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阪神武庫川線は何で存続しているのか?――規模と利益の不思議な関係

 阪神電鉄の武庫川線に残る昔ながらの阪神電車の旧型車が近く廃車になることが発表されました。

 阪神武庫川線は兵庫県西宮市の武庫川駅と武庫川団地前駅を結ぶ小さな支線で、4駅。武庫川駅は大阪と神戸を結ぶ阪神本線との乗換駅ですが線路は続かないので直通はありません。阪神電車の駅の到着告知には『線路は続くよどこまでも』が用いられていますが、山陽姫路や近鉄奈良へは続いていてもそこだけは続かない笑。

 逆に――と言って何が逆なのか分かりませんが、――JR東海道本線(JR神戸線)と三本軌条でつながっており、かつては貨物輸送がありました――三本軌条は他には小田急電鉄と箱根登山鉄道の直通区間に用いられる。――。何で貨物なのかというと、阪神武庫川線の出来た理由が当地の航空機の会社の工場への資材の運搬のためだから。戦中に軍需として急造されたのです。
 戦後にその需要がなくなってからは要らないので廃止かというとそうではなく、せっかくあるので何とか生かそうということで沿線の住宅地の開発がなされました。浜手なので団地などの比較的安価な住宅が主で、武庫川線はその足になったのです。

 団地なら人が多くてさぞかし儲かるだろうと想い浮かべるでしょうが、千里や多摩などのように団地が沢山ある地域ではなく単発の団地があるだけなので当地の人口と武庫川線の利用客はさほどに多くはありません。阪神間の浜手には他にも西宮浜、芦屋浜や魚崎浜などの単発小規模の団地があります。私もかつては芦屋浜の団地に住むことを目標にしていました。

 その位の規模だといかにも儲からなさそうに見えます。鉄道はとにかく原価が掛かるという通念があるので阪神タイガースではないけれど、万年赤字なのではないのかと。
 しかし阪神電鉄が武庫川線を廃止するという気配は全くありませんし、今度の旧型車の廃車で'90年代製の本線に使われている車輛を改造して代替導入をするそうです。

 阪神武庫川線は何で成り立っているのでしょうか?

部門別損益ではなく企業の全体の損益

 部門別会計というのがあります。
 読んで字の如くで、上場基準の一つにもなっています。

 しかしそれを下手に真面目に考えると意味がありません。

 企業活動は部門別に分かれているところと分かれてはいないところがあります。少し考えるだけでも部門別会計を正確に出すことは絶対に不可能と分かります。
 処が、不可能はないとか不可能を可能にするのだ、それがイノベーションというものだなどと言っては絶対に不可能なことに邁進してしまう方が少なくないようです。
 不可能なのにある、それが上場企業には義務にもなっているのは何ででしょうか?
 それは部門毎の損益についての情報を株主が求めるからです。特に上場株式はそれぞれの会社への厚意というようなものはなく投機だけを目的として取得する株主も多く、そうなら株主が皆企業の全体の信用性を基に投資の可否や継続を決める訳ではありません。
 ではそれをどう開示するかというと、正確さより宣伝力です。悪くすれば出任せや誇張ということにもなりかねませんが、収益性の高い、強い部門がどれだけあって低い、弱い部門がどれだけあるということを示し、強い点を主張して宣伝する、そのための資料作りとして部門別会計が要る訳です。いわばプレゼン能力。

 さて、そこで株主が低収益部門についての突込みを入れたら会社はどう答えるでしょうか?
 最も無難かつ賢明な答は「それらの部門は低収益だがこれらの部門は高収益であり、全体としては十分に利益を確保することが出来る。」という論旨のものでしょう。-もあるが+(当面の利益)や×(未来への展望)がもっと大きいのだと。

 阪神武庫川線もそれと似ています。

 武庫川線が仮に万年赤字でも本線の収益性が高く、その本線と――直通はしないが――連絡していることで武庫川線の利用価値が保たれている。

 赤字とはいえども、合理的に考えるとその損失は思う程には大きくありません。
 武庫川線の営業距離は阪神全線の一割ほどですが、大雑把にその維持費を考えるとその一割より更に少ない。
 何でかというと、企業の維持費は規模が大きい程に割安になるからです。二倍の規模なら維持費も二倍掛かる訳ではない。しかしそこに規模が二倍ということで二倍の資本を呼び込み得るので企業は大きい程に得なのです。
 武庫川線の維持管理を本線と一緒に同時に行う場合は、本線だけの場合の費用と同じになることがあり得る。阪神電鉄は全体の規模が比較的小さいので全線一括の扱にすることが容易です――その点では小さいことの得。――。規模の大きい阪急や近鉄などなら、路線別ではなく系統別に維持管理することで全体一括の損益に近い見方になります。

 そのようにより大きな枠組で捉えることは管理の面での考え方であり、生産の面では逆に全体を細分してより小さな枠組で捉えることが必要です。例えばトヨタなどにもある多品種少量生産のあり方もその一つ。阪神武庫川線は管理の面では全体一括の考え方に即しており、生産、即ち運行の面では多品種少量生産の考え方に即している、経営の観点から実に理想的商品なのです。

