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目標は多く持つ。取捨選択をしないこと。

 元々読書好きの私は三十歳の頃に名古屋に住む頃から本をあまり読まなくなっています。
 読書が嫌いになったのではなく、一つは本を買うお金が勿体ないということもありますが、どうしても読みたい本だけを読むようにしているのです。
 そのため、買う本を選ぶ際にはその内容を三十秒で検査します。目次を見るのではなく本文がどんな感じかを三十秒で見ます。言葉の並び方を何箇所か見るだけでそれが読む価値のある本かどうかが分かる。いわば読書もトヨタ的に検査法で選ぶ。
 殊に平成後期、2000〜2010年代は冗長な本が多くなっており、それも私が本を読まない理由の一つです。本が冗長なのは時代の思潮が冗長だからです。しかも冗長な内容をリュウミンという悪趣味な書体により印刷されるものが圧倒的市場占有率で視覚的にも読む気を起こさせない。

 今日日曜日は久し振りに本を買いにブックオフに行きましたが、その検査法で見つけて買ったのは『超一流の人の「健康」の極意』という順天堂大学の小林弘幸教授の本。少し古く2013年の著ですが、近年には医者が考案した長生きみそ汁で有名になっています。すりおろし玉葱とりんご酢を核とし体の酸化を抑えるみそ汁で、私も長生きみそ汁を取り入れてからはりんご酢が常備品になっています。
 書体もリュウミンではなくて読み易く好感します。
 本の検査法は古本の際は状態も検査の対象で、汚れや破れだけではなく線が引いてあったり書き込みのあるものは絶対に買いません。それらの人為的瑕疵はむしろ自然瑕疵の場合の多い汚れや落丁乱丁より駄目です。落丁乱丁は車などとは違い珍しいという価値があります。
 線を引いたり書き込みをしながら読む人は書いてあるもの(scripts)を自分の都合の好いようにしか読まない人で、いわば人の言説を勝手に取捨選択して「切り取る」癖があります。故に何やら一生懸命に読んでいるようでも理解が浅かったり捻じ曲がっていたりし、理解力がないので表現力もありません。「それはこういうことだよね。」ーー全然違う…。そういう人の手にして読んだ本を読むと彼につきあわされることになるし、不浄な霊に晒されることになります。

 さて、私の嫌いではない物書人である勝間和代の分厚い本もありましたがフレームワーク思考について語るその本を見て、大体良いがかねがね幾許か感ずる違和感の正体が分かりました。
 この私のnoteの前の記事にフレーム構造とモノコック構造についてのものがありますすが、

 勝間さんの思考はフレーム構造だということで目から鱗。
 いわば、基本の構造が旧い。
 旧い構造に新しい設計を施している。その新しい設計が平成後期の時代には物凄く魅力と見られて人気になりましたが基本構造は昭和のおっさんと同じ。むしろそこを変えないからこそ安心感を以て受け入れられたのでしょう。

 安倍総理がよく野党を批判する言辞として「建設的に議論しましょうよ。」というのがあります。
 建築においては今尚フレーム構造が主流で、骨組により建物の枠組をなすことがごく普通です。
 安倍さんはアベノミクスの三本の矢の一つに公共事業を入れたことからも、諸社会の議論や活動を建設工事のアナロジーで捉えていることが分かります。
 しかし建設的議論というものは少なくともこれからの時代には無意味になって来ます。そもそも建設的議論が成り立つのは物事の枠組とその利益を共有していることが前提で、あらゆる国民の代表らが集い立法を行う議会政治という場においては枠組や利益の共有はあり得ず、これからの時代だけではなくどだい無意味です。

 平成の時代はかように実はほぼ全く新しい時代ではなかった。良くも悪くも、旧い時代の構造が新しい外観を以て三十年という長い時間を潰して来ただけです。
 ドリフターズが『8時だヨ!全員集合』というテレビ番組で卵を投げることを食べ物を粗末にしているとの批判が昭和末期の当時にありましたがそんな番組のなくなった平成の時代は人の命がその卵よりも粗末にされて来た時代です。
 近年に食品の雑損(loss on the foods)をなくそうという呼び掛けがなされていますが食品には無駄のないことと並び衛生的たることという心得があります。無駄を防ぐために不衛生延いては不健康を生じては本末転倒です。無駄なく衛生を守るにはまずは買う量を抑えること、即ち食品と食事におけるjust in timeが必要です。

 食品の雑損をなくすという課題は向持続可能発展、SDGsのずらりと列挙される課題等の一つでもあります。
 冒頭の写真は東急電鉄が阪急電鉄や阪神電鉄と共に行っているSDGs列車です。

 私はSDGs, sustainable development goalsというものにはその‘goal’という言葉の無責任な感じから懐疑していますがその内容については支持できるものばかりです。なのでとにかくSDGsに賛同すればよいというような平成のおっさん的お話にならなさをとても危惧しています。

 SDGsの良い点は目標が多いことです。
 目標は多く持つべきです。

 平成の「新しい」時代には、目標を、即ちやることを削って絞って少なくすることが必要だといわれていました。いわゆる足し算ではなく引き算です。

 世の中が引き算なら人の体も引き算、痩せて引き締まった体になることが至上価値かつ市場価値とされています。
 尤も健康のためには中性脂肪は低くないとなりませんが長寿の人にはさほど痩せてはいない人が多いという批判説も平成末期に出て来ています。
 確かに長寿日本一の隣の横浜市青葉区やここ川崎市麻生区の人々を見ると、いわゆる痩せていて引き締まった平成的に格好良いとされる、いわゆるイケメン的やギャル的な体の人はあまり見受けられず(しかし若者は少子高齢化の時代にも随一の多さ。)、老若男女とも少し太っている、即ちぽちゃっとしている感じの人が多い。
 東急電車と小田急電車の雰囲気の違いもそこが大きいと思われ、小田急電車にはイケメンやギャルが多いけれど東急電車には地下に潜るまではいません。
 また、着る服にしても東急電車はモノコックな趣ですが小田急電車はフレームワークな趣で、一概にお洒落とかださいというのもそこが大きな雰囲気の違いになっている。
 フレームワークには「組み合わせる」、「繋ぎ合わせる」や「噛み合わせる」というような、複数の要素を骨格に応じて一つに有機的に合わせるという考え方があります。なので服もそういう選び方や着方になり、一つの確立されたあり方です。
 モノコックとは全体を一気通貫に構成することで(統一するということではない。)、上と下や装飾品などを繋ぎ合わせたり噛み合わせたりする必要がありません。自動車などの工業製品の多くには確立されていますが服飾に関してはそれなりに確立されてはおれど主流になってはいません。
 「自助・公助・共助を組み合わせる、」というような政策論が安倍政権の時にありましたがそれなども新しい設計を加えた旧いフレーム構造の観念からのものでしょう。自助、公助と共助はそれぞれ全く別ものなので組み合わさるはずもないということでは旧いフレーム思考ですらないともいえます。
 フレーム思考はこだわりが深まるとベストマッチという思考になります。
 また、目標を持つことに関し一つに絞るとか三つに揃えるということが多いようです。
 しかしそのように一つにしたり三拍子揃えることには本当に無駄がないのでしょうか?またはさほどに格好が良いでしょうか?

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