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【76日目】新墓地と古墓地

ご隠居からのメール:【新墓地と古墓地】

「山室家は徳川期から苗字をもった家柄であったことは、現存する先祖歴代の墓碑銘によっても明らか」と三吉明『山室軍平』にある。では、長谷部家の墓はどうかというと、與左衞門さんや弥左衛門さんの墓には長谷部の苗字がついていたと思う。少なくとも、江戸時代末期には、「苗字帯刀を許されていた」と称していたらしい。

記憶をたどっていくと、墓地は二箇所に分かれ、その間に谷川が流れていた。家の裏の竹藪の手前にあるのが古墓地で、山坂をあがった高いところにあるのが新墓地だった。尼子の落人と呼ばれる御先祖様の苔むす大きな石の墓は古墓地にあり、與左衞門や弥左衛門さんの墓は新墓地にあった。もちろん、與一さん、貴美子さん、早苗さんの墓も新墓地にある。山坂はかなり急な勾配で、冬は竹スキーをすべらせてよく遊んだものだ。

ところが、家を解体した跡地を訪れると、新墓地と古墓地が一緒になり、区別がつかなくなっていた。なぜか、谷川の流れも山坂も消えていた。竹藪も姿を消してしまったようだ。人が住まなくなると、地形も変貌してしまうのだろうか。古墓地の墓にも碑銘のある墓もあり、年号でいちばん古い時代のものはたしか享保年間だった。徳川八代将軍吉宗の頃の墓だ。

亀三おじさんが亡くなった後、昔のことを覚えている者はもうこのご隠居さんしかいない。ゆみ子さんもすっかり忘れているだろう。しかし、「妄想ドラマ」で、明治維新の頃を想像すると、八歳位の友次郎さんと安次郎さんが魚釣りや竹スキーで仲良く遊んでおり、それを見守っている弥左衛門さんやふゆさんの姿が浮かんでくる。

小道から大道に出るあたりに大川が流れ、その上に橋がかかっていたのを覚えているかい? あの橋は「友石橋」と呼ばれていた。友次郎さんといしさんがつくった橋だ。

なお、『山室軍平』には次のような記述もあり、メモしておく。「この時代、婚姻は家と家との格式によって階層が守られており、個人の意志などは、あまり配慮されなかった」。善右衛門とふゆさんの婚姻の背景を知る上で参考になるかもしれない。、


返信:【Re_新墓地と古墓地】

高瀬の様子は、 断片的にしか覚えてないが、友石橋は、なんとなく覚えてるよ。裏の竹薮と谷川で釣りをした記憶もある。ただ、お墓の記憶は、あまりないかな。石がたくさん並んでいたような気もするが。

結婚式のサプライズ映像を撮りに帰ったときは、渡辺玉智さんに、ハブがでるからと、お墓まで行くことを許されなかった。いつか、機会があればお参りしとくよ。

友次郎さんと安次郎さんの物語、いいね!。情景がおもいうかぶ。秋山真之や正岡子規と同年代だろうか。軍人さんに憧れる時代。高瀬を出ようと、思わなかったのかな。

やはり、喜代太郎さんは、何か凄いことを成し遂げた人のだろうなー。でないと、わざわざ、長谷部家の養子にしないよね。信谷家に婿入りした善右衛門さんを養子にして、長谷部家の家督を継がせてもいいのに、わざわざ分家させているしね。

あの亀三おじさんが「喜代三郎100年祭」として法事をするくらいだから、喜代太郎さんにも、なにか武勇伝があるんだろうな。しかも、娘のゆみ子さんを左トさん、喜代太郎さんの実家、福田家に嫁がせるくらいだからリスペクトが凄いね。


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