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’80年代の完全終焉と’20年代の豊かさ、日本経済:その1 笠浩二君 追悼!🇯🇵

 先日12月17日の夜に久振りにC-C-Bの『Romanticが止まらない』を寝床で聴いていたら、明る朝に、そのボーカルドラマーの笠浩二さんが亡くなられたとの報を見ました。丁度17日に葬儀が終えたところだったそうです。

 私は1984年4月に曽祖父の逝去を虫の知らせでその当日に予感した(老衰なので前兆は特になし。)ことがあり、今2022年2月には石原慎太郎さんの逝去を数日前に予感。しかし、笠さんの逝去は可能性なしとはしないもののまあないだろうと予想していただけに虚を突かれるような感慨です。或る種の希望的観測によるリスクの認識におけるバイアスですね😓。全く信じられないということはないので「訃報に大変驚いている、」というような感じではないですが何だかあっち向いてほいをやられたかのような感じ。
 『今年亡くなられた方々』に因み云うと、今2022年7月に逝去の安倍晋三総理については、虫の知らせはありませんでしたが(とても驚き憔悴しました。)暗殺の可能性はかなり高いと予想していました。しかしそれがあるならば2020年までの総理の任期中だろうし、総理を退かれてからなるとは予想外でした。忘れた頃にやって来たという感じです。
 別に民主主義への挑発がどうのなどと白々しい言辞をするつもりはありませんが一国の指導者が殺されることは一人ひとりの国民、人間が殺されることと同義の蜃気楼 in 2039で、それが如何なる性質の者であれ国民、人間の命を危機に晒しまたは軽視することを助長するものです。
 どうも現代日本人の追悼というものには、さように一人の命の喪失を悼むものではなく功績や地位、いわゆる成果を悼むという性質ばかりが強くあると見受けられます。人生観と生命倫理におけるmeritcracy(功利主義または利益政治)というべきです。故か、今年の漢字にも「失」ではなく「戦」という、忌むのか煽るのか分からないような現実味に乏しい語が選ばれたりします。「今年を漢字一つで表すなら「戦」だ、」ーーいや😦、戦は毎年年中無休でしょう…。あの坊主は書いていて恥ずかしいと思わないのだろうかと少し心配になりました。

 C-C-Bは生まれて初めてファンを自負した音楽家で、よみうりランドの公演にも行きました(生まれて初めての音楽公演。)。
 小学生なのに笠さん達の真似をして髪を黄色や桃色に染めていたり。’80年代丸出しの身嗜みでした。
 当時の服の逸りはMcGregore(マクレガー)を頂点とするスタジアムブルゾンなどのアメリカヤンキー風の装いで、私もまさにMcGregoreのスタジアムブルゾンを愛着していました。
 そんな’80年代様式は四十年をも経る今は絶滅種かと思われていますが私の今の地元川崎市の柿生という地域にはそれ系の様式が細々と元気に生き残っています。絶えることなく残っているのか一度は絶えたが復興されたのかは分かりません。

 『Romanticが止まらない』もmostですが私的にthe mostなのは’Here comes the C-C-B’で、笠さんの「ギターケースを抱いて町から町へ旅する、」と歌う行にへろほろ。段ボールを抱いてではありませんよ。

 良くも悪くも、そんな’80年代的価値は笠さんの死と共に完全に扉を閉めさせていただこうとしています。

 閉まってしまいました。
 もう後戻りはできません。

 しかしネットの言論空間やネットを通し伝えられる新聞やテレビなどの旧媒体のそれを私なりに検閲していると、今の世の中が’20年代にもなって如何に’80年代的価値を卒業していないのか(そのような意味の「卒業」という言葉は今もあるのでしょうか?)、その崩壊から三十年をも経て未だにバブル脳なのかと、気づきたくもない気づきを得るのであります。

 バブルにはバブルの古里があるという。
 ゆとりにはゆとりの正しさがあるという。

 〈続く〉

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