見出し画像

1995年のDEEPと1993年のDEEP

今日は2020年の5月12日(火曜)そろそろ朝。

今ふと時計を見たら5:12だった、村田いるのかな?。

DEEPを一緒にやっていたレイちゃんが1995年のDEEPのライブ映像をYouTubeにアップしていてそれをさっき観た。

もう何十年振りかに当時のDEEPを観た。

このライブはこの頃DEEPがホームにしていた新宿パワーステーションってハコでのライブ。

今はもうないけど。

当時はスタンディングで1,000人近く入れられるハコは、同じ新宿にあったLIQUID ROOMとこのパワステしかなかった。

リキッドは当時は新宿にあったんだよ。

1995年、この頃のDEEPはみんな26歳。

ライブに勢いもあるしめちゃくちゃカッコ良かった。

そんな当時の映像を今また観れて嬉しかった。

アップしてくれたレイちゃんありがとう。

自分達がまだまだ若い頃にやっていたバンドを何十年振りかに観て「カッコいいバンドじゃん」って感じられたのが嬉しかった。

思い出すと、この頃はバンドもバリバリ人気あるし、メジャーレコード会社のワーナーと契約してプロのミュージシャンになった、hideさんの事務所にも所属していてまだまだ若かく、うちらは最高だと感じていた。

それは「怖いものなんてなにもない」って若さ特有の感覚だったのを覚えている。

まさに青春。

DEEP - ありふれた週末 MV
https://youtu.be/xIKExvZXKTo


パワステのライブには事務所の社長でもあるhideさんが大体来てくれていて、自分とこのバンドだから当然かもだけど、そんで打ち上げで朝までみんなで一緒に飲んでた。

楽しかったな〜。

パワステの近くにあった日本酒専門の居酒屋があって、そこはhideさんが行こうって行って打ち上げで良く使ってたんだけど、そこは日本酒しかなくて、僕は日本酒ダメだったから最初は気乗りしてなかったけど、上善如水って日本酒が全然匂いしなくて「これなら飲めるじゃん!」って、そればっか飲んでた。

ある日の打ち上げ帰りにマネージャーに車で朝送って貰っていて、車の窓からモドシタ事を境にその日本酒からも手を引きました、、、

当時西麻布にあったREDSHOESってロッカー溜まり場のBARがあって、そこを貸し切りにして打ち上げやったりもした。

当時レッシューを貸し切りにして打ち上げをやるのはステイタスのひとつだったと思う。

その後は六本木交差点から割と近所にあるBoo Who WooってBARに流れるってコースが主流。

レッシューもBoo Who Wooにも当時は本当にしょっちゅう行ってた。

行けばだいたい誰か居て、、、

Xのタイジさんが居た時の事思い出した。

その時レイちゃんとレッシューで飲んでて、タイジさんがレイちゃんに「やっぱ麗しいからレイなんだよね」って言ってたのなんか覚えてるな、なんか面白い事言ってるな〜みたいなw。

Boo Who Wooも鬼の様に沢山行ってたけど、そこもロッカーの溜まり場だから行けば色々なミュージシャンが居る。

ある日飲んでた時、かなり深夜だったと思うけど、hideさんに電話して「飲みましょう」って誘ったら来てくれて、色々話してたんだけど。
僕がその頃WOODBASEも弾いていて、hideさんに「WOODBASE最近練習してるから今度アルバムに参加させて下さい」って言ったら「もっと上手くなってからな」、、、終了、、、みたいな。

