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食卓の作法:湯のスプーン、↑か↓か?

 BOOKOFFで竹田恒泰の『日本の礼儀作法〜宮家のおしえ〜』という作法(manner)論の本を見つけて買いました。

 わざとらしく花瓶を添えて撮っているのは広告写真ぽくするためです笑。
 その本には日本の伝統の嗜とされる花道や茶道については語られません。それらにも作法はありますがそれらそのものは道楽であり、竹田氏がそこに語ることは挨拶、言葉遣いや食事などの暮らしの基本の作法についてです。

 こう紹介すると、時に極右的とか反動主義者などと批判される竹田氏が作法を語るなんて噴飯やる方ないわと思う方々もあるでしょうし私も竹田氏が出演のテレビやネットに語る今時の社会や政治についてに批評に必ずしも賛同しませんがそんなややトンデモな論士でも、やはり人としての人柄や礼儀作法は確からしいといつも感じています。
 そこにある、「米は左でつゆ(湯)は右。」、「日本の作法としては麺や汁は音を立ててもよい。」と「女子皇族の諱に直に「妃」をつけることは誤。」というのは誤りですがそれらを除くあらゆる説明や指摘は悉く正しく、その三点を改訂すれば学校の道徳の教科書としても使えそうな内容です。
 「米は左でつゆ(湯)は右。」というのは懐石料理に独特の作法で、高級料亭を含む一般の料理の作法としては特に決まりはありません。懐石料理は特殊な道楽なので道楽のあり方を一般の作法とすることはできません。
 但し蓮華やスプーンを使う湯はそれらが右手に置かれる以上は湯の器も右に置くべきではあります。みそ汁や吸い物などの日本のつゆは掬う器を使わずに椀を左手に持って具を箸で摘むものなので椀を左に置くことが理に適いますし或いは右でも良いのです。
 竹田氏はそこに左は神聖なのでそこに神聖な米の椀を置くと説明しますが左は神聖というのが本当だとしてもその左とは御所から下ルの方角を見ての左(東入ル:日出る方角。)なので下に座する自分から見れば右になり、ならば神聖な米は右に置くべきとなるはず。自分が帝になってはいけません笑。

 西洋料理は一品毎に出る場合が多く、右か左かではなくあらゆる器は真中に置く場合が多くなります。但し主菜に付くパンやピザのように二つ以上が同時に出る場合は主菜が真中でパンやピザは左右のどちらかになります。湯もあるなら左に、ないなら右にということになります。
 作法とはその多くがそのような物理的合理性により決まります。物理的に不可能なことや不自然なこと、即ち人間の恣意的意図の介在することは見苦しくなるものだからです。竹田氏も言及する迷い箸などの箸の不作法もまた「どれを食べたら話題になるかな?」などという人間の恣意的意図から生じるものです。

 そばや拉麺などの麺を音を立てて食べたりつゆを音を立てて飲む、いわゆる啜ることはそばや拉麺が国民に広く普及し始めた高度経済成長期の後半の昭和40年代からで、元はといえば出稼労働者などの麺に慣れない人が音を立ててしか食べられないのを見た都会の人が田舎者に恥をかかせないようにと自分も音を立てて食べてみたのが口コミで広まって流行したもの。教育などの各界に見受けられるできない人に合わせるという思想もその辺りから。
 因みに英国の上流階級にはそのような感覚があり、粗相をする人がいれば自分もわざと粗相をすることが礼儀だといいます。しかし皆が粗相をしていたらそのようなユーモアも意味をなしません。
 昭和46年に初売の日清食品のカップヌードルは西洋風のコンソメが基の湯にフォークと、当時に流行して来ていた啜り食いを何とかしてやめさせようと考えていたであろうことが察せられますがその日清も匙を投げてしまいました。
 江戸時代の人々はそばをざるに丸めて箸で摘み、それをつゆにさっと浸けて一口で食べており、今も本当のそば好きはそのようにして食べます。箸の持ち方が正しければそばがちゃんと丸く塊になります。

 女子皇族の諱に「妃」を直に付けることについては例えば‘Princess Diana’を訳せば「ダイアナ妃」、なので秋篠宮妃紀子殿下は「紀子妃」になり、誤とはいえません。
 因みに英語のアクセントは‘Princess Diana’です。尤も、私は若い頃のほどに英国の標準英語(BE)にはこだわらなくなっていますが。

 英国の話がちらほらと出て来たところで、湯(soups)のよばれ方の話を。

 竹田氏は「スプーンを↑に掬い、残り少ない湯は皿を↑に傾けて掬い切るのが英国式・スプーンを↓に掬い、残り少ない湯は皿を↓に傾けて掬い切るのがフランス式。」と説明します。竹田氏はフランスでもイギリスの王室に敬意を表して英国式を取っていると云います。
 フランスには王室がないので表敬の対象がないというなら、日本の皇室がなくなったら表敬をしなくてよいのでしょうか?ーーと言えば揚げ足取りでしょうか?

