山内・扇谷両上杉氏の不仲が生じ、長享二年(一四八八)の菅谷原における合戦は凄惨を極めるものであった。明応三年(一四九四)定正死後、扇谷家は朝良が跡をとり、両家の争いは続いた。永正元年(一五〇四)川越城にいる扇谷朝良を攻めるため、上戸(高麗郡、現川越市)に陣を張っていた山内顕定の軍は八月二十一日ここを出て川越城を攻めたのである。

永正元年(甲子一五〇四) 九月二十七日、両上杉氏は立河原で合戦する。駿河の今川氏・北条氏は扇谷上杉氏に加勢し、山内上杉氏には越後の軍勢が加勢する。扇谷上杉方は夜に入りて敗戦して川越城に入る。川越城を囲み日夜戦う。
三〇二

  • 鎌倉九代後記〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料鰐8所収

永正元年九月廿七日、武州立河原(多摩郡)ニテ上杉(扇谷)朝良卜同顕定(山内上杉)憲房(上杉)・合戦、駿河国主今川氏親、兵ヲツカハシテ朝良ニ合力ス、又北条長氏(伊勢)モ松田左衛門ニ八十騎ノ兵ヲ相添テ朝良ニ加勢ス、長氏初朝良ノ分領小田原城ヲ攻取ルトイへトモ朝良ノ旗下ニ属スヘシト和ヲ約スニヨリテ今合力ニ及フ、終日戦テ勝負ヲ決セス、夜ニ入テ顕定ノ加勢トシテ越後ノ軍勢馳釆ル、朝良荒手ニカケ負、引退テ川越城(入間郡)ニ入ル、
永正元 同年十月、顕定(山内上杉)・憲房(上杉)幷上杉民部大輔房能腰野其家臣長尾能景等、越州・上州ノ軍勢ヲ率シテ川越ヲ囲ミ、日夜責戦フ、


  • 松陰私語 〔東大史料編纂所蔵〕埼玉県史資料編8所収

山内河越両家牟楯者、非郡部之大途、其錯乱十有余年也、果而無其曲者、関東之照堪、外国之噸塀也、歎而猶有余者也、

〔解説〕川越城を追われた扇谷朝良は江戸城に退くが、山内顕定はこれを追って新座郡白子に陣する。九月二十日北条早雲は扇谷朝良を支援して進出し、永正元年九月二十七日、扇谷朝良・今川氏親・北条早雲の連合軍は山内顕定・足利政氏との連合軍を多摩郡立川原で破り、川越城も奪回する。山内顕定は越後守護である同族の上杉房能の援助を乞い、十月、その連合軍をもって川越城を包囲し対陣する。十二月六日顕定の本陣上戸に参陣した発智氏を賞したのである(次号文書)。尚、発智氏は実田攻略の際にも軍功あり、疵を負ったので賞され、上杉房能の感状が、翌永正二年正月十三日に出された(発智文書)。
永正元年九月二十七日の立川原(立川市)合戦は、現在の多摩川・浅川の合流点から甲州街道にかけての場所で行われたと考えられている(『埼玉県史』通史編二)。この近くに高幡・得恒郷があり、高幡高麗氏がいた。この合戦で顕定配下の長尾六郎や上州一揆など二千余人が討死し、生捕馬・物の具が充満した(「宗長手記」)。顕定方として参戦した毛呂顕李は、武州立川原合戦において戟死した者のための百万遍念仏として銅証四八口を鋳造し各所に奉納した。合戦の行われたこの年は、天下飢鯉にして大地震の年であった。こうした中でも両軍の戦闘は続いた。『松陰私語』はその中で「欺いても、なお余りあるものなり」と評しているのである。

