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次善の策を選ぶ。ーー夢の開き方。

 皆様、明けましておめでとうございます。毎度本noteを御覧いただきありがとうございます。
 昨日元日は私の年頭の論説『世界の危機にある今だからこそ、夢を。』を投稿しました。宜しければこの記事の後にまたは同時に御覧いただければ幸いです。

 「一年の計は元日にあり。」といいまた「一年の夢は正月二日にあり。」といいます。
 いずれにしても自らが一年をどう生きるかを策することですが、計と夢は融合しまた一致することが望ましいことです。

 その際に、何を選び取るか:考えや物、人など、選択肢や候補は多くの場合は一つではありません。幾つかのものを、一度に選べるのは多くの場合は一つだけです。仮に五つの候補があるとしてどれを選べば良いか?

 よく聞かれるのは「次悪の策を選ぶ。」というもの。
 五つの候補の内の二番目に悪いと思しい、即ちそこでは四番目に良いのを選ぶというのです。
 いかにもデフレスパイラルと日本経済の収縮の時代らしい消極的発想かと思います。従来の二十年はそういう発想が格好良いとされていました。若者のいわゆる保守化の傾向(trend)に乗じて大きな夢を持たずに地味に過ごす若者にそういう発想を教えようとするおっさん方は猶も絶えません。
 次悪の策を選ぶとは最悪を避けるとも言います。
 しかしどうでしょう?
 次悪の策、二番目に悪い候補はそこに最悪の策、一番悪い候補がその通りに恐らく最悪だろうと思われている状況に依存して存在します。しかしもしその「最悪の策」がなければ次悪の策が最悪になります。最悪は得てして自分の意図に反して存在するものなので自分の意図を無視して存在し始めたり存在をやめたりします。最悪はいつちゃっかりするりと姿を消して次悪を最悪に落とすか分かりません。そうなると事実上は最悪を選ぶことになる訳です。
 勿論、事件とか事故とか破局とか、誰がどう考えても悪いことは避けなくてはなりませんが、その次に悪いこと/ものにすれば賢いというものでもありません。
 いわゆる「最悪でもそうしたい。」というのはまさに次悪の策を選ぶということです。その「最悪」の下に更に最悪と思しいこと/ものがあり、それだけはならないようにしようと。

 逆に、「最善を尽くす。」というのがあります。
 横文字を好む人はそれを「ベストを尽くす。」と言います。
 昭和末期から平成初期に亘り、最善を選ぶという考え方が人気になりました。
 こういうと身も蓋もないですが、それはバブル経済にその頂点を見る日本経済の好況に根差すものです。
 お金が多くあればそれだけより良いこと/ものを選べる可能性が増します。勿論お金だけがものをいうものでもありませんが「力は金。」というのは一つの大きな真実です。
 モノ選びもベストを、考え方もベストを。マシマシ(:平成三十年頃からの新しいはやり言葉で当時にはない。)になりつつある経済力を以てすればきっとベストな道が開ける、そう思われていました。

 日本経済が不況の傾向になるや、そのような考え方はいよいよ格好悪い、ださいと思われるようになって来ました。それに取って代わる新しい考え方が次悪の策を選ぶというものでしたが、どうも極端に振れているような感じがします。平成初期からその胎動があった後にネット右翼と呼ばれるようになる或る種の愛国の思潮もまた、その敵としてのパヨクという「最悪」を免れさえすれば「日本人」として幸せになれるという次悪の策なようです。なのでネット右翼の言説からは何がより良いこと/ものだと思うのかはほとんど示されません。あれは駄目でそうではない自分は幸いだという。

 政治色を帯びない処で語られる「次悪の策を選ぶ。」という言説等は陰に陽にネット右翼的政治的言説の養分となって今までのグローバリズム的愛国思想に彩られる平成中後期の思潮を形成しています。そして若者の保守化が、それそのものはグローバリズム的愛国思想とは無関係の成り立ちですが、陰に陽にリンケージされ、若者は日本を愛するグローバルな人材だというような仮想現実が醸成されています。そんな若者と上手いこと手を携えて今の時代を支配することのできる者が勝つといいます。尤も、若者を取り込むということはいつの時代にも何らかの形であり続けているもので、それそのものは今時に始まるものではありません。
 しかしまあ、東日本大震災の頃に大学を卒業した人は2021年の今は32歳とかです。若者といえないこともないけれど、彼と手を携えるのは支配者のあなたではなく彼の妻や夫です。時代のはやり廃りという観点から見てもそんな発想はもう続かないでしょう。今年に大学を卒業する人々は「鳩山さん良いのに何で?」とかいいながら育って今頃は「またかん総理か。」とか言っている人達ですよ。

 最善を尽くすのは格好悪い、うざい:私もそう思います。
 次悪の策を選ぶ、最悪を免れる:それも格好悪いしうざいです。

 二番目に良いと思うこと/ものを、即ち次善の策を選びましょう。
 例えば憲法を改正すれば最善の憲法が出来るかもしれませんが今の憲法は次善の憲法です。少なくとも改正されるまではそれを守らなくてはならないものです。そして改正されたら本当に最善になるのかどうかは分かりません。

 最善の策を選ぶ、ベストを尽くすという際には、その何がどう最善なのか、そもそもそれが何なのかということが考えられてはいない場合が多いです。それがよく考えられている場合にも、最善と思うことによる萎縮に負けたり次善以下の他のこと/ものの良さが見えなかったりします。
 むしろ、最善とは思わない次善や三善が結果としては最も良いこと/ものになる、確かな選択である場合が多い。
 しかし四善や五善や次悪がさほどには良くなかったりどちらかといえば良くないことは確か。
 最善を想わないことは不可能で、最善なんてないとはいいません。しかし次善こそが実際には最善だったらどうでしょう?
 これは私のこれまでの生涯において肯定しても差支えないものと思いますが、次善こそが最善になった例は枚挙にいとまがなく、例えばこの新居もそうです。尤も私は神戸に永住したいと思っていたし今もそれが最善と思うことには変わりがないのであくまでも状況に依存しての最善と次善ですが(むしろ神戸を最善とは思わなくなったらこの川崎が最善に繰り上がってしまってあやふやなものになりかねないことはここまでを読めば分かるでしょう。)、今般の転居の際に結局は応募しなかったURの団地を第一希望(最善)にしてこの公社の団地を第二希望(次善)にしたら、最善よりも良いことに気づいてとても満足しています。

 それは欺瞞ではありません。最善を選ばない、ベストを尽くさないで自分の選んだ道を本当はそれが一番良いということを欺瞞だとか自分に嘘をついているとかいう人がいますが、いかにも泡だらけのバブリーマインドです。億ションや高級外車などはなくても彼の現に住むその庶民的な家や人並みの車が億ションや高級外車の縮小版、本質は何も違わない庶民の狂気に過ぎません。

 自分にとり何が良いか良くないかは自分が知っている点もあるし知らない点もあります。次善の策を選ぶとは自分の知らない点を見出す可能性を開いておくことです。

 あまり次々と目標が下がるのも何でも初めから低い目標をしか持たないのも良くないですが、目標を少しだけ下げることが大切賢明です。
 2020年代はそういう賢明な時代になると良いと思います。例えばSDGsなんかに関しても必要な発想になるでしょう。

 
 

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