hideさんってサーベルの時からギターめちゃ上手かったからな〜。

ヘッドワックスにプライベートスタジオがあって、そこに週に何回か行ってWOODBASEの練習してた、WOODBASEは鳴りがめちゃ大きいから。

そんなとかあんなとか色々あったな〜、そう言えばhideさんのjaguarで焼肉連れて行って貰った。その時ディーパーズのナラサキ君とツヨシも居た様な気がするけど。

本当にしょっちゅうみんなで酒飲みまくってた。とにかく飲んでた、リハの後、取材の後、事務所mtg終わりとか。

ヘッドワックスが恵比寿にあったからmtg終わると大体メンバーとマネージャーとかと六本木行ってた。

当時はみんな六本木大好きだった、レッシューやBoo Who Wooがあったからだろうけど、でも今はないからどうなんだろ?、六本木の夜のロッカー文化。

当時六本木の夜にロッカーの文化があったのはこの2軒のBARがあったからだと思う。

後これはhideさんの単独文化だったと思うけど、恵比寿駅前にあった屋台にもよく連れて行って貰った。

「ビーフシチューがめちゃ美味いんだよ」って言ってて、で本当に美味かった。

朝通勤のサラリーマンの方々が出勤する頃もバリバリその屋台でみんなして飲んでた、レディースのジョージさんが居たり、バクチクの今井さんが居た時もあったり、パタさんも。

そしてBoo Who Wooのマスターをやっていた梅ちゃんはもう随分前に亡くなってしまった。

DEEPの初代ドラマーの村田が死んだのは5月12日。

村田が死んだのは1993年の5月12日だから、今年で27回目の命日。

当時の事を色々思い出してみよ、、、

村田はDEEPの中でひとりだけ年下。

確かひとつ下かな。

年下らしからぬ雰囲気を持ってたけどw。

当時はオールナイトでのリハが割と主流だった、まだインディーでアルバムも出してなくてライブばっかやってた。

当時よく使ってたのは目黒鹿鳴館の近所にあるMUD studio。

そこで毎回自分達の機材を持ち込んで、オールナイトで曲作ったり、曲のアレンジを練ったりしてた。

この時僕が使ってたアンプはアンペグってやつで、キャビネットに8個スピーカーが入ってる定番のやつなんだけど、それがクソ重くて毎回運ぶのが嫌だった。アンペグのヘッドも「これいったいなにが入ってんの?」って毎回思うくらいクソ重かった。

それをアマチュアの頃は毎回毎回運んでリハやってた。

パワフル。

メジャーになってからは品川港近くのデカいスタジオでリハやってたり、マネージャーに「駅からはタクシーで行って」なんてカッコいい事言われてリハやってたけどね〜。

機材も行けばセッティング済み「これがプロの現場でしょ」みたいな、イキがってた。

話がそれました、アマチュアのその頃の思い出は、、、

みんな「うーん、、」なんて曲の次の展開やなんかを考えて悩んでたりするでしょ、すると村田はドラムのイスをスタンドから外して、そのイスをマクラにして寝出す、寝出す、寝出す、、、

「寝るのかよ、、、」ってねw。

ちなみに彼はメンバー内でひとりだけ年下、、、。

アマチュアの頃は機材車もメンバー管理なんだけど、事務所もないから当然そうなる。

何台か機材者を乗り換えた様な記憶があるけど、その中の一台は強烈だった。

当時は定番の白いハイエースかなんかの良くあるタイプのバンで、その車体にみんなでスプレーで落書き沢山してた。

まだ20才そこそこのガキだからありだよね。

その機材車は村田が管理していて、当時は今なんかより色々ゆるかったから、村田の家の近所に路駐で管理?、されてた。

ある日村田の家から機材車でリハかなんかに行くみたいな時、機材車に向かって歩いてくでしょ、そしたらフロントガラスに弾痕みたいなやつがあって、穴が開いてる訳。
「なにこれ!、撃たれたの!?」wって聞いたらやつは「多分、、、傘でやられたな、、、」と、、、

そしてへっちゃら、みたいなw。

この機材車はハンパなくドンドンボロくなっていった。助手席のドアがほっとくと外れて取れちゃうから、ハンドルからぶっといロープでそのドアの取ってにロープを括り付けてドア固定w。
だから助手席に乗るとそのロープがクソ邪魔。

しまいには確か後ろのドアしか開かなくなって、みんなそこから出入りする、みたいな。

で間もなく廃車。

これは機材車じゃないんだけど、当時村田は実家に住んでいて、そのガレージにはマツダのRX-7ってその頃は結構カッコいい部類のスポーツカーに乗ってた。(今スポーツカーなんて言うのかな?)
その車はLUNA SEAの隆一君から貰ったやつで、貰った当初は普通で「いいじゃん!」なんて言ってたんだけど、暫くして村田の家に行った時ガレージを見てマジでビビった。

