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生活と経営:「引き算」も良いが「足し過ぎない足し算」の奨め。何でかというと、引けるものがもうなくない?

 二週間前の日曜日に東京の銀座に出掛けました。

 川崎の新居に住み始めて四か月になりますが、引越しの時に老朽した聖書を捨てたので新しい聖書を買いに銀座の教文館に行くためです。
 教文館は一般書の店舗とキリスト教書の店舗がTWINに併設されており、キリスト教書のある聖書館は今や古い建物の減りつつある銀座に今も残る数少ない古風な建物。
 新しく買う聖書は捨てたのと同じ、日本聖書協会の新共同訳の横組のもので、色だけ青を黒に。家移りの捨てた聖書が隅の親石となった訳です。
 今は2018年に出た聖書協会共同訳という最新版のがあることをそこで初めて知りましたが1987年に出て日本のキリスト教界では一世を風靡した新共同訳に据え置きました。
 1987年以前、即ち昭和の時代はカトリック教会がフランシスコ会聖書研究所訳を、新教諸派の多くが日本聖書協会の口語訳を用いていました。
 その口語訳の聖書の文言が今もお馴染みで新共同訳には未だに違和感があるという人も少なくないそうですが私は新共同訳が大体において良いと思います。
 例えば旧い口語訳は「求めよ、そうすれば与えられるであろう。」とするところを当時の新しい新共同訳は「求めなさい、そうすれば与えられる。」としました。前者は英語式の命令形とwouldやcouldの仮定や譲歩を表す条件法を用い、後者はフランス語式の命令形と端的叙述を表す直接法現在形を用います。前者は頭の語気が強くて尻がやや窄むような感じがしますが後者は頭も尻も均一な語気で淡々とした感じがします。その淡々感が聖書らしくて良いと思います。

 バブル前夜の1987年に出た新共同訳聖書はその9年前の1978年に出た共同訳聖書が鳴かず飛ばずの不評だったことを受けて作られたもの。
 翻訳のあり方に関し、共同訳は動的等価という理論に随いなされましたが新共同訳は形式等価という理論に随うもの。
 動的等価とは訳す言語を訳される言語の文化や慣習に沿い理解され易い形に翻訳すべしというもので、殊に日本においては一般書や広告宣伝、果ては報道や業務連絡にまで広く用いられるあり方。それが何故不評に終わったのかは推して知るべし。特に平成の時代はそのような動的等価理論が昭和の時代よりも更に強化されています。
 形式等価とは主に逐語訳のことで、翻訳者が文章を読み手に合わすのではなく読み手が「原語=訳語」の文章に合わせて読むということです。
 お気づきの方も少なくなかろうように、動的等価理論はガラパゴス化を助長します。よくいわれるのは日本のガラパゴス化ですが、実はガラパゴス化の発祥の地かつ本家はアメリカで、アメリカの聖書の多くは動的等価理論に随い作られているそうです。それを知ると、今の時代に何でトランプ現象が起こるのか、それが泥沼になるのかも少しわかるような気がします。日本にも聖書を背景とはしないが同じような現象がよくあります。

 そんなトランプ時代の2018年に出た聖書協会共同訳は、既に動的等価理論はお話にならないものとして完くして過去のものとなり、新しく採られたのがスコポス理論。
 スコポス理論とは目的に相応しい翻訳をするというもので、例えば「豆板醤・豆豉醬・苦椒醬・甜麺醤」と原文にあれば、それを「幾つもの醬(ジャン)」と訳すというようなこと。読み手が個別の物事についての情報を求めない場合にはそれらを総称すれば意味を曲げずに語句を少なくすることができます。
 実際にそうなってはいないでしょうが、そのスコポス理論を極限まで推し進めるとマタイによる福音書の冒頭にある「アブラハムの子はイサク、イサクの子はヤコブ、某の子は某…。」という行は「アブラハムの子はイサクであり、以後、イエスに至るまで何代が受け継がれた。」だけで済みます。そこにある翻訳の目的とは礼拝祭儀における聖書の朗読の時間を短くすることです。
 尤も、動的等価理論のように意味を曲げてはならず、原文の改変は厳密な論理に随い行われる必要があります。

 余談のつもりのお話が長くなりましたが、そのような聖書などの翻訳のあり方は暮らしや商いにも関係します。

 その日の銀座は例のあれにもかかわらず、かなりの人出で大盛況でした。
 そこで私が行ったのは蕎麦の日本橋やぶ久の銀座店と近年に新しく出来た銀座6でした。

 懐かしい九州じゃんがらラーメンの銀座店も銀六の裏通に見つけて食べたいと思いましたがカレー南蛮と穴子鮨を食べていたその時には既に遅く、次に来れるのはいつになるか分かりません。

