見出し画像

【62日目】大豆の研究について

ご隠居からのメール:【大豆の研究について】

貴美子さんから岡村はるさん宛の書簡と與一さんから岡村素さん宛の書簡を送る。昭和十四年には内地に一時帰国して、生後間もない初孫のお目見えをした後、大同に戻ってから郵送した書簡だ。

礼儀を失してはいないが、素さんからの申し入れに当惑して、腰がひけているような様子がうかがえる。素さんがクリスチャンだということはわかっていたが、旧教(カトリック)か、新教(プロテスタント)かはわからない。今回はじめて、救世軍に属していたことがわかった。

調べてみると、山室軍平の救世軍は同志社大学の生活科学研究所と何らかの関わりがあったらしい。岡村の家は京都市上京区小山中溝町三ー一の高級住宅地だったが、戦争末期、強制疎開で国に没収された。

救世軍は日英同盟が締結されているうちは日本政府との関係が良好だったが、日英同盟が廃止され、さらに山室軍平が昭和十五年に亡くなってから、救世軍の信者たちは迫害を受けた。

それはともかく、満州国を建国した石原莞爾将軍を尊敬する與一さんと山室軍平中将や夏目漱石先生(早稲田第一期生を指導した教師)を尊敬する岡村素さんとの間では意識のずれがかなりあったのではないかと思う。


返信:【Re_大豆の研究について】

貴美子さんが亡くなったのは、昭和15年11月8日だから、わずか、2週間後の手紙とは思えない。正しくは、昭和14年じゃないかな?京都の実家とはこまめに手紙でやりとりしていたんだね。

與一さんは、鳥取高専在学中、まじめな勉強ぶりで下宿先のおばさんに気に入られ、姪を紹介される。山室軍平さんの助言もあり、貴美子さんと結婚。昭和10年10月20日、祝儀は、高瀬村であげたのだろうか。

その後、どこに住んだがわからないけど、昭和14年3月には哈爾濱、大連、張家口、北京と転々と移動しながら、日中戦争を過ごしてたのか。最前線は、緊張感があったのだろうけど、この頃は、完全に日本が制圧していて、一般人も、それなりに、平和に過ごしていた様子がわかるね。

夢のような4ヶ月とは、実家の京都に帰っていたのかな。すると、昭和14年7月、お父さんは、生後4ヶ月くらいだと想像できる。やはり、日本での生活は安心して過ごせたのだろう。

この一年後、貴美子さんは、亡くなるわけだが、新生児の早苗さんひとり逝かせるのは、心配だったのかな。與一さんの悲しみは、計り知れない。

與一さんは、その後、三年間は、独り身で戦争時代に呑み込まれていき、昭和十八年(1943年)四月の弟の菊二さんの結婚に続いて、五月に再婚する。1943年は、ミッドウェーで敗戦し戦局が劣勢になっていく年。志願兵として戦いにいったのか、この頃から赤紙があったのかわからないけど、時代背景から戦地に行くことが決まり、子を残すため結婚を急いだのだろうね。

與一さんは、関東軍として中国へ、菊二さんは、レイテ島の戦いにも参加したのだろうか。アメリカ軍と戦った菊二さんはきつかったね。

岡村家の建物疎開は、救世軍の関係で取り上げられたのかもね。当時は、政治的に建物疎開の対象地を決められていたようだ。現在の京都該当地は、比較的新しいアパートのようなものが建っているが、周りは古民家だ。


本投稿には、昭和十四年〜十五年にご隠居さまの父であり、自分の祖父である長谷部輿一さんが、中国大同から京都在住の義父、岡村素さんとの手紙のやり取りを現代語に訳した内容を掲載しておりますが、この「note」掲載の本来の目的は、あくまで、子孫たちへファミリーヒストリーを伝えるための記録として利用させていただいております。手紙の内容は、ご本人のプライバシーを考慮して閲覧制限させていただきますことをご了承いただけますと幸いです。
書簡集(※題名は筆者が命名)

● 書簡001_令和三年(2021年)二月:喜久子(享年102歳)永眠の知らせ
⇒塩田雅子(喜久子:娘)からご隠居(貴美子:息子)への手紙
● 書簡002_令和三年(2021年)二月:叔母様(貴美子)の手紙を送ります
⇒塩田雅子からご隠居への手紙
● 書簡003_昭和十四年(1939年)十一月十六日:新天地到着のご報告
⇒長谷部貴美子(ご隠居:母)から岡村はる(ご隠居:祖母)への手紙
● 書簡004_昭和十四年(1939年)十一月二十日:大同での新生活
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡005_昭和十四年(1939年)十一月二十日:大豆の研究について
⇒長谷部輿一(ご隠居:父)から岡村素(ご隠居:祖父)への手紙

● 書簡006_昭和十五年(1940年)一月六日:新年のごあいさつ
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡007_昭和十五年(1940年)二月一日:幸せな新婚生活
⇒長谷部貴美子から伊丹喜久子(貴美子:妹)への手紙
● 書簡008_昭和十五年(1940年)五月二十七日:悲しみの訃報
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡009_昭和十五年(1940年)六月二十日:日本に帰りたい
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡010_昭和十五年(1940年)六月:里帰り出産
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡011_昭和十五年(1940年)七月:もうすぐ帰ります
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡012_昭和十五年(1940年)八月九日:帰郷中止のお知らせ
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡013_昭和十五年(1940年)九月一日:張家口での新生活
⇒長谷部貴美子から岡村はるへの手紙
● 書簡014_昭和十四年(1940年)十二月:結婚のお祝い
⇒長谷部貴美子から伊丹喜久子への手紙


ここから先は

908字

¥ 10,000

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?