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便利と不便は何が違うか:買物袋を自前にしています:その3

今の時代は便利か不便か?

 不便は便利の前に存在する。――ならば、不便とその改善としての便利はいずれも人により定義が違うということになるでしょうか。

 確かに具体的に何が便利か不便かということは人によりまたは時により違うでしょう。
 しかし抽象的には便利と不便には何らかの法則に基づき定義することができそうです。
 人間が何かを便利と思う状態・不便と思う状態。

 即ち、何らかの考えが多くの人の既成の考えを変え得る説得力を持つには具体性よりも抽象性が必要だということになります。具体性はそれを好む(選好する)人の数が少ないので多数の支持を形成することが難しいからです。
 多数の支持といえば政治ですが、例えば今の時代に自民党が何で強くて他の党が及びもしないのかといえば、自民党は少なくとも今の時代の人々が説得されるような抽象性があり、他の党は抽象性に弱くて具体性にしか訴えられないからでしょう。尤も、具体性だけでそれだけの票と議席が取れるのは或る面ではえらい力があるということですが過半数の支持には抽象性が必要です。今の野党が訴える具体性の分かり易い例は安倍総理の行状についてです。「それは悪い。」という具体例を示す。それを通して何らかの抽象概念を導き出せれば野党の支持は広がるでしょうがどうもそれがない。

 その自民党が今の国民の多数に支持されている抽象性とは従来の日本と世界に存在している多様性とその選好を或る程度は少なくし(狭め)てもう少し単純な世の中にしようということかと思われます。
 それが良くも悪くも巧妙なのは多様性と選好を否定してはおらず、基本としては保ってゆこうということなこと。しかし、それを幾らかは削ぎ落してもう少し国のダイエットをしようという。
 何でかというと、従来の自民党の肝がまさに多様性と選好を拡げることにあったからです。なのでそれを全く否定してしまうと自民党そのものを否定することになります。それを支えるものは日本と世界の経済成長により人々の選択肢が増すことです。
 故に、表現の自由や報道の自由についてもそれを制限するべしという考えが近代国家の与党から平気で出て来る。もしその考えそのものがとんでもない、そんなことはあってはならないことと思えても、それそのものは絶対に少数にしか支持されないであろう具体的一例に過ぎず、即ち放っておけばその内に消えてなくなるもので、抽象的大筋としての「多様性と選好の制限」という考えには適うので大目に見られる訳です。
 勿論「多様性と選好の制限」という言葉を直接には遣いませんが、色々な言葉や行動を通してその抽象的主題を提示して国民の多数を説得している。

 では何でそれが支持されるのか、国民が説得されるのかというと、極端な例では「選択と集中」――私は否定します。――ですが、従来のままの多様性と選好を維持していては経済が上向かないからです。
 素人目にはもしそれが必要だとしてもそれはあくまで経済のことでありまして――ォホホ…――、人間の多様性と選好は別なのではないかと思えるところですが人間が経済的存在であり――ォホホホ…「ホモ」!エコノミクス。ホホ…――、労働の義務が憲法に規定されることなどからし、経済に必要な事柄はほぼそのまま人間の存在に関わる事柄として認識されざるを得ない。
 勿論、従来の、というか昔の日本がしてきたように多様性と選好を拡げる経済というものもあります。それを通して人間は良くも悪くもより多様になってそれぞれが自分の好みに見合うものを見つけられるようになったのです。しかし安倍政権の日本はそれをアップデートすることではなく違う形を志向している。そしてその支持を支える国民の色々な発想や趣向、風俗が安倍政権の前に21世紀の始まりの辺りの頃から出ていてこの二十年の間に結構な数になっている。

 私は元々多様性というものをあまり信じないのですが、そもそもがそうなので指向(ベクトル)としては多様ではない世界をより多様にしてゆくという発想です。そのような発想は時に一見はかのような安倍的発想と被ることがある。いずれも思い描く姿は客観的に見て今よりも多様ではない世界だからです。何らかの形で5S――:整理;整頓;清掃;清潔;躾――を要する時代になっている。

便利とは状況に応ずること 

 昨日に私は新しい手洗所の洗剤を買いました。
 ライオンのルックまめピカというもので、普通の手洗所洗剤と比べ小さ目の瓶で緑色の液。
 何でそれを選んだかというと、塩素系漂白剤がまだかなり残っているところ、それを使えない便座に使える洗剤をほしいからです。便座は樹脂製なので塩素系漂白剤を使うと傷み若しくは割れる可能性があります。便器の取扱説明書には便座は水または中性洗剤を使うこととあります。
 汚れを落とすだけならば水だけで十分なのですが今はやりのコロナウィルスなどを含め、除菌を考えると洗剤がよいです。ということで中性洗剤を買うことにした訳ですが、まず見たトイレのルック除菌消臭EX、買おうと思ったけれど裏を読むと酸性とある。塩素系ではないので多分大丈夫だろうと思われますが念のために中性のルックまめピカにしました。名前とデザインがかわいいということも決め手です。品物そのものにしても状況の勘案からしても、そして価格にしても実に最良の選択をした、即ち便利だと思います。

