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■【より道‐34】知られざる亡国_幻の満州国①

幼いころから、「父は満州で生まれた」と聞かされてきたけど正直ピンとこなかった。満州がどんなところかもわからないし、1939年(昭和十四年)がどのような時代だったかも想像がつかないからだ。

そのようなことを父に話したら、1970年(昭和四十五年)に日活が制作した「戦争と人間」の存在を教えてくれた。この戦争映画は1928年(昭和三年)の「張作霖爆殺事件」から1939年(昭和十四年)の「ノモンハン事件」までの出来事を全9時間以上、3部作でまとめた超大作だ。

Amazonプライムを検索するとでてきたので毎日少しずつ観ることにした。感想は、日本人の残虐性を誇張した、自分たちが教えられてきた敗戦教育の様子が、ある意味よくわかる映画だった。

それでも満州国の様子が描かれていたので当時の様子を想像することができた。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは、あのような街で生活し父が生まれたのだなと思うと、少し感慨深くなる。せっかく、このようなことを知ることができたのだから、このご縁を大切にしようと思い、満州国についてもう少し調べてみることにした。


【幻の満州国】
日本は、1905年(明治三十八年)の日露戦争に勝利したことで関東州(満州)地域の租借権そしゃくけん(領土を借りる権利)と朝鮮半島への優越権、東清鉄道における南満州支線・鉄道付属地の租借権、そして、南樺太を得ることになりました。

「鉄道付属の租借権」というのがポイントのようでして、当時は大連だいれん奉天ほうてん長春ちょうしゅん哈爾濱はるぴん、などの主要駅がある街全体を「鉄道付属地の租借権」という理由で日本の国有企業「南満州鉄道株式会社」が自らの所有地として開発したそうです。そのため「南満州鉄道株式会社」は、鉄道経営だけでなく炭鉱や農地、商事の経営、教育機関や研究所まで所有するようになりました。

1907年(明治四十年)には日本政府の正式な行政・軍事機関として関東都督府かんとうととうふが設置されて、1919年(大正八年)には、満州鉄道の守備隊が、関東軍とよばれる正式な軍隊になりました。

1932年(昭和七年)満州国が成立します。お祖父ちゃんの與一さんと、お祖母ちゃんの貴美子さんは1935年(昭和十年)にお見合い結婚をしているので、この頃に新大陸である満州国に移住したと思われます。

日本政府は、満州に日本人をどんどん移民させることで、事実上日本の領土にしてしまおうと企てていました。20年間で100万戸・500万人を移住させる計画です。

1933年(昭和八年)に、最初の移民団として独身男性500人が小銃・手榴弾を持参して送り込まれたそうです。これは、匪賊ひぞく、もともとは、張作霖ちょうさくりんの息子、張学良ちょうがくりょうが率いた東北軍と呼ばれていた人たちが出没するためと言われています。

しかし、開拓民に割り当てられた土地は未開拓の土地で冬は零下30度まで下がる極寒地帯も多かったそうです。たしか、父の故郷、岡山県神郷町高瀬の隣村、日南から、多くの住民が満州開拓民として移民したと聞いたことがあります。

満州国のスローガンは、「五族協和の王道楽土」日本人、満州人、漢人(中国)、朝鮮人、モンゴル人が協調して暮らせる国として、西洋の武力による統治ではなく、徳による統治(王道)により、アジアの理想郷を目指すという願いが込められていました。

満州国の人口は、1940年(昭和十五年)で4323万人。そのうちの4%が日本人だったそうなので、約160万人ほどが移住したといわれています。言語は、日本語と中国語を合わせた「協和語きょうわご」という「ピジン語」を使用していたそうです。小さい頃「ワタシ中国人アルヨ」と、石ノ森章太郎さんの漫画「サイボーグ009」に登場する火を噴くサイボーグ・006の張々湖ちゃんちゃんこが話している様子を読んだことがありますが、あれは「協和語」だったと今回初めてしりました。

満州国の成長戦略として「満州産業開発五ヵ年計画」というものがありました。これは、日産コンツェルンを丸ごと満州に移転させて重化学工業の一元管理をはじめたそうです。

あとは、やはり「南満州鉄道株式会社」が満州国の成長に大きく寄与します。鉄道・港湾・炭鉱の三大事業を独占し1935年(昭和十年)には、ロシアが設置した東清とうしん鉄道も譲渡されます。さらには、「満州空港」や「大連汽船」などの交通網も整備し移民や軍人、物資などを運びました。

しかし、交通網といっても満州国が「どのくらいの領土なのか」ということがなかなかイメージが湧かないのでGoogle Mapで調べてみました。

南満州鉄道は、日清・日露戦争で激戦地区となった、旅順港のあるの「大連」から、約460キロ離れた場所、現在の北朝鮮の北あたりにある「奉天ほうてん(現:瀋陽しんよう)」につながり、そこから北東300キロほどに、満州国の首都「新京しんきょう(現:長春ちょうしゅん)」につながります。さらにそこから、300キロほど北東に、父の生まれた哈爾濱はるぴんがあるそうです。

当時の特急列車には、日本人がアメリカで学び設計した「あじあ号」などが代表的で、食堂車がついているなかなか立派な機関車もありました。

お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、お父さんが住んでいた、哈爾濱は、もともとロシア人が侵略して開拓した都市だったので、西洋風の建物が多かったらしいです。その後、満蒙開拓移民団が移り住んだ僻地「チャムス」と呼ばれる場所には、東満州の農作物が集まり日本人街が多くあったといいます。

しかし、冷静に考えると、ロシア(ソ連)に隣接している哈爾濱はとても危険な街のような気もします。当時、25歳のお祖母ちゃん、貴美子さんと1歳の父の生活は、一歩外にでると、中国人や朝鮮人、モンゴル人、ロシア人などさまざまな民族が街にあふれていたようです。

街をつくり、国をつくる段階だったので、活気に満ちていたと思いますが、優遇されていた日本人に対する目は厳しかったと言われています。


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