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「詰める」と「タイミング」の平成日本:コロナ後に変わるとしたらそこだね。:その2:日本人はなぜ?

 「日本人はなぜ?」――
 英語に訳すと、'Why Japanese people?'。

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 直前の記事に、私は豚カレーは塊肉の厚切のみということを語りました。
 「そのタイミングで」――それがまさにこれから批判しその誤りを指摘しようとしている事柄です。「タイミング」。――、その日のその後に見たネットにこんな記事がありました:
 関西の出身の或る姑が(子の)関東の出身の嫁の作るカレーが豚カレーであることに違和を感じて嫁をたしなめたとの話につき、その記事の主がそれは異なる慣習を見下すことでけしからぬと述べている。そしてその姑はもしや豚肉を食べることを禁ずるイスラム教徒なのではないかとの嫌味を言っている。

 ――どうも逆なのではないかと思います。

 異なる慣習を見下し、それを貶めるためには宗教をも無視してカレーといえば豚だといいつづけているのは関東人です。
 豚肉を普通に食べる関東と豚肉を禁ずるイスラム圏、どちらが世界に広がりを持っているかは一目瞭然です――一概に数で見るべきでもないでしょうが、――。
 日本人である私達はイスラム教徒ではありませんが世界に相当の広がりのあるイスラム圏の慣習を知っておき、場合によってはそれに忖度することが必要です。
 単なる風習を「文化」と僭称し、豚カレーという関東の「文化」を否定するな、何をしようとうちらの勝手だという。そのような自己中心主義のために多様性(diversity)という言葉をさえ利用する。
 私もイスラム文化は嫌いです。しかしイスラム教を信仰する人々が多くいる以上はイスラム文化に多少の考慮をするべきです。

 ――という世界史的に極めてsensitiveな事柄に言及するまでもなく、単純合理的に、豚肉はカレーのような煮込料理にはなかなか合いにくい。不可能ではないが難しいのです。
 まず豚肉は茹でると固まり易く、カレーの豚肉を柔らかく仕上げるためには幾つかの勘所を要します。
 私が厚切をしか使わないというのは厚切肉なら長時間の煮込に耐えるからです。薄切肉を長時間に亘り煮込めると固くなります。
 また、豚の薄切肉は長く煮込めると反った形になるので、よほどに小さく刻まないとそれがスプーンに載らず食べにくくなります。牛肉や鶏肉は長く煮込めても反らないのでさほどに小さく刻まなくてもスプーンで掬えます。
 「食文化」というよく分からない言葉が日本にはしばしば言われていますが、食べることにおける文化というものがあるなら、どんなものを食べてその味がどうかということではなく、安全で食べ易くすること、それが文化というものです。
 日本はその急速に発展した経済力により、どんなものを食べてその味がどうかや「食感」がどうのということを「文化」だと思うという大きな勘違いをしています。
 関西には豚カレーがほとんどないということは人民がかなり豊かになっていても文化についてのそのような勘違いがあまりないということを物語ります。食べにくいものは料理に適さない、単純にそういうことです。

 厳密にいえば、日本が急速に経済発展をしていた時代にはもっともっと「安全で食べ易い」や「安全で着易い」、「安全で住み易い」などの本当の文化が真剣に考えられていたでしょう。未発展の'50年代の日本はかなり不衛生な環境だったそうですが'60年代からはそれが著しく改善されてゆきます。
 経済発展が一通り実現された'70年代以降に、日本人はそのような本当の文化を忘れてしまったのです。そのつけが最も派手に出て来たのがバブル後の'90年代の様々な企業の不祥事。バブル中ではなくバブル後です。自動車の車輪が走りながら外れて歩行者に飛んで来るなどというような危険が「経済より心の時代」といわれていた'90年代には普通にあったのです。どこが心なのでしょうか?

 「或る日に道を歩いていたら、通って来る自動車の車輪が外れて自分に飛んで来た、その故に自分は死亡した。」
 ――さて、その時にどう思うでしょうか?
 ――「タイミングが悪いな。」
 そんなことが現実に起こっていた'90年代から二十年も三十年も経つ今、そう思う人が当時にも増して増えているようです。
 直前の記事にも語った通り、予測の不可能または困難な事柄については'timing'という概念は成り立ちません。そのような事象は精々例えば'unfortunately'などと言います。
 「タイミングが悪い」ということは、飛んで来る車輪がそこを歩いている自分に当たらないように算段してくれたり或いは当たるように狙って来るということですがそんなことはあり得ません。

 延いては新型コロナウィルスCOVID-19などについても「タイミング悪く感染した。」とか言っていそうです。
 尤も、このパンデミックの空恐ろしげな情況にはそんな和製英語を駆使する日本人もさすがに現実感に少しは目覚めているのか、この十年程にはやっている「なぜ今、このタイミングで?」や「ワクチンが実用化されたタイミングで…」などという言葉を遣う人は少しずつではあれ減って来ているようです。

 何か自分にとって不都合なことがあった際に「タイミングが悪い、」と言う。
 誰もあなたの都合に合わせてくれはしないのです。
 しかし皆があなたの都合に合わせてくれると思っているから「タイミングが悪い、」と言い、何か好都合なことがあれば「タイミングがいい、」と言う。
 実際にそのような自己中心性を具体的形として発揮してはいなくても、少なくともそのような願望がある。
 しかしそのようなものは実際には出さないだけではなく願望をすら持ってはなりません。それは何か自分の期待しないことに喜びを感じたことがあるなら少なくとも分かる筈です。
 そのような自己中心性が国民に根強くあるだけではなく、報道などのマスコミがそのような言葉遣いをしてそれを更に助長している。

 「電車で座れるタイミング」といえば、それがいかに醜いオバタリアン的/おっさん的心性であるかが分かるでしょう。そんな醜い時代の反映として京王ライナーのような有料の座席指定車が出来ているのです。

 予測が不可能で根拠のない「時」を見計らおうとする。――何と無意味で愚かなことでしょう?
 物事はなすべきことをしているかどうかに負います。「なせばなる なさねばならぬ 何事も なさぬは人のなさぬなりけり」と昭和天皇裕仁も歌っています。なすべきことをせずに「時」を見計らって何になるのですか?それは政治においては批判される側だけではなく批判する側にもいえることです。

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