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少子化の原因は 子を育てにくい経済か 子を育てたくないという思想かーー経済と思想の相互依存 そして 少子化人口減の時代の産業経済、その2

 子を育てにくい経済とされているのは低成長により所得が減少して資産の形成や維持が難しくなる状態のことです。経済には成長という子供にもいわれる語があります。
 子を育てたくない思想とは儲ける子供が少ないほど良い或いはいなくてよいとか結婚をそもそもしたくないという考えのことで、出生には儲けるという経済にもいわれる語があります。また、考え、conceptは-tionがつくと子を宿すということになります。
 儲ける子供が少なければ産業経済の儲け及び所得も少なくてよいという思想もありますし或いは子供は少なく儲けと所得は多くして利回りを高くしようという思想もあります。日本の俗語は前者を庶民や負け組と言い、後者を上級国民や勝ち組と言うそうで、日本は育児に関わる思想と経済の相互依存関係や相互正当化が非常に強いといえそうです。諸外国にもそのようなものはありますが日本ほど顕著ではありません。経済格差が先進国では最も大きいアメリカにもあまりそのようなものはない。
 ヨーロッパ諸国は育児に関する福祉が発達していることから経済力と出生及び育児の相関は薄いですしアメリカは経済力が低いと子供に掛ける費用、処分所得が平気で低いので世帯所得の勝ち負けなどということをあまり気にしないのでしょう。そのようなアメリカの気風は後進国にも似るところがあります。
 日本は人生や社会に関わる基本的発想がヨーロッパに近いながら福祉が軽視される(今時に始まったことではなく昔から。むしろ今時はかつてなく福祉についての肯定的理解が徐に普及して来ています。昔は若者がそんなことに関心するものではないとよくいわれていましたが今は若者が最も普通に福祉の話をします。故に近年にはやりの、所得の再分配があった昭和時代の日本に還るべきだというのは事実に基づく認識ではありません。)ので低所得でも出生や育児の費用を多く遣わないとならない、半ば思想が経済に帰結しながら半ば経済が思想に帰結している訳です。

 高度経済成長からバブル経済の崩壊までの豊かだった昭和の時代には所得の再分配の政策がしばしば色々と行われていました。しかしそれらは単に所得の労働者への還元であり、社会保障や福祉の発達に結びつくものではありません。還元された所得は各人や各世帯の消費や貯蓄になるもので、消費税もなかった当時はそれが税として再回収されることもありません。また、一度に還元される再分配はおひねりほどの金額で、その都度大事に貯めても資産の形成になるようなものではありません。それと比べると十万円を全ての個人に給付するとか、今時は貨幣価値の低下を加味しても尚景気の良い財政政策が行われています。尤もそれは昔と比べての評価で、絶対値としては日本の社会保障、福祉や財政政策は猶も低い水準にあります。
 昔の日本が豊かだったのは再分配があったからではなく単純に通常の所得水準、即ち賃金などの報酬月額が高いからです。そうならば再分配は家計を支えるものではなく経済社会のincentivesに過ぎず、その効用がある場合もあるにせよ濫発がdisincentiveになってしまい、丁度それがバブル経済の頃の日本経済です。そうなることはその何年も前、石油危機の頃から予測されていたので所得の再分配に代わるものの一つとして消費税(大型間接税)が導入された訳です。

 バブル経済が不動産をその本位制としていたことにも分かるように、日本経済における最も難点は不動産の取得と維持です。
 購入して自己所有にするにせよ賃借にせよ、逆に販売や賃貸をする側にとっても不動産は経済の瓶の首です。
 歴史的に見れば日本の国土の狭隘に因る可処分地所(土地)の少なさやそれに起因する人口の移動の多さは日本人に不動産に関る費用の高さをもたらしています。しばしば人口の大都市圏の集中による市場競争の高さが問題視されますがそれだけではなく全国のほぼどこも世界に比べ不動産相場が高くて費用の負担が大きいのが日本の歴史の常です。
 因みに不動産は消費税の課税の対象ではありません。もしそうならえげつないです。
 しかし少子化と人口の減少はそれが半額とまではゆかないにせよ、20%引や30%引ほどにまでは不動産相場が下がってゆくのではないかと考えられます。そうなると五千万円の分譲住宅は四千万円ほどに、五万円の団地(私の家。)の賃借料は四万円ほどになることになります。尤もそれが今年で46歳の私の眼の黒い内になるかどうかは分かりません。
 単純に需要の減少は価格の低下になるというミクロ経済の原理ですが、需要の減少と共に供給の減少も生じるのでそう劇的に安くなってゆく訳ではないでしょう。
 しかし不動産の需要だけではなく供給も減少するとなると、建設業者や開発業者の更なる寡占と内製主義が勧むでしょう。従来は市場を寡占する大手建設業者等(いわゆるゼネコン)が多数の下請の建設業者等を擁し事業を展開しており、下請への利益の分配ということが図られていました。これは政府の財政における所得の再分配とも基調を同じくしています。
 これからは下請の需要は少なくなるので大手業者が内製を勧めてゆくかと考えられます。それにより建設業の従事者の賃金水準がこれも劇的にではないにせよ上がる可能性があります。
 内製主義が可能かどうかは製品の現物の構成や性質にもより、建設は内製主義になり易いですが産業機械や自動車などは依然として下請の需要が多くあるでしょう。但しそれらは建設業におけるような下請への利益の分配という構造ではない独特の構造が既に確立しているようです。

