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【330日目】:老いない力

ご隠居からのメール:【老いない力】

病気は老化現象かというと、必ずしもそうではない。老化が進行しても病気にならない人もいる。

そういえば、『老いない力』という本を読んだことがある。作者はデビッド・A・シンクレアとマシュー・D・ラプラント、訳者は梶山あゆみ、原作のタイトルは、『LIFESPAN Why we age--and Why We Don't Have to,』

LIFESPANとは人生の長さ、つまり寿命という意味だから、「老いない力」は確信犯の誤訳だ。人間は誰でもいつかは死ぬのがサダメーー「老いない力」なんかあるものか。

ところが、本書を読んでみると、老化は病気だというのが著者たちの主張だ。老化には進行の速度や程度に個人差があることに注目すれば、要するに、健康寿命をのばせばよい。健康寿命がつきたときが寿命だ。それまで、健康寿命をのばせばよい、という考えである。

日本人男性の平均寿命は81.25、健康寿命は72.14。私の満年齢は82歳だから、平均寿命も健康寿命もすでに超えている。そんな私に「老いない力」はない。あるとすれば、「老いる力」か「老いに耐える力」、そして「コロナと共存する力」「コロナに耐える力」だろう。

どうすれば、老いに耐える力と病気に耐える力をつけるかが、健康寿命が尽きてロスタイムに入り、今や闘病中につきつけられたきびしい課題である。


■現太平記

>>今回、プーチンはアメリカはじめ西欧諸国に対して怒り、挑発にのって
>>しまった。ハルノートを思い出すね。日本も挑発に乗りやすいタイプを
>>指導者にしてはいけない。おかれている状況は違うけど、江戸幕末の徳
>>川慶喜の英断は本当にすごいものだっね。

その点をは論点としてとりあげた「道しるべ」には先見性がある。

>>今回の戦争で誰が得するか考えると、共産主義の大国がなくなるのは、
>>アメリカ、西欧諸国にとってプラス

誰が損をしたのかを考えると、一党独裁の共産主義者。タテマエは平等だが、ホンネは個人の専制独裁を招きやすい危険な政治体制であることを全世界の人々が学んでしまった。


■太平記

船上山で討ち死にした長谷部信豊のぶとよが反幕府、反荘園体制をとる「悪党」だったというのはあり得る仮説だね。しかし、まったく無名の歴史的人物だ。

仮説は仮説でしかないが、歴史ロマンは父子がメール交換を通じて謎解きをしていき、徐々に真相に迫っていくという物語だから、資料を積み重ねて推理することによって、米原氏と米原市との関連付けのような発見につながるかもしれない。

吉川英治【私本太平記】によれば、御醍醐上皇が「船上山の戦」に勝って、京へ還幸かんこうする行列で、金地大和守は錦の御旗を奉持し、伯耆守名和長年は、帯剣の役をつとめたという。いずれも名誉第一の役目だった。

討ち死にした長谷部信豊のぶとよは行列に参加できなかったが、もし魂魄こんぱくが残っていたら、金持景藤かげふじや名和長年ながとしと並んで誇らしい気分に浸っていたことだろう。


返信:【Re_老いない力】

じぶんも、いつのまにか「老いる力」に抗って、「老いない力」を身につける努力をしているかもしれない。

週末はジョギングをして水泳やゴルフをする。会社への出退勤時には三駅ほどの距離を骨盤で歩くように意識している。夜中の公園で鉄棒にぶら下がり肩と背筋の強制をする。それでも「老いの力」は強いので、加圧トレーニングでもはじめようか悩んでいる。

薄毛には、AGA治療のクスリを毎日のみ、平日の夜は食事と酒を抜く。歯医者には三カ月に一度通い入れ歯予防のため就寝時は、マウスピースをはめている。日々のルーティーンがいつのまにか、「老いない力」を身につける行動になっている。

こんなことを一生懸命していても、明日死ぬかもしれない。であるなら、好きなことを好きなだけやった方が良い。なので、週末は、昼から酒を飲み、好きなものを食べる。やはり、「ロクデナシと聖人君子」のバランスが重要だな。

専制政治は、よほど優れた人格者、それこそ、聖人君子が治めない限り、自国の民たちを苦しめる。先祖から続く権利や領地、自国民を守るために武力でミエをはるわけだが、挑発にのり攻撃をしかけ、命を奪った側が悪者になる。

中世の時代、「悪党」と呼ばれていたひとたちは、鎌倉幕府のいうことを聞かず、自らの領地を自らのチカラで治めていた人たちのことだ。幕府からすると「悪党」なのかもしれないが、「お前ら何もしないだろ、偉そうにするな」というのが、言い分だ。決して他者へ武力を屈指する者ではない。

長谷部信豊のぶとよさんは「船上山の戦」で後醍醐天皇を支えて戦ったのであれば、どう考えても、名和氏、金持氏と行動を共にしたという推理になる。

そして「建武新体制」になったのはいいが、一族の当主が討死したのにも関わらず、恩賞をケチられたので、山名氏などとともに、足利氏に従属したのではないかね。

このあたりは、もう少し学ぶ必要があると思うけど、そもそも、両統迭立りょうとうてつりつで、後醍醐ごだいご天皇が正統な後継者を主張している根拠もわからないし、この頃の武士たちは、持明院統じみょういんとうだろうが、大覚寺統だいかくじとうだろうがどちらでも良かったのではないのではないかね。

南北朝時代が終わり「明徳の乱」で山名氏が衰退すると、長谷部氏は、京極氏との関係が強くなるが、「応仁の乱」を経て戦国期に突入する。

大内氏、塩冶氏、山内氏、新見氏、毛利氏、尼子氏の間での立ち居振る舞いの結果、名は長谷部と称し、家訓には「尼子の落人」という矛盾した言い伝えをひっそり残しながら農民となり、現在に至る。

どちらの勢力につくかというのは、とても重要で、現代でさえも連合国と枢軸国に分かれる。どちらが勝利するかは、わからない。専制主義か民主主義か。

それでもロシアや中国、北朝鮮は、自らの手で王朝を滅亡させたのに専制主義を主張していることに矛盾を感じるよ。


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