見出し画像

コロナウィルスにおける穢思想と槇原敬之の逮捕における陰謀論についての考察

 コロナウィルスの話題で持切りになっていることが批判や揶揄の対象になっていますが、それは幾らかは仕方がないですね。

 あまり騒ぐのもおかしいけれど、全く話題にならないのもおかしい。

 私としてはあまり興味のないことで、何でかというと、ウィルスの感染率はUSBメモリーのデータが消失する率と比べどちらが高いかといえば、どちらもどちらという程。コロナウィルスだけではなくウィルスの全般で考えています。
 私のパソコンはWindows Vistaで、製造元の支援(supports)がとうの昔に終えていて脆弱性が高いとしばしばいわれますが、コンピューターのウィルスは全くの人為的産物なので、撒く人達が狙うか狙わないかに依存します。なのでむしろ、そんな昔のパソコンを今更になって狙おうとする人達はほとんどいないのではないかと思うのです。挑発は大抵は最新のものに向けられる、それがあちら側にとっての進歩。また、最新の支援はないとはいえ従来にそれなりの支援があって強化されているので脆弱性が高いというのはあくまでも比較的。

 コロナウィルスも人為的に撒かれたという説も少数ながらありますが、まあ大体は自然現象と見るべきでしょう。自然の脅威に瀕しては、自然の脅威に相対する発想や態度が必要になる。
 定説として、日本人は自然を畏怖するといわれます、自然を征服する西洋人とはその点で対照的だと。
 その畏怖から来るものとして指摘されるのが穢思想というもので、日本人は自然にせよ人為にせよ、脅威を穢と見做して忌避しようとする、そしてそれは日本人に特有で世界にはなかなか理解されないことなのだと。
 しかしどうでしょうか?例えば西洋に根を下ろしているキリスト教には洗礼の秘跡というものがあり、人が水に浸ることにより罪の穢れが取り除かれて清められるといいます。どう見てもそれは穢思想であり、西洋にはないものではないでしょう。

 洋の東西を問わずどこにも穢思想も征服主義もある。
 しかし、日本は穢思想がより強く征服主義が弱いのは歴史的必要から来る傾向であり不変の本質ではない。
 西洋はアラブとの対峙やアメリカの植民地を巡る西洋同士の抗争などが大きな必要として存在したので、自然に対してであれ人為に対してであれ征服しなければならないという認識が強い。日本はそのような必要を既に古代中世までに終えていたので平和的状態の下でいかに雑多な脅威を防ぐかが重要だという認識になる。それらの違いはあくまでも今の特徴、初めからそうだった或いはこれからもそうあり続けるに決まっているのではない。

 穢思想とは簡単にいえば、汚いものを汚いと認識しきれいなものをきれいと認識するということで、当たり前のこと。まずそれがなかったらどうにもならないというべき初歩の初歩の感覚です。
 なので、穢思想はいけない、脱却すべきだというのは人間の基本的感覚を捨て去るということで全く無意味です。

 穢思想にまつわる問題はその先にあるのであり、汚いものをいかにして取り除くかという際に、正しい途を取るか誤れる途を取るか。
 ただ、何が正しいか誤りかは多くの事柄については確定してはいないので、科学なら正しいとも限らないし伝統なら正しいとも限らない。とりあえず自分がより確信することができて他者にも分かるように説明することのできる途を取ることが最も悔いがなかろうとはいえる。
 コロナウィルスについていうなら、私がより確信することができることは地の体力を着けることだということですが、それを分かるように説明することが出来る自信はあまりない。

 安倍総理が人混みをなるべく避けるようにして下さいと云ったことが非難されているようですが、それが万能ではないにせよリスクの低減になり得ることの一つ。安倍総理にはそれが一番確信できるものなのでしょう。
 非難する人達は人混を避けるということに非時代性と非科学性を見て取った訳でしょう。人の往来の多寡がウィルスの感染の可能性にどう影響するかは厳密な立証が難しいからです。というか、安倍政権の疑惑の数々も厳密な立証の難しいことだらけ。まさに価値観の違いでしかないこともあったりする。有権者を花見の宴に招くという価値観や風邪がはやれば人混を避けるという価値観です。
 確かに、国の指導者が国民に体力を着けろとはなかなか云えませんし、もっと弱い人にも出来るようなことを奨めるしかない。

 私はマスクには予防効果がなくて嗽(うがい)には幾らかの予防効果があるという説を支持していますが、それも厳密な立証は難しい。
 それらの意味合を考えると、マスクは盾、即ち遮断による防護の発想で、嗽は剣、即ち攻撃による除去の発想。要は遮断や攻撃の完全さの高さが問題かと思われます。マスクは隙間だらけだし吐く息の水分に混じって突破して来るかもしれません、知らんけど。嗽は着いているウィルスを水や薬の力で流し去ろうとするもの、それで少しでもウィルスやそれを助長し得る物質の量が減れば最悪の事態を防げるかもしれない、知らんけど。

 いずれにせよ、これを機にリスクというものについてもっと深く考えるとよいかと思います。
 簡単にいうと、リスクとは取らざるを得ないものであり取りに行くものではないこと。リスクをなるべく取らないようにすることは当然のこと。

 それと同時に出て来たのが槇原敬之氏の覚醒剤取締法違反に由る逮捕。
 私は二十年前にも逮捕されていたとは知らなかったのですが、どこかで聞いていたかもしれないこともあってか、あまり驚きは感じませんでした。
 それにつき、他の人の同じような案件をも含め、逮捕の時期が安倍政権の疑惑や失政の追及と重なることから政権がそれらに目眩しを掛けるために逮捕の時期を動かしているのではないかという陰謀論が上がっています。そしてその陰謀論を否定する声も出ています。
 それにしても、厳密な立証どころか簡単な見当をつけることも難しく、そのような陰謀があるのかないのかは分からない。ただ一つ確かなのは安倍政権はそのように疑われ易い体質だということ。

 陰謀論についての態度にも穢思想が見て取れます。

 陰謀論とは陰謀という穢が存在すると見做すことで、その具体的正体が何なのかについての認識の深さ浅さはさておき、何らかの問題が存在するという認識です。
 陰謀論を否定する人はそのような問題意識を穢と見做し、それを祓い清めて取り除こうとします。
 いずれにしても穢思想ですが、何を穢と見做すかが異なる。
 人間は自分にとって不利や致命になるかもしれないと思うことは大抵は陰謀のように見做します。「あの人はあんなことをやっているけど、どうなの?」、そんなのも普通に陰謀説です。
 なので陰謀論はごく当たり前にあるもので、要は陰謀のより正確な正体を見究めることが必要です。多くの場合は陰謀の主はそれが良いこと、世のため人のためになることだと思ってしています。
 陰謀論を否定する人が最も大きな陰謀者だと私は提唱しています。
 ただ、陰謀論があくまでも単なる陰謀論に留まるだけになるのは物事の具体的正体を見究めるだけの情報や知識がないということで、それらを求め或いは与えることは必要でしょう。

 穢思想を穢として避ける穢思想、それが最も迷信につながり易いのです。マスクをして予防しようとしている人やマスクを買い占める人はそれを科学的だと信じているのでそれを穢思想で非科学的だと云ってみても何にもならないのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?