見出し画像

便利と不便は何が違うか:その定義を試みる。

 便利とは不便ではないこと。

 不便とは便利ではないこと。

 一種のトートロジーですが、言い得て妙。

 偶にトートロジーは駄目だという人がいます。
 トートロジーとは例えば「鴎(かもめ)とは何か?――それは鴎である。」とか「イチローは何で名選手なのか?――それは名選手だからだ。」などという、定義や理由についての論理的説明のない言辞や解答をいいます。

 しかしトートロジーが何で駄目かという問に彼は答えられるでしょうか?「トートロジーが駄目なのはそれがトートロジーだからだ。」、「駄目なものは駄目だ。」としか答えられないのではないでしょうか?

 トートロジーも場合によっては適切、即ち便利なものです。
 状況や場合に即して遣われるものは適切で便利なのです。
 便利なものがなぜ便利なのかといえば、それは使う人が便利だと思うからです。不便なものも同じ。

 しかしここでは便利と不便についてなるべく論理的に定義することを試みます。
 人間はどんなものを便利と思うのか或いは不便と思うのか?幾らかの法則があると思います。

最低限以上の効用があること 

 便利と効用は別の概念です。

 効用は能力による相対差があります。
 一概に効用の高いものは便利で効用の低いものは不便とは限りません。
 効用は多くは多面的であり、或る一つのものの或る効用が同じものの他の効用を阻害する場合もあり得ます。
 複数の効用が互いに阻害し合わず、望まれる全ての効用を最低限以上に出せることが必要です。

見えるように分けられていること

 直前の記事――:冒頭にリンク――に旧約聖書の創世記には神が天地を七日に分けて作り、作られた人はそれらの一々に名前を付けたことが記されます。そこから、便利とは分けることだという大まかな見立を示しました。ユダヤ・キリスト・イスラム教にとってはその天地の創造の時こそが最も便利な状態なのです。
 仏教は大悟、解脱や極楽浄土など、最も便利な状態を過去にではなく未来に見出そうとします。

 キリスト教の内、殊に旧教――:ギリシア正教とカトリック教会――は「見える」ことを重視します。
 世俗の物事は勿論のこと、天上の事柄についてもそれらは世俗の人間の目に見えるようにします。聖体や聖像、聖画、聖具などがそれです。
 仏教にも仏舎利や仏像、聖具などの目に見えるものがあります。ユダヤ教とイスラム教はそのようなものを一切も作ってはならないとしますが、ユダヤ教には子羊を焼き尽くして献げる儀式があり、それがキリスト教の聖体の起源です。
 どうも、信仰の対象が見えることを重視する地域圏は世俗の物事においても「見えるように分ける」、即ち見える化が勧み易く、見えないことを重視する地域圏は秘密主義が強くて見える化が勧まないか極めて限定的なのではないかと思われます。信仰と社会は全く別けられるものではないので宗教性は人々の社会生活にかなり影響するのです。

 分ける:ただ分けるだけではなく、見えるように、即ち分かるように分ける。

 そのためには、そもそも分ける必要があるのかないのかを考えることも必要です。分類のし方というものです。
 分類する必要のないものを分類するとバインダーやクリップなどの束具の数が増えて無駄になってしまいますし検索しにくくなってしまいます。分類整理に忙殺される程に書類を作ったり溜めたりしないことも大切です。

 また、自分だけに見える/分かるようにするのではなく誰が見ても見える/分かるようにする。使い勝手と便利は違います。

 例えば地下鉄との相互直通運転は便利な場合もありますが必ずしもそうではない例もあり、一概に便利とはいえません。
 見える/分かるようにするためには、地下鉄との乗換が便利ならば良い訳で、列車が直に乗り入れる必要は必ずしもない。例えば小田急の代々木上原駅は同じ乗場で地下鉄千代田線に乗換えられるのでそれだけで充分に便利ですが列車が乗り入れると運行計画が難しくなるので全体にとっては却って不便になったり分かりにくくなったりします。乗り入れることによりその列車だけの効用は高くなる訳ですが他の面を阻害するのです。効用と便利を混同しないことが大切なことはそれについてもいえます。
 片や、京王の地下鉄新宿線との相互直通運転は同じ笹塚~新宿の区間の列車を旧線と新線に振り分けて行く先の同じ列車の運行本数を多く確保するという機能があるので行く先の違う小田急と千代田線のように却って不便にはならずただ便利です。
 代々木上原駅で乗り換えるのが面倒くさくて不便と思うなら、自分がかなり不便な人といえるかもしれません。

予測可能なこと

 日本の鉄道が世界一便利といわれるのは定刻の通りに定位置に着いて出るからです。
 勿論、定刻の通りに動かないとどうにもならないのではいけませんし異常事態の対応も必要です。日本の鉄道はその面ではやや弱いとされます。

 定刻に定位置、それは列車がいつ来るか、どこに来るか延いてはいつ着くかの予測が可能だということです。

 予測可能とはいえども、行動や考えを読まれるということではありません。
 予測可能な人はそもそも一々読もうとしなくてもどうするかやどう思うかをつかめるので読んで裏を掻こうとされるようなことがありません。そうされるのは予測不可能なので一々観察して言動を読まないといけないと思われるからですが、予測不可能な人ほど自分の言動を読まれないようにするために更に予測不可能に振る舞って結局は読まれ、悪循環です。
 Aという行動が読まれるので読まれないようにBという行動に変えたとしたら、単に読み得る行動のパターンがAとBの二つに増えただけで読まれないようになった訳ではないのです。それがCやDなどと増えても同じです。

