5S(整理;整頓;清潔;清掃;躾)の要諦は「しないことを決める」こと。

 皆様、本年も明けましておめでとうございます。
 この記事は新年のお初のnoteになります。
 今年も皆様の御一顧を宜しくお願い申し上げます。

 何だか日付を一日間違えたようで、今日1月11日(火)が鏡開ですが昨日が当日かと思い昨日の晩に鏡開の儀式としてこの写真の標縄(しめなわ)が玄関の扉の外側に一か月程飾りつけてあったのを扉の内側に着け替えて節分まで飾りつけ続けることにしました。
 そういえば昔は、大晦日に「明けましておめでとう。」と言う人がよくいました。私もその一人です。

 鏡開の定番の儀式は鏡餅を割る(開く)ことにより正月の終を告げるもの。
 私のその標縄の着け替えはいわばその簡略なもの。鏡餅を買うお金はないけれど標縄はこの位のものがAEONなどのスーパーマーケットなどに安くあります。こういうのはほんまに値段ではないねんなと思ったりします。
 鏡餅を割ることの意味とは多分、神聖なる鏡餅にさえ纏わる魔を粉砕して祓うということかと思われます。葬儀の茶碗割りにも通じるかと。
 割って開くとはその様や音の恐さから来る緊張感により時間や空間を分ける、即ち整理整頓をして各々が自らを躾けることを促すことかと思います。
 私は大掃除は私暦の年度末の10月に行って11月の新年度を迎えますが年末年始とは大掃除をするかどうかはさておき、心の5Sの時期でしょう。
 標縄の着け替えもまた鏡餅を割ることのように、砕けたり音が出たりはしませんが、時間や空間を分ける意味から。
 剰え、ただ分けるだけではなく内と外のつながりや跨ぎ方を見直すという意味があります。
 外にあった標縄が内に来る。それは恰も外が内になり内が外になるかのようです。「只今。」が「行って来ます。」になり、「行って来ます。」が「只今。」になる。同じ扉の表が裏になり、裏が表になる。それはいわば心のshuffleです。心をトランプにして新しい年を迎えます笑。
 そして福は内、鬼は外。新しい春が只今発車します。

 5Sを実践するにはどうすれば良いか?

 「朗らかに、清く正しく美しく。」、それも最重要です。
 それと並ぶ位に、しないことを決めることも最重要かと思います。
 何をするかよりも何をしないか。

 それはきれいにすることに先んじ、汚くしないことが大切だということをも含みます。
 しかし汚くしないようにしていても多少は汚くなって来るものです。
 その多少をなるべく少なくする習慣、それがきれいにすることよりも大切です。
 汚れや散らかりが少なければきれいに直すことも楽です。
 そこにも、どうすれば汚くなり易くなるか散らかり易くなるかというものがあるので、それらをしないようにすること、それを決めることが必要になります。

 例えば私がしないことに決めているのは台所の流台には盥(たらい)を使わないことです。というか、使ったことがありません。
 盥を使うとそこが留置線のようになり、とりあえず突込んでおけばよいという感じになります。使ったことがないのに何で分かるのかという揚げ足取りはやめましょうよ。
 留置線とは前に記事に語りましたが、小田急の代々木上原駅、向ヶ丘遊園駅や本厚木駅などにある当駅止の列車を一時滞在させておくための線路です。便利なようで実は非効率な設備で、それが当たり前と思ってしまうとなかなか改められないものです(当たり前ではないなら必ずしもあってはならないものではありませんし、近年のの小田急は本厚木止の列車を減らして留置線のない伊勢原止や秦野止の列車を増やしていることにより改善されてもいます。)。
 流台を洗うには流台の五つの面をさーと洗えば済みますがそこに盥があるとその内側と外側を合せ角形なら十五面、丸形なら九面を洗わないとなりません。
 また、食器の汚れはそんなに長く水に浸けておかなくてもその場で十五秒ほど浸けて洗えば難なく落ちます。

 面倒くさがってやらない人やそうではなく面倒なことを「ちゃんと」していても何かと面倒くさいという意味のことをぼやきながらする人は面倒くさいことをしたがり及びしているのです。
 狡いと思われるかもしれませんが、面倒くさがらずにきっちりと愉しくやる人は面倒くさいことをしません。

 何が良いか悪いかについては人それぞれの主観や時代と状況の要請にもよるので一概にはいえませんが努力には良い努力と悪い努力があります。
 面倒くさがったりぼやいたりする人は悪い努力家です。
 必要がないのに面倒くさいことをしてそれをしない人を諌めることに生き甲斐を見出しています。
 ∴、王貞治さんに与えるために国民栄誉賞を創設した当時の自民党政権には生産性がありません真面笑。
 私は王貞治が好きです。悪い努力家どころか本当の良い努力家だと思います。
 しかし国民栄誉賞とは王さんの良い努力を称えて国民に奨励するものではなく単に誰も疑い得ない圧倒的数字を伴う「結果」に媚びただけのもの。
 自分が日本刀を手に取ることなどないから、日本刀を使っての打撃練習を賛美する。
 「人命は地球より重い。」と云うことのどこに生産性があるでしょうか?
 どう考えても人命は地球より遥かに軽い。
 そんな軽いものを大切に守ることが倫理や徳というものです。重いから守るというのであれば、ウランやプルトニウムなどの核物質を人の命より大切に守れということになる。

 5Sは、何を5Sするかよりも何を5Sしないかを決めることにより実践し易くなります。

 しないことを決めると、それ以外は何故かしたくなります。

 何をしないかを決める際には、それが単に自分のしたくないこと、気の向かないことでも構いません。
 しかしそれをなるべく最小限にし、あれもしないこれもしないでは駄目です。
 何をするかを決めるという構えだと、それが本当は自分のしたくないこと、しようと思わないことなのにそれがしたいことだ、しようと思うことだという建前主義の自己暗示になり、それが自分だけではなく他者にも及ぶととんでもない建前主義者になります。果てにはやっていなくてもやっていると主張したりします。
 そうなったことがないのに何で分かるのかなどという揚げ足取りはやめましょうよ。

 福は内、鬼は外。

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