見出し画像

【115日目】未来と過去

ご隠居からのメール:【未来と過去】

令和三年八月三十一日ーーたった二ヶ月先の未来の予測に確信が持てないのは困ったものだ。一応予測してみる。

オリンピックで人流が増加したことにより、感染再拡大が再燃し、東京都の一日あたり感染者数は1000人前後、死者数は一桁で推移している。緊急事態宣言は発出されていないが、まん延防止特別措置が継続している。ワクチン接種が広がり、重症化が少なく、医療ひっぱくは緩和された。この程度の見通しなら甘いといわれるかな。原稿のエンディングにしてはパンチが弱い。

一方、過去の歴史は調べれば調べるほど、事実の核心に迫っていくような気がする。明治三十八年九月五日、ポーツマスで日露戦争の講和条約が締結され、ロシア政府は遼東半島租借地および長春ー旅順間の鉄道を清国政府の承認を得て日本政府に譲渡することなどを認めたが、条約の内容を知った日本国民は激昂し、日比谷焼き討ち事件などを起こした。

第一次世界大戦への参戦を推進したのは大隈重信内閣の加藤高明外相だが、この戦争を日本の危機を将来するものとしてとらえる冷静な政治指導者もいた。原敬政友会総裁である。

大正四年一月八日 対華二十一カ条要求(第二号は旅順・大連の租借地権、南満州鉄道の租借期限を九十九カ年延長することなど満蒙における日本の権益強化に関する七ヵ条)――日本外交史上の中でも大失敗といわれる。原がおそれるアメリカからも抗議がきたが、大隈重信が率いる日本政府は要求を減ずる形で五月七日に最後通牒をつきつけた。五月九日、中国は要求を受け入れた。後にこの日は、国恥記念日とされた。

一九一七年八月二日、寺内内閣ひきいる日本はシベリア出兵宣言をした。推進者は伊藤己代治、出兵に反対したのは原敬。

歴史のifを言ってもしかたがないが、原敬が暗殺されていなければ、満州事変はなかったかもしれない。


返信:【Re_未来と過去】

過去の歴史は、結果を知ってる未来人の特権だよね。例えば、「毛利輝元は何故、大阪城から出陣しなかったのか」「毛利がちゃんと戦えば西軍が勝利した」というのは、結果を知ってる未来人が言えること。

でも、当の本人は、徳川につくか石田につくか、豊臣との関係性含め大いに迷ったと思うし、戦の展開を応仁の乱のように10年くらい続くと予想していたとしてもおかしくない。まさか、1日で終わるとは。。。この未来を予想していたのは、徳川家康だけだったのかもしれない。

「日清戦争」の勝利や「日露戦争」の勝利が、自分たちの子孫を苦しめる太平洋戦争敗戦につながる未来になると予想した人などはいないかもしれない。でも、それを予見していたのが原敬さんなんだね。政治に武力で対抗した時点で、日本の敗戦が決まったのだろう。中岡艮一は、「安政の大獄」で井伊直弼を殺害した水戸浪士にでもなった気分なんだろうか。

それでも、最前線で戦った、守登おじさんさんや菊二さんおじさんたちは、平和を望み自分たちの命を懸けて未来をつくった。現場で未来を創ってる人の意見がやはり、1番大切だ。五族協和の理念は悪いことではないと思う。差別や格差なく子孫が平和に過ごせるのであれば、、やはり、大切なのは「自分は何故生まれ、何のために生まれてきたのか」ということだな。


<<<次回のメール【116日目】自分は何故生まれたのか

前回の話【より道‐38】語られない日中戦争_蒙彊と張家口①>>>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?