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【147日目】家柄の格

ご隠居からのメール:【家柄の格】

その通り、姓は家柄の格をあらわしていた。少なくとも昭和二十年八月十五日までは。

日本の「家は、家業・家産・家名をもつ法人であった。今日の会社が人員の交替にかかわらず続いていくように、家は世代を超えて永続すべきものと観念されていた。家督による長子単独相続が基本であり、また、各世代の一組の夫婦が同居する直系家族世帯を理想の家族形態とした。(西谷正浩『中世は核家族だったのか』)。

先日、長女の夫の車で伊能忠敬の佐原へ連れていってもらった。領内においては代々「伊能」姓を許されていたが、領外ではこれを名乗ることができなかったという。この事例をみると、長谷部という姓も高瀬の村落では使用できても、村落外ではおおっぴらには使用できなかったのかもしれないね。

歴史が古いほど価値があると考えれば、山名氏や尼子氏より長谷部氏のほうが家柄の格が高いとは言えないとしても平等だとは主張できる。それなのに、あえて「尼子の落人」と称するのは、へりくだった姿勢を見せることにもなるかもしれないという気がしてきた。

>からかさ連判状には「長元信」上月城の猿楽能には「長谷部元信」と記
>載がある

これも面白い着眼だ。落城間近の上月城で猿楽能を楽しむ余裕があったのだろうか。しかし、上月城の戦の時点では元信は生存していなかったはずだ。


返信:【Re_家柄の格】

「氏」「姓」「苗字」「諱」「通称」は、時代とともに変化してきているようなので、とても難しい。長谷部信連を例にすると「氏」が桓武平氏、「姓」が長谷部、「苗字」が長、「諱」が義李、「通称」が長大左衛門信連になるのだろうか。現代とのギャップが大きいし、複雑なのでこのあたりが歴史ロマンのいち要素にもなるね。

「長谷部」と「長」の使い分けには、ひとつの仮説ができた。長谷部の姓は朝廷の所有物として与えられたものなので、武士と朝廷のはざまで使い分けていたのではないだろうか。

「たしかに、昔は、雄略天皇の物(部民)だったけど、いまは、違う。武士として長と名乗る」と、こんな気分だったんじゃないかね。

現代では、全国に2万人くらい「長谷部」を苗字として利用している人たちがいるようだが、サッカー選手の「長谷部誠」を筆頭に結構、活躍している人がいる。渋谷区長は長谷部だし、花王の社長も長谷部だ。ノモンハン戦争で責任をとらされた長谷部理叡大佐もそうだけど、長谷部が苗字の人は、みんなご先祖さまは繋がっているのだろうか。

1875年(明治八年)の「平民苗字必称義務令」で全国民が苗字を名乗ることになった。その時のルールはどんなものだったのだろうか。我が家は先祖伝来の「長谷部」を名乗ったのだろうけど、あえて創作苗字を届けた家もあるという。

嫡子単独相続、直系家族の歴史は、「応仁の乱」にその理由があるらしい。鎌倉時代から室町時代までは兄弟での分割相続が一般的だったらしいが、分け与える領地がなくなってきたことで、嫡子単独相続、直系家族の仕組
みを導入されたらしい。その変化の中で大きく揉めたのが、山名氏。

六分一殿と言われるくらい、足利氏よりもチカラをつけてしまった山名氏に、足利義満の策略で内輪もめが発生したそうだ。相続というのは、戦争が起こるほどの大きな問題なんだな。


<<<次回の話【より道‐49】六分一殿と呼ばれた山名一族の明暗

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