見出し画像

政権交代の点火装置は何か?:「選ぶ」、「決める」、「捨てる」の心理 その2

 政権交代の原動力になるものは投票の得票数ですが、投票を決めるためには点火装置、Ignitionが要ります。聖イグナチオと名前が似ています。
 ハイブリッド車を含むガソリン原動機には点火プラグがありますが軽油原動機(ディーゼル機関)には点火プラグはありません。だからでしょうか?今はそうでもなくなって来ていますがかつては軽油原動機の列車しか走らないような田舎は政権交代がありませんでした。

 選挙とは政治が国民に言葉を通して火を点けることで、火花の位置が正確でないと良く点火されません。その正確さとは何かというのが今日のお話です。

 良きにつけ悪しきにつけ、人間は政治を含む物事を善悪や美醜で見ます。
 聖書の天地創造の話をよく人間は本来は善悪美醜を知るべきではなかったが知恵の木の実によりそれらを知ったので罪なのだという方がいますがそうではありません。彼らがそうはしなくても彼らはいずれは知恵の木の実を食べろと神に命ぜられていただろうし、彼らがそうしたことは実は何の罪でもありません。神はただアダムが蛇に奨められてそうしたことを隠してエバが唆したと言い、エバが蛇に唆されたと言ったので彼らを罪としたのです。彼らはそこで罪のない者を罪に定めたことにより神は彼らを罪とした訳です。
 人間は初めから善悪美醜を知るべきものとして存在しています。
 但しそれは人が心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして善悪美醜を正しく学ぶことにより成るもので、自分(達)の経験からしてどうだという善悪美醜は往々にして誤ります。勿論人(間)は経験を積み経験に学ぶことが必要ですが何らかの確立された権威(神のような)に拠り正しく学ぶことのない経験則は死文なのです。
 しかし日本人はどちらかというと逆に権威を嫌い、私的経験則を恃むことを良しとする傾向が強くあります。それが自由(リベラル)というものだという観念がとりわけ自民党以外の支持層に顕著ですが自民党の支持層にもかなり多い。また、権威を嫌うといえども物質を数値でほぼ正確に測れる理科学系の知識の権威にだけは従順だったりします。測定の不可能な人文科学系の知識は言論や革命の道具としてしばしば利用されることがあってもそれはあくまでも公に通じる権威ではなく新宗教のような私的に依拠する対象に過ぎません。故に人文思想に関してはどうしてもセクト主義が横行することになります。
 私は人文科学も理科学と同じように正確な測定が可能だと思いますし理科学にも正確な測定が可能になっていない事柄は多々あります。

 選挙とはそのような意味で原罪の塊といえます。
 有象無象の善悪美醜の観念が正しいものも誤ったものも交錯しながら人や党派を選び出しまたは退けるのが選挙です。
 しかし原罪だからしないという訳にはゆきません。
 日本だけではなくアメリカなども今はその傾向が強いそうですが殊に日本の投票率が著しく低いのは丁度人間は本来は善悪美醜を知るべきではないのだというように、原罪に触れることを嫌う或る種の穢思想から来るものではないかと思われます。私は別の意味では穢思想ですが選挙が穢れだとは思いません(補欠選挙だけはどうしても苦手ですが、)。
 アメリカは個人の良心を最大限に重視するため、それが極まると人間や物事を善悪美醜で見るべきではない、即ち何をも裁くべきではないという感覚に行き着きがちなのでしょう。そう思うことそのものは罪ではないでしょうがそのような感覚が有力となる状況は印象操作や扇動による独裁を許し易い。
 また、投票率の低さは以前の記事にも述べたように、殊に都市部の他地域の出身者においては学校などの投票所に出掛けても知人がいないのでつまらない或いは不安だということも大きな一因でしょう。そんな場所で紙に名前を書くだけのことに足労をしてもつまらない(することの意義は理解できるがその所作が魅力に乏し過ぎる。)ということで、遠隔投票(remote vote)の普及が必要です。

 善悪美醜:善い-悪い;美しい-醜い。
 投票の点火装置となるものも要するに、それです。

 善いも悪いもない、美しいも醜いもないと思うとしても、人(間)の判断には無意識に善悪美醜の観念が影響します。無意識なら正しいかというと必ずしもそうではなく、誤った無意識もあり得ます。
 経験や圧力により有象無象に刷り込まれた無意識の善悪美醜の観念はそう容易く消えることがありません。