永正元年 (甲子 一五〇四)十二月六日、越後守護上杉房能は、多摩郡立河原で苦戦(九月廿七日)の上杉(山内)顕定を救援して、武蔵卜相模に進陣する(十二月一日和田攻略、十二月廿六日実田攻略)。この日、房能、顕定の本陣高麗郡上戸にきた発智・江口・楡井らの諸氏に感状を送り、その陣労を慰めた。
三〇三 上杉戻能書状 (小切紙)〔癸智文書〕埼玉県史資料編6所収
(端裏切封墨引)
就武州上戸(高麗郡)難儀、
各差遣候処、向相州相動之由、
注進到釆、数日陣労察之候、謹言、
十二月六日 房能(上杉)(花押)
発智六郎右衛門尉殿

永正二年 (乙丑 一五〇五)三月、扇谷上杉氏と山内上杉氏は和睦する。
三〇四 鎌倉九代後記〔内閣文庫蔵〕埼玉県史資料編8所収
同二年三月、 朝良(扇谷上杉)卜顕定(山内上杉)和睦シ、川越城(入間郡)ノ囲ヲトキテ、顕定ハ上州:帰陣、朝良ハ江戸城(豊島郡)入ル、

永正二年 (乙丑 一五〇五)二月十五日、古河公方子足利高基は、渋垂小四郎の本知行分の高麗郡広瀬郷内大谷沢村らの地を安堵する。
三〇五 足利高基袖判渋垂小四郎申状写〔渋垂文書〕埼玉県史資料編6所収
(花押)(足利高基)
渋垂下野小四郎申本知行分、
一武州高麗郡広瀬郷内大谷沢村、
一同国大寄郷(榛沢郡)内蘆苅庭村、
一同国足立郡大官郷内吉野村、
一同国小山田保(都築郡)鶴間郷内小河村幷心広寺田畠在家、
一下野国足利庄渋垂郷内佐野給、
一同国三河郡内上名間井村、
一相州八幡庄内北原郷、
一同国三浦郡内久野谷郷内猿口村幷柏原在家、
右、永享乱刻、被致強入部地也、若偽申侯者、
八幡大菩薩可有照覧侯也、
永昌(正)弐年二月十五日

〔解説〕渋垂下野中四郎は、長享三年(一四八九)四月二十五日、同文の知行安堵を古河公方足利政氏に申請して証判をうけている。文亀三年(一五〇三)三月十八日には政氏の子高基の安堵状をうけている。そして永正二年二月十五日再び高基の安堵状をうけた。当時古河公方足利政氏は健在であった。高基の安堵をうけたことについては、それだけの影響力が高基にあったことを示すものとして注目されよう。なお、渋垂氏が再三の安堵状の申請をして証判を受けなければならなかったほど、不知行化していたことを物語る。遠隔地の所領の場合は特にそうであった。内乱の長期化がその背景にあった。

三〇六 永正二年 (乙丑 一五〇五)銘の板碑
所在地 大谷沢109 谷津墓地
永正二天乙丑
義.銘弥 陀3・妙琳禅尼
八月三日
高さ 四三・五センチ

永正十年 (葵酉 一五二二)九月十二日、浄聖院良賀、秩父の丹一族の旦那職を、十二貫文にて、廊之坊に永代売渡す。
三〇七 旦那売券〔潮崎稜威主文書〕埼玉県史資料編6所収
永売渡申旦那之事
合拾弐貫文
右彼旦那者、むさしちゝふ之丹之一族、何之先達も、引候へ、一円ニうり申候、同廊之御先達之引丹之一族、但何れ之名字ニても侯へ、我ら之持之分、諸国御先達引売渡申処明鏡也、若自何方違乱煩出来候者、本主道遺可申侯、仍永代之状如件、
永正十年九月十二日 浄聖院 良賀(花押)
買主廊之坊  口入大石坊