 銀座6は数々の高級衣料品店の並ぶSCですが、どう見てもそれらを買いに来る人はほとんどいないのに大盛況。
 何でかというと、6階に蔦屋書店とスターバックスコーヒーがあるからでしょう。同じ階には他に1人前の予算が一万円ほどの高級食堂が並びますがそちらはどの店もゆったりと空いており、蔦屋とスタバに客が集まっています。
 スタバの良し悪しはともかく、実に上手いと思います。
 多くの人が来れるような店を上階の目立つ所置くと、下階のあまり来れる人のない高級店を何となく見てゆくことになります。高級店は主に売ることが目的ではなく見てもらうことが目的の場で、業者と客にとっての情報の拠点。それらの高級品を買う人は実はわざわざ店に足を運ばずに外商を通して買います。店とは基本としては売る所ではなく「みせ」る所。

 一軒そのものが情報拠点で、そこに客を寄せて儲ける店も情報を売る産業。
 よくSCに映画館のある店がありますがそれらは買い物が主で映画はその味着けな訳ですがそれとは逆に本屋を主にする。
 そこで買った本をスタバで読める。
 かようによく出来ている造りは、テナントを公募で選ぶのではなく銀座6の側がテナントを指名して入ってもらったのでしょう。

 そして、こうも蔦屋書店が素晴らしい店を作ると、青山ブックセンターが何で終わってしまったのかも分かるような気がします。
 青山ブックセンターはかつては比類のない独特なあり方が人気で、いわばオンリーワンです。
 でも、そのABCが既にオンリーワンではなくなっている。そうなると少なくともオンリーワンというポリシーでは続かなくなりますし、そのつもりではなくても迎え撃つことが難しい場合もあります。
 「ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン。」というのがいかに欺瞞であるか。もしそれが「ならなくてもいい」ではなく「なれなくてもいい」なら良いと思うのです。単純に、誰もが一番になることは不可能な訳で、一番にはなれない人がほとんどです。しかしその道理を踏まえてもならなくてもいいというのは違うでしょう。

 普段はマルエツやファミマで使っているTポイントカードが銀座のど真中で使えるのも良い。銀座に山を買ったような気分。

 ポイントの足し算がどれだけ貯まるかは分かりません。私は元々はポイントカードというビジネスモデルをあまり高く評価してはいなかったし、それでもTポイントカードを持って割れたら手数料を払っても再発行をしてもらったのはいつもファミマやマルエツに来る度に「Tポイントカードはお持ちでしょうか?」とか「Tポイントは大丈夫でしょうか?」とか訊かれるのが面倒なので。これまでの最多のポイントも五百程で、大抵は二百程溜まると直ぐに缶ビールを買っています。

 昨今によくいわれるのは「足し算の経営」と「引き算の経営」または、「足し算の生活」と「引き算の生活」ということです。

 「足し算」と「引き算」、鶏と卵ではありませんが、どちらが先に出て来たかというと「引き算」で、それを薦めるための対比として「足し算」という概念が用いられる。
 2000年頃に出て来てはやっている「断捨離」というものの他、この二三十年程は経営や生活における「引き算」ということが事実上の主流の思想になっています。

 確かに従来の時代から溜まっている様々な無駄や欲の皮を削ぎ落とすということでは引き算の思想には相応の意義があります。
 私がその銀座6の蔦屋書店で買ったのは『引き算する勇気 会社を強くする逆転発想』という本です。

 しかし考えてみると、「逆転」といわれるからには、逆ではない順の発想はやはり足し算だということです。政治的用語を援用すれば、足し算は保守であり、引き算は革新であるという。

 引き算とは売るものや訴えるものをなるべく絞りに絞って訴求力を高めて支持を得るという発想。
 足し算とは売るものや訴えるものをなるべく増やして多くの需要に応えようとする発想。

 こういうとにべもないと誤解されるかもしれませんが、無駄をなくすことについては定評の高いトヨタは引き算思想か足し算思想かといえば「実は」足し算思想です。
 そのトヨタが、一番かどうかは分かりませんが(多分一番ではないでしょう。)無駄をなくすことにおいて最も優れる企業の一つである。
 勿論、トヨタは拡大を常に基調とするのでそうな訳で、そうではなければ引き算が適切で若しくはそうでなければならない場合は少なくないでしょう。
 引き算か足し算かという二択ではなく、両方の良い点と良くない点を複眼で見ることが必要です。
 菅総理が信頼をおくデビッドアトキンソン氏は企業は拡大を必須とするといいます。もしそうなら、引き算を意義ある手立の一つとするにしても、人間はそもそも足し算を免れ得ないということでしょう。

