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【49日目】百年祭

ご隠居からのメール:【百年祭】

 徳川幕府が支配する時代では長谷部や長という姓を名乗ると睨まれるおそれがあったのではないだろうか。だから長牛之助の後継者は西谷氏を名乗った。高瀬の長谷部氏も江戸時代には苗字は名乗らず、隠していたはずだ。

庄屋をつとめたことはない。伊田氏が庄屋だったことは知っている。菩提寺の高林寺を寄進したのは伊田氏だ。おそらく治美さんや孝一さんが相続している井田氏は伊田氏の流れだろう。

喜代三郎さんのことを想像すると、長谷部氏の中にいて居場所があったのかなと心配になる。子供はなく、比較的若いうちに亡くなっている。昔は長男以外の次男、三男、四男は婿になるしか自立のチャンスがなかった。

資産家の仲村氏には最初、亀三おじさんが婿入りする予定だったが、菊二おじさんが戦死したため、亀三おじさんは未亡人の菫子さんと結婚し、米作農業を実質的に経営したという理由で、長谷部家の相続権を主張した。一方、與一さんは、昭和三十年代の半ば、県会議員選挙に立候補して落選し、失業者になり、相続トラブルが発生した。

與一さんは、次男の菊二には相続権を譲るといって満州に新天地を求めたが、亀三に相続させることは認めていないと主張した。しかし、未亡人の菫子さんは亀三おじさんと結婚している。

結果として、話し合いで折り合いがつき、山林も田畑も分割した。それ以前に信谷氏が分家したときも、分割したので、財産はかなり縮小している。

そんなごたごたもあって、喜代三郎さんには居場所はなかったとすれば気の毒だなあと思う。伝蔵さんはその喜代三郎さんの立場に同情し、自主的に相続放棄したのかもしれないなとも想像してみる。

返信:【Re_百年祭】

徳川幕府で姓や名を隠していたのは自分もそう思う。「長谷部」の姓は、本家(長男)だけが継ぎ、次男や三男は、姓を変えたり養子に入ったりして一族の血を残していったのでしょう。それが分家の「信谷」や「西谷」だったのかな。

亀三おじさんだけは例外で、相続でひと悶着があって分家でも長谷部を名乗った歴史的人物ということになるね。「友治郎」さんと「いし」さんの時代には、色んな事があったんだろうと勝手に想像する。

喜代三郎さんは、文字から三男のようにも思えるしへたしたら、友治郎さんと別の女性(妾)の子供だったかもしれない。

ただ、本妻の「いし」さんとの子供が生まれないので同じ尼子の血を引く、ツネさんと伝蔵さんを養子にして「長谷部」の名を継がせようとしたのかもしれない。

「信谷」や「西谷」から養子縁組するのが筋だが「長谷部」の土地を一度出た人に相続させるのがイヤだったんだのかな。八墓村の相続争いと同じ理由なのではと勝手に想像する。

もし、そうだったら、喜代三郎さんは、非常に肩身が狭かったかもしれない。だけど、亀三おじさんが、100年祭をするということは、なにか偉業を成し遂げたのではないのかね。


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