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「詰める」と「タイミング」の平成日本:コロナ後に変わるとしたらそこだね。

 お話の前にまずは料理のお話から。
 このような料理と論説という形のnoteの記事の書き方を取り入れて随時に出そうと思います。
 料理の美味しさで説得させようとかいうことではありません。いわばこの状況で戦時の大鍋茹じゃが芋の炊出と差入のようなものです。
 私の料理はどちらかといえば――あくまでもどちらかといえば、――お金の掛からない献立なので、この経済難の時にも参考になると幸いです。

 冒頭の写真は先週末の豚ばらと茄子のカレーの煮込中、完成品はこれ:

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 豚ばらの塊肉なんてお金が掛かっとうやんと思うかもしれませんが、今は麺類ばかりが売れていて肉や魚があまり売れていないようで安くなっています。この豚ばらの塊肉はいつもは高い京王ストアの「訳なし」の半額品で、一日目は網に包み叉焼を、翌日にこのカレー。
 私のカレーの標準は鶏で、普段はお金が掛かりません。しかたなく鶏にするのではなく鶏が好きでそうするので、私の食物の好はそもそも経済的に出来ているよう。
 豚をカレーに使う際は塊肉の厚切のみとしているため、豚カレーはどうしてもお金が掛かってしまう。
 写真はありませんが一週間後の昨日は鶏胸と筍のヨーグルトカレー。それとそれ、二週続けて過去最高の出来。
 豚ばらと茄子・鶏胸と筍――その過去最高な味から何を感じ取ったかというと、料理はなるべく一皿に盛込む材料の歯応(硬さ/軟らかさ)を均一に揃え或いは相似させると味も映えるし体にも良いのではないかということ。
 豚ばらと茄子の歯応えが似通っており、鶏胸と筍の歯応えが似通っている。すると噛み具合が規則正しくなって落着く。
 栄養が豊富でも歯応の差が大きいと噛み具合が忙しくなって消化不良になり易いのではないか。
 硬くても軟らかくても良いですが、いずれにせよ揃えること。または、硬さの揃い易い材料等を選ぶ。
 みそ汁も豆腐と蓮根を一緒に盛ったりはしませんよね。豆腐にはわかめだし蓮根には牛蒡というような感じです。伝統的みそ汁は何食わぬ顔をしているようでそういう知恵を示唆しているのではないかと思ったりします。殻付のあさりやしじみなんかは硬さには気を付けろと云っている。

 ――これだけでも充分に論説になっていますが、ここからが論説になります。

 よく噛むこと、それが味をも消化をも良くする。
 よく噛まないと口とその先がどんどん忙しくなって味も消化も落ちる。
 食物を噛むことは体のペースメーカーなのです。

 それがほぼどんなことにもいえるのではないかというお話。

 今回は偶々料理の話と論説がつながるお話になっていますが、以後は必ずしもそうなるとは限らず、全然別の話をすることもあります。

 初端から脱線しますが――話の脱線は好きですか?嫌いですか?まあ、座って下さい笑。――、話の筋は必ずしも前中後とつながっておれば良いとは限りません。
 上手い話をしてやろうと必死な人はしばしば話の筋を無理に一貫してつなげようとします。しかしそれが見る人によっては強引な牽強付会に感じられたりします。それを「#流動性の罠」みたいに言うと「一貫性の罠」と言います。
 世界は一貫しないことがしばしばあってそれがむしろ自然だったりするので、或る種の一貫性は現実味がないと思われかねないのです。
 一貫した話というものはいわば、人為的。
 勿論人が何かを考えて行わなければ何もなりませんし自然に身を委ねるという発想は危ういもので、その意味では人為は必要ですが、一貫しない自然の作用や成行を利用することが物事を本当に巧く運ぶこつです――実はここに論理のすり替えがありますが分かるでしょうか?でも良いすり替えです。――。

 予定の消化とか知識の消化、消化試合…とかいうように、人間の営みの多くは「消化」という類推観念(analogic theories)で出来ています。

 そう言うと、英語にはそういう語法はない、そんな風に何でも「消化」と言うのは日本だけだといわれるかもしれませんが、そのような日本語の語法は英語で説明すればそれを知らない英語人にも理解可能なものでしょう――「リアルな」英語を身に着けることよりもそういうことが英語力やその他の語学力には大切だと思います。但し'real'の正確な発音は必要です。――。
 食物の消化は'to digest'で知識の消化は'to assimilate'、予定の消化は'the schedule's in a progress'または'the schedule's progressed'と言います。
 日本語は殊に類推表現(analogic expressions)が多くあるので色々なことが「消化」になるのです。