 それを便利と感ずるのは、便座を水でしか洗えないことを不便と思うからです。やはり不便が便利の前に存在しています。

 便利の抽象的定義――
 不便の抽象的定義――

 便利とはその手洗所洗剤について見ても、それそのものの効用も必要ですがそれだけではなく状況に相応しいことがより必要です。

 効用の優劣は相対のもので、効用のより劣るものを選べば何もできない訳ではありません。汚れを落とすだけなら水だけでもよいのです。なので水だけでは得られない他の効用を状況に応じて得られることが便利さなのです。
 この場合の状況とは:塩素系漂白剤が既にあってまだ残っていること;除菌をしたいこと。
 どんな状況があるかということは具体的なものですが状況に応ずるべきということは抽象的なことです。
 具体的状況を見ているだけではその状況にどう応ずるのがよいかという考えは出て来ませんし状況に応じてするという抽象的命題を持つだけでは具体的状況が見えません。具体的認識と抽象的命題を同期(synchlonisation)し、具体的認識を抽象的命題に帰納し(挙げる)ながら抽象的命題を具体的認識に演繹する(落とし込む)ことが必要です。それが「関心、interests」であり「利益、interests」を生むものです。より私の専門に即して言えば、それが「参加、engagement」。具体的状況は対自存在、être pour soiであり状況に応ずるという命題は即自存在、être en soiです。それら二つの存在、êtreを結びつけて同期するものがengagement。

 engagementという概念は5Sと同じくごく当たり前のことのように思えるものですが、現実にはそれが当たり前ではない、していないのにやっていると思い込まれるようなものなので或る哲学者の主題になった訳です。または、平和というものもその例にあてはまるでしょう。
 戦争があると色々なことが不便になります。平和があると色々なことが便利になり得ます。しかしなり得るだけで現実にはなっていないことも多いです。平和が当たり前だと便利も当たり前、いう程に平和にも便利にもなってはいなくてもただ戦争がないだけでそうなっていると、自分達も平和に便利にやっていると思い込みがちなのではないでしょうか。

 今が平和で便利だ、そのような思い込みがより平和で便利にしてゆこうとする取組の足を引張り、周りや世の中を陰に陽により不便にしてゆこうとする東京人気質です。
 尤も、或る人々にとっての便利は他の或る人々にとっての不便になることが少なくはなく、東京人が何かにつけて不便を志向することは自分達東京人の便利を保とうとしてのことなのかもしれません。いわば抵抗勢力。
 この二十年に形成されているいわゆる反新自由主義延いては反安倍がなかなか国民の多数の支持を得られないのはそのような東京人的抵抗勢力の発想や利益と少なからず結びついてしまっているからでしょう。
 例えばしばしばいわれるのは今の日本は中小企業を圧迫しているので「地方」が疲弊しているという説ですが、最も中小企業が多いのは東京で、もし中小企業が圧迫されているなら最も疲弊するのは「地方」ではなく東京な筈です。そこから、反新自由主義や反安倍の人々が具体的状況を捉えて説いているのではなく空理空論を説いていることが分かります。「地方」、即ち田舎は中小企業を立てることも難しいので仮に疲弊しているとしてもそれは何か別の要因によることだと考えられますし或いは疲弊しているという事実もないかもしれません。シャッター商店街が寂れてイオンモール――民主党系ですが、何か?――が栄えるのは単にシャッター商店街を不便と感じる人が多くてイオンモールを便利と感じる人が多いからで、自己責任でも権力の責任でもなく、状況の変化に過ぎません。勿論、状況の変化に応ずることは自己責任です。
 私が一昔前――「私はあなた方とは違い自分を客観的に見ることができるんです。」と「みぞうゆう」の時代。――に住んでいた横浜の弘明寺にある観音通商店街などを見ても、状況の変化に応ずる責任を負おうとしている店、既に負っている店、負おうと思っているけれどなかなか踏み切れない店と負おうとしない店の差が一つ一つ歴然と違う種として感じられました。'only one'の意味を考えてほしいと思ったりします。'♪Only one. Only you. FM横浜 84.7。'

便利と不便、その定義 

 便利とは不便ではないということ。

 ――身も蓋もないことですがまずはそれに尽きる。

 なので、まずは人間はどんなことに不便を感じるかということを考えることが先決でしょう。

 それを踏まえながら、あるべき便利さという観念も必要です。

 直前の記事に述べたユダヤ・キリスト・イスラム教圏における便利さとは神の御旨に適う状態だということを念頭におくなら、便利さとは「園にあるものを自由に取って食べてよい。但し園の中央にある知恵の木の実だけは取って食べてはならない。」ということになります。
 私は蛇ではなく猫ですが、その知恵の木の実も本当は必ずしも取って食べてはならないものだとは思いません。何しろ知恵なのですし、それそのものは食べても良いものな筈です。
 しかしそこでも取って食べるべき状況というものがあるのだと思います。それがどんな状況なのかはその時点ではまだ人間は分かっていない。分かったら取って食べてもよいがそれまではいけないという。
 蛇も神に作られた存在であるなら、全く間違いなことを人間に云う筈がないのです。蛇の云うことを信ずるか否かは偏に状況に由ることです。

 そこで神が天地を作ることを七日に分けたりそれを受けて人が作られたものに名前を付けたということからして、便利とは分けること、分別することができることだといえそうです。
 尤も、それは現実を見て分けられるから、分ける必要があるからするものであり、勝手に分けることではありません。
 そして物事を分けることは良きにつけ悪しきにつけ、必然に序列、patternsの認識を生じます。聞こえの良い言葉で言えば優先順位ですが、優先順位というものには時に悪い分別、即ち差別が含まれることがあります。
 序列、patternsの認識については後に語れたら語りたいと思います。

 そして便利さとは状況に応じて分けることだということからすると、従来の東京においては凡そ何の疑問もなく便利と思われていた地下鉄との相互直通運転や20m4扉車、整列乗車などが実は不便であり人々の足を引張るものだということが分かるかと思います。

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