 確かに英国は前者が多くてフランスなどのヨーロッパ大陸は後者が多いです。
 では多数決でフランス式にしましょうという訳にもゆきません。

 その違いは英国かフランスかというよりは、湯に使われる器の違いにあります。
 英国やその派生のアメリカはその両側に把手のあるなどする湯丼(soup bowls)が用いられることが多い。
 湯丼は深めかつ小さめで、日本の丼のように手に持って食べることはありませんが把手や縁に手を添えることができます。
 偶に浅い(普通)皿にも手を添えろと教える人がいますがそれは誤で、湯丼に手を添える英国流を全てに敷衍しているのでしょう。因みに私の母(東京出身)はそのように何でもアングロサクソン流にしようとして私にもそのように教育しようとしていた人でした(今はどうかは分かりません。)。しかし英国人やアメリカ人も浅い皿に手を添えはしません。本場にはない本場流です。
 英国人、アメリカ人やそれに近い風土のオランダ人はしばしば日本のしきたりや習俗に理解を示しますが彼らのよく用いる湯丼とその作法が日本の丼や椀にやや近いからではないかと思われます。
 みそ汁や米、菜鉢にしても、器を手に持って食べるものは湯丼のスプーンと同じように、箸をなるべく↑に遣うようにするとかき込むような動作になることもなく良いです。
 飯をかき込んだりつゆを啜ったりする人はフランス流ぽく?箸を↓に遣うことが多いかと考えられます。いわば食べ物を自分の手前に手繰り寄せる動作を箸でしている訳です。食べ物だけではなく何でも、物や事を自分の方に手繰り寄せることは品がありません。
 故にかどうかは分かりませんが、稀にお椀の箸を意識するように↑に動かす人がいるのを見かけます。自衛隊の強そうな地方都市に多いような気がします。

 フランスなどのヨーロッパ大陸は、湯は普通の皿をやや深めにしたような主菜との兼用のような皿が用いられることが多い。
 把手もなく、皿には触れないことが前提です。
 すると、そこにある湯をスプーンで掬うには皿の円周の右下を沿うように↓というか↙︎にすると円滑に掬えます。
 残り少ない湯は皿の左上を持ち上げて右下に溜めるようにします。
 フランスにはありませんがイタリアの湯やたれをパンに塗る時にも、なるべく右下に寄せるように塗ると賢きです(皿の全体を拭くように塗るのも下品ではありませんがやや下流ぽく見えます。)。
 皿には手を掛けないことが前提だと、日本の習俗はなかなか理解し難いということになり、一般の風習にだけではなく政治にもその感覚が反映されています。
 しかし日本も魚の四角の皿や刺身などの盛合の大皿には手を添えることはありません。なので日本人がフランス流の作法を理解不可能ということはあり得ず、要は地域や嗜好によりどんな形の器が用いられることが多いかに依るのです。
 器に手を掛けて良いか悪いかは器の側面積に依ります。側面積が大きければ手を掛けられるし小さければられない。

 さて、応用問題。
 電車やバスの吊手はどこを持ちますか?

 答は:バスならし方ないにせよ電車ならなるべく持つべきではないが、持つなら輪環の横の部分を持つ。

 日本の吊手は輪環形で昨今は三角形のものも増えているので分かりにくいですが西洋など日本以外の多くの国々の吊手は玉形です。玉なら横から持つしかありません。輪環や三角もつかまることにより安定を保つ目的からすると下の部分に手を掛けることは力学的生理的無理が大きく、横の部分を縦に握るものです。
 また、握棒を持つ場合は、その手が座席にいる人の顔の前に来ない位置をかつ持つ腕の腋が広がらないように(腋を締めた状態で)持つべきです。それを満たすならば、握り棒につかまれる場合はかなり限られます。道路のように直角に曲がることもなく揺れることの少ない電車ではそもそもなるべくつかまるべきではないのです。
 手というものは右と左を問わず、そもそも不浄なものです。インド人は左手は不浄といいますが本当は右手も不浄です。
 どんなに手を洗ってアルコール消毒までして物理的に清潔にしているつもりでも霊的には常に穢れているものです。むしろお店などでこれ見よがしにポンプの音も高らかにアルコール消毒に励む人ほど不浄な霊の持ち主です。
 そのような不浄なものである手を人の顔の前に晒すことは極めて不作法です。

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