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無駄な改善と有意義な妥協:小田急2000形に久々に乗った話。

 珍しい列車が来ると何だか嬉しくなるものですが、咋8月は小田急電鉄が箱根登山線にしか通常は用いられない赤い電車を一か月の期間限定で小田急線に運用して大いに話題になりました。箱根登山鉄道がこの7月まで休業にあり、その再開を記念しての企画です。

 私はその赤い電車には一度も乗れず、何度か見かけたがiPadなので写真の用意が間に合わずに撮れずに過ぎてしまいました。

 その代わりというか、多摩線には運用のなかった2000形が一日に一本ほど充てられるようになったらしく、珍しくも久々に乗りました。
 多摩線は普通が6両と急行や快速急行が10両なため、8両の2000形はもとい充てられないものですが多分唐木田車庫での検査か何かのためについでに多摩線の現業に入れているのかと思われる。唐木田車庫は2000形の所属の喜多見電車区の支所。

 多摩線には2000形の前に出た1500形という車輌が多く充てられていますが、それが実に酷い。
 あまりに酷いので写真はありませんが、扉の幅が2mあり、その形が醜悪なだけではなく客が扉の周りに溜まることにより乗車の効率も非常に悪い。しかしそれを作った小田急はそれで効率が良くなるだろうし面白くもあるだろうと考えてしたのです。客の評は鳴かず飛ばずでしたが小田急は「そんなはずはない。」と広幅扉車の増備を続けようとしました。何だか大東亜戦争のような話です。

 戦争ではかの無謀な政策や戦略に代わる対案が出ずに敗戦を迎えましたが当時の小田急には幸運にも対案が出て来ました。
 それは広幅扉車をそのまま続けるのでもなくやめてしまうのでもなく、2mではなく1.7mに縮小(標準型の扉は1.3m)して新しい車輌を作るというもの。

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これが標準型の1.3m。

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これが2mの対案の1.7m。

 それで特に好評になったということもなかったが1500形のような絶不評は出ず、まあ良いのではないかという感じで主に普通(一時は準急や区間準急にも。)に充てられて何となく親しまれています。 

 「少しだけ大きい」というのはお得感や美感などの好感が最も得られ易い、物作りや仕事のみそなのではないかと思います。大きいことは良いことだという価値観は広く理解されているものではありますが理解できても感覚としては受け入れにくい若しくは特に権力の場合におけるように絶対に受け入れられないことも少なくありません。

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 そしてもう一丁行ってみようかということで次の新型車3000形の初期車も同じ1.7mの扉に。その後は全て標準型になっています。

「少しだけ大きい」という価値はそれら小田急の1.7m扉車が影響してかせずしてか、今は吉野家の牛丼の中盛やあたまの大盛などに見られるもの。
 自動車にも、軽自動車より少しだけ大きいトヨタパッソ・ダイハツブーンが出て大いに売れたり。それらは同時に、より小さなものを求めるダウンサイジングをも体現していて一石二鳥。

 扉が少しだけ大きいとか牛肉が少しだけ多いとかということは、実用性の面ではなかなか説明のつきにくいことですが、まずは視覚的にもう少し余裕があるという印象を与えることにより、効率化や合理化若しくは美化の心が促され易いのではないか。むしろ、扉だけが効率的で合理的になっても結果が現れるのはそこだけで全体の改善にはならないことが少なくない。そこを端緒として芋蔓式に全体の効率化や合理化に結びつけるには実用性よりも見た目、それも少しだけが良かったりする。
 例えば口角を五mm上げるという笑顔政策。溢れるばかりの笑顔を目指さなくてもよくてそれだけのもう少しの努力を常に欠かさないようにしてみることが大切だ。

 2m扉の小田急1500形はそんな少しの努力とその継続をしてみることもなくその場だけの目覚ましい結果を求めては何も良い結果の現れない無駄な改善というものを公衆の面前で体現しているもの。
 しかし、そこで駄目でしたね、もうやらないことにしましょうというだけではかようの無駄な改善者はそれをやめても手を替え品を替えてまた無駄な改善策を出して来るだろうし、巻き込まれたり振り回されたりし続けるのが恐い。
 なので足して二で割るとか、妥協策を含む対案を出してそれを実現する。それが1.7m扉の小田急2000形。

 それから二十数年を経る今も、多摩線に急行を通す必要なんてない、どうせ何をしても黒字にはならないのだから、そんな所に投資するのではなくもっともっとロマンスカーを増やして訴求しろという無駄な改善策に妥協をしながら多摩急行や通勤急行という他の急行より少しだけ大きな感じの面白い列車を設定し、そのために本来は逆効果になるはずの多摩中央駅の待避線の廃止までした。ロマンスカーを売りたい無駄な改善者にとってはのんびりと長閑な多摩線に列車の追抜があるなどということはあってはならない地獄絵図。
 多摩線の追抜はできないということで、新しく設定された通勤急行は巧妙にも向ヶ丘遊園停車・登戸通過という奇策でお得感を打ち出している。小田急の旧人類にとっては向ヶ丘遊園駅がかけがえのない御贔屓であることをよく捉えている。

 これは小田急ロマンスカーなどのような豪華で派手な訴求をしてはならないということではありません。
 しかし小田急ロマンスカーが派手に訴求して利益になるのは「今だろうか?」ということです。
 小田急ロマンスカーは昔から有名で日本中によく知られています。なので今の小田急がロマンスカーを力を入れて訴求しても人々はいつものことだとしか思わないでしょう。
 今派手に新しいのは多摩線などの通勤需要であり、または、相鉄との東京方面への競合が生じることになった海老名駅の再開発です。それらがロマンスカーの何倍も訴求の鮮度が高いのです。

 そういう当たり前過ぎるようなことが分からずにロマンスカーにロマンを託すような極めて分かり易い頭の悪さ、痛さ加減は、もはや指摘してはかわいそうだ、そっとしておけという同情からの事実上の無批判になりがちでもあります。安倍政権の支持率を支えた動機も要はそのような痛過ぎる人達への同情心でしょう。
 そうしている内に、神奈川県は知事が神奈川県には来ないで下さいと云い、東京都はGoToキャンペーンの対象外となり、小田急は両端を封じ込まれた訳で観光輸送では食えなくなっています。では通勤ロマンスカーに乗ろうといっても、そんな通勤交通費の出せるような状況でもありません。

「下手の考え休むに似たり。」という諺は革新や改善が尊ばれる世の中では冷笑や嘲笑と思われがちです。
 しかしその諺は休むに似るような下手の考え、即ち無知との遭遇を見るまでもなく常に心得るべきものでしょう。

 つまらない妥協から生まれる改善もあるのです。

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