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高麗氏系図




はじめに

 高麗氏系図については若光と共に、戦後、多方面から疑問や改ざん疑惑が指摘されてきた。有名なものでは、戦後間もない頃、当地を訪れた作家の坂口安吾の手記が上げられる。広開土王碑の拓本があることもあって松本清張も訪ねている。だが、「若光物語」を執筆する作家は皆無である。系図のうさん臭さを感じたのだろう。結局、高麗神社の身内の者が自主出版するしかなかった。マンガも作ったが、今は忘れられている。遊古疑考倶楽部は、多方面の疑問に背中を押されるような恰好で、重い腰を上げることにしたのは、つい最近だった。
 調査に取り掛かると、意外にも簡単な仕掛で系図の改ざんと捏造が行われたことがわかった。それは、世の中に出回っている武家の系図と同じように、信ぴょう性の乏しい体裁だけを整えただけの代物に過ぎなかった。
全体の構成は、坂戸の勝呂高麗氏の系図を切り刻んで作り変えたものである。勝呂高麗氏のルーツは千葉氏である。貞和四年からの系図は公知である。貞和は南北朝時代の北朝元号で貞和六年が観応元年。高麗氏系図の巻頭部の「城外に埋葬」という記述は、動乱の時代から活躍する千葉氏にとって、系図の巻頭に相応しい武家の作法である。古代高麗氏に結び付ける必要性など微塵もない。
さて、巻頭部以外で、大きな改ざんは三つ。一つ目は、勝呂高麗氏の系図への改ざんは、大宮司観純と多門坊行仙の間で切り繋いでいる。勝呂高麗氏の系図は観応の擾乱の多門坊行仙あたりから書き出している。それは丁度、高麗氏系図が消失した直後の頃になるわけ。それ故に、その先は改ざん者が付け足すしかないわけだ。 
二つ目は、小田原城落城前後。三つめは幕末動乱期、勝呂高麗氏から系図を手に入れ内閣修史局と一緒になって大幅改ざんしたこと。以上が、改ざん、捏造の全体の見取り図である。以下、系図に沿って解説する。
では、だれの系図か?という問いが最後に残る。幕末動乱期に思いを巡らし、有力候補として、当時大量失業した修験寺院の一派を想定する。修験は山修験・里修験に分類されるが、この世の全てに精通しなければならないのが修験者である。中世においては、一族郎党が軍役についた。戊辰戦争では、毛呂の権田直助も会津戦争に従軍している。高麗大記も、東奔西走、情報収集に余念がない。
結局、「高麗氏系図」は、高句麗王族や渡来人には直接結びつかなかった。しかし、その中に何があるのかは、根笹紋と修験寺院とが象徴的に示していた。失業した修験寺院の一派を想起する。修験は山修験・里修験に分類されるが、この世の全てに精通しなければならないのが修験者である。中世においては、一族郎党が軍役についた。戊辰戦争では、毛呂の権田直助も会津戦争に従軍している。高麗大記も、東奔西走、情報収集に余念がない。
結局、「高麗氏系図」は、高句麗王族や渡来人には直接結びつかなかった。しかし、その中に何があるのかは、根笹紋と修験寺院とが象徴的に示していた。

系図の構成

系図の構成には、捏造者の意図が明確に反映されている。系図の中で記載されている特徴的な事件は、①、天正年間から坂戸の勝呂氏に預けたまま返却無しとの高麗大記の主張、 ➁ 正元元年(1199)の失火で系図の焼失、 そして、③ 焼失したのに千切られたような跡がある巻頭部とその記載内容。以上が、系図全体を捏造するために必要な道具立てである。関係者も時期も複数と推定し、上記の3点を考慮して系図全体を次のように大別する。各部の問題点をそれぞれ述べる。巻頭部と系図焼失までの系図は、人工的・機械的なのでその後の系図と同列に扱うことは適当ではないと判断し、焼失後の系図を、上・中・下と3分割して調査した。

