見出し画像

日本の政治は劣等感が資本。

 冒頭の写真は或る有名かつ高名な政治家の胸像ですが、プライバシーの保護のために顔を隠しています。

 政治家の胸像といえば藤沢にある片山哲総理のものを見たことがあります。片山氏は歴代二人の日本社会党の総理の一人で、主に通商産業省(現:経済産業省)との協働により国の資源を重化学工業に重点をおいて投入して経済発展を促す傾斜生産方式を政策として行って日本経済の戦後の大発展への道を開きました。
 しばしば経済といえば自由民主党といわれますが、今の日本の豊かさの祖は社会党(が首班の自民以外の連立)政権でした。
 片山総理は後に藤沢市の名誉市民に叙せられています。

 経済に関してはともかく、政治主導といわれるこの二三十年の政治のあり方は自民以外の連立政権である細川政権から開かれたもので、どうも自民党以外が寄せ集まって政権を取るとこの国が良かれ悪しかれ大きく変わって長期的時代の基調を形成するらしい。

 片山総理と細川総理に相通じる点は劣等感がないこと。

 数年前に或る左翼女子のブログを見、ゴダイゴには劣等感というものがなくてただ音楽を愉しむことで活動していたそれまでの日本には稀有で貴重な音楽人だと語っていましたが、片山氏と細川氏にもいえそうなこと。
 私は劣等感というものをあけすけに表現する中島みゆきが好きだったりしますが、実は彼女の見方にも共感。いずれも好まないのは劣等感を隠しながらそれを時にちらつかせて共感を買おうとするような表現者。政治もまた表現活動です。

 劣等感を資本にしない政治は国を変え、そして新しい常識になる。

 劣等感を資本にする政治はその新しい常識に乗っかってその制度を渋々と運用しながらとりとめのない現状を維持する。

 後者は自民党の政治の基本のあり方ですが、自民党だけではなくこの程に「りばいばる」されるという立憲民主党と国民民主党の合流による新党もまた劣等感を資本とすることを基本のあり方とする勢力。
 また、自民党よりも安定勢力である日本共産党もまた同じ。
 そこで新党に加わらない玉木雄一郎国民民主党代表の御一行は片山総理や細川総理に近い。

 時々所々に現れる片山、細川や玉木などのような例を除き、日本の政治は思想を問わずほぼあらゆる勢力が同じく、劣等感を資本としている。

 二大+その他の勢力が互いにどんな劣等感を持っているかは様々ですが、大きなものでは、生まれ育ち、経済力と地位です。
 近年に日本は階級社会になりつつあると憂慮されています。階級にはそれらなどの固有の違いがあり、その差が大きくなると階級社会になるのではないかという訳です。
 しかし日本にはどんな生まれ育ちをしていたら、いかほどの経済力があれば、どんな地位にあれば、どんな階級と見做されることになるかという通念がありません。まず日本は商人国家といわれる産業経済に特化されたような国なので多くの人には経済力の浮き沈みの可能性がヨーロッパなどの階級社会の国々と比べ大きくあります。私の父は事業の成功を謳歌して私も金持ち育ちでしたがいつしか失敗して貧乏になっていますし、つい最近には私の勤める会社が倒産して譲渡先の会社に転籍する不幸中の幸を得ましたが賃金が下がりました。現にそのようなことがなくてもそのような可能性を前提とする人が圧倒多数を占める国を階級社会とはいえません。

 参考として、社会主義政策として企業の国有がありますが、日本にはほとんどない国有企業は何のためにあるのかというと、雇用を守るということもそうですがより大きな理由は階級社会を維持するためです。日本には階級社会がないので民営化が是とされる訳です。
 その点についての興味深い示唆がありそうなのは数年前まで日産自動車の経営に携わっていたカルロス ゴーン氏です。