(参考) ちちふ之丹之一族の丹那職売券は、永正六年にも作製された。次のとおり。
旦那売券〔潮崎稜威主文書〕埼玉県史資料窮6所収
永売渡申旦那之事、
合七貫五百文、
右彼旦那者、我々錐為重代相伝、依有要用、武蔵国ちちふ(秩父)の丹之一族一円、同何之先達も引候へ永売渡申候、又御先達引何之名字ニて候共、諸国を一円相副渡申所明鏡也、若何方より違乱妨出来候共、本主道遺可申候、又天下一同之徳政と申事侯共、於彼状相違有間敷候、仍為後日永状如件、
浄聖院
永正六年己巳ニ月廿五日     良賀(花押)

永正十二年 (乙亥 一五l五)二月、高鷲郡長沢(現飯能市)の借宿大明神に、道久(大石氏)より神鏡が奉納された。
三〇八 円鏡銘〔武蔵銘記集〕
借宿大明神願主道久(大石氏)
武州高麗郡我野郷之内長沢村
永正十二年乙亥二月吉辰

〔解説〕『風土記稿』(高雅郡之十長沢村)には次のとおり。
借屋戸社(前略)「神体円鏡二つ、各五寸八分、銘に借宿大明神、願主道久、武州高麗郡我野郷之内長沢村、永正十二年乙亥二月吉辰とあり、二面とも銘同じ」(後略)
なお、道久は大石道久である。

永正十二年(乙亥一五l五)三田政定は下我野郷長沢 (現飯能市)の借宿大明神社殿を建造する。
三〇九 棟札〔『新編武蔵風土記稿』高麗郡之十長沢村〕
借星戸社(前略)「永正十二年の棟札に、大檀那三田平朝臣政定とあり、例祭九月九日、下我野郷五力村の鎮守なり、神職加藤蔵人吉田家の配下なり」

〔解説〕三田氏は多摩郡の杣保*を本拠とした青梅勝沼の城主であった。改定は三田弾正忠氏宗の嫡子。長沢の借宿大明神は下我野郷五か村の鎮守。つまり、借宿大明神の社殿を三田改定が築造したということは、このとき以前に勝沼城主三田氏が我野郷の土豪たちを被官化していたということになる。入間郡・多摩郡・高麗郡にまたがる山峡部に三田氏の領地が形戊され、北条氏支配下となってもその被官化した三田氏の所領はそのあたりに散在しそれらは三田谷と称された(『北条氏所領役帳』)。この三田谷が高麗郡内に形成された時期を知る重要な資料である。ちなみに、上杉氏支配下にあっては勝沼衆といわれた者の中に、三田弾正・毛呂・岡部・平山・師岡・賀沼修理亮等がいた(永緑四年「関東幕注文」上杉文書)。毛呂氏は毛呂郷(現毛呂山町)、岡部氏は下我野郷(現飯能市吾野の下流地域)を本拠とした在地土豪であり、平山・師岡両氏も三田氏の与力衆として活躍した。これらの人々の三田氏被官化を考えるにも有力な資料である。
なお、前号の史料にみるとおり、借宿明神には大石氏が円鏡を施入している。大石氏の勢力がここにも及んで
いたとみられる。
杣保(そまのほ)、杣山http://hya34.sakura.ne.jp/tamahoumenn/somanoho/somanohorekisi.html
 中世、羽村と青梅と奥多摩等の地域は杣保(そまのほ)と言われていた。また、杣山とは木材の切り出し、植林の為の山を指し、その範囲は奥多摩地方から高麗郡、入間郡西部、比企郡西部更に飛地として秩父地方の金尾、黒谷が該当。

三一〇 永正十三年(丙子一五一六)銘棟札〔飯能村諏訪明神社〕蒜相武蔵夙土記稲し所収
諏訪明神社………………社伝詳ならず唯棟札二札の写あるのみ其文に日、大槽那加治菊房丸助、願檀那平重清、同菊房丸祖母昌忠、永正十三丙子初春十一日、又其一に日、諏訪官再興之事、本願智観寺住僧法印慶貿、大槽那加治勘解由左衛門書範、当所諸檀那代官小室三右衛門戊就坊、千時天正十二年七月吉日 とあり、戊就坊は今の別当大泉寺なり、此寺享保九年回禄の災に躍りし時、棟札も亦灰塵に委す 仍て今写のみを存す(後略)

