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【331日目】:もしかしてフレイルかも・・・?

ご隠居からのメール:【もしかしてフレイルかも・・・?】

新聞のちらしとともに配達されてきたパンフレットの文章が目にとまった。「もしかしてフレイルかも・・・?」というタイトルである。

フレイル(虚弱)かどうかの見分け方には5項目のチェックポイントがある。これらのうち、3つあてはまればフレイルの状態だ。

・体重の減少
・歩行速度の低下
・握力の低下
・疲れやすい
・身体活動性の低下

これらのチェックポイントのうち、3つあてはまればフレイルの状態だという。私の場合も、体重の減少、歩行速度の低下、身体活動性の低下という3項目はあてはまる。しかし、見かけは元気にみえるので、介護認定を受けても、おそらく要支援、要介護の危険が高い状態とはみなされないと思う。

一応、今のところは、プレフレイル(虚弱前期)であり、今後もなるべくプレフレイルであり続ければ、よしとしなければならない。



◼️中世太平記

鳥取県は横に細長く広くひろがっていて、伯耆の東に因幡という国がある。「船上山の戦」で、長谷部信豊のぶとよの遺族が名和長利ながとし、もしくは金持景藤かげふじから隣の領地倉吉くらよしを貰ったというのが事実だとすれば、日野長谷部氏とは別系統の因幡・但馬の長谷部氏の存在もが考えられるのではないか。

以前に『乱世を看取った男 山名豊国とよくに』という本を紹介した時、長高連という武将の名前があった。

戦国時代末期の武将としては、備後の長元信もとのぶよりも但馬・因幡の長高連たかつらの活躍のほうが目立っていたかもしれない。小説では長高連たかつらの娘が山名豊国とよくにの側室になっている。

そこで、疑問は長谷部信豊のぶとよのDNAが長高連たかつらのほうに伝わっているか、長元信もとのぶのほうに伝わっているか、それとも両方に伝わっているのか、それを解明するのはこれからの課題だ。

備後の長新五郎信吉のぶよしは、なじみのない名前だが、元信が北朝側で戦っているのだから、よほどの変わり者でない限り、元信と行動を共にしていたと思う。

また、同時代に活躍した能登の武将に長続連や長連龍がいる。こちらは長谷部信連のぶつらの直系だ。長元信もとのぶのDNAは伝わっていないだろう。



返信:【Re_もしかしてフレイルかも・・・?】

まあ、後期高齢者なのだから、身体は弱っているでしょう。それは、仕方がないね。そのうち、介護認定されるかもしれないけど、毎日、美味しいものを食べて、適度な運動と睡眠をお願いします。


さて、山陰の長谷部氏は、伯耆日野からはじまり、隣りの領地倉吉を「船上山の戦」で名和長年ながとし、もしくは金持景藤かげふじからもらい、1336年(延元年)の「建武新政」の崩壊で備後上下の矢野庄を得たようだ。

「続日野郡史」によると、備後系の長氏家系図では、長新五郎信吉が、「船上山の戦」に参戦して1340年に上下を賜るとある。どの情報が正しいかわからないけれど、「建武の乱」時に、足利尊氏たかうじ側についたことは間違いなさそうだ。

現在の【より道】王政復古の野望シリーズには、狙いがある。それは、「応仁の乱」の解明だ。少なくとも、足利一族の細川氏、斯波氏、一色氏、それに、足利尊氏の従兄弟である山名氏と足利尊氏の朋友、佐々木氏。また、後醍醐天皇から冷遇された赤松氏との関係性、などが少しわかっただけでも十分収穫があったと思っている。

日本の歴史を振り返ると、鎌倉時代に武家政権が成立してから、江戸幕府が開かれるまで、ずっと内乱が続いてきたことがわかってきた。もっというと、明治維新後の戊辰戦争まで、いや、西郷隆盛の南北戦争が終結し、国外に敵ができるまでは、ずっと国内の権力争いが続いてきた。

しかし、現代では、直接的な武力ではなく、言論という武力をつかって、権利争いをしている。しかも、ありとあらゆる政治のチカラをつかって。日本の「政」は、「祭りごと」と習った。だから、神道で天皇陛下は、年中、祭神として祭りを行なっていると。

長い期間を経てつくりあげた、国体のあり方を急激にぶち壊すことは、とても危険だと思ったよ。下手をしたら再び長い内乱が続いてしまう。やはり、専制政治には賛同できないな。

建武新政権についても引き続き学んでいるが、複雑な権力争いなどをうまく表現するには、どうしたらよいか。「バカの壁」を取り除いて伝えるにはどうしたらいいか悩ましい。ただ、ここを乗り越えることができれば、目的とする肝心な「応仁の乱」の謎が解けるようになるはず。


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