  • 巻頭部

  • 系図焼失まで(748年年~992年)、

  • 系図(上)(992年~1300年)、高麗家重から大宮司観純まで。

  • 系図(中)(1331年~1484年)、大宮司観純から清乗院良多まで。

  • 系図(下)(1484年~1654年)清乗院良多から小田原北条氏滅亡まで。

  • 江戸時代以降の系図に続く。

第一 巻頭部

 
『因レ之従来貴賤相集。埋屍城外 且依神國之例。 建霊廟御殿後山
崇高麗明紳。郡中有凶。則祇之也。長子家重繼血世也。天平勝寶三
辛卯。僧勝楽寂。弘仁輿二其弟子聖雲同納遺骨。二宇草創。云勝楽寺
聖雲若光三子也』

偽造工作の跡が生々しい巻頭部
  •  【埋屍城外】と【且依神國之例。建霊廟御殿後山。崇高麗明神】の問題

  • 【埋屍城外】の記載は時代錯誤で論外。戦国時代のようなお城があったという奇想天外。

  • 【且依神國之例】の記載も時代が異なる。

 知恵と財力と労力を全動員して大陸を手本に律と令に基づく国つくりに熱を上げていた時期の武蔵国で、「且依神國之例。建霊廟御殿後山。崇高麗明神」の記載。この箇所については 高麗氏系図に関心ある方々からは、あまり注目されていない箇所だが、致命的欠陥といえる。律令国家建設にご執心のヤマト政権にとって、天皇以外の人物を神として崇敬することはややこしいことになり、国家反逆に相当。だからそのようなことは致さなかったと考えられる。たとえ人神のケースでも、祟りを恐れ怨霊として「祭る」ことでその御霊を鎮める目的で神社が創られている。平将門や菅原道真が好例だ。若光を神として祭る必要も必然性もない。必要なら別の手段を用いただろう。高麗神社は近世の人間が必要とした神社、朝鮮半島併合のためのにわか造りの神社である。近世の作文であって、天平時代の人は、間違っても、「神国之例」などとは記さない。こういう書き方は維新以降の世界、と考えられる。例えば、主犯の一人として候補に挙げられるのは、勝呂の石井村の井上よしかげ喜彰(王政復古の維新政府の「大學教授頭」)。彼なら諸手を挙げて絶賛・認定するに違いない。
以上、「巻頭部」は、維新以降の全くの作文である。

第二 系図焼失まで (748年~992年)

  • 高麗家重から大宮司一豊までの生母の不自然な配

先祖高麗家重から大宮司一豊までの系図上の生母の出自が下表のように並ぶ。一見して違和感あり、冒頭からの不自然さが目立つ。本当に焼失によるデータが失せたのが本当の理由でだろうか?先ずは、冒頭から躓く。

 ・高麗家重       天平二十 (西暦748年)       
 ・同 弘仁       天平寶字四 (西暦760年)      
  ・同 淸仁  弘仁子 母新④民女   延暦十六年 (西暦748年) 
  ・同 高照  淸仁次子 母神田⑤風戸女 弘仁元年 (西暦748年) 
  ・同 高徳  高照子 母新井➁谷   弘仁十四年 (西暦797年) 
   ・同 引淸  高徳子 母丘登⑨常女 天長十年   (西暦833年) 
    ・同 引道  高徳次子母本所③古足女 貞観十五年 (西暦873年)? 
     ・同 道勝  引道子 母和田⑩初茂女 貞観十三年 (西暦871年) ?  
   ・同 高章  道勝子 母吉川⑧志津路女 昌奉元年 (西暦898年) 
   ・同 照和  高章子 母大野⑪氏岡女 承平三年  (西暦933年) 
   ・同 貞正  照和子 母加藤⑫正菊女 天徳二年  (西暦958年) 
   ・同 惟正  貞正子 母福泉⑦平佳女 天徳四年  (西暦960年) 
 ・大宮司一豊 惟正子 母神田⑤與坂女 長徳二年 (西暦996年)
  ・高麗明神大宮號 御免許。従是 奉號 高麗大宮明神稱大宮司

