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年頭の論説:世界の危機にある今だからこそ、夢を。

除夜の鐘が告げるものは

 年越しそばをいただいていると、我が家がふと、除夜の鐘の音に包まれた。
 ゆく年の初冬から始めた四度目の独り暮らし。三度目の正直を通り越してもはや何度目の正直かを数えることもない、人生は失敗の繰り返しだったし、これからも何かを失敗するだろう。しかし、三度あることは四度あるという諺はない。

 この年越しのそばは全くの自作自食で、「いただく」とは自然の恵と伝統の智慧にいただくということだ。
 農林水産省が大晦日に年越そばを奨める広告をした。しかしどうだろう?ーー平時にも貧しい人は少なくないものだが、特に去年からのCOVID19による禍の中、所得の減少や失業により俄かに貧しい暮らしを余儀なくされている人が増えている。そんな今に、結構な値の張る年越そばを行政府が国民に奨めることは空気を読めていないのではないか?そこに、蕎麦は体に良いとか農林水産業の振興のためとか色々と理由を付けても、それは今語るべきことではないはずだ。
 豊かな人々にも貧しい人々にも等しく受け容れられる公正中立なメッセージを求める。

初詣の祈り・政治の言葉

 この禍と不況の折にも、元日は様々の寺社が初詣に訪れる人々で賑わった。
 それを三密などといっては挙足取りだろう。むしろ、禍に剋ち(かち)、健やかに豊かに生きることを願って祈りに出掛けることは喜ばしいことだ。
 静かに祈る人々がいることで、力と希望が若水の滲み出すように伝わってゆく。この事実こそがどんな雄弁な言葉よりも確かなメッセージとなる。

 そして、そのようにして感じ取った言葉は行動になることが望ましい。
 言葉が行動になりそして形をなしてゆくこと、そのためには夢が必要だ。
 COVID19をはじめとする様々な禍にあって後ろ向きな心を持つことになってしまっている今、常識的意味での自粛が必要なことと同時に、夢を持つこと。
 この状況が過ぎ去って欲しい、そう思うことは当然だが過ぎ去ったらどうなって欲しいのか、「どうなるか」ではなく「どうなって欲しいか」という願いをできるだけ具体的に思い描くこと。また、そのためには自分が何をできるか、望ましい自分の姿を思い描こう。
 それは政治にも求められる。この状況を収束して終息させたい、それも必要だが残念ながら、そうなったらどうしたいかというメッセージは乏しい。したいことを言えば批判が来る。しかし批判は必ずあるものだ。批判を惧れて夢を語らない政治になってはその平凡につけ込まれて戦争などのような危うい夢を誘うことになることは百年も前に前例がある。

不況は好況の始まり

 夢の実現のためには掛けるべきお金はどうしても掛けなければならない。そのためには賃金や報酬を与える企業も保障を与える政府もより充分な分配をすることが必要だ。
 しかし同時に最小の費用で最大の効果を出すことを組織だけではなく個人もまた学ぶ必要がある。お金がないからできないというのではなく、あるお金をどう使えるかを考える。
 五円では何もできないが十円なら何かができる、そんな発想で五年後や十年後を健やかで豊かで面白い時代、即ちSEXYな時代にしてゆこう。

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