 私が善くて美しいと思うのは例えばこんな感じです。

 ⬆️あ、間違えました。これです。⬇️

 男子の理想と女子の理想。
 まあ、リンゴと洋子も或る意味では理想です。リンゴ(リチャード)には爵位という権威もありますし、洋子は英語の伝統と日本語の伝統のどちらにもよく通じています。

 こう見ると、私の感覚は政治を含め、善悪よりも美醜を重視しているのかなという気もします。美しければ善い可能性も高い、醜ければ悪い可能性も高いと思います。安倍晋三前総理や菅義偉総理について見れば、ぎりぎり美しいといえなくもないかという感じがします。

 男子の理想と女子の理想ーーどちらもマークII並につまらない、だから支持率が1%にもならないといわれるかもしれませんがやはりマークIIやマークXは時代時代で理想を体現する車でしたし私も初めて買った車はマークIIのグランデ4でした。
 そんな理想を少数ながら体現している国民民主党がなぜ支持されないかについてはこの記事の主題ではありません。逆に一般論として支持されるされないとはどういうことかということについてがこの記事の主題です。

 善悪美醜というものを少し掘り下げて見ると、支持されるとはどういうことかや支持されないとはどういうことかが分かるかと思います。

 善ければ支持される訳ではない、悪ければ支持されない訳ではない、それは普通に分かります。
 醜い善は支持されないし、美しい悪は支持されます。
 それらも常時または永久ではありませんが、自民党の一党覇権(政治学においては覇権政党制と呼ばれ、日本の自由民主党と中国の共産党は同じくそれに分類されます。)を支える感覚は高かれ安かれ、そのような美しい悪というものが常にではないにせよあるのだという期待感です。殊に世俗主義の強い日本にあっては、しばしば醜い善は忌避の対象となり、そうではないものとしての美しい悪が期待の対象となるのです。
 故に、現役バリバリにせよ昔日の武勇伝としてにせよ、自分が美しい悪、いわゆるワルに正規にであれ非正規にであれ属していたということは自分にとっての自己同一性(identity)の拠りどころとしてその心に保存(conserving)され続け、その保存が利かなくなると自己同一性が崩壊してあってはならないものとしての醜い善に転落してゆくかのような念に襲われます。自民党の強さを支えるものの一つはそれです。
 それが自民党だけではなく、ほぼほぼ先程の男子と女子の顔の国民民主党以外の全ての党の精神的支柱でもあります。立憲民主党や共産党、公明党などもまた美しい悪こそが勝つという自民党と同じ(というか、自民党さえそんなことを云ってはいない。ただ自民党をひつこく支持する人達がそう思っているだけだったりする。)価値観で動いています。醜い善が支持されないことは言うまでもありませんがその真実を前に、そうではないものを志向するというのは単なる逆張りでしかありません。選ぶべきは美しい善の一択であるはずです。

 善悪またはそれに基づく正誤を見る際に、気をつけるべきことがあります。

 意外というべきかなるほどというべきか、
 人間は正しいと思っていることが誤とされても意外と平気です。
 何中華、本中華、それを誤というのは自分ではない他者であって自分がそれを正しいと思うことが他者の指摘により揺らぎ或いは崩れることはあまりないからです。そのような現象は良きにつけ悪しきにつけしばしばあります。
 ということは、野党が与党を幾ら批判してその誤と思しいことを指摘しても与党は全然平気だったりするということです。殊に日本のように覇権政党であり続けて来た自民党とその支持層にも権威を嫌い自分の経験則に基づく良心を恃む人の多い風土にあっては他者による誤の指摘は馬耳緑風なのです。故に2ちゃんねるやツイッターなどの社交媒体にも「はあー?」などという極めて下品な言辞が跡を絶たず横行します。
 正しいと思っていることが誤といわれても全然平気。

 逆に、人間がより恐れることは誤と思っていることが正しいとされることです。
 正しいと思うことが誤とされても、それはそうする側が自分(達)の「正しさ」を理解しないからだとか「不当な」力や陰謀を用いているからだという自己弁護的解釈が通用します。
 しかし誤と思うことが正しいとされることにはそのような解釈は通じません。そうなることは不当な力や陰謀が用いられたからではなく現状の維持という評価になります。誤と思うことは既に行われていてその現状が変わらないからです。正しいこととは未だに行われてはいないことであり、誤りなこととは既に行われていることです。未だに行われてはいない誤りをも先を見越して指摘する力は人間にはあまりありませんしあっても現在の争点として相応しい事柄とはあまり思われません。批判は常に現状に依存するのです。