つい何ヶ月か前まで普通にカッコ良かった車が。

タイヤは全部付いてない、ボディーはなんかボコボコしてる、サビていてかなりキッタネー、、、

「どうしたのこれ?」って聞いたら、あんまり覚えてないんだけど、確か「、、、」多くは語らず、ってスタイルだった記憶。

なんか色々とボロくしてく才能があったみたい。

村田話しのトリは合宿RECの話し。

これが1番パンチ効いてると思う、今までも何回か書いてきたけど、やっぱ語り継ぐ事の重要性を重んじて今回も書きます。

中々それをやるやつは、、、いや、、、出来る人、、、いやそんな事を可能に出来るマスター(師匠)はいない、そう大物クラス。

DEEP初のRECはVictorが当時releaseしていた"dance 2 noise"ってシリーズのオムニバスアルバム。

これの3枚目で、ここにはディーパーズとかGULTDEP、BRAIN DRIVE、DOOMとか色々なアーティストが参加していて、当時このシリーズアルバムはかなり注目度の高い企画アルバムでした。

前作だとマッド、バクチクの櫻井さんとXYMOX、SECRET GOLDFISH、OFF MASK 00とかとか、そんな感じで感度の高い企画アルバム。

そして当時の音楽シーンには予算が唸る様に沢山ありました。

この数年後にデヴューするDEEPも、メジャー1st albumの制作予算は1千7百万円?とかって当時のワーナーの担当が教えてくれた。

それに加えデヴューの時は何千万円って契約金も貰った。

なんにしろ今では考えられない予算を付けて音源を制作していたメジャーシーン。

そして何回かVictorでmtgしてレコーディングしましょうとなりました。

レコーディングは小淵沢でやります、と。

その時はまだアマチュアだから、メンバーだけで機材車に機材詰め込んで小淵沢に向かいました。

目的地に着いたら、なんか森の中にある洋風の金持ちの家があって、その家の庭には馬かなんか居て(ポニーだったかも)、スタジオには全く見えない大きな家に着きました。

「ここ?」みたいな。

そこの屋敷に入ったら大理石が敷き詰められてる大きな玄関、、、「部屋?」みたいな。

そんな、かなりスペシャルなスタジオでDEEPの初レコーディングはスタートされました。

スタジオも窓ありで外の開放感バリバリ、小淵沢は避暑地で軽井沢みたいなとこです。

しかし僕はメジャー初RECで良く分かってないし、緊張からか上手く演奏出来なくてディレクターにREC中怒鳴られる、半ベソみたいな。

かなり大変なベースRECでした、しかしそれも終われば、後は他のメンバーの録りがスタートなので肩の荷はおり、めっちゃ軽やかw。

このRECは1曲だけだったんですが、この時はCDバンバン売れてる時代だから、たった1曲のRECに3泊くらいした様な記憶。

夜ご飯の前にその日の作業も終了。

食後は「キッチンにあるビール好きなだけ飲んでいいよ〜」って言われ、本気で好きなだけ飲む、飲む、飲む、、、

REC最終日、録りもMIXも全て終わり、その日も泊まりでした。

翌日は帰るだけだからメンバーみんな確か死ぬほど飲みました。

そして朝近くにみんなそれぞれの部屋へ戻って就寝。

さほど時間も経っていない様な頃、部屋のドアをドンドン叩くやつがいます、、、

酒は勿論まだバリバリ残っているし、眠いしで機嫌悪くドアを開けると、そこには顎から血を垂らした村田が突っ立っている、、、

「、、、どうした、、、」と聞くと「やっちまった、、、」と。

その部屋を出ると吹き抜けの階段があり、そこの壁は大きなガラス張りになっていて丁度駐車場が見えるのでした。

「あれ、、、」と、彼が指をさす先にはDEEPの機材車が止まっていて、何故かバンの屋根がまるで大きななにかに踏まれた様にかなり凹んでいました。

眠いながら、なにが起きているのか分からず車に向かいました。

機材車の屋根はかなり凹み、窓は割れ、何故か車体はドロドロでした。

機材はすでに全て積んでありました、そこでやはり機材が気になり確認すると機材もドロドロです、、、

そして運転席の天井は真っ赤でした。

しかし村田からはそんなに出血している様子はうかがえません。

「この真っ赤な血みたいなやつなに?」

と村田に聞きました。

「ワイン、、、」

(この頃は割と車で普通に飲みに行く、みたいな時代でした)