 足しても足し過ぎない。
 引いても引き過ぎない。

 過ぎたるは及ばざるが如し。

 但し、そこで気をつけるべきはどちらも過ぎない「丁度良い」状態というものは予め分かるものではないことです。
 「この位が丁度良い。」というのは得てして思い込みに過ぎなかったり時代や状況とは既にずれている場合が多い。
 どんな物事も幾許かの過不足、即ち無駄を免れ得ません。無駄はなくなることがないので無駄を取ることが常に必要な訳で、丁度良さが予め分かるなら無駄取りの必要はないということになります。
 丁度良さというものは実際に使ったり作ったりしてゆく中でリアルタイムに体感するしかありません。

 そのための一つのみそとして、高級店ばかりの銀座6がTSUTAYAとStarbucksで客を寄せているあり方が考えられます。
 それは同じ所で、安いものと高いものの価格差をあからさまに儲けることです。
 安いもので客を引き、同時にその他の高いものを見れることで奥行を感じられる。
 安いものばかりでも高いものばかりでも、いずれにせよ「そういう店なんだ。」という値踏みを招きます。そんな安い店には入らないとかそんな高い店には入れないというようように裁かれてしまいます。

 銀座6の他にもそのようにあからさまな価格差の設定により奥行を感じられる店は幾つか見掛けています。
 私の家の目と鼻の先にあるすき家は牛丼の並盛が380円と安いですが他にかなり高い献立も数々あります。
 すき家は「牛丼とカレーの店」として訴えていますが、それを引き算の発想だけで見ると牛丼の店なのかカレーの店なのか分からない、神奈川人らしいつかみどころのなさとされるかもしれません。しかし「何でもある」でもなく、かといって「牛丼の店」や「カレーの店」という一本気を訴えるでもなく、二つに絞るということが奥行を感じさせます。足し算の昭和、引き算の平成の次に来る令和の時代はそのように「引き過ぎない、足し過ぎない」あり方が普及するのではないかと思います。

 古くは、焼鳥屋やそば屋などが焼鳥やそばだけではなくビールを訴えるあり方。
 そこにはビール業者等の拡販のための政策も影響していますが、とにかく焼鳥だけを味わって下さいとかそばだけを味わって下さいというのはそれが良いと感じる客もいるにせよ、やはり多くの客はちょっと息苦しいと感じはしないでしょうか。
 尤も、コンビニが普及してからはビールはコンビニで買って飲むものという観念が出来つつあり、今時は瓶ビールやジョッキビールはあまり人気がありません。今は旧いですが昔はそれが適解だった。

 他にも東京赤坂の中華料理屋の榮林はそのほとんどをなかなか手の出ない値段の高級献立が揃いますがその中に酸辣湯麺という千二百円と安い献立があり、それが大いに人気。
 しかも榮林は多くの飲食店にとっては最も稼ぎ時とされる日曜日を定休とし、行列ができないことを敢えて志向しているようです。行列がもたらす経営効果の功罪については別の記事に書けたら書きます(「行けたら行く。」というよりは積極的に書きたいと思う。)。

 川崎市の柿生の駅前にある昔ながらの街角拉麵屋の登竜は衰退の著しい柿生駅前にあって日高屋という猛者を迎え撃ち、更には例のあれという非常に難しい状況にあってもなかなか気を吐いています。
 登竜は醤油ラーメンだけを六百円台の安値とし、他の献立を高く設定しています。
 よほどみそラーメンしか食えないとか「自分は九州男児だから、」というような特殊な客を除いては、拉麵屋に入って食べようと思うのは大抵は基本の醤油ラーメン。そこを安くして「他にもこういうのがあります、如何ですか?」と情報を発信する。安い醤油ラーメンで得られた信用によりその他を食べてみたいと思える訳です。

 食べ物の他にも、私の御用達である生活雑貨のKEYUKAなど、同じブランドにおける価格差で奥行を与えるあり方は体感としては昭和より長かったであろう平成がやっと終わった今の時代にじわじわと広まっています。

 冒頭の写真はあさりとえびのバジルペーストのスパゲティ。
 これはまさに「足し過ぎない足し算」という考え方で作ってみたものです。
 あさりのパスタといえば白ワイン煮が常套ですが、そこに白ワインを入れるとあさりの白スパゲティ(ボンゴレビアンコ)とただ併せただけになるので白ワインは加えず、あさりとえびで海の味を訴えることにしました。なのでそこには(バジルとにんにくを除く)野菜も肉も駄目です。
 バジルペーストのこってり感を更に少量のバターで増強しました。

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