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「契約社会」て何?

 このnoteを始める時にもその他の色々なインターネットの道具を始める時にも、「同意する」という確認印のクリックがあります。
 インターネットの道具の他にも色々な実地の仕事(ネットの隠語で言うと「リアル世界のサービス」。)をインターネットを通してすることができますがそれらも「同意する」という確認印のクリックが求められます。

 まず、それらは契約でしょうか?

 答は微妙です。
 どう微妙なのかというと、契約という語はそもそも日本語に独特のもので、近代「契約」社会を創り出した西洋には「契約」に相当する語はありません。なのでよく耳にする、西洋は契約社会だが日本は契約社会ではない(なので日本は契約社会にならないといけない。/日本は契約社会ではない特有のあり方をすべきだ。)というのは日本にしかない語で語る以上は本当ではないということになります。
 但し契約という語に最も近いといえそうな英語は‘agreement’で、「合意」とも言います。意を合わすためには契を約める(ちぎりをまとめる)ことを要し、いわば合意が出来るまでの過程を説明する語であるといえるからです。
 しかし混乱してしまいますが、そうして契を約めて意を合わせたことを示すものは「契約書」ではなく「合意書」です。契約書と合意書は随分と異なるものです。
 クリックなり署名なりにより同意された事柄については契約書が発行されることがあり、「同意する」はまさに契約ですが本来はそれは「契約」と呼ばれるべきではなく「締結」及び「締結書」と呼ばれるべきものです。
 「契約書」には「契約を締結する、」という文言のあるものが多く、そこに一応は必要な語があることになりますが本来は「締結する」だけでよく、例えば「雇用契約を以下のように締結する。」なら「雇用に関し以下のように締結する。」が正確な文言になります。「契約を締結する、」だと異質のものである合意、agreementと締結、contractが一緒くたになります。どちらなのかよく分からず、これが日本が「契約社会ではない、」とよくいわれているいわゆる曖昧さの一因です。

 合意、agreementとは対等な者の間に平等な条件による提案や交渉が行われて或る事柄が決められることをいいます。
 対等や平等というとまず思い浮かぶのは平和的交渉ですがそれだけではなく戦争や闘争も互いが対等で平等な条件において行われればその結果は合意といえます。戦争は言葉による合意ではなく武力による合意です。尤も、その次に行われる講和においては勝者の提案が優先されるため、そこに来るとそれは合意ではなく締結の性質を帯びます。
 労働争議も、階級闘争というような現実の認識はともかく労働法により労働者と使用者は対等で平等な地位を以て争議を行うことができると定められるのでそこに出来る結果は合意といえます。一言多いかもしれませんが、労働法はそのようにして階級闘争という概念を否定するものなので、階級闘争を肯定しながら労働法を護れとか労働者の権理を護れというのはおかしい。労働者の権理は法の下の平等に基づくからです。

 合意、agreementのもう一つの重要な特徴は橘玲さん風に言うと「出入りが自由」なことです。
 自分が加わった合意を守ることができるかどうか、守りたいかどうかによるので、もし自分はもうその合意には関心がない、守り続けたくはないということならいつでも任意に脱退することができます。なので、合意には脱退における懲罰や賠償を求めてはならないという不文律があります。日本は国際連盟を脱退しましたがそれについては何の懲罰も賠償も求められてはいません。単に日本が国際連盟の一員ではなくなるだけです。しかしそこから派生した歴史の状況を世界の日本への懲罰だとかいうのはいかにも失笑な見方です。
 これを俗臭な喩でいうと、「逃げた女/男を追うな。」という苦笑。しかしまあどうでしょう?アメリカ人というのはどちらかというと逃げた女/男を追いたがるようでもあります。

 締結、contract、現代日本の慣用語としては契約、keiyakuとは合意、agreementのように出入りが自由なものではありません。
 尤も、noteにしてもfacebookやTwitterにしてもいつでもやめたい時にやめることができますがそれらは締結の内容が至って簡単なことで無料なことからの特殊な例で、もっと多くの内容や債権債務を伴う締結はいつでもやめたい時にやめられるものではないことがほとんどです。
 ツイッターはアカウントの廃止を申し入れても廃止を取りやめて継続することができるという利用者の便宜をも兼ね、申請の後30日間はアカウントが抹消されないことになっています。これはツイッターが一見はそのように見えても出入り自由のものではないことを示すものでしょう。
 また、締結というものは、互いが対等で平等な関係ではありません。
 ツイッターの規約(compact)はTwitter社が全てを決めるもので、その締結の相手方たる利用者が規約の制定に関わることはできません。利用者はそれに同意するかしないかのみを求められます。
 そうなら締結には自由はないのかというとそうではなく、どんなものにつき誰と締結するかを予め検討して選ぶ自由があります。しかし選んだら締結の主体(自分は客体)の同意を求める事柄を上下関係的に遵守し、主体が特に認める事柄を除いては客体が締結の内容や債権債務の提案や交渉を行うことはできません。
 いわば、日本は契約社会ではない(だからどうだ、)という人の思い浮かべる「対等で平等な個人が契約を交わす。」というのはTPPのような合意には当てはまっても、家にも会社にもネットにも当てはまるものではありません。家も会社もネットも選ぶ自由はあれども出入りの自由はないのです。もっと足元を見れば、国もそうです。
 それを或る種の保守主義者が格好ええと思うような表現で言うと、「服従への自由」という感じでしょうか。

 尤も、人間には対等平等も服従的上下関係も必要です。それらが理に適って均衡する時に自由を感じるものでしょう。

 ここには「契約」という日本語の主な訳として示される’agreement’と’contract’についての解説をしました。
 次の『その2』には人間の「約束」と政治の「公約」についてを、
 次の次の『その3』には聖書の「契約」(?)についてを解説します。

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