 人間の生きることに必要な要素は衣食住ですが、2020〜’30年代の二十年は「住の時代」になると考えられます。
 私は日本を含む近代世界の歴史は「衣の時代」、「食の時代」と「住の時代」を国ごとにではなく世界が同時に二十年の周期で繰り返しているという説を提唱しています。その中、それぞれの国が様々な特徴を良くも悪くも出しています。

 1860〜’70:衣の時代
 1880〜‘90:食の時代
 1900〜’10:住の時代
 1920〜‘30:衣の時代
 1940〜’50:食の時代
 1960〜‘70:住の時代
 1980〜’90:衣の時代
 2000〜’10:食の時代
 2020〜‘30:住の時代 

 例えば森鴎外の短編小説にも描かれる上野精養軒は東京築地での創業が1872年で1876年に東京上野に支店を設け、それが関東大震災における築地本店の焼失から今に至る本店になっています。
 創業の当初はまさに森さんや高級官僚などの今時の卑語にいう上級国民しか来ない店で一般にはそう有名ではありませんでしたが1880年代、明治十年頃からの西洋料理の日本における普及を背景に有名になりました。その代表選手はカレーライスで、上野精養軒も独自のカレーを今に伝えています。
 私の職業はクリーニング業ですが上野精養軒が常連の顧客なので先日にうちの社長が精養軒のカレーとハヤシを社員等に配り、私のいただいたハヤシがこれです:

 レトルトパウチの品とは思えないほどに本当に牛肉がごろごろと入っていますが、私はこれで、ハヤシライス(ハッシュドビーフ)の食べたその日から虜になりました。玉葱のつやなんかも違います。それから自分でも時々作っています。

 2000〜’10年代の二十年はもまた明治の文明開化の普及の始まり時代と同じく食の時代でした。
 それはテレビ番組等がいわゆる食レポをやたらと濫発していたことからも明らかで、その時代に出来たツイッターやインスタグラムもまた料理についてのものが多いです。私はその二十年の食の時代の基調には批判的意味で私のツイッターやインスタグラムに私の作る料理や美味しい店の紹介をしています。
 例えば私の作るハヤシライス(ハッシュドビーフ)は:

 上野精養軒のに引けを取らないですね。
 既製のルーを使う作り方と完全自製を作り分けており、これは既製のルーを使うもの。完全自製のはトマトを加えないのでもう少し黒ぽい色になります。

 クリーニング業は衣を扱う職で、故に1980〜‘90年代がその最盛期でしたが21世紀になるや衰退しています。私の務めるクリーニング会社もかつては名門でしたが2000年代に衰退し出して火災による現在地への移転があり、小泉構造改革とアベノミクスの時代にはそこそこの業績の回復を見ましたが(私も反安倍でありながらアベノミクスによる雇用の拡大に乗りその会社に入って成長しました。)昨2020年に倒産して今は当時の取引先に譲渡されて事業を継続しています。構造改革とアベノミクスによる業績の好転は飲食業を主とする顧客等の景気への期待からなのでほぼほぼ他力のみによるもので、自力での改善はほぼほぼありません。

 お洒落な服にお洒落な料理をと、衣と食には何となくつながり感があります。クリーニング業が衰退するこれまでの二十年にも食べこぼしなどによる染みを取り除く染抜師はいわゆる匠の技(私はその言葉が嫌いです。)として大いに注目されていました。しかしそれは逆に、匠の技とか持ち上げられるような凄腕にしか一般の関心が持たれてはいないということで、ひとつまみの匠とその他大勢のど素人しかいない、技術の格差が拡がっているということです。そこには八十点主義が成り立つこともありません。

 しかし、これからは住の時代。衣のような軽薄短小とはかなり違う重厚長大が産業経済と人々の生活の主な関心事になります。その序曲として今年2021年は空調機(エアコン)のクリーニングがはやりました。しかしエアコンを服のクリーニング屋に頼んでもきれいにしてはくれません。
 そんな時代にクリーニング業が存在感を出すには、布団、タオル、布巾、スリッパ、マットやカーテンなどの、着ない布の洗濯が重要になるでしょう、勿論従来と同じく着る布、服の洗濯もなくなることはあり得ませんが。

 クリーニング業だけではなく(というかクリーニング屋がそれに気づけばの話ですが、)あらゆる産業経済がこれからは住本位制、即ち人間の住む所を確保して豊かにすることを中心にしてゆくでしょう。なので例のあれからの、飲食業を守れと最近に政治への批判としていわれていることは全くの誤りではないにせよ時代の流れとはいささかずれているのではないかと思われます。
 従来の日本は飲食業をはじめとするサービス業が偏重されていました。それは大都市圏に人口を集め、当地における雇用を作り出して繁栄を誇示するためには最も手取り早い政策だったからです。そのサービス業に依存しておれば必然に飲食業を守れ、そうしないガースー政権は非道だという非難になります。
 サービス業にしても、セブンイレブン、マクドナルドハンバーガーやイオンなど、今時に優位にある企業等は皆大都市圏に限られず地域の偏りのないものが多いです。

 例のあれが終息をして経済が上向いても、もはや飲食店があれの前のように栄えることはないでしょう。仮にそれなりの繁栄を維持してもそれをよくある類の「経済効果が!」というような話で当てにしていてはどんな業種も没落するでしょう。

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