 料理の歯応をなるべく均一にすることにより味も消化も良くしようとすることはよく考えて一手間を掛けながら自然の作用を利用することで、いわば良い人為。
 とにかく色々な栄養を一度に摂りたいために色々な材料を注込み料理の歯応が揃わないことは材料の原状態という自然に身を委ねながら栄養を取るという単一の目的を実現しようということでいわば良くない人為。

 色々な材料を注込む:良いことのように思えて実際にある程度は良いことですが、そこに一貫性の罠がある。
 まず、人間はできるだけ多くの色々な力を出せることは望ましいことですが実際にはあまり多くのことを一度にできるものではありません。出す力、即ち課題は単一でも良くないし多過ぎても良くない。必要な力を必要なだけ出すことが良い。
 出すだけではなく入れることも、単一でもあまり多くでもなく、必要なことを必要なだけ入れる。それが本当のmulti player。

 注込む、いわば賭事のような。

 栄養も何でも、一時の均衡(a temporary balance)ではなく中長期的均衡(the middle or long term's balance)が大切。一時だけを見れば偏って(in unbalance in chance)いても中長期的には均衡が実現されてゆく継続的傾向を作ること。
 そのためには自分が無理がないと思う水準よりもう少し高い水準を標準に定めること。自分が無理がなくてそれならできるだろうと思う水準は得てして必要な水準には足りません。
 「もう一手間」や「もう一品」、しかし、二手間も二品も要らない。
 名料理人土井善晴さんの提唱する一汁一菜というのもそういうことかなと思います。かつての贅沢だがあまり意味のない時代の傾向と比べ一汁一菜はちんまりとした印象なのでそれを「引き算」と思う向きがあるかと思いますが、むしろ「一菜」を「もう一手間」や「もう一品」という足し算と捉えるべしやと思います。二手間も二品も求めるな、一手間や一品を求めよ。

 注込む。――そこに、何を云っていても実は同じ弊を繰返す現代日本の傾向があると思われます。

 日本が戦後の経済発展を実現した端緒は片山政権による傾斜生産方式でした。それは政府の予算や企業の経営資源を特定の産業の分野に敢えて偏らせて経済発展を促そうとする政策です。
 その政策は間違いではなく、ほぼほぼ正しいものでした。
 特定の産業の分野とは重化学工業であり、何を作って売るにも必要なものです。物を売らない第三次産業もそこに投資される設備は重化学工業の産物です。

 しかし、その目的が実現されて国民の多くが豊かさを実現するようになった'70年代からは、その反動として脱重化学工業ということが思潮になっています。
 重化学工業の偏重による経済発展とその実現の後の脱重化学工業、延いてはゆとりの時代というものは対極であるかのように見えて実は躁鬱のように同じものに過ぎません。
 前者は注込む、即ち詰込むことですが、物理的容量や能力の限界を一とし、物事にはどう考えても限界があります。
 自明の限界の前には、それまでは惜しみなく注ぎ込み詰め込んでいた人もその無理に気づいてもっと間引をしようとかゆとりを持とうとかいうことになります。しかし、それにより相当の余地が出来ると、やはりまた注ぎ込み詰め込もうということになるのです。
 引き算の美学はまた、止め処もない足し算に還ってゆくのです。

 さようにして、「詰める」こと、また、詰めたり間引いたりする「タイミング」こそが重要だという現代日本のいささか由々しい思潮になっています。多くの国民が色々な財を買えるようになった'70年代からその半世紀後の2020年まで、その思潮は多少の手を変え品を変えながらほぼ一貫して続いています。一貫性の罠ではないでしょうか?