 余談ですが、故に、管理部門や管理職の人は現場の事情というものをあまり「どこはどうでそこはそうで…」というように仔細に見るべきではないでしょう。勿論現場の状況や必要を汲むことは大切ですが、それらを管理の原則に照らして読み取るべきでしょう。そのような無駄に仔細な見方は現地現物主義ではなく「郷に入らば郷に従へ。」の発想です。

 そのような阪神武庫川線と似ている鉄道路線にはその近くの阪急甲陽線と伊丹線、京急大師線、東急(横浜高速)こどもの国線、京王競馬場線と動物園線などがあります。但し京王競馬場線は東京競馬場の競馬の開催の日だけは東京方面との直通列車があります。
 本線との線路の直通がなくても電気は直通しているので電気代も全体の内のほんの少し。
 京王動物園線は競馬場線のような書入時がなく、また多摩モノレールが同じ区間を並行するようになったことから廃止論も出ていたそうですがもしなくなるとモノレールへの乗換の運賃が掛かることで多摩動物公園への来場者は減るだろうし付近は閑静な住宅地でバスが通ると騒音や排気が増して動物の健康にも良くないだろうということで存続の見込です。

 不採算路線を廃止してバスに置換えることが全国に少なからずなされていますが、バスへの置換には色々な罠があります。

 先ず一つ考えられることは鉄道が儲からない所はバスも儲からないこと。
 それでもバスに置換えられて何とかなっている地域はバス業者がそもそも当地の大手であり、不採算地域を受け入れられるだけの用意があるからです。
 また、渋滞がないことも条件になります。
 鉄道には少なくとも不採算路線なら渋滞はあり得ませんが、同じ地域をバスが通ると渋滞で時間が掛かってしまう場合があります。阪神武庫川線の地域は特にそうでしょう。そうなると当地を新しく住まいに選ぶ人も少なくなってしまう。そもそも阪神電鉄バスは路線があまり多くはない小規模のバス業者で、不採算地域を受け入れるだけの力がありません。更には、バスは車輛も乗場の設備も耐用年数が鉄道と比べ格段に短いので新車の取得や乗場の改修を頻繁にせざるを得ず、資産価値が早くなくなってしまうので中古車輛の譲受はほぼほぼあり得ません――譲渡側は売っても儲からないので売りたくないし、譲受側は傷み易いので安物買の銭失いになり易い。――。
 故に阪神電車が従来通りに儲からない武庫川線を営業し続けることが最も理に適うのです。

 企業は全体としては儲からなくてはなりませんが、その中には儲からないことも必要なのです。

全体はより大きく、部門はより小さく、そしてそれらのつながりの重視  

 「脱規模の経営」ということがいわれます。

 古くはトヨタ自動車の大野耐一がトヨタ生産方式を初めて一般向の本にした際に「脱規模の経営を目指して」という副題を付けました。
 '70年代以降の低成長の時代になると経済の規模が拡大することはあまりなさそうということで脱規模がいわれ始め、更に'90年代以降は少子高齢化もその理由に加わっています。

 しかし大野がそこに語る「脱規模」とは企業規模や国の経済規模を小さくするべしということではなく、経営や業務についての発想のことなのではないかと思います。「ばかでかい」という言葉はありますが「ばか小さい」という言葉はありませんし。
 実際に、トヨタの企業規模は少しも小さくはならず、ますます大きくなり続けています。そのことを以てトヨタは言うこととしていることが違う、好かない、トヨタ生産方式なんて嘘っぱちに決まっているという人も少なからずいます。
 脱規模とは全体の中の部分部分をなるべく小さく捉えて小さくするということで、全体を小さくするということではない、多分。

 先述のように、全体の規模は大きい程に単位規模に掛かる費用が少なくなります。
 しかし規模が大きいからということでそこに生産量を詰め込むと、そこは常識、無駄な生産になりかねない。無駄なら銭が取れないので損。
とはいえ、あまり生産能力を余らせ過ぎるのも損。
 生産能力をなるべく余らせも詰め込みもしないためには生産単位をなるべく細分して小さくする必要があります。どうしても全部が同じものをしか扱わないなら、それもできるだけいくつかの捉え方に分けて小さな単位に還元するのです。例えば生産の課題を時間により変えるなど、即ち道具や設備の段取替はなくても自分の取組み方の段取替がある。人間の労力や集中力は段取替がないと持たないようになっています。

 脱規模とはそういうことなので、何でもとにかく小さくすればよい、small businessこそが理想という訳ではありません。そうなるとむしろ小さくなった全体に多くの要生産高を詰め込むことになり、結局は大きいことこそ良いことだという求規模の発想に反動することになってしまいます。どうも今の時代の日本の企業経済のあり方はそれなようです。

高収益部門と低収益部門とのつながりを築く

 阪神武庫川線は直通はありませんが武庫川駅での乗換により阪神本線との連続の利用ができます。或いは京王相模原線などのような直通も良いでしょう。
 但し直通運転はそれだけ本線の運行本数が増えて過密になってしまうこともあり、そうならば乗換を要しないことよりも乗換が便利なことが重要になります。