 道具にしても、壊れる時には壊れそうな兆候や出来れば明確な印が出ると予測可能で便利です。
 トヨタの祖豊田佐吉はその発明による自動織機に横糸が切れると杼(ひ、shuttle)が止まり自動で停止する装置を着けました。それなども予測を可能にするための仕組です。また、大野耐一がトヨタに導入したかんばん方式も生産の流れを予測し易くするための仕組。回収されたかんばんの枚数で生産量が分かる。

 先述の効用ということを考えても、効用の高さよりも予測可能性が大いに重要で、予測可能なら自ずと効用も高まり易いし解決や改善もし易い。
 今の世の中もこの先にどうなってゆくのか予測が難しいので人々の不安や不満が増しています。

 空気も予測の目安になり得るもので、空気を読むことも必要です。

必要な情報が示されている

 これは二つ前の項の「見える化」と直前の項の「予測可能」にもつながるもので、必要な情報がなるべく余さずに示されることによりそれを予め知りまたは随時に参照することができるようにすること。

 便利なものがそこに置いてあっても、それが何のためのものでどんな構成なのか、どう使うべきか、どんな危険があり得るのかなどが示されていなければ役に立ちません。
 先述のかんばん方式もそうですし、製品の取扱説明書もそうです。または品物そのものにも情報の表示があると尚良いです。

 ただ、持ち物に名前を書くことはあまり感心しません。
 名前を書くということはそれを失くした時に誰かが拾って返してくれると期待するからで、その分自分で管理する責任を放棄することになるからです。また、見た目にもあまり美しくありません。
 関係あるかどうか分かりませんが、1990年に無記名株式が廃止されて記名株式のみとなったら企業の不祥事が増えました。自分の持ち物であることを殊更に示すことは無責任や身勝手になり易いのでしょうか。今は株券を発行しない方式になっているので全て登録管理で記名も無記名もありません。

起動が早い

 電車に乗るとします。
 大阪~神戸でも東京~横浜でも大阪~伊勢志摩でも何でもよいです。
 全行程の内、始めが早いのと終りが早いのとどちらが便利でしょうか?

 電車はどうしても大阪寄や東京寄が運行本数の多さや駅間距離の短さのために遅くなってしまうものですが、出発して始めが早いのがより早く感じて便利といえます。大阪発や東京発より大阪行や東京行は早く感じられ易いのです。
 始めが早いと終りに近づくにつれて徐に遅くなって来てももう暫くで着くという予測可能性に助けられて遅いと感じません。
 始めが遅いとその時点で予測可能性が揺らぎ、どれだけ掛かるのだろうかと不安になって来ます。それで終りを早くして稼ごうとしても何となく見え透いた感じがします。

 電池で動く道具は電池の消耗と共に遅くなってくることが当然なので始めが速くて強く、後々に遅くて弱くなって来ても不便だからではないと分かります。尻上がりに速くて強くて快適になって来ることはあり得ません。
 電源式で動力の減衰のない道具も、電池式と同じでよいのです。幾ら尻上がりに調子が良くなって来ても始めの動作が悪いとそれは不便ということです。竹とんぼを飛ばしたりこまを回すことと同じです。

 出だしで遅れてもあれよあれよとごぼう抜きで大逆転とか、あり得ないことを考えず、普通の推移でなるべく持続するようにすることが大切です。そのためには始めになるべく多くの力を出して良い動作の癖とその流れを着けることです。

 但し米の焚き方だけは例外的に逆。

正義であること

 予測可能性や情報の明示とも関わることで、便利なものは企画、設計、生産、販売や物によっては保証や保証外修理が正義です。

 一見は便利そうに思えてもいつしかおかしくなって来た、欠陥品と分かったという場合は、それは便利ではなく或る面での効用がずば抜けて高いだけだったりします。他の面を疎かにしたり予測不可能な動作をしたり必要な情報が示されていなかったりして不正義です。

 正義は必ず勝つといいます。
 または、それを「本当だろうか?そうではないのではないか。」ともいわれます。
 正義は洩れなく勝つ訳ではありませんが大抵は必ず勝つものです。勧善懲悪ものの物語には大抵の場合にあてはまる現実味があり、そうはならないのは大抵の場合ではなかったり正義を履き違えていて正義と思っている側が実は悪な場合です。

 負ける不正義は:
 予測不可能な言動が多く、存在感が奇異。
 必要な情報を示さず、物事を隠したがる。

 ほぼそれらに尽きます。そういうのを鬼や化け物と呼びます。

 予測不可能で奇異な言動は初めは戸惑い恐れるものであってもいつしか読まれます。
 物事を隠して分からないようにしていてもいつしか見つけ出されます。
 読まれないように、悟られないようにするほどに読まれ易く、悟られ易くなるのです。

 仮に誰か大事な人を護るためとか大事な信念を守るためという大義名分があっても、それだけで不正義です。
 社会主義統制経済国家はその分かり易い例ですが、自由主義資本経済国家にもそのような例は少なからずあるでしょう。しかし予測可能性が高くて情報の開示が適正な国は便利なものを多く生み出せる自由と正義の国、必ず勝つ国なのです、洩れなく勝てる訳ではありませんが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?