 日本の国民社会はさように無階級のバトルロイヤル或いは有刺鉄線電撃爆破デスマッチの世界なので、その民意を反映し及び実現する政治もまたそれぞれの有象無象の劣等感を「晴らす」ことを原理としまたは目的とするものであります。
 自由民主党は(立憲+国民)民主党に劣等感を持ち、(立憲+国民)民主党は自由民主党に劣等感を持ち、日本共産党は自由+(立憲+国民)民主党に劣等感を持つ。
 政権の経験の少ない党がその多い党に劣等感を持つというのはいかにも理解し易いですが、その逆も常であり、安倍政権が何でかようにも(立憲+国民)民主党を貶めることに腐心するのかというと、自民党には何らかの面で永らく彼らに劣るという意識が強くあるからです。
 共産党は国家による弾圧を受けていた経験があり、そのようなことのなかった「立場のきれいな人々」に劣等感を持っています。
 日本の政治のそれなり以上の規模を持つ主要の政治勢力の中でほぼ唯一のその例外は公明党です。
 私は公明党の政策を支持しませんしその風土も嫌いですが、そのような日本の政治の由々しいあり方に何ほどか気づいてそれとは異なるあり方に立とうとしていることには大きな意義があるかと思います。公明党の主導で行われた日本史上前代未聞の十万円の電撃給付は劣等感を基とする日本の政治のあり方からは出ては来なかったであろう画期的政策です。日本人の従来の通念では、自らの功に由らずにお金を貰うことは自らの劣性の証とされて来ました。実際にはそうではなくても、一銭でもお金を貰えることは自らの徳にそれだけの理由があるからだという理由を付けるのです。

 劣等感を持ってはならないということはありませんし、中島みゆきのようにそれを他者を貶めず礼を失しない限りでなるべくあけすけに表明しまたは表現することは大切ですがあらゆる事柄が劣等感に動かされるなら、それは由々しいものです。しかし日本の政治は一貫してさような由々しい構造にあります。

 何に劣等感があるのか?
 その点で先日に示唆深いツイートを見ました。
 自民党は世襲・反自民は徒弟制度、それが日本社会の原理だという指摘です。

 自民党が世襲をしていることは一目瞭然の事実ですが、反自民の諸勢力が徒弟制度だはというの知る人ぞ知るもので、あまり知られていません。
 徒弟制度とは家族や親戚の血縁のない者に何らかの思想や技術をマンツーマンの人格的交わりを以て伝承しようとするものです。
 分かり易い例は「秘伝のたれ」など。
 別にたれが秘伝であろうがなかろうが安全で美味しければ良いのですが、徒弟制度的価値観においては親方が弟子にマンツーマンで伝えた汗と息の匂いのする味ということが至上価値とされます。
 反自民の諸勢力の多くはそのような徒弟制度的原理で成り立っているという訳です。

 そのような反自民の原理を、自民党はそれは違うと批判するでもなく、「へぇー…、」と上から目線で一瞥するでもなく、自分達にはないものとして羨ましがっている。
 何で羨ましいかというと、自民党にはそのような親方と弟子の人格的交わりというようなものがないからです。
 世襲は財産と地位の譲渡の手続さえあれば成り立つので、それらを譲り渡す者と譲り受ける親と子には徒弟制度のような人格的交わりを必要とはせず、最近に安倍政権の中枢の自民党の萩生田光一氏が男の子はお母さんが好きだというような発言をしたことからも窺えるように、自民党の政治とそれを支える価値観には父が子に財産と地位を譲り渡すように手続をさえ踏めば人格的交わりによる思想や技術の伝承は必要がないのだという思想が底流しています。
 何でかというと、思想や技術についてはことごとくアメリカから届く通達を見れば済むからです。勿論、アメリカはそんなことを日本に求めてはいません。

 しかし反自民が基とする人格的交わりというのも眉唾です。

 最近の例では立憲民主党の枝野幸男代表と福山哲郎幹事長の関係。
 かように反自民は自民党の「手続を踏みさえすれば良い。」というのとは逆に、「人と人の結びつきさえあれば良い。」という反近代的発想に基づく。
 そうこうしている内に、私の座右の書である『近代の擁護』などを著した劇作家の山崎正和さんが亡くなられました。
 近代主義にも問題がありますが、反近代はもっと悪い。

 人格的交わりによる思想や技術の伝承がお金及び生活の安定を生み出すとは限らず、むしろそれに失敗する例が多いので、反自民は譲渡の手続と「お母さんの愛」のみにより財産と地位が受け継がれる自民党に劣等感を持つ訳です。

 また、安倍政権になってからしばしばいわれる自民党の反知性主義というのは、反自民が徒弟制度的価値観を通して永らく「受け継いで」持っている何らかの知識が自民にはないという自民の劣等感の反映でしょう。自民からすると、それは羨ましく見えるのです。それは東京大学が長らくマルクス主義的思想に立つ学問をその標準としていたことからも窺えます。自民党にも東大卒の政治家は少なからずいますが、彼らは自民党の主流ではなく、知識への劣等感を持つ自民党の弱点を埋めてくれる助人に過ぎません。

 では、日本以外の政治はどうなのかについては次以降の記事に書けたら書きます。 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?