三一一 永正十三年(丙子一五一六)銘の板碑二基
所在地 高麗本郷15 上ノ原 長寿寺墓地
▢  ▢▢▢
主尊・銘 弥陀3・永正十三年八月▢▢
修公庵主
高さ 七〇センチ

所在地 中鹿山78 上若宮墓地
逆 修 丙
主尊・銘 弥陀3・永正十三年九月六日
妙 祐 子
高さ 六七センチ

永正十四年 (丁丑 一五l七)五月十四日、扇谷上杉氏の奉行人出雲守直朝・弾正忠尊能は、越生の山本坊に対して、高萩の実相寺ほか五寺の支配権を返付することを証した。
三一二 出雲守直朝・弾正忠尊能連署証状写〔相馬文書〕埼玉県史資料編6所収
武蔵国人西郡(入間郡)之内従出戸上之事、浅羽(入間郡)之潅常坊井大聖坊小祐福寿寺・赤治(沼?)(比企郡)之今蔵坊・奥田(比企郡)円通寺・高萩(高麗郡)之実相寺、何モ如前々被返置也、為後日之状如件、
永正十四年訂 出雲守直朝(花押)
五月十四日 弾正忠尊能(花押)
越生
   山本坊

〔解説〕出戸(坂戸市粟生田字出戸)、浅羽(坂戸市浅羽)、小祐(小用?)・赤沼・奥田(以上鳩山町)の五寺の支配を、以前のとおり山本坊(越生町西戸本山派修験であったが、それ以前は越生の黒山にあったことがわかる)に返すというのである。山本坊は潅常坊・大聖坊・福寿寺・今蔵坊・円通寺・実相寺などを配下(霞)にしていたが、いつのころかこの霞支配を扇谷上杉氏に没収されていたのであろう。それがこのたび、前々の如く返し置かれたのである。修験の在地活動にまで領主権力が介入していたことがわかる。しかし、時代が下がると、しだいに在地領主権力による安堵状は目立ってくる。扇谷上杉氏の奉行人弾正思考能については、扇谷上杉氏の宿老に難波田氏がおり、弾正恵の官途をもつ者がいたことから、難波田氏とみることもできるであろう。

三一三 永正十五年(戊寅一五一人)銘の板碑三基
所在地 高萩98 六郎ケ谷戸(清水亀久男家)
永正十五天戊刁
主尊・弥陀3・逆修きく子
十一月 日
高さ 五四センチ

所在地 同
永正十五天戊刁
主尊・銘 弥陀3・逆修利根子
十一月 日
高さ 五〇センチ

所在地 同
永正十五□□
主尊・銘 弥陀3・逆修八郎二郎□□ (欠)
十一月  日
高さ 五三センチ

〔解説〕昭和五十三年、小字中丸の地下約二メートルから重なって出土したと伝えられる。これら三基は同年月日の道修供養の遵碑で、俗名が書かれている稀少のものといえる。三基とも睡子・蓮座・年月日などに金箔押のあとが点々と残っているという。