 与党は与党が正しいと思うことを行います。
 そしてそれが結局は誤りとされても与党とその支持者にとっては意外と平気なのです。自民党が2009年に下野になった時に代わり政権を得た民主党に対する陰謀論が出て来た(その企画をしたのは今の総理の菅義偉さんです。)ことは多少はその下品さに驚くにしても人間の常だったりします。人間は負ければ陰謀論を語りたくなるのです。
 民主党は2012年に下野になった時に、その「誤り」をかくもあっさりと認めました。そこにはそうなってもいつかは何とかなるだろうと鷹を括っているからでもあるかもしれませんが、人間は自分が誤っているとされても平気だということです。その指摘が正しければ尚更ですが誤っていてもそうなのです。

 人間が最も恐れることは誤りと思うことが正しいとされることです。

 しかしそれが本当に正しいこともあります。人間が恐れるから誤りと思われていることが本当は正しくてもそうは言わずに誤りだということにしておこうという訳にはゆきません。
 そこには陰謀論をいう余地がありません。何でかというと敵は正しいと思うことを正しいと言っているだけだからで、陰謀ではなく陽謀です。

 野党が与党の誤りを指摘しても与党は全然平気です。
 その間に与党は野党が誤りと思うことを次々と正しいと云って野党に抗い難い屈辱を与えます。屈辱は力にはなり得ません。
 それでは政権交代がなかなか起こるはずもありません。
 与党と野党が逆でも同じです。
 内容についてはともかく手口としては自民党は人間の本質を知る慧眼です。
 今の野党が政権を得たいなら、与党自民党や公明党が正しいと思うことを誤りと云うのではなく彼らが誤りと思うことを正しいと云わなくてはなりません。
 それは例えば特に経済における自由が多少はなくなるようなことなどですが、今の野党が云うことを見ると飲食店の営業の停止とその強制をいう与党自民党に対しそれは経済の自由の阻害だと云うという自民党の本来の理念に適うことばかりを云っています。自民党はそれが本来は正しいが今はそれが難しいということでそう云う訳で、どちらが信用されるかといえば与党自民党が信用されます。かの西村大臣を非難するツイッターなどの方々は鬼の首を見つけたかのようにそれが自民党の致命傷になるぞ、ややもすれば次の選挙では政権交代だぞと三密の大盛り上がり大会を展開していますが人間の常からすれば西村大臣を悪く思っている人は支持党派を問わずあまりいないでしょう。良いとも思わないが悪いともいえないだろう、そしてそういう提案が出て来ることそのものは結果としては適切か否かを問わず自由な議論の一環にほかならないという感じです。

 自民党が誤と思うことが正しいとされる屈辱とは例えば共産主義が多少なりとも正しいとされて共産党を首班とする政権が生まれることです。
 しかしこの折に共産党を都合よく利用して自民党に対峙しようとしている立憲民主党は共産党に恃みながら共産主義は全くの誤だといいます。恃む側だけではなく恃まれる側もそれに乗じてか中国共産党の百周年につき、日本共産党は共産主義ではないのだという宣伝を強化しています。自民党が誤と思うことを同じく誤というので、自民党に良い意味でも悪い意味でも屈辱を与えることは不可能です。

 これからどんな風が吹くかは予測が不可能なので、自民党が次の選挙に負けて政権交代になることもあるかもしれませんが特に風が吹くこともなければ自民党が勝つだろうと思います。
 政策の内容についても語られればよいと思いますが、まずその前に手口の善し悪しで自民党が負けるとはあまり考えられないのです。

 尤も、経済の自由や営業の自由は私も大切なものだと思います。
 しかしそれは政局に関わる争点としては不適切な程にほぼほぼ当然の権理です。ここで飲食店の営業が制限されることによりその権理が喪われるとは考えられません。制限しないとならないのではないかと思わしいような状況だからです。
 もし日本が自由と人権を共有する国と以て任ずるなら、自分達はその価値を信ずる側で相手方はその価値を信じない側だというような思いや態度が少しでもあってはならないでしょう。しかしその価値についての話が再来月の九月には解散総選挙があるかもというような政局の季節に持ち出されることに、彼らにとり自由と人権は目先の政局のための道具、即ち相手方を貶めるための道具でしかないのかという疑いを禁じ得ません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?