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言い訳は人間の宿命。

 今日は5月5日、子供の日です。
 ということで、言い訳について語ります。
 何でかというと、子供は言い訳が巧いとよくいわれるからです。子供の言い訳に辟易する人もいるし中には言うことが面白いので逆に感心するという人もいます。

 まず、言い訳とは近代的現象といえるかと思われます。
 近代は個人の権理、責任とそれに伴う自己主張が重要とされます。
 勿論、前近代にも事実上の個人の権理、責任や実際の自己主張がなかった訳ではありませんがそれらが人間世界の優先の価値となったのは近代になってからです。それらのものが思想や法、社会規範により理論化されています。
 例えば抗弁の権利というものはそれを行使する自己主張により成り立つもので、抗弁をしなければ権利は認められ得ないものです。但し全ての権利が自己主張を必須とする訳ではないことは何も言わなくても存在するだけでその対象となる基本的人権の保障などより明らかです。

 言い訳とはそのような思想、法や社会規範の普及と共に宿命として出て来るもので、言い訳がなければ近代社会や近代国家は成り立たないともいえます。

 子供の言い訳というものも、生まれ育つ子供をさようの近代社会のまたは近代国家の人間として教育することが必須となっている以上は必然に生じてくるものです。いわば子供は言い訳をすることにより抗弁の権理を行使する練習をしている訳です。

 三流の人は言い訳ばかりする。
 二流の人は言い訳をしない。
 一流の人は言い訳は程々にする。

 「あれ?」と思う人もいるかもしれません。
 言い訳ばかりするのが三流だというのは分かるが言い訳をしないことが二流とは分からない、一流とは言い訳をしないことではないかと。
 残念ですがそう思うならあなたは二流(或いはそれ以下)です。
 教育的観点からいえば、言い訳をするなかれというのは特攻隊員になって魚雷に乗るようになれというようなものです。大東亜戦争までの日本はそのような二流性を一流の大帝国の価値と勘違いした。
 尤も今は戦争を無条件に放棄する時代ですし、そのような二流の価値は国を衛ることにおいてよりも大方の国民にとって身近な生活や労働、経済の世界に普及しているようで、その反映がネット右翼またはその類似の方々の跋扈です。故に或る意味では生活大国を目指すと平成初期に公約した宮澤政権が今に連なるネット右翼と安倍政権の元凶、原点だったともいえます。平和たるべき生活やそのための労働経済を神風特攻の原理にしたからです。バブル経済の崩壊により(まずそれが言い訳の一種だが、)経済の縮小を余儀なくされていたなか生活がもっと豊かになるぞという単純に無理なことを1960年と同じ感覚で、しかし、表現は当時と比べ緩ーく言い放った非現実性。
 私のかねがね警鐘を鳴らしている(その必要もないほどに国民はもっと賢いかもしれませんが、)、宮澤喜一の弟子である岸田文雄は安倍晋太郎の子である安倍晋三より酷いというのはそういうことです。自分達こそが安倍政治の真因なのにそれとは一味も二味も違うかのような自己表現を陰に陽にしているのは単純に卑怯です。

 近代の人間にとり言い訳は宿命だ、ならば、近代的価値を断捨離すればいい、そうすれば言い訳がなくなるという方々も跡を絶たないようですがそれが日本が猶も内外に蔑まれる点です。
 尤も、近代的価値がノーチェックでアップデートされて良いはずはありませんが近代的価値を断捨離して残るものは何か?何もないのではありませんか。

 二流とはそのように「近代の超克」を図ろうとすることです。
 三流とは近代的価値をノーチェックでアップデートしようとすることです。
 一流とは近代的価値を一つの有力なものとして容認することです。

 言い訳を四字熟語で言うと自己弁護ですが、自己を弁護することは必要な権理でありまたは個人の責任というものが問われる国家社会である以上は宿命のものです。まさか、言い訳をしない、許さないといいながら『ソクラテスの弁明』を愛読していたりはしませんよね(私はソクラテスを認めないのでそんなものはどうでもいいですけど、)。

 しかしまあ、程々にしましょう。

 冒頭の写真は東急藤が丘駅の時刻表です。
 藤が丘駅は普通のみが停まり、急行や準急は停まりません。
 この時刻表を見ると、当駅には停まらない急行や準急の通過が表示してあります。


 そのような時刻表は他に例がなく、普通のみの停まる駅の時刻表は普通の発車の時刻しか表示されていません。
 それだとどうしてもその駅で乗れる列車はそれだけしかないという印象になります。
 しかし東急電車は停まらない列車の存在を同じ行に書き込むことにより、次の普通に乗るとその次の急行や準急があるかないかを確認することができます。
 東急電車はうるさい(どこのようにとはここでは伏せますが、)おっさんや姐ちゃんの肉声による駅構内案内がないことが夙に有名で、時刻表を見て自動放送を聴けば全てが分かります。着メロや発メロなどというそれまたうるさいガキの使いのようなものもありません。
 普通しか停まらない駅の列車の本数は少ないものですが、かようの表示をするという一種の言い訳により不便な印象を与えない。
 言い訳をせずに当駅にはそれだけの普通しか停まらないので悪しからずということでは駅の延いては地域の格差が大きくなって不動産屋も小売業もそっぽを向くことになる訳です。

 大きな自己主張よりそのような小さな言い訳が有意義と思いませんか?
 大きな自己主張をしたいなら、こりとるんでほぐしませんか?
 しかしまあ、ウィルスの飛び交うこんな時代に、大きな自己主張をして魚雷でGoToしろよとかいう方々が絶えず、なかなか難しいですね。

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