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【270日目】:出雲守護

ご隠居からのメール:【出雲守護】

出雲には一度しか行ったことがないとのことだが、広い意味で高瀬も出雲の一部だと考えれば、何度も行っているよ。

米原正義『出雲尼子一族』によれば、出雲国の初代守護は佐々木義清よしきよだが、佐々木高綱たかつなとする説もある。いずれにしても、宇多天皇の流れをくむ佐々木源氏である。第五代の佐々木頼泰よりやすは現在の出雲市塩冶に大廻(おおさこ)城を築き、塩冶氏を称した。ここに至って、出雲守護は佐々木氏から、その流れをくむ塩冶氏に移行したことになる。

第七代の守護塩冶高貞たかさだは、元弘三年(1333)、うるう二月、後醍醐天皇が隠岐を脱出して、伯耆の船上山に挙兵すると、千余騎を引き連れて馳せ参じたが、後醍醐天皇の建武新政権は足利尊氏が謀反を起こすと、敗れてしまった。

高貞の妻は後醍醐天皇から賜った官女で、容色ことのほかすぐれていたので、高師直こうもろなおが横恋慕し、奪おうとして、尊氏に高貞謀反のことを讒言ざんげんした。高貞は京を追われ、山名時氏ときうじ師義もろよし父子に追撃されて死に追い込まれる。

塩冶氏滅亡後、出雲守護に任じられたのはバサラ大名として知られる佐々木道誉だが、山名時氏・師義が不服をとなえて離反し、南朝から出雲守護に補された。ここに出雲守護をめぐる南北朝時代を現出したのである。

かなり複雑だが、出雲守護職は、鎌倉時代のはじめ佐々木義清が補任されてから、佐々木氏・佐々木塩冶氏→佐々木京極氏→京極・山名の南北両立→山名氏→佐々木京極氏→尼子氏(下剋上)と移行している。

出雲守護職佐々木京極高氏の曽孫が尼子持久で、出雲尼子の始祖。もともとは守護代だったのが、尼子経久の時代に下剋上で守護に成り上がったのである。


返信:【Re_出雲守護】

たしかにややこしいが、何とかついていける。この一年間メールのやり取りをしながら学んだ賜物だね。おかげで出雲の守護の流れが理解できた。出雲の守護だけみてみると、原則、佐々木氏の流れで塩冶氏や京極氏が守護になっているけど、山名氏だけ異端のような気がするね。山名氏は新田氏の流れだ。

長谷部氏の女子は、山名氏・京極氏の正室となっているけれど、どちらのDNAを大切にしようと考えたのだろうか。確かに、山名氏・京極氏からすると、長谷部のDNAは魅力的に思える。ただ、肝心の長谷部氏は誰に仕えていたのだろうか。まあ、守護職である、佐々木氏、塩冶氏、京極氏、山名氏、尼子氏と強い人に仕え続けていたのだろうね。

今日から、息子は中間テストだ。この1週間は、毎朝6時に起きて部活に行き、夜は、22時過ぎに塾から帰ってくる日々を過ごしていた。全科目70点以上を目指しているそうだが、どうなることか。息子は、家でほとんど勉強しないので、塾でどの程度やっているかはわからないが、これが、彼のスタンスだ。

そろそろ、どの高校に行くか話題が出はじめている。前回の内申書ではオール3だったが、塾の先生の見解では、数学と英語は少し工夫すれば4になるそうだが、どこでも構わない。彼の人生にとって良縁の高校に行ってくれればそれでいい。

ちなみに、陸上部では100m4番目に速いそうだよ。長距離はめんどくさいそうで、まだやろうとしていない。スポーツも勉強もなんとかくらいついてるイメージだ。じぶんの中学生の頃なんかより、かなり優秀だね。


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