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【14日目】長谷部氏

自分からご隠居へのメール:【長谷部氏】

ネットで調べると祖父の興一さんから神郷町長選挙の地盤を譲り受けた井上富士夫さん系列のDNAがご先祖さまということだね。さらに、井上富士夫さんが神郷町長時代には亀三おじさんが副議長をしている記録を見つけた。親族みんな政治家だ。

自分のルーツとして名は長谷部だけど、DNAは井上なんだね。織田信長に裏切られ尼子氏は、滅亡してるので、ご先祖さまは無念の負け戦を経験したということか。

ただ、わざわざ長谷部家の養子に井上家・大原家が入るぐらいだから、長谷部家は格が高い家柄だったのかな。DNAは違ったとしても守ろうとした長谷部の名前。それを引き継いで現代の自分が名乗っているということを考えるとスゴイ話だな。

でも、尼子の落ち人なのに、あれほど広大な土地や山林を持っているというのは何故なんだろう。通常であれば、毛利や徳川に領地は取り上げられているだろうから。

自分からご隠居へのメール:【Re_長谷部氏】

ネットで調べると長谷部氏の始祖は、長谷部信連と言われている。金沢に長谷部信連が祭られている長谷部神社があり、年に一度「長谷部まつり」があるほどの人。他にもご先祖さまに関連することを発見した。以下に記載する。

【鎌倉時代】
・1218年_金沢:長谷部信連(平家物語)
・1218年_広島:長谷部良連

【南北朝時代】
・1337年_京都:長谷部国重(※へし切り長谷部)

【室町時代】
・1467年_広島:長谷部宗連
・1511年_京都:長谷部種連

【戦国時代】
・1555年_広島:長谷部元信(毛利)
・1555年_広島:長谷部元連(毛利)

【江戸】
・???

【明治】
・1900_長谷部勝治郎(井上)

【昭和】
・1930年_岡山:長谷部与一
・1970年_千葉:長谷部文孝

【平成】
・2000年_神奈川:長谷部●●郎

【令和】
・2020年_神奈川:長谷部●●郎

やはり、江戸時代の徳川家に追いやられている気がするね。毛利の家臣として豊臣方について、関ヶ原の敗戦後、高瀬の土地に長谷部氏と井上氏で追いやられているのかな。

尼子の落人というより、毛利の落人の方が納得感あるかな。長谷部は、歴史にも残ってるし昔は格の高い苗字だったんだろうね。


自分からのご隠居へのメール:【Re_Re_長谷部氏】

更に調べると以下内容を発見した。

①翁山城の長谷部元信
⇒関ケ原の戦い後、毛利萩移転に伴い、「主流は」萩へ
⇒翁山城周辺(約65キロ)に新見市神郷町高瀬がある

②高瀬への移住
⇒関ケ原の戦い以降1600年から勝治郎さんそして与一さんまで6〜8代くらい高瀬の土地にいた可能性あり

③尼子の落人の謎
⇒折敷畑の戦い直後となる6月7日付けで陶晴賢が石見の益田藤兼に送った書状(『益田家文書 65号』)では、雲州(出雲国を本拠とする尼子氏)についての記述があり、尼子氏と連合して毛利氏を挟撃することが検討されていた


豊島氏は雲州益田藩の家老だった…尼子の落人説は「豊島家」からの話しの方が実は整理がつく気もする。ご先祖さまで「尼子の落人」だと教えてくれた人が、江戸時代に毛利や長谷部の話しをひた隠し「豊島家の筋が良い」ということを伝えたという仮説もあるね。

関ヶ原(1600年)以降の長谷部氏を探し当てて、信連、国重の筋だと判明したら相当格のある苗字を代々受け継いでることになる。DNAは違うけどね。


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