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暮らしと社会のフレーム構造とモノコック構造:これからはモノコック構造が必要になる:その3:暮らしや社会のフレーム構造を完全には捨て去らずにその大部分をモノコック構造に変える。

 犬の紋章に月桂冠の広告ーー犬が酒を呑んで走っているかのようですが、かなり昔の東急田園都市線のあざみ野駅前の小田急バスです。
 小田急バスの犬の紋章は観光や高速路線のための特別車には現存しますが一般車には今はありません。「犬が去ぬ。」という感じですね。
 うちの犬のあいこ・けん夫妻も没後五年になり、今は三沢川の源流地町田市小野路町の墓蹟に居ます。

 自動車の多くは四輪で、犬などの哺乳類獣の多くも四足。フレーム構造がほとんどのバスを除き自動車の多くはモノコック構造なので、四足の獣は何となく二足の獣である人とは異なりモノコック体であるかのように見えますが多分本当にそうでしょう。逆に二足獣の人はモノコック体ではなくフレーム体であるかのように見られがちですが多分人もモノコック体だろうと思います。
 モノコック構造とは脚の数との関係はなく、例えば脚が一本のベールドバン(ワイングラス)や脚のないタンブラーグラスなんかもモノコック構造です。要は存在の目的に適いかつ重量の均衡する形のあることがモノコック構造の肝です。

 凡そ森羅万象のほとんどはモノコック構造を成しており、フレーム構造はほぼほぼ自らもモノコック構造なはずの人間だけが作り出した不自然な構造造形と思われます。

 もちろんモノコック構造ならそれだけで万能な訳ではなく、モノコック構造にも巧拙優劣があります。一番の重要点は重量が均衡するかどうか、即ち状態や挙動が安定するかどうかです。

 フレーム構造は重量が多少は均衡せずに不安定でも枠組の強度により安定を補い易い、悪くいえばごまかしやすいという利があります。しかし一度破綻しだすともはや何の補正もごまかしも利かずにただ壊れてゆくのみということになり易い不利もあります。
 モノコック構造にも補正やごまかしの手はあり、それが補強材を張ることです。しかし最も重要な点は初めの構想設計の際に自然の力を生かす均衡のある形を考えることで、それがあれば大きな破綻は起こりにくい。故に良いモノコック構造を作り出すためにはまずは自然の力、その恵と恐さを陰に陽に知ることが必要になります。
 常識とは本来はそういうことをいうと思いますが、常識といわれている物事の中にはフレーム構造における枠組を知ることだというのも少なくありません。
 もっと多様性を、もっととんがって個性的になれ、空気を読むなとかいわれている平成時代の風潮の中、それに魅力を感じてもやはり非常識とはいわれたくないという無理な願望を満たすためか、フレームワークという空理空論が常識を装って跋扈しているような感じがします。その典型例はあの忌まわしい安倍政権の時代に、それに対する立憲民主党の枝野幸男代表などが彼らはかつての自民党の宏池会のような穏健な保守政治を目指しているなどという何の実態も芽もないことを云っていたことです。彼らは共産党などの互換性のない(アップルコンピューターも他との互換性がないといわれます。)勢力と同一視されることを殊の外に恐れるため(もちろん共産党と同一視されたくは私もないですが、)に敵対勢力である自民党の中の比較的自分達に近いと思われる一派をお手本のようにして言及した。そうすることにより、それがかつては宏池会の中道左派的政治経済が常識的と思われていた実績を時を越えるかのように後光にして自分達もそのように常識的だというような印象操作を図った。

 雪山には登らない。それが、常識。

 処が今は雪山に登って死んだ人に拍手喝采をすることが常識であり標高倍増計画だというような非常識が常識を装っています。
 そんなことは言わなくても分かるはずだろうと思うのでこの写真を黙示に留めようかと思いましたが言わないと分からない方々も多いかと思われるので面倒くさいけど言います。
 所得倍増計画の昔の何倍にも高くなった所からうんこが降って来る訳ですし、うちのけん様ならぬ志村けんさんも想定の範囲外だった情況ですね。

 まあ、フレーム構造も全く意味がないというようなものでもないやね。

 私も没後はフレーム構造のトヨタクラウンの宮型霊柩車に乗せられたいと思っていましたが、その望みは迷走するトヨタ自動車によるクラウンの廃止と創価学会公明党の霞が関文化会館たる国土交通省による宮型霊柩車の謂れない排除の政策により絶たれそうな勢いです。私が没後に乗れそうな車はもはや浅草の人力車しかないだろうと。

 人間である以上は、自然の力とは別次元の発想で物事に枠を嵌めたり枠を組んだりすることを完全に免れることはできません。
 しかしフレーム構造の発想は、自然の力だけをではなくともすれば物事の目的をさえ見失わせ得ます。
 既成のフレームワークが駄目でそれを改めるために新しいフレームワークを考えるのではなく、フレームワークという発想そのものを疑うべき。
 これは一つの例ですけれども、frameworkという語から私が連想する語は何故かsensorship(検閲)です。検閲というものを必ずしも否定はしませんが(というと私が違憲の疑いを持たれますが、)作られた枠組を維持しようとするとそれが守られているかどうかを確認するための検閲ということを免れ得ない。なので少なくとも憲法の遵守を義務として求められる公務員は枠組、フレームワークを作ろうとしてはならないということになる。公務員とは霞が関や万福寺の方々のことだけではなく永田町の方々も公務員です。

 同じことを今の時代にしてもそのまま正しい訳ではないでしょうが、東京オリンピックまでの時代には日US安全保障条約を締結した吉田茂や傾斜生産方式の片山哲、所得倍増計画の池田勇人などというモノコック構造な政治指導者がいました。
 それぞれ、日本が自由と民主主義において平和安定を図るという一つの目的、日本が重工業を基軸として経済の再発展を図るという一つの目的、日本が労働に報いて国民が豊かになるという一つの目的を要らぬ枠組論によらず一気通貫に支援して実現するというモノコックな意志がありました。因みに彼等はいずれも「骨のある人」というようなことをいわれたことがありません。「骨のある」人なら浅沼稲次郎氏の追悼などしないでしょ?田村正和にも骨がないでしょ?

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