 '10年代にテレビの報道番組を主としてしばしば聞かれるようになっている「なぜ今、このタイミングで?」や「誰が何をしたタイミングでそうなった。」、「そのタイミングでこうしよう。」というような奇異な言い回し。その影響からかネットにもしばしば散見され、ネットとテレビは別領域で異質だというのは嘘で実は直接につながっているようです。

 一つには、'70年代にはまだ重大な問題だった工業に由来する公害の拡がり、そして今21世紀にはそれが著しく改善されても猶残る二酸化炭素の排出などによる地球の温暖化という問題も影響しているでしょう。
 改善しろといわれたって物は造らなければならないし自動車も空調機も使わなければならない、なので今直ぐの解決はできないがいつかは改善します、今はその「タイミング」を伺っているのですという事実上の改善の放棄。「今は無理だがいつかはそれに相応しいタイミングが来る。」という根拠のない姿勢。
 そもそも「タイミング」というのは英語として存在しない言葉で、例えば日本人に見受けられる「タイミングが良い。」というのは英語は'timely'と言います。「タイミングを見る。」は'See any opportunities.'、どこにも'timing'という単語はありません。
 'timing'とは時間調整のことで、例えば単線の列車がすれ違うために駅で待避したり先行車の発車を待つために駅の手前で停まることなどを言います。それらは正しい運行の時間が明示的に定められていて先の予測が可能な故になされることですが、政治や社会問題、延いては日常生活などのような先の成行が非明示的で予測の難しいことには'timing'というものは成り立ち得ません。偶々良い結果が得られれば'done timelily'で良い結果を望むなら'get an opportunity'。
 そもそも読めないことを読めると思っているので、自然の現実を無視する悪しき人為主義の極。なのでネットにもデマとも呼ばれる根拠のない憶測や憶測を基にする批判が飛び交う。テレビはネットを見下しているかもしれませんが、今のネットのそのような情況はテレビが生み出している。

 そのように「タイミング良く」何をするかといえば、ただ詰め込んだり間引いたりするだけで、明示的に正しい規律や秩序及び物事の良いし方を生み出し或いは守ろうとすることではない。そのような感覚だと、良くも悪くも憲法の改正などできようもない。憲法の改正ができない若しくはできても改悪されるならそれは独立国ではないということだといえばいずれにせよ一言多いですが。
 今はやりの社会距離(social distances)についても、一時的に間隔を空けるだけで、いつも間を保つということではない、外出をしないようにしましょうといわれているこんな状況が去れば元の木阿弥になる。人間の正しい欲望は間を保ってこそ満たされます。

 「詰める」という言葉は現代の日本においては好ましい価値と見做されています。「詰める」という積極的価値に対し、「間引く」はし方がないがせざるを得ない消極的価値。故にゆとり教育も詰込教育の同類なのです、ゆとりというものを詰め込もうとしている訳で。
 人口減の時代という時代の認識も、どこか新生児の間引を想わせるようなものがあります。
 「詰める」が好ましい価値と見做されているという端的な例は「お弁当を詰める。」という言い回しです。
 何で「お弁当を詰める。」かといえば、弁当の量が多く見えると家が豊かそうに見えるからで、横浜市などはそれが社会問題になっていたりします。お弁当を毎日持ってゆけることが豊かさだと一部の横浜市民には思われているようですがそれを支えている基底の発想は単に「詰込むか間引くか」というものでしかない。横浜市だけではなく日本の少なからぬ地域においては給食の量がこれ見よがしに少なくされており、事実上は給食の廃止と弁当の奨励を促しているかのよう。
 家の料理は「盛る」と言うのですし、弁当もそれと同じく「お弁当を盛る。」と言えばよいと思うしどこかで聞いたこともありますが、なぜか弁当だけは「お弁当を詰める。」としばしば言われている。

 今、この状況で(Now at this situations,)、'Stay at home.'という時間と労力のゆとりを詰め込まれようとしている。
 お弁当は要らない訳ですが、家の食事が弁当の足許にしか及ばない量質になったりしている。
 下手をするとコンビニ弁当にも及ばなかったり。
 コンビニ弁当は一概にいってあまり良くないものですが、一つ長所を見出すと、入っているものの硬さ/軟らかさが揃っていて栄養にはならなくても消化は良いだろうということ。

 知識や労力の詰め込みは一概にいって良くないことですが、ゆとりの詰め込みはそれより更に悪い。
 なんちゃら後の時代に世界が変わるかどうかということについていえば、かように詰めるか間引くかという発想の軸を根本から変える必要があるでしょう。それは誰かが変えるのではなく一人ひとりが変えることなのです。 

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