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【66日目】 日本に帰りたい

ご隠居からのメール:【日本に帰りたい】

絢子さんが溺れた海の件、鎌倉ではなく、須磨か舞子だったかもしれない。書簡には記載はない。舞子には伊丹さんの家がある。

貴美子さんのストレスは想像にあまりあるが、素さん、はるさんのストレスをなんとか慰めようとしている。今でいう癒やし系の人だが、肝心の癒やし系の人まで死んでしまって、素さん、はるさんの嘆きは拡大される。悲運の一家を支えたのは京大理学部を優秀な成績で卒業し、石原産業に入社した兄の弘さんだ。

弘さんの息子徹さんが東京医科歯科大学文学部の学部長に推薦された時、それを断って、ロンドンに遊学したと告げると、「伯父さんと同じことをやってしまった」と塩田雅子さんは嘆いた。その通りだとすると、弘さんや徹さんにもノモンハン戦争の影響が及んでいるといえるかもしれない。

喜久さんが高瀬に来たのは戦後日本の事情からいって食糧確保、特に米のためだろう。與一さんはすでに村長になっていたはずだが、高瀬の人々はいしさんやつねさんをはじめ、元来がお人よしの親切な人たちだから、貴人をもてなすように親切に対応したことと想像する。


返信:【Re_日本に帰りたい】

弘さんが、佐藤家の養子になったのは、いつのころなんだろう。昭和十五年(1940年)で、貴美子さんは、25歳か26歳。 昭和二十年(1945年)は、
日本が敗戦し食糧難で喜久さんが高瀬に来ている。喜久さんは、伊丹家だけでなく、岡村家にも食料を支援していたのでしょう。

昭和十五年から昭和二十年にかけて、建物疎開で岡村家は、どこかに避難しているはず。百合子さん、潔さんと一緒に。弘さんは戦地にいったのだろうか。このあたりを紐解けば、弘さんが佐藤家に養子となった理由が見えてくるのではないだろうか。

ちなみに、旧岡村家の目の前に木戸孝允が住んでいたようだ。時代は違うけど、由緒正しい土地柄だね。

手紙では、二人とも元気になってよかった。大同から、天津までは500キロくらい。そこから、船で何日かかるのか。。一人、身重でかつ小さな子を連れて帰るのは、不安だけど、それ以上に帰りたかったんだろうね。


本投稿には、昭和十四年〜十五年にご隠居さまの母であり、自分の祖母である長谷部貴美子さんが、満州国哈爾濱、中国大同及び張家口から京都在住の母との手紙のやり取りを現代語に訳した内容を掲載しておりますが、この「note」掲載の本来の目的は、あくまで、子孫たちへファミリーヒストリーを伝えるための記録として利用させていただいております。手紙の内容は、ご本人のプライバシーを考慮して閲覧制限させていただきますことをご了承いただけますと幸いです。
書簡集(※題名は筆者が命名)

● 書簡001_令和三年(2021年)二月:喜久子(享年102歳)永眠の知らせ
⇒塩田雅子(喜久子:娘)からご隠居(貴美子:息子)への手紙
● 書簡002_令和三年(2021年)二月:叔母様(貴美子)の手紙を送ります
⇒塩田雅子からご隠居への手紙
● 書簡003_昭和十四年(1939年)十一月十六日:新天地到着のご報告
⇒長谷部貴美子(ご隠居:母)から岡村はる(ご隠居:祖母)への手紙
● 書簡004_昭和十四年(1939年)十一月二十日:大同での新生活
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡005_昭和十四年(1939年)十一月二十日:大豆の研究について
⇒長谷部輿一(ご隠居:父)から岡村素(ご隠居:祖父)への手紙
● 書簡006_昭和十五年(1940年)一月六日:新年のごあいさつ
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡007_昭和十五年(1940年)二月一日:幸せな新婚生活
⇒長谷部貴美子から伊丹喜久子(貴美子:妹)への手紙
● 書簡008_昭和十五年(1940年)五月二十七日:悲しみの訃報
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡009_昭和十五年(1940年)六月二十日:日本に帰りたい
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙

● 書簡010_昭和十五年(1940年)六月:里帰り出産
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡011_昭和十五年(1940年)七月:もうすぐ帰ります
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡012_昭和十五年(1940年)八月九日:帰郷中止のお知らせ
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡013_昭和十五年(1940年)九月一日:張家口での新生活
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡014_昭和十四年(1940年)十二月:結婚のお祝い
⇒長谷部貴美子から伊丹喜久子への手紙


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