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【157日目】塩冶氏

ご隠居からのメール:【塩冶えんや氏】

うん、面白い展開だ。ファミリーストーリーのつながりと筋道とがかなりはっきり見えてきたような気がする。

尼子経久あまこつねひさが出雲西部に勢力をもっている塩冶えんや氏を配下に取り込むべく興久おきひさを養子にしたというので、塩冶氏をWikipediaを調べたら、塩冶氏は京極氏の一派、宇多源氏うだげんじ佐々木氏流で、近江源氏の分流、出雲源氏の嫡流だそうだ。京極氏と塩冶氏は一体、京極氏と六角氏は親戚とみてよいのではないか。
 
>1530年(享禄三年)に興久が経久に反乱を起こしたのは、単に所領の問題
>だけではなく出雲国を二分した尼子氏と塩冶氏の全面対決が背景にあるよ
>うだ

京極氏が出雲の守護のとき、尼子氏は守護代。したがって、これは下克上の典型的な例だね。興久が塩冶氏の養子になったのは父親の経久によって下克上の手駒の一つとして利用されたという印象を受ける。山内氏の娘と結婚させたのも備後北部にまで同盟勢力を拡大させるのが狙いだろう。

>驚くべきことに1533年(天文二年)に経久が新見氏へ備後遠征に伴う出兵
>を求めている書状があるそうだ。

参考のため、中村整史朗の小説『尼子経久』で描写されている該当箇所を転写しておく。

経久が大内義興を討つべく行動を開始したのは、永正十四年(一五一七)
の初冬、十一月である。経久直率の尼子軍の精鋭は富田城を発し、途中、麾下の国衆の部隊がこれに合流、中国山脈を越えて南下し、備後山内(庄原市)に進出した。

この歩武堂々と進む尼子勢の軍容のさかんなさまを見て、備中・備後両国の
中小の国衆は震えあがった。彼らは戦わずして、ぞくぞくと尼子傘下入りを願ってきた。それらのなかには、備中でかなりの勢威を誇っていた新見国経もいた。新見国経は経久の前に伺候し、

「尼子のために犬馬の労をいといません。何なりと仰せつけていただきたい」と申し出た。

経久はにこやかな顔で言った。「それは、それは。恐縮いたします。では、せっかくのお申し出ですから、すこし東のほうへ進んでもらいましょうかの」
 
「東と申されると、美作でござるか」

「さよう。切り取って貴殿の所領に加えられるがよい」

国経は経久の意外な言葉に驚いた。尼子の総大将のやさしさに、である。彼は、服属したからには過酷な命令を覚悟し、それを甘受しなければならないと思っていたのだ。だから、驚くと同時に感激もした。感奮興起した国経は、ただちに手勢を率いて美作国に攻め入り、たちまち数ヵ庄を切り取り、そこの豪族を帰服させている。

この国経の扱いに見られるように、経久は戦わずして帰属を申し出た国衆に対してはつとめてやさしく遇した、このため、 ーー尼子の総大将は、寛仁大度せある。という噂が備中、備後、さらには安芸にまで広がった。

尼子経久


1517年(永正十四年)にはやさしい顔をした経久が、1533年(天文二年)にはコロッと態度を変えて、備後出兵を要請してくるとはおそろしいね。これでは備後・備中の国人たちは生き残るのが難しい。

>山内氏は存続し、その後、毛利氏の家臣として最高家柄の寄組として萩へ
>一緒に移っている。

国人たちの運命はきびしそうだ。時うつり、幕末になった時点で、毛利藩から長氏や山内氏で活躍した志士はいない。備後の国人たちへの毛利氏の処遇は、あきらかに井上氏や桂氏の処遇とは違う。存続できたにしても生かさず、殺さずの扱いだったにちがいない。


ご隠居からのメール:【Re_塩冶氏】

長谷部家の「家系図」には、長谷部元信の曾祖父の姉か妹が京極氏の正室になっている。そして、長谷部元信の父、長谷部元秀の注記に大内義興おおうちよしおきが上洛した時に備前国小嶋庄賜ると記載があるので、1511年(永正八年)「船岡山の戦い」の報奨としてもらったのだろうか。

とにかく、山名氏や京極氏、大内氏に仕え、最後は毛利氏の手駒になっているので中国地方を制している大名の懐には毎回入っているね。

京極氏と塩冶氏が一体なのであれば、1530年(享禄三年)に興久を支援してもよさそうだが、そこから、なぜ「尼子の落人」となるのだろうか。山内氏が「からかさ連判状」に署名していないのは、尼子氏と毛利氏両家に通ずる国人だったためという記事をみた。

長谷部元信は、このとき尼子氏を裏切り毛利氏に寝返っている。

毛利氏と共に下剋上を果たすべく、1555年(弘治元年)「厳島の戦い」ではすえ軍三万人に対し毛利軍は5千人だ。大戦果をあげたにも関わらず、毛利元就は長谷部氏を厚遇しなかった。

その後、何の所領も分け与えてもらえなかったのに1557年(弘治三年)「からかさ連判状」に署名している。同等同格を表す円形にしたのにもかかわらず、毛利氏の勢力だけが拡大されていく。備後の「からかさ連判状」は、後に破棄されているようだ。


話は変わるが、長谷部氏につながるあらたな情報。1523年(大永三年)安芸国で起きた、尼子氏・毛利氏連合軍VS大内氏の「鏡山城の戦い」で大内氏側として戦った「蔵田氏」の始祖が長谷部信連と伝えているブログをみた。更に、そのブログの質問欄に以下コメントがあった。

↓↓ブログコメント↓↓
長氏の祖の長谷部信連が配流された鳥取県日野町の町史編纂委員をしています。当地の残留長谷部子孫の家系図では、信連は桓武平氏の一派三浦氏であり、三浦義明の五男義季が後に改名したことになっています。穴水長氏の長家家譜では遠江国長邑において長馬新太夫為連の子として生まれたとされますが、その先祖は清和源氏の源満仲という説もあり、誠に不可解です。

安芸西条は信連が日野から安芸国検非違使として再起した所で、いずれ調査したいと考えていますが、府中市上下町から萩へ移住した長氏一族(先ごろ上下町は訪ねました)も視野にしれています。

お尋ねしたいのは、蔵田一族など中国各地に散った長氏の家紋が「九曜紋」なのかどうかです。日野は九曜紋、穴水長氏はなぜか銭九曜です。家系関連で申せば、ます。もし、この点でご存知のことがありましたらご教示いただけないでしょうか。

桓武平氏の流れには、千葉氏、三浦氏、長谷部氏とつながっており、千葉氏の家紋は九曜紋だ。「源平合戦」に参戦しなかった長谷部信連が、以仁王もちひとおうを救った褒賞として能登国大屋庄を賜ったのであれば、平氏ブランドよりも、源氏ブランドのほうが生きやすい。世は鎌倉の時代だからね。

さらには、源氏説でいわれている父親・為連の「為」の字は、三浦氏の氏祖である三浦為通みうらためみちから続く「偏諱へんき」なのではないだろうか。

長谷部信連は、能登の地で新たな人生を送るわけだから、九曜紋の丸の中に銭を入れて、銭九曜紋にしたのだろうと個人的には思っている。

それよりも、蔵田氏が大内氏に従って戦ったというほうが興味がある。どこかで、蔵田氏は、室町幕末から戦国期にかけて袂を分けた一族だということだ。

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