その後村田から話しを詳しく聞きました。

村田以外のメンバーはみなそれぞれの部屋へ戻っていきましたが、村田はまだ飲み足りない、しかし酒は全て飲み干してしまった。

そうです、全てメンバーみんなでスタジオにある酒を全て飲み干してしまったのです、バカ飲みです。

それで仕方なく、各々部屋に帰ったんでしょう、きっと、、、

しかし村田は違います。酒を求めて早朝のほぼ地理感覚のない避暑地に彷徨い出た訳です。

車で、しかもベロベロです。
(ベロべロで車に乗っては絶対にダメです)

そこでワインを飲みながら運転していた村田は道路から森の中に転落してしまったそうです、、、

そこで機材車の屋根の凹みですが、森の中へ転落して行く機材車を森の中の木が止めてくれたそうです、、、マジックです。

早朝の森の中に転落したバン。

ここで謎なのは「森の中を転げ落ちて行ったバンをどうやって元の道路に戻したのか?」です。

村田曰く「道路に助けを求め出ていったら、丁度レッカー車が来てそのレッカー車に助けて貰った、、、」と。

早朝の小淵沢という避暑地、その森の中、偶然通り掛かるレッカー車、、、奇跡です、、、

マスター(師匠)です。

機材がドロドロなのは、落ちた衝撃で森の中に機材が吹っ飛んで行ったから、、、

ファンタジック!。

今なら爆笑ですが、当時はまだローンも残っている様な状態の大切な機材。普通に怒り心頭なハズです、だけどあまり怒った記憶がないです、それは彼の器量でしょう。

確か、その機材車の屋根に乗り、凹んだ屋根を踏み潰してる最中、みたない写真をレイちゃんは撮っていた様な記憶があります。

みんなそんなに怒らないで笑いに転化されていたんだと思います。

それも村田の実力ですね。

先日アップしたnoteにも同じ内容を書いたのですが、この後DEEPは順調にキャリアを積んでいき、Extasy Recordsから1st albumをrelease。そのアルバムはオリコンのインディーチャートの1位を取りました。

そして初ライブからホームにしていた旧新宿LOFTもソールドアウトを連発、オーディエンスが入りきらなくなっていたので、渋谷クアトロにハコを移し、1st albumのかなり長い全国ツアーのファイナルワンマンライブを行ないました。

その長い全国ツアーもかなりダイナミックな事件があったりしました。

それはまたにします。

そして村田とのラスト・ライブになる1st albumのツアーファイナル渋谷クアトロワンマン。

フロアはギチギチです、そして本当に今だに覚えているくらい最高なライブでした。

勿論長い全国ツアーを遂行して、バンドのグルーヴや演奏が体に染み込んでいたのは事実だったと思います。

だけど「めちゃくちゃいいライブじゃん」って、ライブをやってる時、ライブが終わってからも感じてた事を今だに覚えています。

そして打ち上げも最高に楽しかった記憶があります。

22〜3才でこれだけの事をやり遂げた、って達成感がかなりあったんだと思います。

そのツアーファイルの打ち上げ、2次会の途中で村田が「先に帰るね」って言って僕は店の外まで送りに行きました。

村田にその渋谷の通りでバイバイした時の彼の姿、それは今でも記憶残っています。

それが村田と交わした最後の言葉になりました、、、


彼が死んでから、最後に村田と一緒にやったライブが最高な形でやれて本当に良かったって感じています、今でも。

forever jun


2020.5.12 atsushi hatta


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?