 京王相模原線と多摩~東京で競合にある小田急多摩線は100円の運賃収入を得ることに要する費用が170円と、赤字路線です。
 では小田急多摩線には価値がないかというとそうではありません。
 その「100円を取るのに170円が掛かる。」というのはまさに絶対に不可能なことである部門別損益の計算に基づくものです。そもそも正確ではないのにそんな計算をしてわざわざ沿線の価値を貶めている訳で、無駄をなくそうと考えることそのものが一番の無駄になっているという例です。諺で言うと「下手の考え休むに似たり。」。小田急はそういうことが色々と多い。
 小田急全線では100円の運賃収入に要する費用は80円と、なかなかの効率の良い費用対効果。ならばその80円が全線に等しく掛かっていると見做すのが賢明でしょう。
 そもそも鉄道の運賃そのものが距離とは比例せず、遠くなるほどに割安になる仕組のもの。新宿と小田急多摩センターとの運賃を小田原線の分と多摩線の分に分けることはできませんし、費用も多摩線内だけの工事をしたら多摩線に掛かる費用と見做すことが出来ますが両方に掛かる工事をしたら費用を分けられません。
 また、多くの場合は路線は部門ではなく、どの路線も運輸部や工務部などの部門であり、それらについてさえも分けられない点が少なくありません。

 京王は井の頭線を除く全線を一つと見做して費用対効果を出しており、それで小田急より少し高い85円程。一々比較するのもうざいですが、その少し高い分は京王が費用を掛けるべき点には充分に掛けるからです。
 恐らく京王も相模原線は建設費がかなり嵩んだためにその返済の長らく進捗している今も若干の赤字なのでしょうが、価値の高い路線と広く見做されています。
 小田急もそのように全線で見ると多摩線が収益性を悪化させる要因になってはいないことが分かるのでしょうが、路線別で見る故に収益を高めようという改善の意識だけは高まってもなかなか良い案が出ないのでしょう。それでも近年はかなり良くなってはいますが、多摩線を含む小田急のブランド価値が高まらない、まだまだ信用に欠けるという見方を消費者にされている。
 例えば相模原市の上溝への延伸の案がありますが、それなども路線別の収益性という見方でそれを高めようとしているのではないかと思われ、それで仮にそうなっても100のために170円という現状が100円のために140円みたいなほどにしかならないので相変わらず価値のない赤字路線という見方が根強く残ってしまうでしょう。小田急多摩線の延伸には反対ですし、列車の行先も「多摩センター方面 唐木田行」という表示にしたら不定期客ももっと増えるでしょう。

 「企業は人なり。」といいますが、人に関してもそのようなことがいえるかと思います。

 全体の収益を悪化させる赤字労働者と全体の収益を支える赤字労働者がいるのです。
 赤字労働者とは人件費が収益を圧迫し若しくは損失になる働き手のこと。

 小田急多摩線や阪神武庫川線は全体の利益を支える赤字労働者です。多摩線だから小田急沿線でも何とか満足できる、栗平に家を買ったなどという人も少なくないでしょうし、阪神間の地域輸送をなるべくくまなく担うということは阪神電車の重要なブランド価値です。

 個人別に見ると人件費の負担が無駄に思えるようでも全体の利益のためには必要な人、或いは、職制別に見ると赤字でも全体の利益のためには必要な職。
 会社はあまり好きではなくても担当者――多くは営業職。――が良いので取引をしているという取引先もいますし、「選択と集中」ではなく総合性を持つことはそれだけで信用を得易く若しくは優位になり易いのです。

 但し、儲からなくても必要な職があるということはそれはそれで全て良いということではありません。
 儲からないことが前提でも相応の効率や品質は必要で、それらを維持しまたは高めるためには自分の所の儲けはなくても全体の儲けに適うような働きをしないとなりません。むしろ全体の平均を上回るそれらが求められる場合もあるでしょう。
 それを叶えるためには高収益の部門と低収益の部門が連続性を持ってつながることが必要かと思われます。その「つながり」とは例えば多能工が両者を兼務することだったり、様々考えられます。どんなに重要で高級な職でも、儲からない所にばかり張りつけられ続ければ劣等感を抱くようになりかねませんし、多能工になれば自分の段取替をする習慣が身に着きます。高収益の部門とのつながりがあれば低収益の部門を担当し続けることに劣等感を抱くこともないでしょう。それが埼玉高速と東急のような別業者のつながりだと逆に劣等感の裏返しとしての変な優越感になりかねない――例えば取引先の接待にばかり精を出すなど。――のであまり良くないでしょうが、同じ会社の中の本線と支線のつながりです。本線が稼頭だからということで皆を本線に投入する訳にはゆきませんが、「選択と集中」の思想はつまりそういうことで、馬鹿でも朝でも花形の仕事をさせるという考え方。

 自分の勤める・経営する会社の中の「本線と支線」、それを見究めてみてどうしたら両方が生きるかを考えることを奨めます。

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