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【176日目】遠くの親戚より近くの他人

ご隠居からのメール:【遠くの親戚より近くの他人】

>>九月のスケジュールは少々時間をください

ーー了解。浅草寺は9月13日(月)までに申し込む必要があるので、なるべくならそれ以前に決めてくれ。 

日野長谷部氏と上下長谷部氏との関係は、例外的に長谷部絢光はせべあやみつのような宗教的な批判はあったが、日常生活のレベルでは、「遠くの親戚よりも近くの他人」ということわざの通りで、「遠くの日野長谷部氏よりも近くの新見氏(小堀三間城)」だったのではないか。

戦国時代や江戸時代に日野と上下との間で頻繁な交流があったとは思えない。まあ、子孫が生き残っているので、それでよしということだよ。 高瀬長谷部氏と高瀬松田氏との関係についても同じ事がいえる。

>>1566年(永禄九年)「月山冨田城の戦」で敗れた尼子氏の滅亡により、>>新見氏は、尼子氏に奪われた新見荘に戻ることを許されたと仮定する
>>と、このときに、上下の小堀三間城時代に世話になった長谷部氏の願い>>(秋末名、重久名を追い出し。松田氏を帰農させる)を聞いてあげたの>>かもしれない。もしくは、尼子再興軍が「上月城の戦」で敗れた1578年>>(天正六年)のときに手を差しのべたのかもしれないね。 

ーー1566年(永禄九年)の尼子氏滅亡とともに行動を共にした新見氏もいる。備後の小堀三間城ではなく、備中の杠城ゆずりはじょうの新見氏だ。つまり、この時点で、新見氏は毛利方と尼子方に分断されている。1578年(天正六年)の「上月城の戦」の時点では、新見氏も長谷部氏とともに、敵味方にわかれて同族相闘う関係になっていた。

>>しかし、繰り返しになるが、松田氏に対してそこまでやるには義理が必要だ。

ーー義理は地縁によって育まれる。遠くの親戚より近くの他人。 

このような事態を回避するには、直系家族や核家族の観念ではダメだ。以前に多様性調和家族という新しい家族の在り方を提案したが、このネーミングではちょっと長すぎる。(ゆるやかな結びつきによる)共生家族というネーミングはどうだろう。

浅草寺詣りは、ご先祖さまのことを思い出す行事にしたい。毎年開催しなくてもよい。五年に一度か十年に一度でもよい。


返信:【Re_遠くの親戚より近くの他人】

杠城ゆずりはじょうの新見氏(尼子方)は、1566年(永禄九年)に三村氏(毛利方)に侵攻され、落城しているようだ。その後、杠城は、三村氏が城主となっている。

すると、長谷部元信が、秋末氏、重久氏を追い出し、高瀬大原に松田氏の帰農を許したのは、三村氏ということになる。上下新見氏は、尼子氏が滅亡しても、杠城に戻れなかったんだな。 

一方、三村氏は、自分の父を殺害した宇喜多氏と毛利氏との和睦に反発し、備中兵乱が勃発。1575年(天正三年)に杠城が陥落し、三村氏は滅亡する。その後、毛利家の家臣、吉川系統の今田経高が杠城主となり、1600年の関ヶ原後、廃城となっている。

ということは、「上月城の戦」1578年(天正六年)の後、ご先祖さまが高瀬大原の地に落ち延びるためには、今田経高の目を誤魔化さなければいけない。上下新見氏が、杠城に戻り代官をしていたのなら、抜け道があるようにみえるが、新見荘のことを良く知っている新見氏が今田氏に仕えたのかもしれないね。

ふと、疑問に思うのは、日野長谷部氏、神官の長谷部氏は、ご先祖さまが「上月城の戦」で敗れ、落人となったときに手を差しのべなかったのは何故だろう。

これも、遠くの親戚より近くの他人かな。でも、それほど遠くないし、高瀬長谷部氏は毎回、日野から嫁をもらっているから日野下榎のサポートが戦前まで続いていたかもしれない。 

直系家族は、親と子が同じ屋根の下に住むということ。核家族は親とは別の家で暮らす家族のことだから、現代の二世帯住宅などは直系家族になるのかな。その中間は、信谷さんの家のように実家の近隣に住むことを指すのではないだろうか。

浅草寺の件は、了解した。ただ、個人的には「高瀬の墓」を何とかきれいにしたいと思っている。高瀬の地に月に一度くらい行ける体制をなんとか構築できないか検討しているよ。


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