 この表で、生母として記されていない姓は、高麗井、中山、芝本の三氏のみ。高麗井、中山は古代には存在しないので除くと、芝木(芝本)だけが残る。「芝木」姓は希少苗字で、また「芝本」姓とも読めるが、どちらにしても捏造者だけでなくても採用し難い。結果、芝木に代わり神田氏が再登場することになったと推察した。いい加減な系図。
そもそも、中世の武士である国人衆は、律令制度のアウトロー集団。彼らなりのルールはあるが油断のならない日常が続く。抗争はつきもの、それ故、己の領地を一所懸命に守り占領権を主張する必要がある。占領軍は誰でも「高麗氏」などの足元の地名を名乗ってきた。だから、東国の中世史には数多の高麗氏が登場する結果になっている。まあ、この辺も多くの方々の頭を混乱させ、中世史の理解を困難にしている理由だろう。
律令制からはみ出した国衆(武士団)としては、その占領地の所有権を宣言するために、「高麗」などの郡名や荘園などの地名を名乗ることが主流ではあるが、他方、官位や出自も利用できるものは利用した。しかし、官位には全く無反応だった信長の例に見られるように何の実利もないものであることには変わりはない。国人衆の中に古代高麗氏につながる系図を欲するものがいても何も不思議ではない。しかし、実利を求める国人衆としては邪道で、この系図を捏造するグループは、いかにも非力の軍団と見受けられる。実際、この系図に登場する武士は連戦連敗のご様子。捏造者は無理してでも、若光までの系図を欲した裏事情が伺える。

*(1)「新井」姓は弘仁十四年(797)の系図詐称なので却下。
「新」姓と「新井」姓の関係の問題が浮上する。どちらが先か?それとも同時か?この二つの苗字が全く無関係に独立して同時代に存在していたという可能性はゼロ。
新井家については、「ご立派な系図」が公開されているが、ルーツは中世武士の「内田氏」と主張している。しかし、この家系図は江戸時に流行した尊卑文脈の典型であると認定されている。

【『武蔵藤原内田之系譜』(新井家系図)は尊卑文脈である】
この系図の断片は、「高麗郡歴史こぼればなし」掲載のもので、新井家に伝わる『武蔵藤原内田之系譜』。斜めの妙なトリミングをしているが、実は、カットされた箇所に重要ポイントがあった。

・【新井家所有の氏邦の系図認定書】の偽造下図は、日高市の大澤・新井氏の系図裏に書かれた氏邦の書名と花押、そして小田原城のお土産の氏邦花押ストラップ。新井家の認定書の花押は氏邦のモノではなく全くのニセモノ。

新井家所有の北条氏邦の花押(右)と氏邦花押ストラップ(左)

・【さらに,ダメ押しで、こちらが正真正銘の氏邦の花押と直筆】
天正10年
3月12日 安房守真田昌幸に送った氏邦直筆サインの書簡。ストラップの花押でご理解いただけない御仁はこちらでも氏邦の真筆と花押をご確認されたし。
¨¨¨¨¨¨¨¨¨安房守真田昌幸に送った氏邦直筆サインの書簡¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨

天正10年3月12日 安房守真田昌幸に送った氏邦直筆サインの書簡。

『未だ申し通ぜず候と雖いえども、啓達候。よって八崎長尾入道へ両度の御状披見。紙上の趣誠に簡要至極に存じ候。今度甲府の御仕合是非なく候。然るに氏直おのおの御譜代の筋目に付いて、箕輪のおのおの和田先忠なされ候。貴所へも箕輪(内藤昌月)より意見あるべき由候つる間、如何にも最の段返答せしめ候。然るところ八崎へ御状ども披見せしめ候の間、此の度申し入れ候。氏直へ御   忠信此の時に相極まり候。恐々謹言。三月十二日(天正十年) 安房守真田(昌幸)殿           御宿所 氏邦(北條)(花押)』(昌幸は武田氏の滅亡直前、上野八崎城主長尾入道憲景に2度にわたって手紙を送り、北条氏に臣属したい旨を申し入れていた。それにつき、北条氏邦から昌幸に宛てた密書である。「(昌幸の)手紙の趣は誠にもっともである。今度の武田家の没落は是非もないことだ。北条氏直に属して忠信を励むのは、この時と極きわまった」と述べている)

以上、「新井氏系図」は「高麗氏系図」とは全く関係御座いませんでしたというお粗末な話でした。そいうわけで、「新井家」が「高麗氏」の家系図の偽造を証明しているというどうにもならない矛盾した関係になっているという深刻な事態なんですね。市民は高みの見物と達観するに限ります。

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