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モノコック構造の衣食住:その1 衣
今日はこれから天ぷらを作るところ。天ぷらには衣がありますが食べる前に着るということで服のお話を先ず。
モノコック構造(とフレーム構造)については昨年の記事に概説しました。
https://note.com/valleysnoting/n/n139d570c0681
ものやことの全体を一連の形として設計するか枠組の繋ぎ合わせとして設計するかの違いがモノコック構造とフレーム構造です。
モノコック構造はともすれば、外形だけを先に決めることもできるので形ばかりで内容のないものやことが出来てしまう虞もありますが例えば自動車なら自動車は何のためにあって何がなければならないか、どんな性能を求めるかという内容が予め確かならばそれに相応しい外形が自ずと浮かび上がります。
フレーム構造は部分の繋合わせなので、一つの車よりも原動機が優れるとか良いタイヤを履いているというような切口からの関心となりがちで、全体が良くはならないこともしばしばあります。尤もモノコック構造は逆に全体を一気に間違える場合もあるので万能ではありません。
人間はしばしば全てが間違えているとは思いたくないもので、部分的に間違えていたり枠組(フレーム)の強度が足りない(弱い)から失敗したのだという考察や結論を導き出したがります。
それらの結合として構成しようとする全体は、現に間違えている形になってしまっているが目指している構想、あるべき姿は決して間違いではない、「フレームワークが十分に機能していないのだ、」と、そう来る訳です。
しかし現に形も姿も出来ていない構想をどうして間違いではないと信じられるのでしょうか?
服は生き方の現れだといわれます。
服を表現の道具にすることは私は好みませんが、服が結果として(意識せずして)何かの表現になることはしばしばあります。
モノコック構造の服装とは服は何のためにあって何がなければならないか、どんな性能を求めるかという基本的内容の確かな服装で、そこに相応しい外形を付加するものです。
どんな外形ならどんな内容が備わるかを予め知識や経験則から知るならば内容についての検討を経なくても形だけで選べます(多くの場合は。)。
世界のほとんどの服はモノコック構造で、日本も古代からそうです。
外形は異なりますが、西洋に発祥のスーツやドレスなんかもその点は同じ。
足元を頭まで、全体を一連のものとして設計されています。スーツの上下や靴と帯の色が違うと良くないなどというのはその象徴です。必ずしもそうであってはならない訳ではありませんがそのような象徴を守ると服の望ましい姿が何となく分かるのです。
一連にというのは一色ということではありません。
黒のスーツに黒のシャツと黒のネクタイというのはおかしいです。黒系のみに統一するにしてもシャツやネクタイの色合には濃淡をつけるものです。
しかしその黒のスーツには、シャツは白と決まっているにしてもネクタイの色は何が合うかと考えることはフレーム構造の発想です。
スーツを何のために着るかを予め知るならば、それに相応しいシャツやネクタイは合う合わないを考えなくても自ずと浮かび上がって選べます。
いわば「考え過ぎ」な服装が平成の三十年に増えています。
何でそーうなるの⁈かというと、昭和末期から平成初期の経済力の増加が数年で裏切られて経済を締めざるを得ない状況から、無駄をしないためには服にしても何にしてもよく考えて(こだわって)選ばないといけないという考え方になっているからです。
しかし無駄をしないためといって選びに選び抜いた服などが怪しげな会社のロビーの石膏像や観葉植物のように丸ごと無駄というような感じになっていることもしばしば。
幾らかの無駄は避けられないものと認識しないと無駄はなくならないものです。
そしてそのような平成の考え過ぎでの疲れから一気に思考停止になっているのが平成末期から令和初期にしばしば見受けられる服装。ファッション(fashion)がファッショ(fascio)にともいわれているのかいないのか。
これは必ずしも悪くはないと思うのですが、近年はDEAN&DELUCAのトートバッグを携える人をよく見掛けますがあまり素敵には見えません。多くは表情が何となく暗い。
良くも悪くも、平成の三十年の「癒し」として「機能」しているスポットではないのかと。
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