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【352日目】:吉野村か高瀬村か

ご隠居からのメール:【吉野村か高瀬村か】

私の故郷は高瀬村だが、古代には吉野村と呼ばれ、中世には奥村と呼ばれる時期があったらしい。由緒ある地名を改称するにはそれなりの理由があるはずだ。なぜ吉野村は高瀬村と改称されたのだろうか。あの村には広い野はあるが、村を流れる小川の川幅は狭く、高い瀬はない。高瀬村と称する必然性があるとは思えない。

いや、一つだけ理由らしきものが考えられる。それは我が家に伝わる「ご先祖は尼子の落人」という言い伝えと関連するものだ。尼子十旗の中には白鹿城に拠る松田氏と高瀬城に拠る米原氏という有力な一族がいた。松田氏や米原氏の先祖を含む尼子の落人たちが、寒村に逃げ込んで、暮らしをたて直そうとしたとき、米原氏の高瀬城の名をとったのではないか。

もともと高瀬城は近江の琵琶湖沿岸にあった。佐々木氏の一流である六角氏に属する大原氏の居城で、米原氏の先祖も佐々木氏の流れである大原氏の一族だったらしい。

この仮説に弱点があるとすれば、米原氏の子孫の確認がとれていないことだが、米原氏が大原氏に改姓したと考えれば仮説は成立する。村には大原氏の子孫が現存している。我が家の屋号も「おおはら」だから、その屋号を隠れ蓑として尼子の落人と称したのかもしれない。


返信:【Re_吉野村か高瀬村か】

米原氏の先祖が大原氏で、高瀬城の名を村名にして再起を図ったという推察は、正しいような気がするね。ただ、村の名前を変えるというのは、かなり大がかりな気もするが、戦国期の混乱に乗じて誰かがうまく導いたのだろうか。

すると、他にも尼子の落人があの地にいて、尼子再興の拠点としていたのかもしれない。しかし、世が、豊臣の時代、徳川の時代となり、手出しできなくなったのかもね。

あの地方には、小説『八つ墓村』にも登場する「尼子の落人」の伝説や、九牛士に登場する「尼子の落人」。八咫烏の伝説などが残っているということは、毛利氏との戦に敗れた尼子氏一族が、どこかの村に落ち延びたということは事実だ。

現に父さんの実家の墓地には、「尼子の落人」のお墓があるのだから。それが、高瀬村だったと想像すると、感慨深いものがあるな。


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