【ムーミンと呼ばれた男】R5.7.18

 僕は大学生の2年間、田舎町でキャバクラのボーイをしていた。その頃に出逢った謎多き男、ムーミンについて語ろうと思う。

 ムーミンと呼ばれるその男は、僕の働くキャバクラでキャッチ(客引き)として雇われていた。都会ではまず考えられないだろうが、僕の働いていた夜の町では、案内所やキャッチなどで集客を行わなければ1年も持たずに潰れてしまう店がほとんどだった。
 彼の年齢は50歳前後、身長は160cmほどで、はち切れんばかりの白シャツに黒のスラックス、そして冬には必ず黒の外套に全身を包んでいた。典型的な肥満体型で、膨れ上がった顎の肉は首まわりを完全に覆っており、その姿がムーミンにしか見えないということで彼はいつしかそう呼ばれるようになったらしい。そんな人目を引く外見とムーミンという名から、その町で彼を知らない者はほとんどいなかった。僕は当初、それが蔑称のようで、彼をムーミンと呼ぶことを憚られたが、存外、本人もその呼び名を気に入っているようで、僕もまた彼をムーミンと呼ぶことにした。
 ムーミンは基本的にキャッチ専門なので、内勤業務(店内での業務)をする必要はない。しかし、開店前の清掃という本来なら1番下っ端である僕がやるべき業務を、彼が代わりに終わらせてくれていることが度々あった。そして浮いた時間で彼は僕に昔話を聞かせてくれた。まともに学校にも通えず、夜の世界でしか生きることを許されなかった彼は、「叶うなら公務員になりたかった」と何度も恨めしそうに呟いた。他にも、彼が今まで何をして生きてきたのか、どうして頑なに本名を明かそうとしないのかなどを僕はそのときに初めて知った。ムーミンは歯がほとんど無かったので、半分くらいは何を言っているのか判らなかったが、とにかく僕はその時間が大好きだった。
 そんなある日、事件が起こった。僕はその現場に居合わせていなかったので、伝聞のさらに伝聞になってしまうのだが、どうやらムーミンが営業中に倒れ救急搬送されたようだ。
 生涯のほとんどを夜の世界で過ごした彼には膨大な人脈がある。その日は彼の知り合いが来店し、何本ものドンペリが空いたという。これはキャッチとして最高の成果だ。しかし、その過程で気分の良くなったムーミンはドンペリを一気してしまい、まもなく意識を失ったらしい。すぐさまオーナーが救急車を呼ぼうと消防に通報をしたのだが、ここで1つの障壁が生まれた。それは、誰一人としてムーミンの本名を知らないということだった。

消防署「119番、消防署です。火事ですか?救急ですか?」

オーナー「救急です。従業員が倒れました」

消防署「その方のお名前をお願いします」

オーナー「名前はわかりません」

消防署「なぜですか?従業員ですよね?」

オーナー「……ムーミンです」

消防署「ふざけてるんですか?」

 上記のようなやりとりが本当にあったらしい。「ムーミン」とバカ正直に答えたオーナーもどうかとは思うが、何はともあれムーミンは無事に救急搬送されたのち、1週間も経たないうちに復帰した。それ以降、彼も身内くらいには本名を明かすべきだと考えたのか、僕にも電話番号と本名を開示してくれた。また、その一件で彼は自身の死期を悟ったそうで、身辺の整理を始めたらしい。その一環として、僕はムーミンからお古のタキシードを貰った。どう考えても僕が着られるサイズではなかったので、それは今も箪笥の奥に眠っている。それでもムーミンは、僕が白いシャツを着ていると、自分があげたシャツを着ていると勘違いして嬉しそうにしてくれていた。実は、彼は目もほとんど見えていなかったのだ。
 僕にとってムーミンは、ボーイの大先輩であると同時に、人生の大先輩でもある。外見はどうであれ、10代の前半から独り身でアンダーグラウンドを生き抜いた、そんなハードボイルドな男に誰もが憧れずにはいられないだろう。ここまで「今は亡き人」のような文調で書いてきたが、ムーミンは現在もあの町でキャッチを続けている。昨年の末、僕は2年ぶりに彼と再会を果たした。「ムーミンさん」と声をかけ、どうせ顔はほとんど見えていないだろうから、僕は名を名乗った。すると、ムーミンは少しばかり考え込んだのち、気まずそうにそっぽを向いた。そう、僕は完全に忘れられていたのだった。

 ねぇ、ムーミン。こっち向いて……?

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