永正十六年 (己卯 一五一九)四月十八日、伊勢宗瑞 (のちの北条早雲)は、子の菊寿丸(北条長綱入道幻魔?)に所領を宛行った。その中に武蔵高萩(高麗郡)の地五十一貫文がある。
三一四 伊勢宗瑞知行注文〔箱根神社文書〕埼玉県史資料編6所収
はこねりやう 別たうかんにん分さい(在)所
一 五十三くわん四百文 いつさの(伊豆佐野)
一 百二十くわん文 とくら(徳倉)
一 十七くわん文 さわち(沢地)
一 廿八くわん文 くわはら(桑原)
一 卅八くわん文 かつさ(上総)のくに二ミやのねん
くのうちニてしよしやう
己上二百四十八くわん四百文
はこねりやく所々菊寿丸知行分
一 四百くわん文 おたハら(小田原)
六くわん文 宿(同)のちしせん(地子銭)
廿くわん文 おの(同)おのより出やしきせん(屋敷銭)
一 百くわん文 かたうら(片浦)五かむら
一 二百くわん文 はや(早)川
一 十三くわん四百文 下はり(堀)
一 十五くわん文 くの(久野)のたうちやうふん
一 五十五くわん 上きつさわ(吉沢)
一 五くわん文但、いのとしの納分 しらね小やす
一 十一くわん五百文 はしのや(星谷)寺ふん
一 百四十くわん文 うのとしの納 ゑち(依知)のかう
一 百卅五くわん文 みしまとたふん
一 五十一くわん文 むさしたかはき(高萩)
一 八くわん文 中こはりふなこ(船子)
一 廿三貫文  同なかもち(長持)
一 八十くわん文   ひさとみ(久富)
但、これハ小田原やしきのかへにちきやう
巳上千二百五十二貫九百文
一 六十二貫七百十四文 松田そし(庶子)分おかたこ被下、
巳上
一 七十くわん文 かね(金)田しんミやうゐんニ被下、
一 廿くわん文  あなへ(穴部)の内せLも分同人
一 二百くわん文ほんねんく ひの(日野)ゝかう同人
一 百卅くわん文   小ふくろや(袋谷)同人
一 八十くわん文 いさい(井細)田同人
巳上 五百くわん文
一 二百くわん文  い(飯)山 しんてんニ被下
一 百廿くわん文  ひしぬま  同人
巳上三百廿くわん文
一 七十三くわん文 とみおか(富岡) 大草
巳上
一 七十三くわん文  こうふく寺分すすきニ被下、
一 卅くわん文  よた(依田)ふん 同源四郎ニ被下、
巳上百三くわん文
合千八十八くわん七百十四文
一 千くわん文 かつさ(上総)の国二のミやねんく
たいくわんしゆ別ニあり、
都合三千五百くわん十四文
此ほかそう(宗)瑞ゆつりのさい所
一 二百七十一くわん文米共こたか田のわんく
一 二百八十くわん文おにやなき(鬼柳)しんてんたいくわん
一 二百くわん文 加宝臥コ酢蛸響かさき大草たいくわん
一 卅四くわん六百文 官かた同はらかた
一 百五十くわん文  いつの内大たいら雛、一瑚読朋霊㍍るへし

以上九百冊五くわん六百文
惣都合四千四百六十五貫六百十四文
永正十六年己卯四月廿八日 宗瑞(伊勢長氏(花押)
菊寿丸殿 (北条長綱)
紙数四枚
永正十六年己卯四月廿八日まてのかミ数此分也
○コノ文書、紙継目裏毎ニ印文「纓」トアル黒印ヲ捺シタリ、

〔解説〕宛名の菊寿丸は伊勢宗瑞の子、北条長綱入道幻庵の幼名である。箱根神社の別当である菊寿丸の堪忍分(生計の資)として与えた知行注文(知行の内容などを書き上げた文書)である。高萩に五一貫文の箱根神社領があったことがわかり、早くも北条氏の力が関東内部にまで及んだことを知ることができよう。なお、文安元年(一四四四)相馬文書(史料二四九)により、早くより高萩が箱根神社領であったことがわかる。早雲は明応四年(一四九五)小田原城を奪っているから、箱根神社領に対する影響力が大きくあったことを考慮しなければならないだろう。

315 永正十八年(辛巳 一五二一)銘の五輪塔
所在地 新堀 聖天院
権秒・僧都 慶寿 「梵字(大日)」  永正十一年辛巳三月廿六日
高さ 総高約九〇センチ

永正年間 (一五〇四~二一) 僧朝覚は智観寺(現飯能市
中山)を中興開山する。
三一六 智観寺中興〔『新編武蔵風土記稿』高麗郡中山村〕
智観寺常寂山蓮華院と号す、新義真言宗、江戸大塚護

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