■【より道-14】松田伝蔵
神奈川の宮前区と千葉の浦安は、車で1時間ほどの距離だ。父と母も高齢だし、子供たちも、どんどん成長するので、なるべく実家に帰る機会を増やしたいが、コロナ禍で県外移動自粛を求められ、その希望も叶えることができない。
とはいえ、父と母には定期的に会いに行く必要があると思っている。しかも、父とは、今回のプロジェクトについて、日々のメールだけではおさまらない、つもる話しがたくさんある。そこで、妻と子供達に留守番を頼み、自分ひとりだけで実家に帰ることにした。
浦安の実家に帰ると、待っていたとばかりにご隠居とファミリーヒストリーの話が弾む。そんななか、ご隠居がある資料を渡してきた。その内容は、「西村伝蔵」さんという方の記事だった。
「この人は、松田(西村)伝蔵さんといって、高瀬にある我が家(長谷部家)の隣に住んでいた、松田家の人間で長谷部家の養子だった人なんだ。曾祖父の友治郎さんと、曾祖母のいしさんには子宝が恵まれず、幼少の頃の俺の祖母、津弥さんを養子にとった。そして伝蔵さんは津弥(ツネ)さんの許嫁だったようだ」
「へー、そうなんだ。そんなことどうしてわかったの」
「オレは全く知らなかった。都立図書館にある『神郷町史』をみてオレが見つけたのだ。恐らく神郷町長だった、父親の与一さんが隠していたのだろう。小さな村では、これは家の恥じをさらすことになる。しかし、歴史書に残ってるほどの宗教家となった伝蔵さんについて、我々は知る必要があると思っている」
【新郷町史】
松田伝蔵さんは、明治二十年(1887年)に松田家の五男として生まれ、土地の豪農長谷部家を継ぐべく、同家に入り、養父友治郎に従い、未来の妻と定められた養女津弥さんと共に農業の仕事を習った。
長谷部家の養子となって、その家族を守っていけば、もとより食うに困るような家ではなく、この村においてはまず、上流の農家として人の羨むほどの身分である。しかし、それだけに甘んじることが、果たして男子の本懐であろうか。
「財において、三井・三菱と肩を並べるほどであろうとも、それは人間の価値というものではない。況や人の成し遂げた在を継いで、それが何の価値があるのか」
養父友治郎氏は、たいした学問もなく、伝来の家族に満足し晩酌の一杯も傾ければ、それで天下太平という男だった。伝蔵はその様子をみて
「わしもあのようになるのだろうか。だが、あのようにはなりたくない。もっと大きい使命があるに違いない」と思っていた。ある夜、彼は、養父母と許嫁に決別を告げ郷関をでた。
その後、興譲館中学校に編入学し上京。「貧しいもの、弱いものの味方になって、世を救い、理想の社会を築きたい」という悲願を起こし宗教家となり、やがて金光教に入信し活動をつづけた。
だいぶ要約したが、この記事を読み、思ったこと。それは、松田伝蔵さんが大志を抱き村を出る決断をしたことにより、曾祖父勝次郎さんが長谷部家の養子となり、津弥さんと結婚する。そして、ご隠居や自分は命を授かった。あとは、友治郎さんが大酒飲みだったことに、なんだか親しみを感じた。
友治郎さんが生きていた150年後に長谷部の名を継いでいる自分がご先祖様の人柄を知ることができるなんて。なんて、ありがたいことなんだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?